第49話:張り巡らされた蜘蛛の巣
十二月下旬、午後四時五十分。
冬の短い黄昏はあっという間に燃え尽き、東京の空は急速に冷たい藍色の闇へと沈み込んでいた。
赤坂見附の交差点。退勤を急ぐビジネスパーソンの群れと、夜のネオンに吸い寄せられる人々の波が、凍てつくビル風を切り裂きながら交差している。
その雑踏の片隅、地下鉄の階段から這い上がってきた三島孝平は、安物のダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、肩をすぼめて立ち止まった。
立川のネットカフェから電車を乗り継ぎ、ようやく辿り着いた赤坂の街。
手元のスマートフォンには、ネットカフェの掲示板からメモ帳アプリに転記した、唯一の手がかりが表示されていた。
『先月、赤坂駅の近くの大型書店で、文学部の槇原紬ちゃん見かけたよ』
『夕方頃、駅前の文教堂のライフスタイル雑誌コーナーで熱心に本を見てた』
「赤坂……文教堂……ライフスタイル雑誌コーナー……」
三島は乾いた唇の中で、呪文のようにその言葉を繰り返した。
ポケットの右手が、百円ショップで購入した大型カッターナイフのプラスチックの柄を、ねっとりと汗ばむほど強く握りしめる。刃をカチカチと一段だけ押し出すと、硬質な鋼の感触が指先を刺激し、濁りきった脳髄に歪んだ高揚感をもたらした。
三年半の獄中生活。
あの冷たい畳の上で、朝から晩まで復讐のことだけを考え続けてきた。
自分を裏切り、警察に売り渡し、前科者の烙印を押させた女。
自分を地獄に突き落としておきながら、自分だけは港区の洗練された街で、小綺麗な服を着て、のうのうと笑って生きている。
許せるはずがなかった。
(今度こそ、逃がさない……。俺の前に引きずり出して、土下座させてやる。俺の失われた年月を、お前の人生すべてを使って償わせてやる……!)
三島は充血した目をぎらつかせ、赤坂のメインストリートへと足を踏み出した。
目指す書店は、ここからわずか数百メートル先。歩いて五分もかからない距離にあるはずだった。
――しかし。
三島は、まだ知らなかったのだ。
この大都市・東京の地下と上空に張り巡らされた、目に見えない無数の光ファイバーと監視カメラの網。
そのすべてが、今この瞬間、たった一人の侵入者をすり潰すために、冷酷な意思を持って稼働し始めていたことを。
◇
最初の異変は、三島が赤坂へ向かう途中の地下鉄の中で、すでに起きていた。
午後四時十五分、四ツ谷駅。
三島が丸ノ内線のホームで、赤坂見附方面へ向かう電車に乗り込もうとした、まさにその瞬間だった。
ピンポンパンポン――。
けたたましい駅構内の自動放送が、ホームのスピーカーから炸裂した。
『お客様にお知らせいたします。ただいま、前方を走行中の列車におきまして、線路内の安全確認を行っております。このため、全線で運転を一時見合わせております』
プシュー、とドアが三島の目の前で、鼻先数センチの位置で冷酷に閉ざされた。
「……は?」
三島は思わずドアガラスに両手をついた。
車内には乗客が満員に詰まっている。それなのに、自分の目の前のドアだけが、まるで三島の乗車を拒絶するかのように閉まり、発車予告ベルが鳴り止まない。
安全確認? こんな夕方のラッシュ直前の過密ダイヤで?
アナウンスはさらに続いた。
『運転再開の見込みは立っておりません。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけいたしますが、他社線への振替輸送をご利用ください』
ホームにいた乗客たちから、一斉に苛立たしい溜息が漏れ、階段へと人の波が逆流し始めた。
三島は舌打ちを炸裂させ、人混みに押されながら階段を駆け上がった。
「くそっ、なんだよ! あと一駅なのに!」
仕方なく、三島は強烈な寒風が吹きすさぶ地上へ出て、徒歩で赤坂方面へと向かうルートを選ばざるを得なくなった。
――三島は知る由もなかった。
その時、東京メトロの運行指令センターの主幹コンソールに、鷹見ホールディングス法務部および安全管理対策室から『軌道内異常センサー誤作動に伴う緊急停止要請(※グループ保有の鉄道設備点検特権の行使)』という最高優先度の公的コードが電送されていたことなど。
そして、その電送プログラムを裏で走らせた成瀬郁が、三島の乗車をピンポイントで阻止するために、四ツ谷駅の自動改札の通過ログと顔認証カメラをミリ秒単位で同期させていたことなど。
◇
そして、地上へ出た三島を待っていたのは、さらに常軌を逸した「都市の拒絶」だった。
外堀通りから赤坂の繁華街へと抜ける、片側二車線の大通り。
夕方の冷たい風に吹かれながら、三島は歩道を進み、大型書店の入るビルへと渡るための横断歩道へと差し掛かった。
歩行者用信号機。
表示されているのは、赤色の人形のマーク。
「チッ、赤かよ……」
三島はポケットの中でカッターナイフを弄びながら、信号の角で立ち止まった。
車道には、ひっきりなしにタクシーやトラックが通り過ぎていく。
十秒。二十秒。三十秒。
一分が経過した。
しかし――信号は、青に変わらなかった。
「……おい、遅くねえか?」
三島は眉をひそめ、頭上の歩行者信号を見上げた。
交差する車道の車列は、とっくに途切れている。左右の道路には一台の車も走っておらず、アスファルトの上は完全に閑散としている。
それなのに、歩行者用信号は、意地でも三島を通さないとばかりに、赤色を灯し続けていた。
周囲を見渡すと、不思議なことに、この横断歩道の前には三島以外の歩行者が一人もいなかった。さっきまで前を歩いていたサラリーマンやOLたちは、なぜか手前の路地を曲がっていったり、地下通路へと降りていったりして、誰一人としてこの交差点に近づいてこない。
二分。三分。
真冬のビル風が、三島の薄いダウンジャケットを容赦なく叩き、痩せた身体の熱を奪っていく。
「ふざけんなよ……! なんで変わらないんだよ!!」
三島が痺れを切らし、赤信号を無視して車道へ一歩足を踏み出そうとした、その刹那だった。
ファァァァァァァァァンッッッッ!!!!
けたたましいホーンの爆音が耳を聾した。
横合いの路地から、巨大な大型生コンクリートミキサー車が、轟音とともに猛スピードで飛び出してきたのだ。
「うわっ!?」
三島は悲鳴を上げて歩道へ飛び退いた。
巨大なタイヤがアスファルトの泥水を跳ね上げ、三島のズボンの裾をびしょ濡れにして通過していく。
直後、ミキサー車は横断歩道の真ん中でハザードランプを点滅させ、プシューッという重いエアブレーキの音とともに、完全に停車してしまった。
『プシュー……プシュー……』
車道が完全に塞がれた。
運転席の作業員が降りてくる気配はなく、ただ巨大なドラムが重々しく回転し続けている。
「な……んだよ、これ……!?」
三島は後ずさりし、震える手で顔を覆った。
偶然にしては、あまりにも出来過ぎている。
自分が渡ろうとした瞬間に、赤信号が異常に長く固定され、飛び出そうとした瞬間に大型車両が突っ込んできて道を塞ぐ。
――それもまた、偶然などではなかった。
警視庁交通管制センターの光ファイバー網の深淵。
成瀬郁が組み上げた自作スクリプトが、赤坂三丁目交差点の交通信号制御機のローカル基板を完全にオーバーライドしていたのだ。
三島が立つ側の歩行者感知センサーの入力値をゼロに固定し、車道側の青信号タイマーを無限ループに設定。さらに、鷹見グループの建設部門が手配した生コン車に『緊急安全点検』の指示を飛ばし、物理的に横断歩道を封鎖させた。
すべては、三島を直進させず、男たちが意図した「特定の迂回路」へと誘導するためだけに。
「……ちくしょう、迂回だ、迂回……!」
三島は悪態をつき、大型車両を避けるようにして、路地裏の側道へと足を向けた。
◇
午後五時十分。
身体の芯まで冷え切った三島は、喉の渇きと寒さに耐えかねて、路地の角にあったコンビニエンスストアへと逃げ込んだ。
自動ドアがウィーンと開く。
温かい店内の空気が肌を包み込み、三島は小さく安堵の息を漏らした。
書店へ向かう前に、温かい缶コーヒーでも飲んで人心地つきたい。ついでにトイレを借りて、ポケットのカッターナイフの刃の調子を確認しておこう――。
そう思って、三島がホット飲料の加温棚へ向かって歩き出した、まさにその瞬間だった。
「――いらっしゃいませ」
突如として、背後から、低く鋭い男の声が耳朶を打った。
三島がビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには、コンビニの青と白のストライプのエプロンを着た店員が立っていた。
しかし――その店員の風貌は、一般的なアルバイトのそれとは根本から異なっていた。
年齢は三十代前半。短く刈り込まれた髪、無駄な贅肉の一切ない鋼のような体躯。エプロンの上からでも分かる胸筋の厚みと、微動だにせず三島の急所を射抜くような、底知れぬ冷たい眼光。
梶原敦志が経営する要人警護会社『アージス・セキュリティ』から派遣された、完全偽装の潜入実力部隊員だった。
「……あ?」
三島が怪訝そうに眉をひそめると、店員は音もなく三島の前へ一歩踏み出し、逃げ道を塞ぐように間合いを詰めてきた。
「お客様。何かお探しでしょうか」
「いや……別に。コーヒー買おうと思って……」
「そうですか」
店員は感情を一切排したトーンで、しかし有無を言わせぬ圧迫感をもって告げた。
「当店では、防犯上の観点から、店内におけるポケット内への長時間の両手の挿入、ならびに挙動不審な徘徊行為は固くお断りしております」
「は……? 徘徊って、入ってきたばかりだろ!」
「また」
店員は三島の反論を完全に無視し、一歩、さらに間合いを詰めた。
その距離、わずか五十センチ。
店員の右手は、エプロンの下、腰のホルスターに収められたタクティカル警棒のグリップへと自然にかかっていた。
「お客様の所持品から、金属製刃物特有の微細な摩擦音が感知されております。他のお客様の安全管理、ならびに店舗の平穏維持のため、速やかなご退店、あるいは所持品検査への任意のご協力を要請いたします」
「な……っ!?」
三島の全身から、一瞬で血の気が引いた。
なぜだ。
なぜポケットの中のカッターナイフの存在を知っている?
なぜ、ただ入店しただけの客に対して、警察官の職務質問以上の殺気配りの追及をしてくるんだ!?
「な、なんだよこの店……! 客を犯罪者扱いしやがって! もういいよ、出ていくよ!!」
三島はパニックに陥り、商品を手に取ることもなく、逃げるように自動ドアを突き抜けて外へ飛び出した。
背後で、店員がインカムに小さく呟く声が、冷たい風に乗って微かに届いた。
『……対象、店舗より離脱。予定ルートの裏路地へ進入しました』
◇
「ハァッ……! ハァッ……! ハァッ……!」
冬の夜風が吹き抜ける薄暗いアスファルトの上を、三島は無我夢中で駆け抜けていた。
心臓が破裂しそうなほど激しく早鐘を打っている。
冷や汗が背筋を伝い落ち、指先は寒さと恐怖で痙攣していた。
「なんだこの街は……!?」
三島は街灯の薄暗い光の下で立ち止まり、荒い息を吐きながら叫んだ。
「なんであいつに近づけないんだ!? なんで電車が止まって、信号が赤のままで、トラックが突っ込んできて、コンビニの店員まで絡んでくるんだよ!!」
異常だ。
狂っている。
まるで、この赤坂という街全体が、一つの巨大な意志を持った生命体のように、自分という異物を拒絶し、排除し、追いつめているかのようだった。
どこへ行っても赤信号。
どこへ行っても通行止め。
どこへ行っても冷たい視線。
だが――
三島は、ふと前方の暗がりを見つめた。
ビルとビルの谷間。街灯の光が届かず、人通りが完全に途絶えた、一本の細く薄暗い裏路地。
その路地の奥、わずか百メートル先の角を曲がった場所に――
目指す大型書店『文教堂』の搬入口と、煌々と明かりを灯すガラス張りのライフスタイル雑誌コーナーが、まるで闇の中のオアシスのように、くっきりと視界に飛び込んできたのだ。
「……あ」
三島の口元に、乾いた笑みが戻ってきた。
「行ける……」
大通りは封鎖されている。信号も渡れない。
だが――この薄暗い裏路地だけは、なぜか何の障害物もなく、一本の滑走路のように、書店の裏手へとまっすぐに伸びていた。
「行けるぞ……! この裏道なら、誰にも邪魔されずにあそこへ行ける……!」
三島はポケットのカッターナイフを再び強く握りしめた。
自分が今、獲物を追う狩人であると信じ込んで。
自らが選んだその「唯一の抜け道」こそが――四人の怪物が緻密に計算し、都市機能を総動員して追い立てた、逃げ場のない【最終処刑場】であることなど、夢にも思わずに。
三島孝平は、歓喜の笑みを浮かべながら、闇の深淵へと足を踏み入れていった。
◇
同時刻、午後五時二十分。
赤坂・本社ビル十階、『Lumiere』編集部の奥に位置する第一会議室。
厚手の防音ガラスで覆われ、外の街の喧騒もサイレンの音も一切届かない静謐な空間で、槇原紬はノートパソコンの画面に向かって、笑顔でマイクに語りかけていた。
「――はい! 日本のエシカルコスメの最新トレンドについて、読者アンケートのデータをもとにご説明させていただきますね!」
画面の向こうには、パリとニューヨークの提携メディアの編集者たちの顔。
紬の隣には、先輩デスクの関茉莉花が腕を組んでどっしりと腰掛け、手元のストップウォッチでインタビューの進行時間を完璧にコントロールしていた。
茉莉花の足元、机の下のバッグの中では、紬から預かったスマートフォンが、機内モードに設定されたまま静かに眠っている。
そして、会議室のドアの外。
十階のエレベーターホールでは、佐伯千冬がタブレット端末を手に、すべてのカゴの運行を「整備中」として停止させ、紬の退路を完璧にブロックしていた。
無菌室の最も深い場所で、守られる少女。
そして、その真下の路地裏で、無音の引導を渡すべく集結した四人の怪物たち。
すべての役者が揃った。




