第48話:女性陣の団結
冬至を過ぎたばかりの十二月下旬、午後三時。
東京の空は、西の地平線から急速に橙色と紫色のグラデーションを濃くし、冷え切ったビル風が街路樹の細い枝を激しく軋ませていた。
港区の閑静な住宅街、緩やかな坂道の途中に佇むデザイナーズマンション。
その一階、アンティーク調の木製フレームと大きなガラス窓が目を引くブックカフェ『月白』のドアノブに、小さな木製の札が掛けられた。
『CLOSED――本日貸切営業』
カチャリ、と真鍮の鍵が内側から静かに回される。
店内には、焙煎されたばかりの深煎り珈琲の芳醇な薫りと、古書特有の乾いたインクの匂いが心地よく漂っていた。天井のペンダントライトは温かな琥珀色の光を落とし、壁一面の本棚に並ぶ背表紙を優しく照らし出している。
普段なら近隣の住人や読書好きの常連客で静かに賑わうこの空間から、客の気配は完全に消え去っていた。
「……みなさん、お待たせしたわね。奥の部屋へどうぞ」
カウンターの中から声をかけたのは、店主の及川志乃だった。
四十二歳。藍染めのシンプルなエプロンを身に纏い、肩先で束ねた艶やかな黒髪には大人の落ち着きが滲み出ている。その慈愛に満ちた眼差しは、日頃からマンションの住人たちを温かく見守る「街の緩衝地帯」そのものだった。
志乃が案内したのは、店舗の最奥、重厚な本棚に囲まれたプライベートな小部屋だった。普段は志乃が仕入れの伝票整理や読書に使う、外界の視線が一切届かない隠れ家のような空間。
無垢材の丸テーブルを取り囲むように、三つの影がすでに腰を下ろしていた。
上座に座るのは、深紅のシルクブラウスにチャコールグレーのチェスターコートを羽織った、日下部莉緒。膝の上で組まれた細い脚と、手元に置かれた黒革の手帳が、鋭い知性を放っている。
その隣には、黒のタートルネックに身を包み、腕を組んで険しい表情を浮かべる関茉莉花。『Lumiere』のデスクとして、常に現場の最前線でトラブルを捌いてきた女の、頼もしくも引き締まった横顔。
そして対面には、寸分の乱れもない濃紺のパンツスーツを着こなし、眼鏡の奥から冷徹な光を放つ鷹見副社長専属秘書――佐伯千冬。
外資系コスメブランドの敏腕PR。
気鋭のWEBメディアの現場デスク。
巨大財閥総帥の右腕を務める超一流秘書。
そして、全てを包み込むブックカフェの店主。
本来であれば、どのようなビジネスの場であっても一堂に会することなどあり得ない、まったく異なる世界を生きる四人の女性たち。
彼女たちを引き合わせた理由は、ただ一つしかなかった。
「……温かいハーブティーを淹れてきたわ。カモミールとリンデン、それに少しだけローズヒップ。身体を芯から温めて、張り詰めた神経を緩めてくれるブレンドよ」
志乃が、湯気を立てる四つの陶器のカップをテーブルへ静かに配った。
透き通るような淡い黄金色の液体から、甘く優しい野花の香りがふわりと立ち上る。
「ありがとう、志乃さん」
莉緒がカップを両手で包み込み、短く息を吹きかけた。
そして――一口含むと、莉緒は背筋をスッと伸ばし、テーブルを囲む女性たちの顔を順に見渡した。
その瞳から、普段の社交界で見せる華やかな笑みは完全に消え失せていた。
「集まってくれてありがとう。……急な呼び出しでごめんなさいね」
「いいえ。私も副社長室のスケジュールをすべてブロックして参りました」千冬が眼鏡の位置を直す。
「私も、編集部の進行を完璧に前倒しして抜けてきたわ」茉莉花が低く応じる。
張り詰めた空気。
莉緒は手元の黒革の手帳を開き、テーブルの中央へと滑らせた。
そこに記されていたのは、今朝、莉緒が独自のルートで入手した、ある男の公的情報と顔写真だった。
「単刀直入に本題に入るわ」
莉緒の声は、氷のように研ぎ澄まされていた。
「今朝午前八時三十分――三島孝平が、府中刑務所を満期出所したわ」
「…………っ」
茉莉花の息が、喉の奥で詰まった。
千冬の眉間がピクリと跳ね上がり、志乃の瞳に深い哀しみの影が差す。
三島孝平。
五年前、大学時代の槇原紬を執拗に追い詰め、自宅の鍵をピッキングして侵入しようとし、現行犯逮捕された元ストーカー。
紬に人間不信寸前のトラウマを植え付け、彼女が今なお暗闇や閉所を恐れる原因となった、最悪の元凶。
「……出所したのね、あの男が」
茉莉花が、マグカップを持つ指先をギリリと握りしめた。
「ええ」莉緒が頷く。
「刑期は三年六ヶ月。あいつは服役中も一切の反省を見せず、自分の人生が狂ったのは紬のせいだと思い込んで逆恨みを募らせていたわ。そして今朝、出所した足で真っ先にネットカフェへ飛び込み、紬の現在の居場所を血眼になって検索している」
「……あいつら男四人は、どう動いているのですか」
千冬が、抑揚のない事務的な声で尋ねた。
「当然、動いてるわよ」
莉緒は冷笑を浮かべ、手帳をトントンと指先で叩いた。
「成瀬が三島の端末をリアルタイムでハッキングして、ネット上の紬の情報を完全に遮断。鷹見副社長の資本力で赤坂の街頭防犯カメラと信号機を掌握し、保科が精神鑑定による緊急措置入院の書類を用意し、梶原が路地裏に実力部隊を潜ませているわ。……偽の目撃情報をネットに流して、三島を赤坂の駅前書店へ誘い込み、無音で制圧する作戦よ」
「……完璧な布陣ね」茉莉花が眉をひそめる。
「ええ、男たちの手腕は完璧よ。軍隊も顔負けのピタゴラスイッチだわ」
莉緒の瞳が、スッと細められた。
「でもね……だからこそ、男たちだけに任せておくわけにはいかないのよ」
◇
莉緒の言葉に、小部屋の空気が一段と張り詰めた。
「……どういうことかしら、莉緒ちゃん」志乃が静かに問いかける。
「男たちの盲点よ」
莉緒は身を乗り出し、机の上に両肘をついて言った。
「あいつら四人はね、頭が良すぎて、権力も武力も持ちすぎている。そして何より――紬に対する執着が異常すぎて、全員の目が狂気で濁っているのよ。自分たちの立てた完璧なチェス盤の上で害虫をすり潰すことに夢中になるあまり……【紬自身の心の些細な揺らぎ】に対する配慮が、完全に抜け落ちているわ」
「激しく同意するわ」
茉莉花が深く溜息をつき、吐き捨てるように言った。
「今日の昼休み、紬を屋上に連れ出して話を聞いたのよ。あの子……もう限界寸前だったわ。『見えない壁に囲まれてる気がする』『息苦しくて怖い』って、震えながら泣きそうになってたのよ」
「「…………」」
千冬と志乃が、息を呑む。
「紬はね、お人形じゃないのよ」茉莉花の声に怒りが混ざる。
「男たちがどれほど完璧に街をコントロールして、三島を路地裏で無音で制圧しようと……もし万が一、紬があの男の姿を一目でも視界に入れたらどうなるの!? もし万が一、男たちが冷酷な顔で人を痛めつけている現場を目撃してしまったらどうなるの!? あの子の心は、二度と元には戻らないわよ!!」
「その通りです」
静かに口を開いたのは、佐伯千冬だった。
千冬は眼鏡を外し、目頭を指先で強く押さえた。
「副社長たちは『彼女に一切気付かせずに完全消滅させる』と豪語しておりますが……人間の行動に『絶対』など存在しません。三島が想定外の路地へ逃げ込む可能性、紬様が何らかの気まぐれで外へ出てしまう可能性……そうした現場の偶発的なファクターを、あの方々は己の全能感ゆえに見落としています」
千冬は眼鏡をかけ直し、冷徹な瞳で三人を見据えた。
「男たちの目的は『害虫の駆除』と『自己満足の防衛』に偏りすぎています。……ですが、私たちが成し遂げねばならない真の目的は、ただ一つ。【槇原紬の心と笑顔を、一ミリの傷もつけずに守り抜くこと】です」
「ええ」
志乃が、深く、優しく頷いた。
「あの子はね、痛みにとても敏感な子よ。どんなに辛くても笑顔を作ってしまうから、周りは平気だと思いがちだけど……一度ついた心の傷は、何年経っても消えないわ。……あの子をもう二度と、あんな暗い場所に落とさせるわけにはいかない」
四人の視線が、テーブルの中央でピタリと重なり合った。
男たちの結んだ「不可侵条約」が、独占欲と恐怖から生まれた冷徹なゲーム理論の産物であるならば。
今、この小さなカフェの奥で結ばれようとしている連帯は――純粋な愛情と共感から生まれた、真の【シスターフッド】だった。
「決まりね」
莉緒が手帳をパチンと閉じた。
「男たちの作戦は利用する。あいつらに三島を捕まえさせるのは構わないわ。……でも、その外側に、私たち女性陣による【絶対的な二重の防壁】を敷く。それぞれの持ち場で、完璧に動くわよ」
◇
具体的な役割分担の協議が始まった。
口火を切ったのは、佐伯千冬だった。
「まず、社内の動線管理につきましては、私が全責任を引き受けます」
千冬は手帳にペンを走らせながら、淀みなく語った。
「副社長は現在、自室から成瀬さんの画面を監視することに没頭していらっしゃいます。つまり、社内の細かな実務管理は完全に私の裁量下にあります。……本日十七時以降、編集部フロアのある十階から一階へ通じる全エレベーターの運行スケジュールを、私が遠隔で制御いたします。万が一にも、紬様が外へ出ようとする兆候があれば、直ちに社内システムのアナウンスを用いて足止めをかけます」
「頼もしいわね」莉緒が頷く。
「さらに」千冬は言葉を重ねた。
「副社長が興奮のあまり、警察権力や法務部を暴走させて街中で派手な騒ぎを起こさぬよう、私が常に副社長室の通信ラインに割り込み、手綱を引きます。『スマートな解決』を装わせることで、紬様の生活圏に警察車両やサイレンの音が一切響かないよう、徹底的に圧力をかけます」
「完璧よ、千冬さん」
続いて、関茉莉花が身を乗り出した。
「現場の紬のガードは、私の仕事ね」
茉莉花は腕をまくり、決意に満ちた目で言った。
「今日の午後、紬には十七時から海外のトレンドメディアとのオンライン特別取材を入れてあるわ。場所は十階の奥にある、窓のない完全防音の第一会議室。取材が終わる予定は十九時半よ。……その間、私が一秒たりとも離れずに紬の隣に張り付くわ」
「外の様子は見えないのね?」志乃が確認する。
「ええ。防音ガラスだから外のサイレンも喧騒も一切聞こえないし、スマホの通知も『取材に集中するため』という名目で、私が預かって機内モードにさせるわ。……もし取材が早く終わろうとしたら、私が追加のインタビューを無理やり引き伸ばして、三島の処理が完全に終わるまで、絶対に紬をオフィスから一歩も外に出させない」
「よし、社内は鉄壁ね」
莉緒がペンを走らせる。そして、自らの役割について切り出した。
「私は――三島の動線の【裏取り】を叩くわ」
「裏取り?」茉莉花が眉をひそめる。
「ええ」
莉緒の瞳に、夜の港区を渡り歩いてきたプロフェッショナルの鋭い光が宿る。
「成瀬のハッキングは神業だけど、あの子は所詮、画面の中のデジタル情報しか見ていないのよ。……三島のような追い詰められた人間の心理は、時にデジタルの予測を飛び越えて、泥臭いアナログの行動に出るわ」
莉緒はスマートフォンを取り出し、画面をスクロールした。
「外資系コスメのPRをやってるとね、夜の六本木や新宿の歓楽街、雑居ビルのオーナー、果ては裏社会の便利屋紛いの人間とも嫌でもパイプができるのよ。……すでに立川から赤坂に至るルートのネットカフェ、安宿、金券ショップのネットワークに私のツテで網を張らせてあるわ。三島が電車を使わずにタクシーに乗ったか、途中で刃物を買い足したか、誰かと接触したか……成瀬のカメラの死角になる部分を、人間の目で完全に追尾させる」
「さすがね、莉緒ちゃん」志乃が感嘆の声を漏らす。
「男たちのピタゴラスイッチが狂った時、一番最初に異変に気付けるのは私よ。何かあったら、即座に千冬さんと茉莉花に直電を入れるわ」
そして――最後に、全員の視線が及川志乃へと集まった。
「志乃さん。……紬の帰る場所を、お願いできるかしら」
莉緒の問いかけに、志乃は優しく、しかし揺るぎない覚悟を込めて微笑んだ。
「ええ、任せてちょうだい」
志乃は立ち上がり、プライベートスペースの小窓から、静まり返ったマンションのエントランスホールを見下ろした。
「ここはあの子の帰る家よ。仕事で疲れて、冷たい夜風に吹かれて帰ってきたあの子が、最初に『ただいま』を言う場所なの。……隣人の梶原さんが夜な夜な屋上や配管を点検して、怪しく張り付いているのは知っているけれど……あんな物々しい男たちの気配だけじゃ、あの子は安心できないわ」
志乃はエプロンの紐をキュッと締め直した。
「今夜は、このカフェのテラス席とエントランスに私がずっと立つわ。温かいスープの仕込みをしながら、街灯の届かない路地の隅々まで目を光らせておく。……もし万が一、あの男がこのマンションの敷地内に一歩でも足を踏み入れようとしたら、私がこの手で警察を呼んで、ほうきで叩き出してやるわ」
「ふふ、志乃さん、頼もしすぎるわ」
茉莉花が思わず吹き出し、小部屋の空気がふっと和らいだ。
◇
社内の動線を支配する、佐伯千冬。
現場で紬に寄り添い、盾となる、関茉莉花。
街の死角を人間の目で塞ぐ、日下部莉緒。
そして、帰るべき家を温もりで守り抜く、及川志乃。
四人の女性たちが結んだ、無言の誓い。
それは、権力やテクノロジーで相手をねじ伏せるための暴力ではない。
ただ一人の、真面目で努力家で、不器用なほど優しい少女が――明日も、明後日も、何の恐怖も感じずに、心からの笑顔で朝を迎えられるようにするための、純粋な愛の防波堤だった。
「……冷めちゃうわね。ハーブティーをいただきましょう」
志乃の声に、三人がカップを持ち上げた。
カチン、と陶器の触れ合う柔らかな音が、静かな個室に小さく響いた。
温かなハーブの香りが、四人の喉を潤し、全身の血流を力強く巡らせていく。
「あの子を、絶対に泣かせないわよ」
莉緒が呟いたその一言に、全員が力強く頷いた。
「ええ。あの子の笑顔は、私たちの宝物ですから」千冬が微笑む。
「絶対に守り通すわよ」茉莉花が拳を握る。
「おかえりなさいって、温かく迎えてあげましょ」志乃が微笑む。
狂気的な男たちによる水面下の罠。
そして、その外側を完璧に包み込む、女性たちの鉄壁のシスターフッド。
二重の防壁が完成したその頃。
中央線の快速電車に揺られ、ポケットのナイフを握りしめながら赤坂へと向かっていた三島孝平は――
自らが、この街全体に張り巡らされた「二重の蜘蛛の巣」の心臓部へ、自ら飛び込もうとしていることなど、夢にも思っていなかったのである。




