第53話:ホテルのスイートルームへ
寒風が吹きすさぶ赤坂の裏通りを、槇原紬は無我夢中で駆け抜けていた。
足元の泥水が跳ね上がり、ストッキングを冷たく濡らす。肩から滑り落ちたトートバッグも、さっき買ったばかりの文庫本も、アスファルトの上に落としたままだった。
ただ、逃げたかった。
あの薄暗い街灯の下で見た光景から。
泥水に顔を押し付けられ、首筋を締め上げられて泡を吹いていた三島孝平。
そして――その三島を取り囲み、人を人とも思わない絶対零度の冷酷な瞳で見下ろしていた四人の男たちから。
(嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だ……!)
心臓が、肋骨の内側を鉄のハンマーで滅多打ちにするかのように激しく暴れていた。
呼吸が浅い。肺の奥まで酸素が届かず、喉の奥がカラカラに渇いてヒリヒリと痛む。
いつも自分を穏やかに見守ってくれていた鷹見副社長。
人懐っこい笑顔で甘えてくれた成瀬くん。
何でも相談に乗ってくれた優しい幼馴染のタカちゃん。
無口だけど温かいお惣菜を届けてくれたお隣の梶原さん。
あの優しい顔は、全部、嘘だったのか。
自分に見せていた笑顔は、あの路地裏で見せた冷血な怪物の顔を隠すための、ただの仮面に過ぎなかったのか。
涙が視界を滲ませ、足元がおぼつかなくなる。
大通りのネオンの光が、滲んだガラスのように歪んで広がったその瞬間――
「――紬ッ!!」
正面から伸びてきた強くしなやかな二本の腕が、前のめりに倒れ込みそうになった紬の身体を、真正面から抱き止めた。
「きゃっ……!?」
「紬! しっかりしなさい、紬!!」
耳朶を打ったのは、聞き慣れた、けれど切迫した女性の声だった。
紬が濡れた睫毛を震わせて顔を上げると、そこには、息を切らして自分を抱きしめている関茉莉花の顔があった。
そして、そのすぐ後ろから、チャコールグレーのチェスターコートを羽織った日下部莉緒が駆け寄り、紬の冷え切った両肩に、自らの首元に巻いていた厚手のカシミヤマフラーを素早く巻きつけてくれた。
「茉莉花……先輩……? 莉緒、ちゃん……?」
「大丈夫よ、紬。もう大丈夫だから……!」
茉莉花は紬の震える背中を何度も強く擦り、自らのコートの内側へ包み込むように抱き寄せた。
莉緒はしゃがみ込み、紬の青ざめた両手を自らの温かい手のひらで包み込みながら、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「怖かったわね、紬。……全部、見てしまったのね」
「あ……ぅ……っ、みんなが……梶原さんが、人を……副社長も、タカちゃんも、成瀬くんも……あんな、恐ろしい目で……っ」
紬の口から、過呼吸混じりの嗚咽が漏れ出した。
その時、大通りの路肩に、ハザードランプを点滅させながら一台の大型ハイヤーが滑り込んできた。
運転席から素早く降りてきたのは、佐伯千冬だった。
千冬は紬が路地に落としていったトートバッグと文庫本の紙袋、そして泥に汚れた社員証ケースを胸に抱え、静かに後部座席のスライドドアを開け放った。
「佐伯さん……」茉莉花が顔を上げる。
「三島孝平の身柄は、警察の公安筋、ならびに提携の医療機関へ完全に引き渡されました。……事件化による紬様への事情聴取、ならびに報道への露出は、法務部と警察幹部ルートにより完全に遮断されております」
千冬の声は冷静だったが、その整った横顔には、取り返しのつかない事態を招いてしまったことへの痛烈な自責の色が滲んでいた。
「紬様。冷たい風に当たっていては、お身体に障ります。……お車へお乗りください」
「嫌……っ、どこへ……どこへ連れて行くの……!?」
怯えて後ずさりしようとする紬を、莉緒が両手で優しく、けれどしっかりと支えた。
「紬、聞いて」
莉緒の低く落ち着いた声が、紬の乱れた心拍を繋ぎ止める。
「逃げちゃ駄目よ。このまま家に帰って毛布を被っても、あんたの恐怖は一生消えないわ。……あいつらが何をしてきたのか、なぜあんなことをしたのか、全部、あいつら自身の口から吐き出させるのよ」
「莉緒の言う通りよ」
茉莉花が紬の濡れた頬を指先で拭った。
「私たちがずっと隣にいるわ。千冬さんも、志乃さんも、あんたの味方よ。……あいつらの言い分を全部聞いて、その上で、あんたがどうするかを決めなさい。……行きましょ、紬」
信頼する親友と、尊敬する先輩の温もり。
紬は震える唇を噛み締め、こぼれ落ちる涙を拭いながら、小さく、こくりと頷いた。
◇
ハイヤーは夜の東京を滑るように疾走し、港区・六本木のランドマークタワー『ザ・クラウンタワー東京』の地下専用車寄せへと滑り込んだ。
一般の宿泊客の動線から完全に隔離された、VIP専用のプライベートエレベーター。
重厚な真鍮のプレートに刻まれた『最上階・プレジデンシャル・スイート』のボタンを、千冬が無言で専用キーで解錠する。
ゴオオオオ……という微小な気圧変化とともに、カゴは一気に地上二百メートルへと上昇していった。
エレベーターの中、紬は茉莉花と莉緒に両脇を挟まれ、固く目を閉じていた。
手の中でぎゅっと握りしめた、泥のついた社員証ケース。
この建物の最上階に、何があるのか。
男たちが毎週木曜日の夜に集まっていたという、あの場所。
チーン。
冷徹な電子音とともに扉が開き、目の前に現れたのは、磨き抜かれた大理石の長いプライベートコリドーだった。
その突き当たり。
重厚なマホガニーの巨大な両開きドアの前に、千冬が立ち、深々と息を吸い込んだ。
「……副社長。紬様をお連れいたしました」
千冬が両手をかけ、ドアをゆっくりと押し開いた。
ギギギ……と、重い蝶番が軋む音。
室内の空気が、ふわりと廊下へと漏れ出てきた。
それは――高級ホテル特有のアロマの香りではなく、張り詰めた静寂と、冷え切った電子機器の排熱の匂い、そして濃密な沈黙だった。
◇
「…………っ」
部屋へ足を踏み入れた瞬間、紬は息を呑んだ。
二百平米を超える広大なプレジデンシャル・スイート。
パノラマウィンドウの向こうには、東京タワーを中心とした煌びやかな東京の夜景が広がっている。しかし、室内の照明は極限まで落とされ、その壮大な夜景すら霞むほどの異様な光景が、部屋の中央を支配していた。
部屋の正面の壁一面を覆い尽くす、数十台の特大マルチモニター。
そこに映し出されていたのは、映画の司令室でも、企業の役員プレゼンでもなかった。
――それは、槇原紬の「日常」そのものだった。
画面の左上には、赤坂の本社ビル十階、『Lumiere』編集部のフロアカメラ映像。紬のデスクが、ミリ単位で最も美しく映るアングルでリアルタイム表示されている。
画面の右上には、紬が通勤に使う地下鉄の改札口、赤坂見附の交差点、そして自宅マンションのエントランスとエレベーターホールの防犯カメラの分割画面。
中央の巨大なディスプレイには、紬のスマートフォンの通信ログ、Wi-Fiの暗号化パケット解析、そしてスマートウォッチからリアルタイムで送られ続けている心拍数、体温、血圧、睡眠ステージの推移グラフが、脈打つように更新されていた。
さらに――画面の脇には、過去の「排除実績」のフォルダが、整然とインデックス化されて並んでいた。
【ファイル01:他部署・角田部長(パワハラ言動に伴うコンプライアンス解雇完了)】
【ファイル02:担当記事粘着クレーマー(IP特定・損害賠償請求内容証明送達・アカウント消滅)】
【ファイル03:東都エージェンシー・神崎P(過去横領・女性問題の告発による南米チリ支社永久左遷)】
【ファイル04:伊豆迎賓館『翠巒亭』全館貸切防衛作戦(竹林パパラッチ無音麻酔制圧)】
【ファイル05:ゲリラ豪雨・エレベーター停止救出記録(民間レスキュー部隊油圧ジャッキ投入)】
【ファイル06:府中刑務所出所・三島孝平(都市インフラ遮断・路地裏無音制圧・医療刑務所収監手配完了)】
そして――
黒檀の巨大なラウンドテーブルの背後の壁面。
スポットライトに照らされた額縁の中に、美しくカリグラフィーで清書され、四人の男たちの血判のような拇印が押された一枚の羊皮紙が掲げられていた。
【ヤンデレ不可侵条約・原本】
『第1条:被警護者・槇原紬の心身の安全、ならびに自発的な笑顔を絶対防衛ラインとする』
『第2条:加盟者による抜け駆け(強引な告白、拉致、既成事実作り)の全面禁止』
『第3条:職権・技術・医療・武力の四領域における完全不可侵と相互監視』
『第4条:害虫の排除は無音かつ合法的に行い、彼女に一切の恐怖を与えてはならない』
「…………あ」
紬の口から、声にならない乾いた呼気が漏れた。
すべてが、白日の下に晒されていた。
これまで自分が「運が良かった」「日本の治安が素晴らしい」と信じ込んできた奇跡の正体。
カヌレが四箱届いた理由も。
雨の日に四人が同時に現れた理由も。
病気の夜に完璧な看病セットが届いた理由も。
すべて――この部屋で、この男たちが、毎週木曜日の夜に集まり、自分を「監視」し、「管理」し、「支配」するために決定されていた作戦だったのだ。
カラン、コロン。
静まり返ったスイートルームに、氷の涼やかな音が小さく響いた。
バーカウンターの奥から、トレイを手に歩み出てきたのは、チーフバーテンダーの九重圭だった。
普段はポーカーフェイスを崩さないはずのバーテンダーの手は、目に見えてガタガタと震えていた。トレイの上に乗せられた温かいカモミールティーの陶器のカップが、カチカチと小さな悲鳴のような音を立てている。
九重は紬の前まで歩み寄ると、深々と、直角に頭を下げた。
「……紬様。当店へ、ようこそお越しくださいました」
九重の声は、掠れていた。
「……驚かせてしまい、そして……恐ろしい思いをさせてしまい、本当に、申し訳ありませんでした。……お身体が冷え切っていらっしゃいます。どうぞ、温かいお茶をお召し上がりください」
差し出されたカップ。
しかし、紬はそれを受け取ることができなかった。
ただ、震える瞳で、部屋の中央を見つめていた。
◇
そこに、いたのだ。
黒檀のラウンドテーブルを取り囲むようにして立ち尽くしていた、四人の男たち。
しかし――そこにいたのは、先ほど路地裏で三島を冷酷に屠っていた時の「絶対強者」の姿ではなかった。
東証プライム上場の若き総帥・鷹見征司は、完璧だったはずのスーツを雨と泥で汚したまま、ネクタイを乱暴に緩め、幽鬼のように立ち尽くしていた。その切れ長の瞳は充血し、口元は青白く震え、紬と視線が交錯した瞬間に、ビクッと身体を竦ませて視線を床へと落とした。
社内エンジニアの成瀬郁は、リクライニングチェアの脇の床に膝をつき、だぶだぶのパーカーのフードを目深に被って、両手で顔を覆っていた。その指の隙間から、ポロポロと涙が床の大理石へと零れ落ちている。
幼馴染の医師・保科貴文は、白衣の裾を両手で引き裂かんばかりに握りしめ、壁にもたれかかっていた。銀縁眼鏡の奥の瞳は完全に光を失い、まるで死刑台の上で執行の合図を待つ罪人のように、小刻みに全身を震わせている。
そして、隣人の元SP・梶原敦志は、直立不動の姿勢のまま、紬の正面に立っていた。しかし、その屈強な胸板は激しく上下し、左手首に巻かれた包帯からは、理性を繋ぎ止めるために自ら噛み締めた傷口の血が、再びジワリと滲み出していた。
社会の頂点に君臨するハイスペックな男たち。
大企業の副社長、天才プログラマー、セレブ御用達の名医、要人警護のプロ。
何千人、何万人という人間を動かし、巨額のマネーと権力を自在に操るはずの男たちが――
今、たった一人の小柄な女性の前で、怯え、震え、息をすることすら躊躇うほどに打ちのめされていた。
彼らが恐れていたのは、警察に逮捕されることでも、社会的地位を失うことでもない。
ただ一つ。
目の前に立つ、この槇原紬という少女に――完全に軽蔑され、嫌悪され、その世界から永久に消去されること。
その恐怖だけが、彼らの強大な魂を、木っ端微塵に粉砕していたのだ。
◇
静寂。
針の一本が落ちても響くほどの沈黙の中、壁掛け時計の秒針の音だけが、チク、タク、と虚しく時を刻んでいた。
紬の背後で、莉緒と茉莉花が腕を組み、冷徹な眼差しで男たちを見据えている。
千冬は手帳を胸元に抱え、静かに目を伏せていた。
誰も、口を開かない。
誰も、息を吸うことすらできない。
やがて――
カツン、と。
泥のついた革靴が、大理石の床を一歩、踏みしめる音が響いた。
鷹見征司だった。
鷹見は、鉛のように重い身体を引きずるようにして、ラウンドテーブルの前へと歩み出た。
その顔は、土気色に染まり、かつての冷徹なエリートの面影は完全に消失していた。
鷹見はゆっくりと顔を上げた。
血走った、けれどどこまでも真摯で、絶望に満ちた瞳が、紬の濡れた瞳を真正面から捉えた。
「……槇原」
掠れた、震える声だった。
鷹見は両手を自らの身体の脇に力なく垂らし、深く、深く頭を下げた。
そして――顔を上げると、逃げ場のない覚悟を込めて、その唇を開いたのだ。
「……すべてを話す」
その一言が、静まり返ったスイートルームの空気を震わせた。
「君の日常が、なぜこれほどまでに平穏だったのか。……我々四人が、水面下で何を企て、何を実行してきたのかを」
成瀬が肩を震わせてしゃくり上げ、
保科が苦痛に満ちた息を吐き出し、
梶原が無言のまま、拳を固く握り締める。
定例監視会議室の扉が開かれ、すべての偽りの帳が引き裂かれたその場所で――




