第58話:正面からの宣戦布告
六本木のスイートルームで、あの前代未聞の【新・不可侵条約】が締結されてから、最初の週末が明けた月曜日の朝。
十二月の最終週。赤坂の街は、仕事納めを間近に控えた慌ただしい年末の熱気に包まれていた。冬晴れの澄んだ冷気がビル街を駆け抜け、行き交うビジネスパーソンたちの吐く息が白くほどけていく。
午前八時四十分。
地下鉄の改札を抜け、本社ビルのエレベーターに乗り込んだ槇原紬は、手元のスマートフォンをバッグに収めながら、ふうと胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「……本当に、消えてる」
紬は自らの左手首を見つめた。
以前まで身につけていた特注のピンクゴールドのスマートウォッチは外し、大学の卒業祝いに両親から買ってもらったシンプルな革ベルトのアナログ時計に戻していた。
スマートフォンを開いても、成瀬が仕込んでいた軍事用暗号化プロトコルや怪しい常駐アプリは跡形もなく消去されている。
自宅マンションのベランダを見上げても、赤外線センサーの不自然な点滅はなく、通勤路の信号もごく普通のリズムで赤から青へと切り替わっていた。
四人の男たちが、新条約の【第1条:隠し事・裏工作の全面禁止】を完璧に遵守している証拠だった。
(これで、いいんだよね……)
紬はエレベーターのガラス壁に映る自分の姿を確かめた。
誰かが裏で仕組んだ「無菌室」は消え去った。
自分の足で立ち、自分の目で世界を見つめ、普通の人間として生きていく。
それが、自分が望んだ対等な日常のはずだった。
――それなのに。
(……なんでだろう。なんだか、ものすごく嫌な予感がする……)
チーン。
十階に到着したエレベーターの扉が開いた瞬間、紬の背筋に、得体の知れないゾワゾワとした緊張感が走った。
静かすぎる。
いつもなら「おはようございまーす」と朗らかな挨拶が飛び交っているはずの『Lumiere』編集部のフロアが、まるで巨大台風の直撃を待つ沿岸部のように、異常な静寂に包まれていたのだ。
◇
「あ、おはようございます……?」
紬が首を傾げながらフロアへ足を踏み入れると、デスクに座っていた同僚たちが、一斉にバッと紬の方へ視線を向けた。
その目は、いつものような気軽な挨拶の目ではなかった。
まるで、今まさに処刑台へ向かう勇者を哀れみと戦慄の眼差しで見送るかのような、張り詰めた視線。
「え、なに……? 私、何か変なことした……?」
居心地の悪さに身を縮めながら、紬は自席へと小走りで向かった。
島型のデスクの向かい側。
黒のタートルネックにグレーのジャケットを羽織った先輩デスク・関茉莉花が、ストローをくわえたアイスコーヒーのカップを片手に、眉間をこれ以上ないほど険しく寄せて待っていた。
「ま、茉莉花先輩……おはようございます。みんな、なんだか様子が変じゃないですか……?」
「……紬」
茉莉花はストローから口を離し、低く、重たい溜息を吐き出した。
「あんた、先週の金曜の朝……スイートルームで、あいつら男四人に何を宣言したか、一言一句覚えてる?」
「え? あ……新条約のことですか?」
「そうよ。特に、あんたが最後にタンカを切った【第3条】よ」
「えっと……『言いたいことがあるなら目を見て言え』って……あと、『好意があるなら裏でコソコソしないで、私の目の前で正々堂々とアプローチしてきなさい』って……」
言いながら、紬の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
あの時は感情が高ぶり、怒りと涙の勢いに任せて口走ってしまったが、冷静になって思い出せば、成人男性四人に対してとんでもない公開処刑めいた宣戦布告を突きつけたものだ。
「そうよ。あんた、自分で言ったのよ」
茉莉花は額に手を当て、天井を仰いだ。
「あいつらはね、紬。頭のネジが百本くらい吹き飛んでる、超ド級のハイスペック狂人たちなのよ。……裏工作という『リミッター』を外されて、『白昼堂々と正面からアプローチしていい』という錦の御旗を手に入れた怪物が、一体どういう行動に出るか……あんた、一ミリでも想像したことあった?」
「え……? どういうって……普通に、ご飯に誘ってくれたりとか……」
「甘いわよ」
茉莉花が冷酷に言い放った。
「あんたの『普通』と、あいつらの『普通』には、マリアナ海溝より深い断絶があるのよ。……覚悟なさい。もう、来ちゃったわよ」
「えっ――」
その瞬間だった。
◇
ザッ、ザッ、ザッ。
編集部フロアの入り口から、重厚で寸分の狂いもない、硬質な革靴の足音が響き渡った。
フロアにいた編集部員、デザイナー、営業担当の社員たちが、一瞬にして凍りつき、左右へとモーセの海割りのように退いていく。
その中央の通路を、堂々たる足取りで歩み寄ってきた人物。
完璧に仕立てられたチャコールグレーの最高級スリーピーススーツ。
磨き抜かれたジョン・ロブのストレートチップ。
寸分の乱れもなく撫でつけられた漆黒の髪の下、彫刻のように端正な横顔と、冷徹に研ぎ澄まされた切れ長の双眸。
東証プライム上場・鷹見ホールディングス副社長――鷹見征司。
普段であれば、三十階の役員フロアから滅多に降りてくることのない、グループの最高権力者。
しかし――今日の鷹見征司は、その両腕の中に、社内の誰一人として見たことのない「異様な物体」を抱え込んでいた。
「「「…………っっ!?」」」
フロア中の社員の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
鷹見の腕の中にあったもの。
それは――大人の上半身がすっぽりと隠れてしまうほどのサイズを誇る、特注の巨大な花束だった。
百本。いや、優に三百本は超えるであろう、朝露に濡れた真紅の最高級大輪薔薇。
深紅のベルベットのような花弁が重なり合い、オフィスの蛍光灯の下で圧倒的なまでの存在感と、濃密極まりない甘い芳香をフロア全体に撒き散らしている。
その重量だけでも数キロはあるはずの真紅の絨毯を、鷹見は何の苦配も見せずに抱え、迷いのない足取りで、まっすぐに紬のデスクへと歩み寄ってきた。
「ひ……っ!?」
紬の喉が引きつった。
先週まで、二人きりになると理性を保つためにネクタイピンを指に突き刺し、冷徹な上司の仮面を必死に張り付けていたはずの男が。
いま、全社員が息を呑んで見つめるオフィスのど真ん中で、ポーカーフェイスを完全にかなぐり捨て、隠すことすらない獰猛な独占欲の光をその双眸に滾らせていたのだ。
カツン。
紬のデスクの真ん前で、鷹見の革靴が止まった。
濃密な薔薇の香りが、紬の鼻腔を甘く麻痺させる。
「た……鷹見、副社長……?」
紬が震える声で見上げると、鷹見は音もなく片膝を折り――
全社員の目の前で、紬と視線の高さを合わせるようにして、深紅の薔薇の山をデスクの上へと恭しく捧げ持った。
そして。
低く、深く、耳の奥を直接痺れさせるような極上のバリトンボイスで、一言一句を噛み締めるように告げたのだ。
「――槇原」
「は、はいっ……!」
「今週末の土曜日、夜七時。私と二人で、食事に行ってくれないか」
ドサリ。
遠くのデスクで、誰かが抱えていた資料の束を取り落とす音がした。
鷹見は微塵も動じず、真紅の瞳で紬を射抜いたまま言葉を重ねた。
「裏工作ではない。根回しも、職権乱用も、事前の身辺調査も一切していない。……一人の男として、私の純粋な意志として、貴女を誘っている」
「ふ、副社長……!? こ、ここ、会社ですよ!? みんなが見てます……!」
「知ったことか」
鷹見は冷然と言い放った。
「貴女が言ったのだ。『裏でコソコソ手を回さず、目の前で正々堂々とアプローチしてきなさい』と。……私は、貴女の定めた新条約の規定を、一ミリの狂いもなく正面から履行しているに過ぎん」
その時。
ぶっっっっっっっっっっっっ!!!!
盛大な破裂音が、デスクの向かい側から炸裂した。
関茉莉花が、口に含んでいたアイスコーヒーを、空中に霧状に盛大に吹き出した音だった。
「ゲホッ! ゴホッ、ゴホッ……!! な、何やってんのよこの副社長ォォォッッ!!」
茉莉花が胸元を押さえて咳き込み、周囲の社員たちが「きゃあああっ!?」「副社長が告白してる!?」「マジで!?」「写真撮ったら消される!?」と阿鼻叫喚のパニックに陥る。
その狂乱の脇で――
カツ、カツ、カツ、と静かに歩み寄ってきた佐伯千冬が、無言のままポケットからティッシュを取り出して茉莉花へ差し出した。
千冬は胸元に抱えた黒革の手帳を開き、ボールペンを走らせる。
『案件番号:58』
『発生事象:鷹見副社長による、オフィス中央における大輪薔薇三百本の公開贈呈および週末ディナーへの正面誘致』
『コンプライアンス判定:私的恋愛感情の職場への過剰持ち込み。極めて危険。……胃薬の追加服用を要す』
「千冬さん……!」紬が縋るように見上げる。
「副社長、止めてください……!」
「申し上げます、紬様」
千冬は眼鏡を中指で押し上げ、感情の欠片もない冷徹な声で応じた。
「副社長は、先週の金曜日にあなたから平手打ちを食らって以降、完全に『タガ』が外れていらっしゃいます。……今朝の役員会議でも、議題の途中で突然『薔薇の花言葉において、三百本とはどのような意味を持つか知っているか』と常務会に問いかけ、重役全員を凍りつかせました。……現在、私にも彼の手綱を引くことは不可能です」
「そんなぁぁぁぁっ!?」
◇
「さあ、槇原。返事を聞かせてくれ」
鷹見がさらに一歩、距離を詰めてきた。
薔薇の花束越しに、男の放つ圧倒的な体温と、高級フレグランスの香りが紬を包み込む。
その熱量に、紬のキャパシティが完全にオーバーヒートを起こしかけた――まさに、その刹那だった。
ドタバタドタバタッッッッ!!!!
エレベーターホールから、廊下を全力疾走してくるけたたましい足音がフロアに響き渡った。
「――ずるいですよ鷹見さんッッッッ!!!!」
叫び声とともに、自動ドアを体当たりで突き破るようにして飛び込んできたのは、だぶだぶのオーバーサイズパーカーを着た青年――成瀬郁だった。
「成瀬くん!?」紬が目を丸くする。
成瀬は肩で息を切らし、乱れた黒髪を振り乱しながら、フロアの視線も構わずに紬のデスクへと一直線に突進してきた。
そして――鷹見と紬の間に力づくで割り込むと、背中を鷹見に向け、両手を広げて紬を庇うように立ちはだかったのだ。
「成瀬。……貴様、何の真似だ」
鷹見の眼差しが、一瞬にして氷点下へと凍りついた。
しかし――今日の成瀬は、かつてのようにハッキングツールの陰に隠れて怯えるヘタレハッカーではなかった。
「新条約の精神を歪めるな、って言ってるんですよ!!」
成瀬は八重歯を剥き出しにして、鷹見を睨み返した。
「オフィスで薔薇三百本束を抱えて公開告白なんて、職権乱用スレスレのパワハラ同然じゃないですか! 紬さんが困ってるのが見えないんですか、この脳筋エリート!!」
「何だと? 私は正面から私的な誘いを行っているだけだ。何ら条約には抵触していない」
「抵触してなくても、空気読めって言ってるんです!!」
成瀬はくるりと紬の方へ向き直った。
先ほどまでの獰猛な表情はどこへやら、成瀬の瞳は、捨てられた子犬のように潤み、両手を胸の前でギュッと握りしめていた。
「つ、紬さん……!」
「は、はいっ!?」
「僕と……僕と、今度の土曜日、デートしてください!!」
「デ、デートぉぉぉっ!?」
紬の絶叫が、オフィスに反響した。
周囲の女性社員たちから「キャーーーッ!!」「成瀬くんまで!?」「年下わんこキターーッ!!」と黄色い悲鳴が上がる。
成瀬はポケットから、二枚のプレミアムプラスチックカードを取り出し、震える手で紬の目の前に差し出した。
「これ……! 今週末にビッグサイトで開催される、最新体感型フルダイブゲームの特別先行展示会のペアチケットなんです! 一般販売なし、関係者と抽選倍率三百倍の超プレミア枠なんですけど……僕、ハッキングも裏工作も一切使わずに、自分の個人名義で正規応募して、奇跡的に自力で当てたんです!!」
成瀬の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちそうになる。
「紬さんが前に『最新のVR技術、取材してみたいな』って言ってたから……どうしても紬さんと一緒に行きたくて! 僕が横で、システムの仕組みも歴史も全部わかりやすく解説しますから! 僕の隣のVIP席……紬さんのために予約させてください!!」
「成瀬くん、あなた……」
「成瀬」
背後から、地獄の底から響くような重低音が割り込んだ。
鷹見征司が、薔薇の花束を抱えたまま、冷酷な笑みを口元に刻んでいた。
「私の誘いが先だ。割り込みはマナー違反だな」
「先に声をかけたからって、紬さんがOKしたわけじゃないでしょうが!」
成瀬が牙を剥く。
「紬さんはアニメやゲームが大好きなんだ! 格式張った三ツ星フレンチで緊張させる鷹見さんのデートより、僕とゲームの展示会に行く方が何百倍も楽しいに決まってます!!」
「フレンチなどとは一言も言っていない。……私は、彼女の好物である下町の老舗洋食店を、一晩貸し切りにする手はずを整えている」
「それ買収の一歩手前じゃないですか!! やっぱりやり口が汚い!!」
バチバチバチバチッッッッ!!!!
二人の男の視線が交錯し、オフィスの空間に目に見えるほどの火花が散り狂う。
以前のような、水面下で端末を落とし合ったり、毒薬を調合し合ったりする陰湿な冷戦ではない。
相手を出し抜くのではなく、紬の目の前で、どちらが彼女をより愛しているかを全力でアピールし合う、白昼堂々の【公開争奪戦】。
「ちょっと……二人とも、やめてください……!」
紬が机をバンッと叩いて立ち上がった。
顔は耳の先まで完全に真っ赤に沸騰していた。
「会社です! 仕事中ですよ!? 薔薇三百本も、ゲームのVIP席も、両方とも受け取れません!!」
「なぜだ」鷹見が眉を寄せる。
「どうしてですか紬さん!?」成瀬が縋り付く。
「なぜって……そんなの、急に距離が近すぎるからです!!」
紬の悲鳴のような叫び。
その時だった。
ピロリン、ピロリン。
紬のデスクの上に置かれていたスマートフォンが、二回続けて軽やかな通知音を鳴らした。
画面にポップアップ表示されたメッセージ。
【差出人:保科貴文】
『紬ちゃん、おはよう。昨夜の疲れは残っていないかい? 今週末の土曜日、君の体調に合わせた完全オーガニックの薬膳料理のフルコースを僕の手料理で振る舞いたいんだ。クリニックの予約はすべて切ってあるから、僕の部屋へおいで』
【差出人:梶原敦志】
『……週末の予定を確認したい。冬の防寒対策として、特注の耐刃・防寒トレンチコートの採寸を行いたい。ついでに、実家から届いた黒毛和牛でスキヤキを作る。401号室で待つ』
「「「「…………」」」」
四重の包囲網。
副社長の真紅の薔薇と老舗洋食店。
年下エンジニアのプレミアVRゲーム展示会。
幼馴染の名医の完全手作り薬膳フルコース。
隣人の元SPの特注防犯コート採寸とすき焼き。
水面下の監視網が消え去った代わりに現れたのは――
逃げ場のない、四方向からの【超高純度・正面衝突型溺愛アタック】だった。
「ひ……っ、ひぃぃぃぃぃぃっ!?」
紬の脳内CPUが、完全に音を立ててショートした。
裏工作を禁止したら、これか。
正々堂々とアプローチしろと言ったら、全員がブレーキをへし折ってアクセルベタ踏みで突っ込んできたのだ。
「む、無理無理無理無理ッッ!! 全員、保留です!!」
紬は手元の資料で真っ赤な顔を隠すと、デスクから飛び起きた。
「茉莉花先輩! 私、ちょっと給湯室でお茶淹れてきます!!」
「あ、逃げた!」成瀬が叫ぶ。
「待て、槇原!」鷹見が薔薇を抱えて追おうとする。
「追うんじゃないわよ、あんたたち!!」
茉莉花が立ちふさがり、千冬が冷徹に二人の前に立ちはだかった。
パタパタパタッ!と逃げ出していく紬の後ろ姿を見送りながら、オフィスには、かつてないほど騒がしく、熱狂的な週明けの朝が広がっていた。
無菌室の時代は、完全に終わった。




