第52話:氷解する日常
その一言が、夜の路地裏の凍てついた空気を、完全に断ち切った。
「みんな……何をしているの……?」
震える、細い声だった。
怒りでも、詰問でもない。ただ純粋な、底知れぬ困惑と、世界そのものが反転してしまったことに対する、痛ましいほどの恐怖に満ちた呟き。
その瞬間――
路地裏に君臨していた四人の怪物たちの全身から、先ほどまで彼らを神のように冷酷に仕立て上げていた「絶対強者の仮面」が、音を立てて粉々に剥がれ落ちた。
「「「「…………っっ!!」」」」
狼狽。動揺。そして、地獄の底へ突き落とされたような、純度百パーセントの絶望。
男たちの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。
白紙。いや、それ以上に青白い、死人のような土気色が彼らの皮膚を覆い尽くす。
「つ、紬……ちゃん……!?」
最初に声にならない悲鳴を漏らしたのは、地面に屈み込んでいた保科貴文だった。
右手から滑り落ちた長大なガラスシリンダーの破片が、足元の湿ったアスファルトの上でパリンと乾いた音を立てて砕け散っている。保科はその破片にすら気付かない様子で、まるで焼けた鉄に触れたかのように、三島の首元へ伸ばしていた両手を勢いよく引っ込めた。
ガタガタと、その細く整った指先が痙攣している。
普段はどんな重篤な精神障害の患者を前にしても、ミリ単位のブレすら見せない名医の手が、生まれたての赤子のように無様に震えていた。
「違っ……違うんだ、紬ちゃん! これは、その……医学的な、緊急の処置を……!」
弁明。だが、その言葉はあまりにも拙く、滑稽なほどに空虚だった。
その隣で、直立していた鷹見征司の膝が、カクリと折れかけた。
手から滑り落ちた分厚い革張りのバインダーが、泥水の中にバシャリと落ち、中から三島の過去の犯罪記録や起訴状の写しが散らばっていく。
東証プライム上場の総帥として、数千億円のディールを眉ひとつ動かさずに成立させてきた男が、今、息をすることすら忘れ、両目を血走らせて紬を見つめていた。
「ま、槇原……。違う……これは、貴女が思っているようなことでは……」
ネクタイピンを指に突き刺す余裕すら、彼には残されていなかった。
唇がワナワナと震え、声が掠れて途切れる。
そして――三島の上に馬乗りになり、首根っこを押さえつけていた梶原敦志の動きは、完全に狂っていた。
「…………っ!」
梶原は弾かれたように三島の身体から飛び退くと、自らの大きな身体を無理やり使って、足元に倒れている三島の姿を紬の視界から遮ろうと、壁の死角へ押し込もうとした。
見せてはならない。
この男の顔を、この暴力の痕跡を、彼女の清らかな網膜に映してはならない。
だが――遅すぎた。
すべては、あまりにも手遅れだった。
街灯の淡いナトリウム灯の光の下に晒されていたのは、泥にまみれ、首筋を鬱血させ、恐怖で失禁して泡を吹いている生々しい人間の姿だった。
そして、ハイヤーの後部座席のドアの影から、ノートパソコンを抱えた成瀬郁が、魂を抜かれたような顔で飛び出してきた。
「紬……さん……」
成瀬の顔は、涙と冷や汗でぐしゃぐしゃに歪んでいた。
画面の中で完璧に世界を支配していた天才ハッカーは、今や、ただ親に最悪の悪事を暴かれた子供のように、唇を震わせて立ち尽くすことしかできなかった。
◇
――ヒュゥゥゥッ……。
冷たい冬の夜風が、路地の隙間を吹き抜けていく。
ビルの壁にぶつかる風の音だけが、耳障りなほど大きく響いていた。
路地の入り口。
足元にトートバッグと文庫本の紙袋を落としたまま、槇原紬は、金縛りに遭ったように立ち尽くしていた。
思考が、追いつかない。
脳内の神経回路が、目の前にある光景の処理を拒絶し、激しい火花を散らしている。
(どうして……?)
紬の大きな瞳が、激しく揺れ動いていた。
そこにいるのは、誰なのか。
泥水に手をつき、情けなく震えているあの男は――
暗がりの中、街灯の薄黄色い光が、倒れている男の横顔を照らし出した。
青白い、痩せこけた頬。
落ち窪んだ眼窩。
恐怖に引きつり、白目を剥いて泡を吹いているその顔立ち。
ドクンッ。
紬の心臓が、跳ね上がった。
記憶の奥底。分厚いコンクリートと鉄の扉で封印していたはずの、大学時代の暗黒の記憶が、濁流となって脳裏に押し寄せてくる。
『紬! 俺だ! 助けに来たんだ!』
『どうしてドアを開けてくれないんだ紬ィィィッ!』
深夜のアパートの廊下。
ドアスコープの向こう側に張り付いていた、あの充血した狂気の瞳。
ガチャガチャと激しく弄り回された鍵穴の音。
警察に保護され、過呼吸で運ばれた病院の白い天井。
何日も食事が喉を通らず、男性の足音が背後から聞こえるだけで激しい嘔吐感に襲われ、大学を休学せざるを得なくなった、あの地獄のような日々。
「……み……しま……さん……?」
紬の唇から、震える名前が零れ落ちた。
三島孝平。
自分を精神的な奈落へと突き落とした、あの元ストーカー。
「な……んで……?」
紬は両手で自らの頭を抱え込んだ。
なぜ、三島がここにいるのか。
刑務所にいたはずの男が、なぜこの赤坂の裏路地に倒れているのか。
そして――何より。
紬の視線が、三島を取り囲んでいた四人の男たちへと向けられた。
鷹見征司。
成瀬郁。
保科貴文。
梶原敦志。
「なんで……みんなが……三島さんを……?」
四人は、お互いにまったく別の世界で生きているはずの人間だった。
会社の副社長と、業務委託のエンジニアと、幼馴染の開業医と、マンションのお隣さん。
休日に集まるような友人同士でもなければ、共通の趣味で繋がっているわけでもない。
それなのに――なぜ彼らは、まるで軍隊のように完璧なフォーメーションを組んで、この路地裏で一人の人間を待ち伏せしていたのか?
なぜ梶原さんが、プロの暗殺者のような動きで人の首を絞めていたのか?
なぜ鷹見副社長が、冷酷な目で警察手帳のようなファイルを見下ろしていたのか?
なぜタカちゃんが、あんな恐ろしい、見たこともない狂気の笑みを浮かべながら注射器を構えていたのか?
なぜ成瀬くんが、ハッカーのようにパソコンを抱えて指示を出していたのか?
(……あ)
その瞬間。
紬の頭の中で、昨日からの違和感、屋上で茉莉花先輩から投げかけられた言葉、そして過去のすべての出来事が――
耳を劈くような轟音とともに、一つの巨大な、おぞましい真実へと結晶化した。
『あんたの周りの男たち……あれは、あんたが息をする空気すらコントロールしようとしてる目よ』
『あいつら全員、裏で結託して、あんたを無菌室の中に閉じ込めてるのよ』
茉莉花先輩の言葉は、誇張でも、冗談でもなかったのだ。
すべて、本当だった。
限定カヌレが奇跡のように四箱集まったのも。
ゲリラ豪雨の日に四人が同時に高級傘を持って現れたのも。
パワハラ部長が翌朝に解雇され、クレーマーが三十分で消え、悪徳プロデューサーが南米へ左遷されたのも。
伊豆の迎賓館に、身分を偽装して四人が全員潜入していたのも。
風邪を引いた夜、完璧な温度にエアコンが設定され、頼んでもいないのに解熱剤とすっぽん雑炊が届いたのも。
停電したエレベーターに、わずか八分で油圧ジャッキを持って駆けつけてきたのも。
そして――今夜、出所したばかりの三島が、この路地裏で寸分の狂いもなく待ち伏せされ、無音で捕獲されたのも。
偶然なんかじゃなかった。
日本の治安が良いからでも、自分が運が良い凡人だからでもなかった。
この四人の男たちが。
裏で手を結び、
自分を二十四時間監視し、
街の機能を操作し、
警察や法律すら私物化し、
暴力を振るい、
自分に見えないように、邪魔な人間を片っ端から排除していたのだ。
「…………っ!」
ゾワリと、全身の毛穴が逆立つような強烈な悪寒が紬を貫いた。
優しい日常。
親切な人々。
温かい世界。
自分が信じ、感謝し、愛してきた日常のすべてが――
この男たちが作り上げた、血と欺瞞と狂気で塗り固められた【偽物の檻】だった。
自分は、その檻の中で、何も知らずに「世界は優しいな」「みんな親切だな」と、間抜け面に笑っていたのだ。
お人形のように。
飼い慣らされたペットのように。
◇
「う……あ……っ」
紬の喉から、過呼吸の発作のような、浅く引きつった呼気が漏れた。
胸が苦しい。
肺に酸素が入ってこない。
視界の端がチカチカと白く明滅し、胃の底からせり上がってくる強烈な吐き気に、紬は口元を手で押さえた。
その異変に、男たちが一斉に反応した。
「紬ちゃん……!」
保科が、医師としての反射で前へ飛び出そうとした。
「過呼吸だ! 落ち着いて、僕の目を見て……!」
「槇原!」
鷹見が、濡れたスーツの裾を翻して手を伸ばした。
「誰か、車からブランケットを……!」
「紬さん!!」
成瀬が半泣きで駆け寄ろうとし、
梶原が、傷ついた左手を隠しながら、支えようと大股で踏み出した。
四つの影が、自分へ向けて一斉に迫ってくる。
かつては世界で一番頼もしく、温かかったはずの四人の男たち。
しかし――今、紬の瞳に映っていたのは、救助者などではなかった。
自分を取り囲み、息の根を止め、目に見えない鎖で手足を縛り上げようとする、四匹の巨大な捕食者。
その恐怖が、紬の理性の最後のリミッターを吹き飛ばした。
「――来ないでッッッッ!!!!」
ピシャァァァァァンッッッッ!!!!
夜の路地裏に、引き裂かれたような紬の絶叫が響き渡った。
短く、鋭く、そして魂の底から絞り出された、絶対的な拒絶の声。
「「「「…………ッッッッ!!!!」」」」
ドサリ、と。
何かが折れるような音がした。
駆け寄ろうとしていた四人の男たちの両足が、まるで床に太い鋼鉄の杭を打ち込まれたかのように、寸分の狂いもなく、その場に完全静止した。
一歩も。
指先の一ミリすらも、前へ進めることができない。
伸ばしかけた保科の手が、宙で凍りつく。
鷹見の踏み出した右足が、泥水の上でピクリと止まる。
成瀬の身体が前のめりのまま硬直し、
梶原の巨躯が、見えない巨岩に激突したかのように仰け反った。
来ないで。
その四文字。
それは、暴力よりも、死刑宣告よりも、世界金融の破滅よりも残酷な、絶対的な引導だった。
嫌われたら死ぬ。
彼女に拒絶されることだけを恐れ、彼女に嫌悪されることを何よりも恐れて、理性をすり減らし、互いにナイフを突きつけ合いながら結んできた【不可侵条約】。
その条約の唯一の神であり、唯一の存在理由であった少女から――
今、この瞬間、決定的な「拒絶」が下されたのだ。
「あ……」
成瀬の瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
「嫌だ……嫌だ……紬さん……僕を、そんな目で見ないで……」
鷹見征司の唇が、青白く震えていた。
胸元を押さえる手が、力なく滑り落ちる。
「違う……槇原……私は、貴女を……」
保科貴文は、その場に膝から崩れ落ちそうになるのを、辛うじて耐えていた。
眼鏡の奥の瞳には、かつて見たことのない、魂を抜き取られた人間の虚無が広がっている。
梶原敦志は、ただ無言のまま、自らの左手首の包帯を強く握りしめ、血を滲ませながら立ち尽くしていた。
◇
男たちの動きが止まったその隙に、紬は後ずさりをした。
一歩。
二歩。
足元に転がっていた自らの社員証ケースを、震える手で拾い上げる余裕すらなかった。
泥水の中に落ちたトートバッグも、文庫本も、すべてを投げ出したまま。
紬はただ、胸元を掻きむしり、涙で視界を滲ませながら、必死に後退を続けた。
目の前に立ち並ぶ、四人の男たち。
自分を愛していると言いながら、
自分を守ると言いながら、
その実、自分の日常をすべてコントロールし、裏で人を踏みにじっていた狂人たち。
「……嘘つき」
紬の唇から、掠れた小さな呟きが零れた。
「みんな……大嘘つき……!」
その言葉を最後に、紬は踵を返した。
タッ、タッ、タッ、タッ――!!
夜の寒風の中、紬は全力で駆け出した。
路地を飛び出し、大通りのネオンの光の中へ、人混みの雑踏の中へと、逃げるように走り去っていく。
その華奢な背中が、赤坂の夜の闇の中へ消えていくのを――
四人の男たちは、ただ立ち尽くしたまま、追いかけることすら許されずに見送るしかなかった。
「……あ……ああああ……っ」
成瀬がアスファルトの上に膝をつき、両手で頭を抱えて咽び泣いた。
鷹見は雨水に濡れた泥まみれのバインダーを見下ろし、天を仰いで固まっていた。
保科は砕け散ったガラスの破片を見つめたまま、微動だにせず。
梶原は、暗闇の奥で、ただ深く、深く、絶望の呼気を吐き出していた。
無菌室は、死んだ。
彼らが作り上げた完璧な虚構の楽園は、今、完全に瓦解したのだ。
その時――
カツ、カツ、カツ。
路地の入り口から、静かな、けれど毅然としたヒールの音が響いてきた。
現れたのは、佐伯千冬、関茉莉花、そして日下部莉緒の三人だった。
三人は、地面に転がる三島、そして生ける屍のように立ち尽くす男四人を一瞥し、深々と溜息をついた。
「……だから言ったでしょうに。この、愚か者共が」
莉緒の冷淡な声が、静まり返った路地裏に落ちた。




