↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/60

第57話:新・不可侵条約の締結

午前八時。


六本木『ザ・クラウンタワー東京』最上階、地上二百メートルのプレジデンシャル・スイートに、冬の澄み渡る冷涼な朝日が容赦なく差し込んでいた。


パノラマウィンドウの向こうには、どこまでも青く広がる東京の空と、朝日に輝く富士山の稜線。


しかし――その壮麗な絶景とは裏腹に、室内の空気は完全に「墓場」のそれと化していた。


重苦しい沈黙。


冷え切った空調の風。


そして――黒檀のラウンドテーブルを取り囲むようにして項垂れている、四つの生ける屍。


「…………」


東証プライム上場、鷹見ホールディングス副社長・鷹見征司(たかみ せいじ)。


昨夜、紬から力いっぱいの平手打ちを食らった左頬は、いまだに痛々しく赤く腫れ上がっていた。完璧だったはずの三つ揃えのスーツは泥と雨で皺だらけ、ネクタイは引きちぎれんばかりに緩み、額には前髪がボサボサと垂れ下がっている。


その切れ長の瞳からは、世界金融を揺るがす若き総帥の覇気など欠片も失われていた。床の一点を見つめたまま、瞬きすら忘れたかのように白く濁った光を湛え、ピクリとも動かない。


その隣の床。


社内エンジニア・成瀬郁(なるせ いく)は、リクライニングチェアの下で体育座りをしたまま、だぶだぶのパーカーの膝の間に顔を完全に埋めていた。


昨夜から一睡もせず、ただひたすらに泣き続けたせいで、目元は赤く腫れ上がり、頬には塩の跡が白く浮き出ている。スマートウォッチが「生命維持のための深呼吸を推奨します」という無機質な警告アラートを点滅させているが、成瀬はそれをタップする気力すら湧かないようだった。


対面のソファー。


南青山のセレブ専門クリニック院長・保科貴文(ほしな たかふみ)。


白衣の襟元は激しく乱れ、トレードマークの銀縁眼鏡はブリッジが歪んで鼻梁からずり落ちかけていた。自らに処方した超強力な精神安定剤の空シートがテーブルの上に何枚も散らばっていたが、過剰摂取した薬剤ですら、彼の魂を蝕む底知れぬ絶望の底から救い出すことはできていなかった。


そして――


部屋の隅の壁際に、直立不動のまま立ち尽くしていた梶原敦志(かじわら あつし)。


昨夜から一歩も動いていないのか、その巨躯はまるで鋼鉄の彫像のように凝固していた。包帯を巻かれた左手首からは血の気が完全に引き、彫りの深い無骨な顔面は土気色に染まり、ただ静かに、自らの心臓が停止する瞬間を待つ死刑囚のような虚無を漂わせていた。


カウンターの奥で、チーフバーテンダーの九重圭(ここのえ けい)は、特大ボトルの液体胃腸薬をグラスに注ぎながら、深く、深く溜息を吐き出した。


(……地獄だ)


九重は自らの痛む胃壁をさすりながら、四人の怪物を哀れみの目で見つめた。


昨夜、紬が泣き叫んで部屋を飛び出し、女性陣によって【完全外出禁止・監視端末アクセス全面遮断命令】が下されてから、およそ七時間。


男たちは一言も会話を交わさず、水も飲まず、ただひたすらに「神に捨てられた罪人」として自らを責め苛み続けていた。


もしこのまま紬が戻ってこなければ――


鷹見は自ら全役職を辞任して資産を投げ出し、


成瀬は自らの手で開発した全プログラムとともに電脳の海へ消え、


保科は医師免許を返上して無医村の奥地へ失踪し、


梶原は自らの命を絶つために戦場へ志願しかねない。


それほどまでに、四人の精神は完全に破壊されていた。


時計の針が、無慈悲に午前八時ジャストを指した、その瞬間だった。


◇


カツ、カツ、カツ。


静まり返ったプライベートコリドーから、軽やかで、澄み切ったヒールの音が近づいてきた。


「「「「…………ッ!?」」」」


死体のように転がっていた男たちの首が、まるで目に見えない糸で操られたかのように、同時に跳ね上がった。


ギギギ……と、スイートルームの重厚なマホガニーの扉が、ゆっくりと押し開かれる。


朝の澄んだ光を背負って、部屋の中へと歩み入ってきたのは――


「…………あ」


成瀬の喉から、掠れた嗚咽が漏れた。


そこに立っていたのは、槇原紬だった。


昨夜の涙でぐしゃぐしゃになった姿は、どこにもなかった。


淡いサックスブルーの清潔なスタンドカラーブラウスに、上品なネイビーのタイトスカート。艶やかな髪は後ろでハーフアップに綺麗にまとめられ、首元には小さなパールのネックレスがきらめいている。


手には、使い込まれた仕事用の本革トートバッグ。


そして――その表情。


怯えも、迷いも、絶望の影すら微塵もない。


朝の光を宿したその瞳は、新春特大号の最終校正を前にした時よりも力強く、凛として、凛冽なまでの意志の炎を燃え盛らせていた。


紬の背後には、まるで忠誠を誓う親衛隊のように、四人の女性たちが控えていた。


腕を組んで不敵な笑みを浮かべる関茉莉花。


サングラスを外し、冷ややかに男たちを見下ろす日下部莉緒。


分厚いファイルを抱え、完璧なポーカーフェイスで佇む佐伯千冬。


そして、優しい微笑みをたたえながら一歩後ろで見守る及川志乃。


「つ……紬、さん……?」


成瀬が床から手を伸ばしかけ、しかし昨夜の『来ないで』の記憶がフラッシュバックして、ビクッとその手を引っ込めた。


「槇……原……」


鷹見が立ち上がろうとしたが、膝に力が入らず、テーブルに手をついて辛うじて上半身を起こすのが精一杯だった。


男たちの視線が、恐る恐る紬へと注がれる。


幻覚ではない。本物の、生きている槇原紬が、自分たちの前に再び姿を現したのだ。


だが、紬は男たちの悲壮な視線に一切動じることなく、迷いのない足取りで、スタスタと部屋の中央へと歩みを進めた。


カツ、カツ、カツ。


紬が向かったのは――


黒檀のラウンドテーブルの最奥。


これまで鷹見征司が『不可侵条約・議長』として君臨し、数々の冷酷な排除命令を下してきた、あの巨大な革張りの【上座の議長席】だった。


サッ。


紬はタイトスカートの裾を優雅に整えると、何の躊躇もなく、その議長席のど真ん中に、深く、堂々と腰を下ろした。


◇


「「「「…………っ」」」」


男たちの息が止まった。


かつて男たちが彼女を「無菌室のガラスケース」の中に閉じ込めるために謀議を巡らせていたその玉座に、他でもない彼女自身が、支配者として君臨したのだ。


紬はトートバッグの中から、一冊のリングノートを取り出した。


昨夜、茉莉花、莉緒、千冬、志乃と朝までパジャマパーティーを繰り広げ、ビールを飲み干しながら、侃々諤々の議論の末に書き上げた、手書きのノート。


トンッ。


紬はノートをラウンドテーブルの中央に力強く置いた。


そして、両手を机の上に組み、背筋をピンと伸ばすと、テーブルを取り囲む四人の男たちを、氷をも溶かすような真っ直ぐな眼差しで見据えた。


「――みなさん」


鈴を転がすような、けれど部屋の隅々まで凛と響き渡る、凛然たる声。


「そこに立ったまま、あるいは床に這いつくばったままでは、話が進みません。……全員、指定の席に座ってください」


「は、はいっ!」


成瀬が弾かれたように床から飛び起き、ズボンを慌てて払って椅子へと飛びついた。


鷹見はネクタイを乱暴に直し、震える手でスーツのボタンを留めて席に着いた。


保科は歪んだ眼鏡を指で押し込みながら、白衣の襟を正して静かに着席した。


梶原は無言のまま、音もなく歩み寄り、背筋を直角に伸ばして椅子へと腰を下ろした。


四人の怪物が、小学生のように姿勢を正し、両手を膝の上に置いて、直立不動で紬を見つめている。


紬は満足そうに小さく頷くと、リングノートをパラリと開いた。


そして――世界中のどんな国家元首よりも威厳に満ちた声で、高らかに宣言した。


「これより、【新・不可侵条約締結会議】を開始します」


◇


「し、新……不可侵条約……?」


成瀬が目を白黒させ、掠れた声を漏らした。


保科が息を呑み、鷹見の喉仏が上下する。


破棄ではないのか。


警察への通報でも、永久追放でもなく――【改定】なのか。


男たちの胸の奥で、消えかけていた灰の中から、激しい動揺と、信じ難い微かな希望の火種がボッと音を立てた。


紬はノートを指先でトントンと叩いた。


「昨夜、皆さんの言い分と、これまでの悪行の数々を、茉莉花先輩や莉緒ちゃんたちからすべて聞きました」


紬の視線が、鷹見、成瀬、保科、梶原の顔を順に刺し貫く。


「監視カメラのハッキング、通信ログの盗聴、GPS追跡、人事権の乱用による解雇工作、クライアント企業の買収、怪しい診断書の捏造、そして路地裏での暴力行為……。普通なら、全員まとめて警察に突き出して、懲役刑を受けてもらうレベルの重犯罪です」


「「「「…………っ」」」」


四人が一斉に肩を縮こまらせる。


「ですが」


紬はフッと息を吐き出し、ノートをめくった。


「皆さんが、どれほど歪んでいて、どれほど重たくて、どれほど度胸のない大馬鹿者であったとしても……その狂気の根底にあったのが、私に対する……その、命がけの想いであったことだけは、理解しました」


紬の白い頬が、ほんのわずかに桜色に染まる。


しかし、紬はすぐに表情を引き締め、真剣な眼差しで四人を指差した。


「だからこそ、ルールを作り直します。……私をお人形のようにガラスケースに閉じ込めるための条約は、昨夜で完全に破棄されました。これからは、私が決めた新しいルールに従ってもらいます。……異論は認めません!」


「の、望むところだ……!」


鷹見が身を乗り出した。その瞳には、すでに狂信的な光が戻りつつあった。


「貴女の命じるルールであれば、我が鷹見グループの社憲をすべて書き換えてでも遵守する!」


「僕も! 紬さんの作ったルールなら、僕の全プログラミングの第一優先プロトコルに書き込むよ!」成瀬が叫ぶ。


「コホン」紬が咳払いを一つ。


「では、読み上げます。よく耳の穴をかっぽじって聞きなさい」


紬は姿勢を正し、ノートの第1条を読み上げた。


◇


「【第1条:隠し事・裏工作の全面禁止】」


紬の声が、冷徹に響く。


「何かあったら、必ず私に直接相談すること。……これまでの盗聴、監視カメラの追尾、スマホのハッキング、GPSのトラッキングは、今この瞬間をもってすべて禁止、ならびに即時消去とします!」


「ええっ!?」


成瀬が悲鳴を上げた。


「そ、そんな……! 監視カメラも!? GPSも!? じゃあ、紬さんが知らないところで誰かに襲われたらどうするの!? 僕、不安で心停止しちゃうよぉ!!」


「襲われる前に、私が警察を呼ぶか、梶原さんに連絡します!」


紬は成瀬を一喝した。


「成瀬くん。あなたのその神業みたいなパソコンの腕前は、私の監視カメラを見るためじゃなくて、『Lumiere』のサーバーを安定させるために使いなさい! もし今後、私のスマホに不審なバックドアが仕掛けられているのを見つけたら……あなたのパソコンに、熱々の紅茶をぶっかけますからね!」


「ひぃぃぃっ!? わ、分かりましたぁ!! 全監視コード、直ちにアンインストールしますぅぅ!!」


成瀬がキーボードを叩いて頭を抱える。


続いて、紬はノートを指でなぞり、第2条へと進んだ。


「【第2条:職権乱用の禁止】」


紬の鋭い視線が、鷹見と保科、そして梶原へと向けられた。


「私のために会社を買ったり、電車のダイヤを止めたり、サーバーを落としたり、怪しい毒薬を調合したり、人を路地裏で締め落としたりしないこと!」


「槇原」鷹見が真顔で手を挙げた。


「しかし、君の残業を強いるような悪質なクライアントが存在した場合、その企業を友好的TOBによって傘下に収め、納期を半年延長させることは、極めて合理的な経営判断――」


「合理的じゃありません!!」


紬が机をバンッと叩いた。


「副社長! カヌレ店を買収した理由を、株主総会でどう説明するつもりだったんですか!? 千冬さんが胃薬をボリボリ噛み砕きながら、徹夜で事業計画書をでっち上げていたんですよ!!」


「う……」鷹見がたじろぐ。


背後で千冬が、静かに眼鏡を押し上げながら会心の笑みを浮かべていた。


「タカちゃんもです!」紬は保科を睨みつけた。


「アレルギー適合の解熱剤は嬉しかったけど……怪しい睡眠薬とか、一生出られない医療刑務所の書類とか、お医者さんの立場を私物化して悪用するのは絶対に禁止です! 次に変な注射器を持ち歩いているのを見つけたら、幼馴染の縁を切って、おばちゃん(保科の母)に全部言いつけますからね!」


「そ、それだけは勘弁しておくれ、紬ちゃん……! 母さんに知られたら、実家の敷地から永久追放されてしまう……!」


保科が青ざめて頭を抱えた。


「梶原さんも!」


紬は梶原の痛々しい左手首を指差した。


「不審者を無音で制圧するのも禁止です! 危険な人がいたら、普通の警備会社として警察と連携して対応してください! そして何より……自分の体を傷つけてまで我慢するのは、絶対に、二度と許しません!!」


「…………」


梶原は深く頭を垂れ、低く呟いた。


「……了解した。我が身を傷つける行為は、今後一切行わん」


◇


そして――紬は大きく息を吸い込んだ。


ノートの最後のページ。


昨夜、紬が自らの手で、最も強い筆圧で書き殴った、最も大切な【第3条】。


紬は立ち上がり、両手をテーブルについて、四人の男たちの目を、一人ひとり真っ直ぐに見据えた。


「そして……これが一番大切なルールです」


室内の空気が、ふっと張り詰める。


「【第3条:対等な関係の義務化】」


紬の声に、凛とした、けれど温かな慈愛の熱が宿っていた。


「私の顔色を伺って、勝手にビクビク怯えないこと。……『路傍の石でいい』とか、『命だけは使わせてくれ』とか、そんな情けない、悲しいことを言わないでください」


「「「「…………」」」」


「言いたいことがあるなら、不満があるなら、私の目を見て、正々堂々と言いなさい! そして――」


紬は耳まで真っ赤に染め上げながら、けれど決して視線を逸らさずに、堂々と言い放った。


「もし、私に好意があるのなら! 裏でコソコソ手を回して囲い込もうとしないで……【私の目の前で、正々堂々とアプローチしてきなさい】!!」


ドォォォォォォンッッッッ!!!!


言葉が、スイートルームの天井を突き破らんばかりに炸裂した。


静止。


時間が、完全に止まった。


鷹見征司の、成瀬郁の、保科貴文の、梶原敦志の瞳が、限界まで見開かれた。


「正々堂々と……」鷹見の唇が震える。


「アプローチ……」成瀬の呼吸が止まる。


「目の前で……」保科が息を呑む。


「…………」梶原の胸筋が跳ね上がる。


裏工作の禁止。


それは、彼女を諦めろという意味ではなかった。


見えない鎖で囲い込むのをやめ、一人の対等な男性として、彼女の前に立ち、正々堂々とその心を奪い合えという――


【絶対的宣戦布告の許可】だったのだ。


「……あ」


鷹見征司の瞳の奥で、カチリと音がした。


死んでいた魚のような瞳に、信じられないほどの輝きが宿る。


成瀬郁の頬に、みるみるうちに血の気が戻り、少年のような凶悪な笑顔が浮かび上がる。


保科貴文の口角が、妖しく、けれど晴れやかに吊り上がる。


梶原敦志の全身の筋肉が、再び鋼のような躍動を取り戻す。


生き返った。


四人の怪物が、今まさに、彼女の与えた新しいルールによって、灰の中から不死鳥のように蘇ったのだ。


◇


「佐伯さん」


紬が声をかけると、控えていた千冬がすっと歩み出た。


千冬の手元には、昨夜のうちに作成されていた、四部の上質な羊皮紙の契約書。


そこには、紬が読み上げた【新・不可侵条約】の三箇条が、寸分の狂いもなくタイピングされていた。


「新条約の原本でございます、議長」


「ありがとう、千冬さん」


紬は契約書を四人の前に一枚ずつ滑らせた。


「さあ、サインしてください。……このルールを守れない人は、今すぐこの部屋から出て行ってもらいます」


迷う者など、一人もいなかった。


「喜んで……サインしよう」


鷹見征司が、胸ポケットからプラチナの万年筆を取り出した。


その左頬はいまだ赤く腫れていたが、その顔には、かつてないほど清々しく、そして野心に満ちた男の笑みが浮かんでいた。


サラサラと、力強い筆跡で『鷹見征司』と署名が刻まれる。


「僕も! 絶対に守るよ、紬さん!」


成瀬がパーカーの袖口で涙を乱暴に拭い、愛用のスタイラスペンで勢いよく『成瀬郁』とサインした。


「ふふ……完敗だね、紬ちゃん」


保科が銀縁眼鏡の位置を直すと、柔らかな、けれど男としての熱い光を瞳に宿して『保科貴文』とペンを走らせた。


「……我が命に代えて、この条約を遵守する」


梶原が、分厚い指先でペンを握り、重厚な文字で『梶原敦志』と署名した。


四枚の契約書に、四人の署名が揃った。


紬はそれを受け取り、自らのボールペンで、議長席の欄に大きく『槇原紬』とサインを入れた。


パチンッ、とノートが閉じられる。


「これにて――【新・不可侵条約】の締結を宣言します!」


紬が高らかに告げた瞬間。


背後で見守っていた茉莉花が「ヒューッ!」と口笛を鳴らし、莉緒がパチパチと優雅に拍手を送り、志乃が温かい笑みを浮かべ、千冬が深々と一礼した。


カウンターの奥で、九重圭が胸を撫で下ろし、天を仰いだ。


(……終わった。胃痛の時代が、ようやく一つの節目を迎えた……!)


しかし――


九重は、まだ気付いていなかった。


署名を終えた四人の男たちが、顔を上げたその瞬間。


バチバチバチバチッッッッ!!!!


男たちの視線が交錯した空間に、先ほどまでの絶望とはまったく異なる、凄まじい火花が散り始めたことに。


「……成瀬。オフィスでの抜け駆けは許さんぞ」鷹見が冷たく微笑む。


「鷹見さんこそ、職権乱用したら即座にチクりますからね」成瀬が八重歯を覗かせる。


「健康管理とメンタルケアは、僕の専権事項ですからね」保科が眼鏡を光らせる。


「……隣人の距離のアドバンテージは、誰にも譲らん」梶原が低く唸る。


水面下の冷戦は、終わった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。