第51話:見られてしまった光景
大型書店『文教堂』を出て、駅の地下連絡通路へと続く歩道を数歩歩んだところで、槇原紬は不意に立ち止まった。
首筋に吹きつける夜風が、やけに寒く感じられた。
「……あれ?」
紬は手元に抱えていたトートバッグのサイドポケットへ、無意識に右手を滑り込ませた。
指先が探り当てたのは、ハンカチとミントタブレットの小さなケース、そして文庫本が入ったばかりの薄い紙袋の感触だけだった。
いつもあるべき、あの長方形のプラスチックの感触がない。
「嘘……ない?」
紬の背筋を、冷たい汗がツツッと伝い落ちた。
失くしたのは、ただのポイントカードではない。『株式会社Lumiere』の入館用ICセキュリティカードが一体となった、会社支給の革製社員証ケースだった。
社内規定では、紛失すれば即座に情報システム部への事故報告書と始末書の提出が義務付けられており、オフィスの入退室ログもすべて一時凍結されるという、編集者にとって命の次に大切な重要物品だ。
「どうしよう……! さっき第一会議室で海外メディアとのオンライン取材が終わった後、茉莉花先輩に『お疲れさま、これ預かってたスマホね』って返してもらった時は……確かに首から外して、ポケットにしまったはずなのに……」
紬はバッグを抱え直し、中身を必死にひっくり返すように探った。
ポーチ、財布、手帳、キーケース、化粧ポーチ。
どれだけ指先を動かしても、革紐のついた社員証のストラップは引っかからない。
「落としたとしたら……さっき本屋さんで、新春特集の参考資料を買ってお会計した時……? それとも、あの路地を通った時……?」
紬は振り返り、今歩いてきたばかりの薄暗い道を凝視した。
大通りの歩道から一本入った、ビルとビルの間に挟まれた細い搬入路。街灯の光が届かず、人通りもほとんどない裏道だったが、駅へ抜ける近道だと思って先ほど何気なく通り抜けたばかりの場所だ。
あそこでコートのポケットからスマートフォンを取り出した際、引っかかって落ちたのかもしれない。
「見つからなかったらどうしよう……。成瀬くんに『始末書書いてね』って怒られちゃうし、鷹見副社長の耳に入ったら、会社全体のコンプライアンス問題になっちゃう……!」
紬は唇をぎゅっと噛み、踵を返した。
夜の寒風がスカートの裾を翻す中、紬は小走りで足早に元来た道を引き返し始めた。
早く見つけなければならない。
誰かに拾われて悪用される前に、自分の手で回収しなければ。
そんな焦燥感だけで頭がいっぱいだった彼女は、この時、周囲の街並みが帯びていた「不気味なほどの静けさ」にすら、意識を向ける余裕を失っていた。
◇
コツ、コツ、コツ。
薄暗いアスファルトの上を、紬のパンプスのヒールが急ぎ足のリズムを刻む。
赤坂の大通りの喧騒が、角を曲がるごとに遠ざかっていく。
車の走行音も、居酒屋から漏れ出る人々の笑い声も、まるで厚い防音ガラスの向こう側へ遮断されたかのように、急激に輪郭を失っていく。
冬の夜気は張り詰め、吐き出す息は白く長く宙に消えた。
(……この角を曲がったところのはず。ゴミ集積所の横あたりで、バッグをごそごそ弄った記憶がある……)
紬は手元でバッグの持ち手を握りしめ、雑居ビルの角へと差し掛かった。
外壁に吹きつけられたモルタルの冷たい感触が、コートの袖をかすめる。
角を曲がれば、先ほど通ったばかりの幅三メートルほどの直線路地だ。
早く見つけて、温かい電車に乗って、お家に帰ろう。
今夜は温かいポトフを作って、志乃さんのカフェで買ったハーブティーを飲んで、ゆっくり休もう――。
そんな、ささやかで温かな日常の続きを思い描きながら。
槇原紬は、何の疑いも持たずに、その角を曲がった。
そして――
世界が、音を立てて砕け散った。
◇
「…………っ」
紬の足が、アスファルトの上に縫い付けられたようにピタリと止まった。
呼吸が、喉の途中で凍りつく。
街灯の薄暗いナトリウム灯が、湿った路地裏の地面をぼんやりと黄色く照らし出していた。
その光の円錐の中心。
そこにあった光景は――紬がこれまでの二十六年間の人生で一度たりとも目にしたことのない、そして彼女の平穏な日常の辞書には絶対に載っていてはならない、あまりにも異様で、冷酷な【処刑の現場】だった。
「……え?」
乾いた声が、紬の唇から零れ落ちた。
まず、目に飛び込んできたのは、地面のコンクリートの上に無様に組み伏せられ、這いつくばっている一人の男の姿だった。
安物の薄汚れたダウンジャケット。
骨と皮ばかりに痩せこけた身体。
その男の顔面は、アスファルトの泥水に力任せに押し付けられ、白目を剥き、恐怖と苦痛のあまり口の端から泡混じりの胃液を垂れ流していた。
そして――その男の背骨の真上に、全体重をかけて片膝をめり込ませ、首筋の頸動脈を片手で冷酷無比に圧迫していた人物。
全身を夜の闇のようなタクティカルウェアに包み、無言のまま、人間ではなく屠殺場の獲物を解体するかのような死んだ目をしている男。
「……か……じ……わら……さん……?」
紬の瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
梶原敦志だった。
401号室の隣人。
時々「作りすぎたので」と旬の野菜を使った絶品の肉じゃがを届けてくれて、エレベーターの暗闇の中で自らの上着を脱いで『俺がいる限り、何者もお前を傷つけさせない』と優しく守ってくれた、あの無口で温かいはずの梶原が。
今、その両手で、生きた人間の首の骨をへし折らんばかりの万力のような力で、無表情に締め上げているのだ。
しかも、それだけではなかった。
倒れている男のすぐ傍ら。
黒塗りの高級ハイヤーのドアの前に、威厳に満ちた姿勢で立ち尽くしていた男。
仕立てのいい濃紺のスリーピーススーツを完璧に着こなし、片手に警察手帳のような分厚い革張りのバインダーを抱え、床に転がる男を虫けらでも見るような絶対零度の瞳で見下ろしていた人物。
「……たか……み……副社長……?」
東証プライム上場の総帥にして、自分の勤め先の頂点に君臨する鷹見征司だった。
社内では常に隙のないエリートとして社員全員から畏敬を集め、自分に対しても常に公正で、温かい評価を下してくれていた尊敬すべき上司。
その男の顔に浮かんでいたのは、理性的なビジネスマンの表情などでは断じてなかった。
他者の人生を一瞬で破滅させ、地上から存在を抹消することを何とも思っていない、完全なる冷血な統制者の貌だった。
さらに――
地面に屈み込み、倒れている男の耳元へ顔を近づけていた、もう一人の男。
濃紺のコートの隙間から純白のドクターコートを覗かせ、右手には光を反射して冷たく光る、長大な医療用の注射器を握りしめていた人物。
「……タカ……ちゃん……?」
保科貴文だった。
幼い頃から何でも相談に乗ってくれて、風邪を引いた時には優しい笑顔でお薬を処方してくれた、兄貴分のような幼馴染の名医。
その保科が、今、銀縁眼鏡の奥の瞳を三日月のように歪め、見たこともないほど禍々しく、嗜虐的な狂気の笑みを浮かべながら、男の首筋の静脈へ針先を突きつけようとしていたのだ。
そして――路地の奥、ハイヤーの後部座席の開かれたドアの影。
ノートパソコンの青白いモニターの光を顔面に浴びながら、キーボードを叩き、無表情に通信ログを監視していたのは――
だぶだぶのパーカーを着た、年下の社内エンジニア・成瀬郁だった。
◇
四人。
槇原紬の日常を取り囲んでいた、四人の男たち。
副社長。
エンジニア。
幼馴染の医師。
隣人の警備会社社長。
住む世界も、立場も、年齢も違うはずの男たちが、なぜかこの赤坂の薄暗い裏路地に全員揃って集結し、一人の人間を取り囲み、冷酷無比な処刑劇を執行していた。
パサリ。
静寂の中、紬の足元に、何かが落ちる乾いた音が響いた。
紬が探していたもの。
アスファルトの上に転がっていた、革紐のついた社員証ケース。
それは、確かにこの路地の地面に落ちていた。
しかし――そんなものは、もうどうでもよかった。
ボトッ。
紬の手から、持っていた文庫本の紙袋が滑り落ちた。
続いて、肩に掛けていたトートバッグが、重たい音を立ててアスファルトの泥水の上へと崩れ落ちた。
「…………っ」
息ができない。
心臓が、早鐘を打つことすら忘れ、鉛のように冷たく縮み上がっていく。
昨日の夜、自室のソファで抱いた小さな疑問。
屋上で茉莉花先輩から告げられた、『あんたの周りの男たち、あんたが息をする空気すらコントロールしようとしてる目よ』という忠告。
あの時、頭の片隅で「まさかそんなはずはない」と必死に否定しようとしていた最悪の仮説が。
今、この瞬間、目の前の網膜の上に、逃れようのない現実として叩きつけられていた。
優しい日常。
親切な人々。
自分を守ってくれていた温かな世界。
そのすべてが――
この男たちが、裏で暴力を振るい、人間を解体し、血と謀略によって作り上げていた、グロテスク極まりない【偽物の無菌室】だったのだという事実。
「あ……」
紬の喉から、震える呼気が漏れた。
涙が、視界を滲ませる。
恐怖。
裏切り。
混乱。
そして、己が信じてきた世界そのものが足元から崩壊していく、底知れぬ絶望。
紬の青ざめた唇が、震えながら、途切れ途切れの言葉を紡ぎ出した。
「みんな……」
夜の冷気を切り裂く、細く、頼りない声。
「みんな……何をしてるの……?」
◇
ドクンッッッッ!!!!
その瞬間。
路地裏にいた四人の怪物の全身に、落雷を頭頂部から直接撃ち込まれたかのような、凄まじい衝撃波が駆け抜けた。
「「「「…………ッッッッ!?」」」」
静止。
時間が、完全に止まった。
三島を組み伏せていた梶原の剛腕が、石化したように硬直した。
バインダーを持っていた鷹見の指先が、ピクリと痙攣して紙の束を握り潰した。
注射器を構えていた保科の腕が、空中でピタリと凍りつき、笑みの形に吊り上がっていた口角が、見る見るうちに血の気を失って引きつっていく。
パソコンを叩いていた成瀬のキーボードを打つ音が、ピタリと途絶えた。
カサリ。
冬の夜風が、アスファルトの上の落ち葉を一枚、カサカサと転がしていくだけの音。
誰も、息を吸うことすらできない。
四人の首が、まるで錆びついた歯車のように、ぎぎぎと軋みを上げながら、ゆっくりと路地の入り口へと向けられた。
街灯の薄暗い光の下。
バッグを足元に落とし、両手で自らの胸元を掻きむしるようにして、恐怖に震えながら立ち尽くしている一人の少女の姿。
槇原紬。
自分たちが心血を注ぎ、全知全能のリソースを投入して、世界で一番安全な無菌室の中に閉じ込めておきたかった、唯一無二の太陽。
その彼女が。
今、自分たちを、見つめていた。
見たこともないほど青ざめた顔で。
見たこともないほど絶望に染まった瞳で。
まるで――路地裏の暗がりで人を食い殺している、唾棄すべき化け物を見るような眼差しで。
「つ……」
鷹見征司の喉から、空気の抜けるような掠れ音が漏れた。
指先から、バインダーがハラハラと滑り落ち、泥水の上に落ちた。
「つ……む……ぎ……?」
保科貴文の手から、注射器がポロリと転がり落ち、アスファルトの上でパリンと乾いた音を立てて砕け散った。
梶原敦志は、弾かれたように三島から手を離し、自らの両手を信じられないものを見るように見つめて後ずさりした。
だが――もう、遅かった。
隠蔽も、偽装も、言い訳も、何一つ通用しない。
見られてしまったのだ。
自分たちが裏社会の処刑人のような冷酷な目で、一人の男を取り押さえ、人生を終わらせようとしていたその決定的な現場を。
完璧だったはずの『ヤンデレ不可侵条約』。
世界で一番過保護で、世界で一番安全だった無菌室のガラスの壁が――
今、耳を聾するような凄まじい音を立てて、木っ端微塵に砕け散った。
路地裏を支配する、死よりも重い沈黙。
少女と四人の男たちの視線が交錯するその中心で、偽りの平和の時代は、完全に終わりを告げたのだった。




