第54話:拒絶の恐怖
地上二百メートル、六本木『ザ・クラウンタワー東京』最上階のプレジデンシャル・スイート。
眼下に広がる東京の夜景は、冷たい星屑を散りばめたように静まり返っていた。しかし、室内に張り詰めた空気は、極限まで圧縮された火薬庫のように重苦しく、呼吸をするだけで肺の奥が凍りつきそうだった。
壁一面の巨大マルチモニターには、槇原紬の日常を隅々まで解剖した監視ログ、通信データ、心拍波形、そして歴代の「排除実績」が青白く発光している。
その光の真下で、東証プライム上場の総帥・鷹見征司が、ゆっくりと口を開いた。
「……君の日常が、なぜこれほどまでに平穏だったのか。……我々四人が、水面下で何を企て、何を実行してきたのかを」
鷹見の声は掠れていた。
社内や経済界で誰もが畏怖する、あの隙のない威厳は完全に失われていた。雨と泥に汚れ、ネクタイが歪んだスーツの襟元を押さえながら、鷹見は乾き切った唇を震わせて告白を始めた。
「始まりは……五年前だ。君が大学時代、あの三島によって自宅の鍵を壊され、精神的な地獄へと突き落とされたあの日からだ」
「…………っ」
紬の背筋が、小さく跳ねた。
背後で腕を組んでいた日下部莉緒が、紬の肩にそっと手を添える。
「あの時、幼馴染として君の診療にあたっていた保科が、君の受けた深い心の傷に絶望した。……そして、君の就職先となった我が社のグループ企業を統括していた私、社内システムの保守を請け負っていた成瀬、そして君の住むマンションの隣室にいた梶原……我々四人は、ある一つの恐るべき事実に気付いてしまったのだ」
鷹見は自らの胸元を強く握りしめた。
「君は……あまりにも無垢で、あまりにも誠実で、他人の悪意を疑うことを知らない。理不尽な暴力に晒されても『自分が悪いのではないか』と笑って自分を責めてしまう。……そんな君の生き方を、この薄汚い社会の有象無象どもが、どれほど残酷に踏みにじり、搾取しようとしているか。……それを知った時、我々の理性は焼き切れた」
鷹見の言葉を引き取るように、壁際にもたれかかっていた保科貴文が、消え入りそうな声で呟いた。
「僕たちは……最初、互いを殺し合おうとしていました」
保科は銀縁眼鏡を外し、力なく指先を垂らした。
「四人全員が、君を独占したかった。誰にも渡したくなかった。……僕が君をスイスの私設サナトリウムへ拉致しようとすれば、成瀬くんが僕のクリニックの全口座を凍結しようとし、鷹見さんが法務部を使って僕を社会的に抹殺しようとし、梶原さんが僕の首の骨を折ろうとした。……誰か一人が抜け駆けをすれば、その瞬間に全員が共倒れになり、何より――君に恐怖を与え、君の心を完全に壊してしまう」
「だから……条約を結んだんだ」
床に膝をつき、パーカーのフードを目深に被っていた成瀬郁が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「【ヤンデレ不可侵条約】……。抜け駆けの全面禁止。君に無理やり告白したり、既成事実を作ったり、恐怖で縛り付けることを絶対に禁止するルール。……誰かが違反したら、残り三人が同盟を組んで、そいつを社会・物理の両面で即座に抹殺する抑止力を作ったんだ。……すべては、紬さんが心から笑っていられる『世界で一番安全な無菌室』を維持するためだけに……!」
「無菌室……」
紬の唇から、震える単語が零れ落ちた。
◇
そこからの告白は、紬にとって、自らが信じてきた二十六年間の人生観が根底から覆される、悪夢のような真実の連続だった。
四人の口から、過去に起きたすべての「奇跡」の種明かしが、一切の虚飾を剥ぎ取られて語られていく。
「……入社二年目の春、企画会議で君に理不尽な怒号を浴びせた他部署の角田部長」
鷹見が、泥水で汚れた指先を震わせながら告げる。
「あれは偶然のコンプライアンス解雇ではない。成瀬が社内PCから五年前の裏金工作のデータをサルベージし、保科が部下たちの重度ストレス診断書を正式発行し、私が翌朝九時に人事権を行使して即日懲戒解雇処分を下した」
「担当記事に粘着していたネットクレーマーもそうだ」
成瀬がしゃくり上げながら続ける。
「僕が三分で投稿者のIPアドレス、実名、現住所、勤務先を特定した。鷹見さんの顧問弁護士軍団が八百万円の損害賠償請求内容証明を作成し、梶原さんが自宅周辺を包囲した。……投稿から三十分でアカウントが消えたのは、僕たちが社会的包囲網で相手の喉元を締め上げたからだ」
紬の息が止まりそうになる。
あの時、「運営さんのパトロールが素晴らしいんだ」と無邪気に喜んでいた自分の姿が、脳裏を掠めて激しい羞恥と悪寒を呼ぶ。
「……カヌレも、だ」
部屋の隅で直立していた梶原敦志が、地底から響くような重低音を絞り出した。
「一日二十個限定の幻のカヌレ。お前が『食べてみたい』と呟いた瞬間、条約に緊急警報が鳴った。……鷹見が運営会社ごと買収して専属シェフを雇い入れようとし、成瀬がオンライン予約枠を秒速ボットで独占し、保科が原材料の安全確認のためにフランス農場へ視察を入れようとし、俺が前夜二十二時から店頭に完全偽装で並んだ。……全員が自力で確保してしまい、引き下がらなかった結果、お前の元に四箱集まった」
「ゲリラ豪雨のバス停も同じです」保科が目を伏せる。
「君が傘を持たずに立ち往生しているログを成瀬くんが感知し、抜け駆けを警戒した四人が同時に傘を持ってエントランスへ急行した。……伊豆の温泉旅行も、君が無防備な部屋着を他部署の男に晒すのを阻止するため、鷹見さんが格安旅館の予約を設備点検名目でキャンセルさせ、グループ最高峰の迎賓館を全館貸し切りに変更させた。佐伯さんが仲居頭、成瀬くんが通信工、僕が嘱託医、梶原さんが夜間警備員として潜入し、露天風呂の竹林に潜んでいたパパラッチを梶原さんが消音麻酔銃で撃ち落とした」
「風邪を引いた夜も……!」成瀬が叫ぶ。
「スマートウォッチの体温データが三十七度八分を記録した瞬間、僕が部屋のエアコンを加湿・微風モードに遠隔書き換えして、梶原さんがミシュラン星付き和食店に作らせた滋養雑炊を置き配し、保科先生がアレルギー適合処方薬をバイク便で届け、鷹見さんがクライアント全社へ納期の強制延長を通達したんだ……!」
「アニメの……ギルバート卿の時もだ」
鷹見が呻くように言った。
「君が二次元の銀髪騎士に心を奪われ、夜も眠れなくなっていると知った時……私は表参道のサロンを貸し切りにして自らの髪をプラチナシルバーに脱色しようとして千冬に止められ、成瀬がミリ秒単位のパケット通信を独占して最前列中央のゼロ番席の招待状を偽造した。……そして、エレベーターの停電」
鷹見の視線が、梶原の痛々しい左手首へと向けられた。
「停電から八分で扉をこじ開けたのは、民間特殊レスキュー部隊だ。成瀬が制御盤をハッキングし、私が油圧ジャッキを投入させた。……だが、あの密室の中で、梶原はお前に手を出さなかった。……自らの手首を歯で噛み破り、激痛で理性を繋ぎ止めながら、上着をお前に掛けて励まし続けていたのだ」
「そして……今日の三島孝平だ」
梶原が、拳を震わせながら告げた。
「出所したあの男が、お前への逆恨みから再び牙を剥こうとしていた。……成瀬が偽の目撃情報で赤坂へ誘導し、鷹見が都市インフラを操作して動線を絞り込み、俺が無音で首根っこを押さえ、保科が一生出られない医療刑務所への収監書類を突きつけた。……お前に一切の恐怖を感じさせず、あの男の存在を地上から消滅させるために」
◇
――静寂。
すべての告白が、終わった。
スイートルームの空気が、あまりの重量に押し潰されそうだった。
槇原紬は、両手で自らの口元を押さえたまま、その場から一歩も動けずにいた。
涙が、次から次へと溢れ出て、顎を伝って胸元へと零れ落ちていく。
信じられない。
あまりにも、狂っている。
あまりにも、重すぎる。
自分が「世界は優しい」「今日も平和だな」と無邪気に微笑んでいたその足元で。
数十億円の企業買収が行われ、
都市の信号機や電車のダイヤがねじ曲げられ、
ネットの通信ログが丸裸にされ、
裏路地で人間が音もなく制圧され、
男たちが理性を保つために自らの肉体を傷つけ、血を流していた。
すべて――たった一人の、平凡な編集者である自分のためだけに。
「あ……ぅ……っ」
紬の喉から、押し殺した嗚咽が漏れた。
その涙を見た瞬間――
ドサッ。
重厚な大理石の床に、鈍い音が響いた。
鷹見征司が。
東証プライム上場の若き総帥が、泥にまみれた膝を、大理石の床へ力任せに打ち付けたのだ。
「「…………っ!?」」
背後にいた関茉莉花と日下部莉緒が、息を呑んだ。
鷹見だけではなかった。
バタンッ、と音を立てて、成瀬郁が床に両手をつき、額を大理石に擦り付けた。
保科貴文が、白衣の裾を床に投げ出し、静かに両膝を折った。
そして、直立していた梶原敦志までもが、巨躯を折り曲げ、床へと片膝を突いた。
社会の頂点に君臨する四人の男たちが。
財力、知力、権力、武力のすべてを手中に収め、世界を動かすことのできる怪物たちが――
いま、一人の小柄な女性の足元で、完全に膝を折り、屈辱もプライドもかなぐり捨てて、床に平伏していた。
◇
カタカタカタカタ……。
四人の身体が、目に見えて小刻みに震えていた。
彼らが恐れていたのは、警察の捜査でも、週刊誌のスキャンダルでも、社会的破滅でもなかった。
ただ――目の前にいる少女の、冷たい拒絶。
その絶対的な恐怖だけが、彼らの強大な魂を、生まれたての小鹿のように無様に震わせていた。
「……槇原」
床に額を近づけたまま、鷹見征司が、血を吐くような声音で絞り出した。
「私を……軽蔑してくれて構わない。……警察に突き出してもいい。我が社の役員を解任され、全財産を失い、刑務所の冷たい床で一生を終えることになろうと、私は一言の弁解もせん」
鷹見の指先が、大理石の床を割れんばかりに掻きむしった。
「だが……頼む。頼むから……私を、貴女の視界から消さないでくれ……!」
声が、掠れ、崩壊していく。
「貴女に『来ないで』と言われた瞬間……私の心臓は止まったのだ。貴女のあの冷たい瞳を向けられるくらいなら、今すぐ心臓を抉り出された方が何千倍も救われる……! 視界の片隅でいい……路傍の石としてでいい……! どうか、私を遠ざけないでくれ……ッ!!」
「ごめんなさい……! ごめんなさい、紬さん……!!」
成瀬郁が、床に額を何度も叩きつけながら、子供のように泣き叫んだ。
「僕が悪かったんです! 監視カメラを見たのも、ハッキングしたのも、全部僕の独善です! 気持ち悪いよね、怖いよね、最低だよね……! でも、紬さんに嫌われたら……僕、息ができないんだよ……! 紬さんの笑顔が見られない世界なんて、僕には一秒も生きられないんだ……! 嫌いにならないで……嫌いにならないでください、紬さん……!!」
「……僕が、全部悪かったんだ」
保科貴文が、顔を伏せたまま、震える声で懺悔した。
「君を失うのが怖かった。……十年間、君の隣で『優しい幼馴染のお兄さん』の皮を被りながら、君に近づく男たちを裏で排除し、君を僕の作った無菌室の中に囲い込もうとしていた……。君の心を救うためだと自分に言い訳をしながら、結局は、君が僕以外の誰かを愛してしまう現実に怯えていただけの、卑怯者だ……!」
保科の目から、大粒の涙が大理石へと滴り落ちる。
「どんな罰でも受ける。医師免許を剥奪されても、君に唾を吐きかけられてもいい。……だから、幼馴染の思い出まで、君の記憶から消し去らないでおくれ……っ」
「…………」
最後に、梶原敦志が、低く太い声を落とした。
梶原は頭を垂れたまま、自らの左手首の血まみれの包帯を強く握りしめていた。
「……俺は、ただの狂人だ」
その言葉には、一片の自己保身もなかった。
「お前の生活圏に潜み、隣人面をして、平穏を監視していた。……お前の柔らかな日常に、俺のような暴力しか能のない人間が近づく資格など、最初からなかったのだ」
梶原はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、濁りのない、けれど痛々しいほど純粋な忠誠の炎が宿っていた。
「お前が俺を拒絶するなら、俺は今夜、この街から消える。……だが、命だけは使わせてくれ」
梶原は胸元に拳を当てた。
「お前の目に見えない場所でいい。影の底でいい。……お前を脅かすあらゆる理不尽から、この命を盾にしてお前を守る権利だけは……奪わないでくれ」
◇
――静寂。
四つの剥き出しの懇願。
そこには、支配欲など微塵もなかった。
独占欲の奥底にあったのは、ただ一つ――
【槇原紬に嫌われることへの、底知れぬ原初的な恐怖】。
社会の頂点に立つハイスペックな男たちが、一人の少女の好意を失うことだけに怯え、泣き、震え、足元に這いつくばっている。
その異様で、あまりにも重たく、痛ましい光景を前にして。
背後に立つ莉緒と茉莉花は、言葉を失っていた。
「……あいつら、本気ね」
莉緒が、苦い溜息とともに小さく呟いた。
「狂ってるわ。やり方は最低で、許されることじゃない。……でも、あいつらの怯え方は、本物よ。あんたに嫌われたら、本当に死んでしまう顔をしてるわ」
「ええ……」茉莉花も腕を組んだまま、険しい顔で頷いた。
「プライドも社会的地位も全部捨てて、あんたの一言に怯えて泣いてる。……情けない大人の男たちだけど、あんたへの執着だけは、嘘偽りなく命がけね」
カウンターの奥で、九重圭が胸を押さえ、痛む胃袋を抱えながら、静かに目を閉じていた。
そして――佐伯千冬は、手帳を胸に抱えたまま、静かに紬の横顔を見つめていた。
部屋の中央。
平伏する四人の怪物の前で。
槇原紬は、涙で濡れた瞳を大きく見開き、震える手で自らの胸元をぎゅっと握りしめていた。
怒り。
恐怖。
裏切り。
そして――目の前で泣き崩れる男たちの、あまりにも不器用で、歪み切った、けれど痛烈なまでの「愛」の熱量。
相反する感情の奔流が、紬の胸の奥底で、激しい渦を巻いて激突していた。
長い、長い沈黙が、スイートルームを支配する。
やがて――
紬の足が、大理石の床を一歩、前へと踏み出した。
その瞳に宿ったのは、怯えでも、絶望でもなかった。
少女の魂の奥底から湧き上がる、誰にも予想し得なかった、新たな感情の光だった。




