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私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


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第47話:情報戦の先手

薄暗いブースの壁に、蛍光灯の青白い光がチカチカと不規則に明滅していた。


立川駅北口の雑居ビル地下にあるインターネットカフェ。煙草のヤニと湿ったカーペットの匂いが染み付いた一畳半の空間で、三島孝平は爪を噛みながら、血走った眼でディスプレイを睨みつけていた。


カチ、カチ、カチ……。


マウスホイールを回転させる人差し指が、苛立ちのあまり痙攣している。


「……おかしい。何なんだ、これは……」


出所してからすでに三時間が経過していた。


三島の手元には、刑務所の雑居房で記憶の底からノートの切れ端に書き殴った、槇原紬に関するあらゆる情報が並んでいた。


生年月日、出身高校、大学の学部と専攻、所属していた文学サークル、大学時代に親しかった友人の名前、当時通っていた美容室のエリア、そしてかつて紬が利用していたSNSのアカウントID。


普通なら、このデジタル社会において、これだけの固有情報があれば人間の現在地を特定することなど造作もないはずだった。実名でなくとも、同級生の交友関係を辿り、結婚報告や就職先の話題、あるいは共通の知人の写真のタグ付けから、現在の生活圏や勤務先を割り出す足がかりはいくらでも見つかる。


ところが――


「出ない……何ひとつ、引っかからない……!」


三島は歯ぎしりをした。


紬の過去のSNSアカウントは、すべて完全に削除されていた。それどころか、大学時代のサークルの公式ブログに残されていたはずの集合写真からも、紬の姿だけが不自然に切り取られているか、あるいは高精度のモザイク処理が施されていた。


ウェブ魚拓やキャッシュサーバーを漁っても、「該当のページは削除されました」という冷たいエラーメッセージが返ってくるばかり。


さらに不気味なのは、かつて紬と親しかった大学時代の友人たちのアカウントだった。


三島がネットカフェの仮設フリーメールを使って裏アカウントを作成し、同窓生らしき人物へ「突然すみません、大学時代に槇原紬さんと一緒だった者ですが、連絡先をご存知ないですか」とダイレクトメッセージを送信した瞬間――


画面がフリーズし、即座に【アカウント凍結:利用規約違反を検知しました】という警告が表示されたのだ。


一度ではない。二度、三度と別のアカウントを作って試しても、紬の名前を含んだメッセージを送信した途端、コンマ数秒でアカウントが強制停止される。


「くそっ……! 何なんだよこれ! どうなってんだ!?」


三島は机を拳で殴りつけた。


まるで、この情報空間そのものが、槇原紬という個人の痕跡を外敵から守るために、強固な鋼鉄の装甲を張り巡らせているかのようだった。


「どこにいる……槇原紬……。お前が俺の人生を奪ったくせに……どこで平気な顔をして生きてるんだ……!」


ディスプレイに映る自らのやつれ果てた顔を見つめ、三島は怨嗟の呻きを漏らした。


その男の頭上、ネットカフェのブースの角に設置された監視カメラのレンズが、微かに、ミリ単位の角度で三島の顔面を正確に捉えていたことなど、彼は知る由もなかった。


◇


同時刻、午前十一時。


六本木『ザ・クラウンタワー東京』最上階、プレジデンシャル・スイート。


昼間の陽光がパノラマウィンドウから豊かに降り注いでいるにもかかわらず、部屋の空気は冷え切っていた。


壁面のマルチモニターの中央には、立川のネットカフェで頭を抱える三島の姿が、高精細なフルHD映像でリアルタイム中継されていた。画面の脇には、三島が打鍵したキーログ、閲覧したウェブページのURL、そして彼が送信しようとして弾かれたメッセージの全文が、緑色のコードとなって整然と並んでいる。


「……無駄骨をご苦労さま、だね」


リクライニングチェアに深く腰掛けた成瀬郁が、冷徹な嘲笑を唇に浮かべた。


その指先は、特注のメカニカルキーボードの上を滑らかに遊んでいる。


「僕が三年前から構築した【パーソナル・スクラビング・プロトコル】を舐めすぎだよ。紬さんの戸籍、住民票、学籍データ、SNSの過去ログ、友人たちの交友関係のメタデータに至るまで、公的機関と主要プラットフォームの全サーバーにフィルターを噛ませてある。ネット上から『槇原紬』の現在を特定できる文字列は、一文字たりとも外部に流出しない」


「見事な手際だ、成瀬」


ラウンドテーブルの上座で、アイスコーヒーのグラスに手を添えていた鷹見征司が、低く言った。


仕立てのいい濃紺のスリーピーススーツ。その胸ポケットには、いつものようにプラチナのネクタイピンが光っている。しかし、その双眸の奥に宿る光は、東証プライム市場の総帥としての威厳を遥かに超え、絶対的な領域支配者の冷徹さを湛えていた。


「これで、あの男が独力で彼女の生活圏に辿り着く可能性はゼロになった」


「ええ。ですが……問題はここからです」


白衣を脱ぎ、端正なチャコールグレーのカーディガンを羽織った保科貴文が、手元のタブレットから視線を上げた。


銀縁眼鏡の奥、精神医療の権威としての鋭敏な観察眼が光る。


「三島孝平の現在の心理状態をプロファイリングしました。……焦燥、被害妄想の悪化、そして極度の認知の狭窄。手がかりが見つからないことで、彼の執着は薄れるどころか、より攻撃的で盲目的な方向へ先鋭化しています。このまま放置すれば、彼は過去の記憶だけを頼りに、紬ちゃんの旧居や大学の周辺など、現実の空間を足で歩き回って無差別に嗅ぎ回り始めるでしょう」


「……足を使わせるわけにはいかん」


部屋の壁際に仁王立ちしていた梶原敦志が、腕を組んだまま重厚なバリトンボイスを響かせた。


左手首には、数日前の傷を覆う黒いリストバンド。その上から引き締められたタクティカルグローブが、微かに軋む。


「街頭を徘徊されれば、いくら監視カメラを掌握していようと、不測の接触事故が発生するリスクを完全には排除できん。……あの男の行動半径を、こちらの予測可能な範囲に縛り付ける必要がある」


梶原の言葉に、鷹見が小さく頷いた。


「その通りだ。……だが、作戦の前提を再確認するぞ」


鷹見はラウンドテーブルに両手をつき、三人の男たちを順に見渡した。


「今回のミッションにおける絶対ルール。それは――【警察を介さず、紬に一切の不安や恐怖を感じさせないこと】だ」


室内に、重い沈黙が落ちた。


世間一般の常識で考えれば、出所したストーカーが再び獲物を探して動いているのなら、直ちに警察へ通報し、接近禁止命令や保護措置を求めるのが正規の手続きであるはずだ。


しかし――その「正攻法」こそが、この四人にとっては最も受け入れがたい最悪の選択肢だった。


「……警察に被害届を出せばどうなるか、火を見るより明らかですからね」


保科が静かに、しかし吐き捨てるように言った。


「生活安全課の取調室に紬ちゃんが呼び出され、何時間も過去の事件の供述調書を取り直される。『三島が出所した』という事実を公的に告げられ、いつ襲われるか分からないという恐怖を再び心に刻み込まれる。……あの時、彼女がどれほどのトラウマに苦しみ、夜も眠れずに震えていたか。それを思えば、警察沙汰にすること自体が、彼女に対する二次加害に他ならない」


「そうだ」鷹見が冷酷に断言する。


「警察の保護など、所詮は事件が起きた後の事後対応に過ぎん。パトロールを強化したところで、彼女の日常に警察官の影がチラつけば、それだけで彼女の平穏は崩壊する。……紬には、何事も起きていないと信じさせたままでいなければならん」


彼女の笑顔を守る。


彼女が築き上げてきた、真面目で穏やかな日常の毛先一本すら、過去の悪夢によって揺らしてはならない。


そのためには――公権力に頼るのではなく、自分たちの手で、合法的な罠を完璧に張り巡らせ、三島自らにその首を突っ込ませるしかなかった。


「……九重」


鷹見が背後を振り返る。


カウンターの奥で、真鍮のメジャーカップを手に佇んでいたチーフバーテンダー・九重圭は、静かに一礼した。


「皆様の狂気……いえ、ご意向は痛いほど理解いたしました。……要するに、相手に『自滅の道』を歩ませるわけですね」


「そうだ」成瀬が獰猛な笑みを浮かべた。


「あの男が情報を求めて飢えているなら……こっちから、極上の【餌】を撒いてあげるんだよ」


◇


成瀬が空中で指を鳴らすと、巨大スクリーンの画面がパッと切り替わった。


表示されたのは、都内の詳細な三次元都市マップ。赤坂、六本木、南青山、そして港区の主要幹線道路が、青いグリッド線で立体的に浮かび上がる。


「成瀬。具体的な罠のプロトコルを説明しろ」


鷹見が命じると、成瀬はキーボードを叩き、マップ上のある一角を赤くハイライトさせた。


「三島は今、ネット上で紬さんの痕跡を必死に探してる。でも、普通の検索では何も出ない。……そこで、僕が数時間前から仕込んでおいた【誘導用の撒き餌】を起動する」


画面に、一般のインターネット掲示板や、匿名の地域情報SNSのダミー画面が展開された。


「三島が検索しそうな、大学の同窓生が集まる掲示板の過去ログ……その奥深くに、一ヶ月前の日付で偽装した書き込みを数件、自然な形で浮上させるんだ」


成瀬が読み上げる。


『そういえば先月、赤坂駅の近くの大型書店で、文学部の槇原紬ちゃん見かけたよ』


『相変わらず真面目そうだったけど、あのあたりで働いてるのかな?』


『夕方頃、駅前の文教堂のライフスタイル雑誌コーナーで熱心に本を見てた』


「……なるほど」


保科が眼鏡の位置を直し、薄く微笑んだ。


「絶妙なリアリティですね。勤務先や自宅の住所という決定的な情報は伏せつつ、『赤坂駅周辺の書店に、定期的に現れる』という行動パターンだけを仄めかす。……飢えた獣にとって、これ以上魅力的な餌はありません」


「それだけじゃないよ」


成瀬の瞳が、青白い光を反射して怪しく光る。


「三島がこの情報を拾った瞬間、彼がネットカフェで検索する経路、乗換案内アプリの検索履歴をすべて把握して、彼が赤坂へ向かう動線を一本道に固定する。……電車、改札、歩道、横断歩道。三島が通るすべてのルートに、僕たちの息のかかったインフラを配置するんだ」


画面上の赤坂駅周辺のマップに、無数の防犯カメラのアイコン当、信号機のマークが点灯していく。


「鷹見さん。赤坂駅周辺の商業ビル、地下鉄のコンコース、ならびに駅前広場の警備ネットワークの掌握をお願いできますか?」


「すでに千冬に指示を出してある」


鷹見が平然と手帳を開いた。


「赤坂周辺の主要ビルのオーナー企業、ならびに商店街の防犯組合には、我がグループの息がかかっている。駅前書店の入る複合ビルについては、先ほど全館の防災設備点検という名目で、我が社の直系警備会社の管理下に置いた。……信号の制御、防犯カメラのアングル調整、街頭ビジョンの表示内容に至るまで、成瀬の端末からミリ秒単位で同期できる」


「完璧だね。……そして、最後の詰めが梶原さんだ」


成瀬が画面を切り替えると、駅前の薄暗い路地裏の地形図が拡大された。


「三島をこの書店へおびき寄せた後、彼が『紬さんを待ち伏せできる』と錯覚するような、死角に見える特定の路地裏へ誘導する。……そこに、梶原さんの実力部隊を潜ませておくんだ」


「……了解した」


梶原が短く応じた。


「部下の配置はすでに完了している。通行人を装った私服警備員六名、ならびに車両二台。対象がその路地に足を踏み入れた瞬間、逃走経路を無音で遮断する。……あの男が武器を所持していようと、コンマ五秒で関節を制圧し、悲鳴すら上げさせずに無力化する」


「そして」保科が静かに言葉を重ねる。


「制圧と同時に、僕が手配した精神科医療チームと救急車両が合流します。過去のストーカー行為の再発、ならびに出所直後の凶器所持とつきまといの現行犯証拠をすべて揃えた上で、警察の生活安全課へ【緊急措置入院、ならびに再逮捕の身柄引き渡し】を完了させる。……法的に、あの男を二度と社会へ出られない無期限の医療刑務所へ送り届けるための書類は、僕が責任を持って仕上げます」


三方向からの完全包囲。


情報空間における偽情報の誘導(成瀬)。


都市インフラと経済力による動線の支配(鷹見)。


精神医療と司法手続きによる完全隔離(保科)。


そして、暗闇における絶対的な物理制圧(梶原)。


男たちの結んだ不可侵条約が、その歴史上、最も冷酷で、最も強固な牙を剥いた瞬間だった。


カウンターの奥で、九重圭が小さく息を呑んだ。


「……恐ろしい手際ですね。一人の男を罠にかけるために、国家規模のスキルを総動員するとは。……しかし、皆様」


九重は静かに四人を見つめた。


「紬様ご本人のスケジュールはどうなさるのですか? 三島を赤坂へおびき寄せるということは……本物の紬様が、その場に鉢合わせる危険性があるということではありませんか?」


「それについても、すでに手を打ってある」


鷹見が冷徹に応じた。


「千冬と、編集部の関茉莉花を動かした。……今日の夕方、紬には社内での特別研修、ならびにリモートでの外部取材を集中させ、オフィスから一歩も外に出させない動線を組ませてある。彼女が駅前の書店へ立ち寄る隙など、一分たりとも存在せん」


「……なるほど。万全ですね」


九重は深く一礼し、それ以上何も言わなかった。


準備は整った。


見えない蜘蛛の巣は、すでに東京の空の下、静かに張り巡らされていた。


◇


午後二時、立川のネットカフェ。


「……あ」


薄暗いブースの中で、三島孝平の濁った瞳が、突如として見開かれた。


カタカタと震える指先が、マウスの左クリックを強く押し込む。


画面に表示されていたのは、大学時代の同窓生たちが過去に使っていた、ローカルな掲示板のアーカイブページだった。


そこにあった、一行の書き込み。


『先月、赤坂駅の近くの大型書店で、文学部の槇原紬ちゃん見かけたよ。夕方頃、駅前の文教堂のライフスタイル雑誌コーナーで熱心に本を見てた』


「赤坂……!」


三島の口元が、醜く歪んだ。


「赤坂の……駅前書店……! 出版社か、メディア関係の会社に就職したのか……!? 夕方に、ライフスタイル雑誌のコーナー……!」


点と点が、男の狂気の中で一気に結びついた。


三島は立ち上がり、安物のダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだ。


指先が触れたのは、ネットカフェへ入る前に百円ショップで購入した、鋭利な大型のカッターナイフの冷たい感触。


「見つけたぞ……槇原紬……」


三島は充血した目をぎらつかせ、荷物を掴んでブースを飛び出した。


自分が今、獲物を追う狩人であると信じ込んで。


その足が、四人の怪物たちが手ぐすねを引いて待つ、巨大な蜘蛛の巣のど真ん中へと向かっていることなど、露ほども疑わずに。


◇


午後二時三十分、赤坂『Lumiere』編集部。


「ふあー……っ! 今日の特集企画書、これで初稿完成です!」


窓際のデスクで、槇原紬は大きく背伸びをして、心地よい疲労感に息を吐き出した。


外の冬晴れの空は、澄み切った青色を湛えている。


「お疲れさま、紬」


隣の席から、関茉莉花が温かいほうじ茶の紙コップを差し出してきた。


「今日は夕方から、オンラインでの海外トレンド取材が入ってるからね。定時まで会議室にこもりっきりになるわよ。……外には出られないから、今のうちにしっかり水分取っときなさい」


「はい! 茉莉花先輩、ありがとうございます!」


紬は満面の笑みでお茶を受け取り、温かい湯気を吸い込んだ。


昨日抱いた小さな違和感。


屋上で先輩から言われた『自分の目で確かめなさい』という言葉。


それはまだ胸の奥底で燻っていたけれど、目の前の仕事に打ち込んでいる間は、不思議と心が軽やかだった。


「よしっ、夕方の取材も頑張るぞ!」


紬は笑顔でパソコンに向き直った。


彼女の知らない場所で、過去の因縁を断ち切るための歯車が、音もなく、けれど確実に噛み合おうとしていた。

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