第50話:路地裏の処刑場
午後五時四十分。
赤坂の街は、完全に深い夜の闇へと沈み込んでいた。
オフィス街の谷間を吹き抜ける風は一段と鋭さを増し、吐く息は真っ白に凍りついていく。大通りでは無数の車のテールランプが真紅の河を作り、帰宅を急ぐビジネスパーソンたちの靴音がアスファルトに慌ただしく響き渡っていた。
その喧騒からわずかに外れた、雑居ビルの裏手。
大型書店『文教堂』の搬入口へと通じる薄暗い路地裏の物陰に、三島孝平は身を潜めていた。
肩で息をしながら、三島はポケットの中でカッターナイフのプラスチックの柄を指が痛くなるほど強く握りしめていた。
異常な道のりだった。
乗ろうとした電車は謎の安全点検で止まり、歩行者信号は不自然なほど長く赤のまま固定され、横断歩道には大型ミキサー車が突っ込んできて道を塞ぎ、立ち寄ったコンビニの店員からは職務質問まがいの異様な追及を受けた。
まるで、街全体が自分を拒絶し、行く手を阻もうとしているかのようだった。
だが――男の濁りきった執念は、そのすべての違和感を「自分の運の強さ」へと都合よく捻じ曲げていた。
(……巻いた。全部、振り切ってやったぞ……)
三島は荒い呼気を整えながら、路地の角からそろりと首を出した。
ビルの隙間から漏れ出る街灯の淡い光の先。
数十メートル先にある書店の自動ドアから、一人の女性が紙袋を提げて歩み出てくるのが見えた。
キャメル色の柔らかなウールコートに、アイボリーのマフラー。
歩くたびにふわりと揺れる毛先。
手元のスマートフォンをバッグにしまい、夜の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、微かに白い息を吐き出すその横顔。
――槇原紬だった。
五年前、大学の銀杏並木で自分に笑いかけてくれた、あの女。
自分を裏切り、警察に売り渡し、三年半もの間、冷たい鉄格子の雑居房に叩き込んだ元凶。
「……つ……む……ぎ……」
三島の喉の奥から、乾いた砂を噛むような掠れ声が漏れ出た。
全身の血液が、沸騰した泥水のように頭頂部へと逆流していく。
視界が真っ赤に染まる。
手に入れたのだ。ついに、この手で、復讐すべき獲物の姿を現実の網膜に捉えたのだ。
紬は手元の文庫本の入った紙袋を抱え直すと、大通りの人混みを避けるようにして、駅の連絡口へと続く薄暗い歩行者用の側道へと足を進めていた。
角を曲がれば、街灯の光が届かない死角。
人通りは途絶え、ビルとビルの間に挟まれた幅三メートルほどの狭い路地が、闇の奥へと続いている。
「見つけた……見つけたぞ、紬……!」
三島はカッターナイフの刃をカチカチと押し出した。
銀色に光る鋭利な刃先。
背後から近づき、首筋にこれを突きつけて路地の奥へ引きずり込んでやる。
怯えさせ、泣き叫ばせ、土下座させ、自分の足元に這いつくばらせてやる。
紬が角を曲がり、完全に死角へと足を踏み入れた。
今だ。
三島は獣のような笑みを顔面に張り付け、獲物の背中へ向けて、アスファルトを力任せに蹴り出した。
タッ――!
乾いた足音が、路地に響くはずだった。
その刃が、紬のコートの裾を捉えるはずだった。
――しかし。
三島の一歩目が、完全に地表に着地することはなかった。
◇
ゾッ。
それは、音ではなかった。
大気そのものが真空に吸い込まれたかのような、完全なる無音。
三島のすぐ背後の空間が、影そのものが質量を持って立ち上がったかのように、突如として歪んだ。
気配の察知すら許されない、神業の如きゼロ距離への侵入。
直後――
ガシィィィィィィッッッッ!!!!
「が……ッ!?」
三島の首元に、鋼鉄の万力よりも強靭な、極太の腕が巻き付いた。
頸動脈と気道を寸分の狂いもなく同時に閉塞させる、警視庁警護課(SP)極秘の無音制圧術――スリーパー・ホールド。
メキメキメキッ、と頚椎がきしむ不吉な音が鼓膜のすぐ傍で鳴り響いた。
「ぐ……っ、あ……が……っ!?」
肺の中の空気が一瞬で遮断され、声帯が押し潰される。
悲鳴すら、一ミリの空気の振動すら唇の外へ漏れ出ない。
三島は白目を剥き、もがき苦しみながら、右手に握っていたカッターナイフを背後へ向けて盲滅法に突き刺そうとした。
しかし――
パキィィィィンッ!
三島の右手首を、分厚いタクティカルグローブに包まれた巨大な手が、骨ごと圧砕するような勢いで鷲掴みにした。
激痛。神経を直接叩き折られたような衝撃に、三島の指先から力が完全に抜け落ちる。
ポロリと手から離れたカッターナイフが、アスファルトの地面に落ち、チャリンと虚しい音を立てて転がった。
「…………」
三島を背後から締め上げている男は、息一つ乱していなかった。
梶原敦志。
全身を夜の闇に溶け込む漆黒のタクティカルウェアに包み、彫刻のように研ぎ澄まされた無骨な横顔には、人間としての感情が完全に削ぎ落とされていた。
梶原は三島の身体を宙へ数センチ持ち上げたまま、音もなく後方へと引きずり、路地裏の最も深い建物の隙間へと運び込んだ。
そのわずか数メートル先。
角を曲がった歩道を、キャメル色のコートを着た槇原紬が、紙袋を手に軽やかな足取りで通り過ぎていく。
イヤホンから流れる音楽に軽く首を揺らしながら、彼女は何事もなかったかのように、夜の街へと歩み去っていった。
振り返ることもなく。
背後で自らの過去の元凶が、無音で屠られていたことなど、露ほども知らずに。
◇
ドサッ。
紬の足音が完全に遠ざかったのを見計らい、梶原は三島の身体をゴミ箱の脇のコンクリート床へと無造作に投げ捨てた。
「ゲホッ……! オエッ……! ゲホッ、ゴホッ……!!」
床に這いつくばった三島は、酸素を求めて激しく咳き込み、床に胃液を吐き散らした。
首筋には、梶原の腕がめり込んだ紫色の鬱血痕が、くっきりと刻まれている。
折れかけた右手首を押さえ、脂汗を滝のように流しながら、三島は恐怖に震える目で背後を見上げた。
「だ……誰だ……貴様……! 警察か……!?」
しかし、闇の中に直立する大男は、三島の問いかけに答えることすらしない。
ただ、死体を見下ろすような冷徹な眼差しで、直立不動のまま三島の退路を塞いでいた。
その時――
スルスルスル……。
エンジンの気配すら感じさせない極上の静粛性とともに、一台の漆黒のセンチュリー・ハイヤーが、路地裏の入り口へと音もなく滑り込んできた。
カチャリ。
白手袋の運転手――佐伯千冬が恭しく後部座席のドアを開ける。
車内から降り立ったのは、仕立ての良い漆黒のスリーピーススーツを隙なく着こなした男。
東証プライム上場・鷹見ホールディングス副社長――鷹見征司。
続いて、助手席側から降りてきたのは、濃紺のチェスターコートの下に純白のドクターコートの裾を覗かせた、銀縁眼鏡の青年。
南青山のセレブ専門クリニック院長――保科貴文。
二人の男は、舗装の悪い路地裏の泥を踏むことすら厭わぬ足取りで、ゆっくりと三島の前へと歩み寄ってきた。
コツ、コツ、コツ。
磨き抜かれた革靴の音が、三島の鼓膜を無慈悲に踏み躙る。
街灯の薄暗い逆光を背負った三つの影が、三島を見下ろすようにして立ち並んだ。
大財閥の若き総帥。
精神医療の権威。
そして、元警視庁SPの武闘派警備社長。
常人であれば、人生で一度たりとも同じ空間に揃うことのないはずの、社会的頂点に君臨する男たち。
その全員の瞳から――光彩という光彩が、完全に消滅していた。
ハイライトの一切ない、絶対零度の漆黒。
三島の背筋に、これまでに経験したことのない、骨の髄まで凍りつくような本能的恐怖が走った。
刑務所の凶悪犯たちですら、こんな目はしていなかった。
目の前にいるのは人間ではない。
自らの神域を犯した害虫を、分子レベルで消滅させることだけを目的に集結した、三匹の完全なる捕食者だった。
「ひ……っ!?」
三島は悲鳴を上げて後ずさりし、背中を雑居ビルの冷たいコンクリート壁に打ち付けた。
逃げ場はない。
路地の出口には梶原が立ち、眼前には鷹見と保科が立ちはだかっている。
沈黙を破ったのは、鷹見征司の、氷河の底から響くような声だった。
「――三島孝平」
鷹見は胸元から、分厚い革張りのバインダーを取り出した。
パラリとページがめくられる。
「年齢二十八歳。元都内私立大学文学部除籍。本日午前八時三十分、府中刑務所を満期出所」
鷹見はバインダーから視線を落とすこともなく、淡々と、裁判官が死刑判決文を読み上げるかのような平坦な口調で続けた。
「出所直後、立川駅前のネットカフェにおいて、保護観察対象者に対する情報端末の不正利用。
同日午後、特定個人――槇原紬に対する付きまとい、ならびに生活圏への接近行為。
そして今この瞬間、刃渡り八センチを超える大型刃物を所持した上での、夜間における待ち伏せおよび襲撃の現行犯」
バチンッ!!
鷹見がバインダーを激しく閉じた。その乾いた音が、路地裏に銃声のように響く。
「貴様の人生は、ここで終わりだ」
鷹見の瞳が、三島の喉笛を射抜いた。
「過去の執行猶予違反、ならびに今回の凶器準備集合罪、再犯の証拠はすべて揃っている。……すでに警視庁捜査一課、ならびに東京地検特捜部の直通ラインへ、貴様の犯行ログと映像データの全パケットが送信完了した」
「な……な、何なんだよお前らは……!?」
三島は泡を吹きながら叫んだ。
「俺が何をしたって言うんだ!? 俺はただ、あの女に一言文句を言いに来ただけだ! あいつが俺を騙したんだ! あいつが俺の人生を滅茶苦茶にしたんだよォォッ!!」
絶叫。
しかし――その身勝手な叫びを聞いた瞬間、保科貴文が、ゆっくりと銀縁眼鏡を外した。
眼鏡の奥の瞳。
普段はどんな重度の精神疾患患者をも包み込むような慈愛を湛えているはずのその眼差しに、ドス黒い、底知れぬ狂気の笑みが浮かび上がった。
「……ふふっ。あはははは!」
保科は喉を鳴らして笑いながら、一歩、三島の前へと屈み込んだ。
その距離、わずか数十センチ。
保科の白衣のポケットから、一本の太いガラスシリンダーが滑り出た。
光を反射して冷たく光る、長大な医療用注射針。
「ひぃっ……!?」
「文句、ですか」
保科の声は、優しく、甘く、そして致死量の毒を孕んでいた。
「紬ちゃんがあなたを騙した? 彼女が落とした学生証を拾ってくれただけの親切を、勝手に運命の愛だと妄想し、夜な夜な郵便受けを漁り、鍵穴を壊して部屋に侵入しようとした異常者が……よくもまあ、そんな被害者面ができるものですね」
保科は注射針のキャップを、カチリと音を立てて外した。
「あなたが彼女に植え付けたトラウマのせいで、彼女がどれほど苦しんだか……幼馴染である僕が、どれほど心を痛めて彼女のメンタルを支え続けてきたか……あなたのような下等生物に理解できるはずもありませんね」
保科は三島の首筋の鬱血痕を、冷たい指先でそっと撫でた。
ビクッと三島の身体が跳ね上がる。
「安心してください、三島さん」
保科の口角が、耳元まで裂けんばかりに吊り上がった。
「二度と彼女の視界に入れない医療刑務所への手配も、完了していますよ。僕の直筆による【極めて重篤な偏執病質、ならびに社会復帰不能な反社会性パーソナリティ障害に関する緊急措置鑑定書】が、すでに法務省矯正局のトップへ受理されています」
保科は三島の耳元へ顔を近づけ、囁くように宣告した。
「あなたはね、通常の刑務所には戻れません。外界から完全に隔絶された、窓のない精神医療特別病棟の独房で……毎日、強力な向精神薬を投与されながら、一生を終えることになるんです」
「な……!?」
「安心してください。二度と娑婆の土は踏めませんよ」
ドサァッ……!!
その言葉が落ちた瞬間。
三島孝平の股間から、生暖かい液体がじわりと広がり、アスファルトの地面を濡らした。
失禁。
人間の尊厳の完全な崩壊。
三島の両目は白目を剥き、顎はガタガタと打ち鳴らされ、声にならない悲鳴を喉の奥で詰まらせていた。
勝てない。
抗えない。
自分が手を出そうとした相手の背後にいたのは、一人の無力なOLなどではなかった。
自らの財力、知力、権力、そして暴力のすべてを注ぎ込み、一人の少女の日常を守るためだけに結託した、地上最悪の【四人の怪物】だったのだ。
「……連れて行け」
鷹見が背を向け、冷徹に手を振った。
路地の暗がりから、待機していた民間警備の黒服の男たちが数名、音もなく現れ、失禁して放心状態となった三島の両脇を抱え上げた。
パトカーのサイレンを鳴らすこともなく。
周囲に騒ぎを起こすこともなく。
三島孝平という存在は、まるで最初からこの世界に存在していなかったかのように、黒塗りのワンボックスカーの闇の中へと吸い込まれ、永遠に連れ去られていった。
◇
路地裏に、再び完全な静寂が戻った。
冬の夜風が、アスファルトの濡れた跡を急速に冷やしていく。
「……終わったな」
梶原敦志が、タクティカルグローブを外し、深く長い息を吐き出した。
「ええ」
保科が注射器をケースに収め、眼鏡をかけ直して微笑んだ。
「これで、紬ちゃんの過去の悪夢は、完全に地上から消滅しました。……二度と彼女が、あの男の影に怯えることはありません」
「うむ」
鷹見征司がネクタイの位置を正し、ハイヤーのドアへと手をかけた。
「我が不可侵条約の、完全なる勝利だ。……彼女に一切の恐怖を感じさせることなく、害虫の駆除を完遂した」
完璧だった。
成瀬の情報戦、鷹見の都市インフラ支配、梶原の無音制圧、そして保科の司法的・医学的引導。
すべてが秒単位の計算通りに噛み合い、紬の日常の毛先一本すら揺らすことなく、最大の脅威を完全に排除してみせたのだ。
男たちの顔に、達成感と安堵の笑みが戻る。
これでいい。
自分たちが裏でどれほど手を汚そうとも、彼女が明日もあの眩しい太陽のような笑顔で笑っていられるなら、それでいいのだ――。
男たちが、それぞれの日常へと戻るため、車へ乗り込もうとした――まさに、その刹那だった。
カツ、カツ、カツ。
静まり返った路地の入り口の角から。
凍てつく夜の空気を切り裂くように、軽やかで、澄んだ、あまりにも聞き覚えのあるヒールの足音が響いてきた。
「「「…………ッ!?」」」
男たちの動きが、一瞬にして、彫像のように完全静止した。
曲がり角の向こうから、風に乗って微かに届いたのは――
鈴を転がすような、愛らしく、そして困惑に満ちた、あの少女の独り言だった。
『あれ……? 嘘……社員証ケースがない……!? さっきの書店の前で落としちゃったのかな……?』
タッ、タッ、タッ、と小走りに戻ってくる足音。
男たちの全身から、瞬時にすべての血の気が引いていく。
完全な勝利。
完全な害虫駆除。
その完璧すぎた作戦の幕引きの、ほんのわずか数秒の狂いが生み出した、神の悪戯のような致命的な綻び。
暗がりの中で、四人の怪物は、息をすることすら忘れて硬直していたのだった。




