第46話:紬の過去の影
十二月下旬の午前八時三十分。
東京都府中市、冷え切った冬の朝の静寂を破るように、重厚な鉄のゲートが軋んだ重低音を響かせてゆっくりと開いた。
吐く息が白く立ち上る凍てつく大気の中、灰色の高いコンクリート壁に囲まれた府中刑務所の通用門から、一人の男が足を踏み出した。
手には、数年間の領置品が詰め込まれた薄汚れたボストンバッグ。着古した安物のダウンジャケットはサイズが合っておらず、肩のあたりがだらしなく余っている。
三島孝平。二十八歳。
かつて名門私立大学のキャンパスを歩いていた青年の面影は、そこには微塵も残されていなかった。
頬は骨が浮き出るほど痩せこけ、青白い皮膚の下には不健康な青あざのような隈が濃く刻まれている。そして何より、落ち窪んだ眼窩の奥で濁った光を放つその瞳には、社会復帰を果たした人間の安堵など欠片も存在しなかった。
そこに宿っていたのは――数年間、冷たい雑居房の畳の上で、朝から晩まで休むことなく煮詰められ、発酵し、どす黒く変質した、純度百パーセントの「逆恨み」だった。
「……出たぞ」
三島の乾き切った唇から、擦れた声が漏れ出た。
振り返ることすらしない。
刑務官たちの形式的な訓戒も、更生への誓いも、この男の耳には一言たりとも届いていなかった。
懲役三年六ヶ月。
実刑判決を受け、人生の最も輝かしいはずの二十代半ばを鉄格子の中で過ごすことになったあの日から、三島の脳内を支配していた思考は、ただ一つしかなかった。
(……俺の人生を狂わせたのは、あの女だ)
ボストンバッグの持ち手を握る指先が、白く鬱血するほど強く締め上げられる。
(槇原紬……。お前が、俺を裏切ったんだ。お前が警察に泣きついたせいで、俺は大学を退学になり、親族から縁を切られ、前科者として社会のゴミクズに落とされた……。許さない……絶対に許さないぞ……)
◇
三島の記憶の底に、五年前の大学のキャンパスの光景が、歪んだ熱量を帯びてフラッシュバックする。
文学部の講義棟の前の銀杏並木。
落とした学生証を拾って手渡してくれた、文学部二年の槇原紬。
『あの、落としましたよ! 風で飛んでいっちゃいそうだったので、間に合ってよかったです!』
冬晴れの澄んだ陽光を浴びながら、咲く花のように無邪気に微笑みかけてくれた、あの笑顔。
ただの親切だった。落とし物を拾ってくれただけの、見ず知らずの他人に向けた善意に過ぎなかった。
だが、幼少期から自己愛が肥大化し、他者との健全な境界線を築けずにいた三島にとって、その笑顔は「自分だけに向けられた特別な合図」へと都合よく脳内で変換された。
『運命だ』と三島は信じ込んだ。
彼女は自分を求めている。彼女は自分に助けを求めている。彼女の笑顔は、自分という唯一の理解者を待っていた証拠なのだと。
それからの行動は、まさに狂気の加速だった。
紬の履修登録を調べ上げ、同じ講義の真後ろの席に陣取った。
通学電車の同じ車両に毎日乗り込み、紬のすぐ背後に密着した。
彼女がアルバイトをしていた駅前のカフェの向かいの電柱の陰から、退勤までの数時間を瞬きもせずに見つめ続けた。
次第に、三島の妄想はエスカレートしていった。
紬の自宅アパートを特定し、夜な夜な郵便受けを漁り、ベランダに干された洗濯物の匂いを嗅いだ。
紬が怯え、友人に付き添われて足早に帰宅するようになると、三島はそれを「周囲の人間が自分たちの愛を引き裂こうとしている」と解釈した。
そして――あの決定的な冬の夜。
ネット通販で購入した特殊開錠ツールを手に、紬のアパートの玄関ドアの鍵穴をガチャガチャと弄り回し、ドアスコープのレンズに自らの充血した右目を押し当てていた現場。
内側から響いた、紬の絶叫。
駆けつけた警察官に取り押さえられ、アスファルトに顔面を押し付けられながら、三島は叫び続けていた。
『紬! 俺だ! 助けに来たんだ! ドアを開けてくれ紬ィィィッ!』
現行犯逮捕。
取調室で刑事から突きつけられたのは、紬が提出した被害届と、精神科医による「重度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の疑い」の診断書だった。
紬は震え、男の足音を聞くだけで過呼吸を起こし、大学を数ヶ月間休学せざるを得ないほどに追い詰められていたという。
だが――三島はその事実を知ってもなお、己の過ちを悔いることはなかった。
(俺の純粋な愛を、あいつは警察に売り渡した。被害者面をして、俺一人を悪者にして、自分だけ清らかな顔で生きている……!)
獄中の三島を支えていたのは、反省などでは断じてない。
出所したら必ず紬を探し出し、自分の目の前で土下座させ、失われた年月のすべてを償わせるという、執拗極まりない復讐の炎だった。
「待ってろよ、紬……」
三島は冷たい風の中、府中街道のバス停へと歩き出した。
「今度は、邪魔は入らせない。……お前の日常を、俺の手で地獄に変えてやる」
◇
午前九時十五分、JR中央線の某駅前。
雑居ビルの地下にある、薄暗い個室ビデオ併設のインターネットカフェ。
タバコのヤニと湿った埃の匂いが充満する畳一畳半のブースに滑り込んだ三島は、コートも脱がずにパソコンの電源を入れた。
カチカチとマウスをクリックし、検索エンジンの入力窓を開く。
三島の手元には、服役中に頭の中に叩き込んでおいた紬の基本情報があった。
生年月日、出身大学、専攻、そして過去の知人たちの名前。
カタカタカタッ……!
黄色く変色した爪が、キーボードを激しく叩く。
『槇原紬』
『槇原紬 大学 卒業』
『槇原紬 就職先』
『槇原紬 現在』
三島は舌打ちをしながら、検索結果をスクロールした。
「……チッ、出てこないな」
通常、大学を卒業して数年も経てば、企業のプレスリリースや業界のインタビュー記事、あるいはSNSの同姓同名のアカウントが何かしらヒットするはずだった。
しかし――画面に並ぶのは、同姓同名の無関係な一般人の情報ばかり。
三島が知る「あの槇原紬」に結びつく痕跡は、まるで最初からネット上に存在していなかったかのように、綺麗さっぱり消え失せていた。
「どういうことだ……? 結婚して名字が変わったのか……? いや、そんなはずはない。同窓会名簿の掲示板はどうだ……」
三島はネットカフェの薄暗い画面に顔を近づけ、血走った目で画面を睨みつけた。
執念。
出所後、何よりも優先して紬を追い詰めるために動く悪意の亡霊。
――しかし。
三島は、夢にも思っていなかった。
自らが刑務所の重い鉄扉を一歩跨いだ、まさにそのコンマ一秒後から――
この東京の深淵において、自らを標的とした【不可逆的な殲滅プロトコル】が、完璧な戦闘配備をもって作動していたことなど。
◇
同時刻、午前九時十六分。
東京都港区某所、地下三階。成瀬郁のプライベート・ラボラトリー。
ピピッ。ピピッ。ピピッ。
静謐な空調音だけが響いていた薄暗い部屋の中で、中央のメインコンソールが、血のように赤いアラートを一斉に点滅させた。
【対象識別コード:PHANTOM(三島孝平)】
【事象:府中刑務所通用門より出所を確認】
【移動経路:府中本町駅より南武線経由、立川駅前ネットカフェ『スペース・ワン』42号室に潜伏中】
【通信傍受:端末IPアドレス奪取完了。キー入力ログ、画面キャプチャをリアルタイムミラーリング中】
「……出たね、害虫」
成瀬郁は、リクライニングチェアの上で冷たい炭酸水を一口すすり、モニターを見据えた。
その瞳には、普段の甘え上手な年下男子の光など微塵もなかった。
画面には、三島が今まさにカタカタと入力しているキーログ――『槇原紬 現在』という文字列が、一文字打たれるごとに緑色のフォントでリアルタイム表示されている。
「相変わらず脳みそが単細胞だね。出所して一時間足らずでネットカフェに飛び込んで、真っ先に紬さんの名前を検索するなんてさ」
成瀬は冷笑を浮かべ、キーボードの上に指を走らせた。
「残念だったね。紬さんの個人情報は、僕が三年前からネット上から完全スクラビング(消去・偽装)してるんだよ。お前みたいな蛆虫がどれだけ検索したって、この国のサーバーから紬さんの現在に繋がる糸なんて一本たりとも見つかるわけがないんだよ」
成瀬は専用ホットライン端末のスピーカーをオンにした。
即座に、三つの回線が同期する。
『成瀬。捕捉したか』
低く、重厚な声。三十階の副社長室にいる鷹見征司だった。
「ええ、鷹見さん。立川のネットカフェにいます。紬さんの所在を血眼になって探してますよ」
『……そうか』
鷹見の冷徹な声が、スピーカーの奥で静かに地鳴りのように響いた。
『彼女に……あの悪夢を、一秒たりとも思い出させてはならない。……紬が自らの日常に不審を抱き始めているこの繊細な時期に、あの男の存在が彼女の視界に入れば、彼女の精神は完全に耐えきれなくなる』
鷹見の呼吸が、わずかに研ぎ澄まされる。
『紬が気付く前に、法と社会の檻へ永久に送り返す。……我が鷹見ホールディングスの法務部、知財部、ならびに外部提携調査機関の全リソースを解放しろ。三島孝平が過去に犯した余罪、ならびに今回の出所後のストーカー規制法違反の予備行為の証拠を、一時間以内に集積しろ』
『すでに手配済みですよ、鷹見さん』
南青山のクリニックから、保科貴文の冷え切った声が滑り込んできた。
保科のデスクの上には、五年前のカルテが開かれていた。
『患者名:槇原紬』。
そこには、三島によって自宅の鍵穴を弄られた夜、過呼吸で運ばれてきた紬の、乱れた心拍波形と、涙で滲んだ問診票が克明に綴られていた。
当時の紬の絶望、恐怖、人間への不信。
それらを思い返すたびに、保科の手元で、握りしめられていたドイツ製万年筆の軸が、ミシミシと軋みを上げていた。
「カルテを見返すだけで……僕の脳の血管が何本か破裂しそうですよ」
保科の声は、静かだった。しかし、その静寂の底には、人間を精神的に解体するための冷酷な毒が満ちていた。
「三島孝平の精神鑑定記録、ならびに府中刑務所での処遇記録は、すでに医療ルート経由で僕の手元にあります。この男は反省していないどころか、重度の偏執病と被害妄想を併発している。……再犯の危険性は極めて高い。警察の保安課、ならびに検察庁の担当特捜部へ、僕の直筆による【緊急措置鑑定書】を提出する準備は整っています」
『……物理防衛網の配置を完了した』
最後に割り込んだのは、梶原敦志の重低音だった。
受話器の向こうから、重たい装備が擦れ合う微かな金属音が響く。
梶原は現在、港区のマンションの周囲、ならびに紬の通勤ルート上に、自社の精鋭警備員十二名を完全偽装で配置し終えたところだった。
「あの男が万が一にも港区へ足を踏み入れた瞬間、四重の包囲網で捕捉する。……あの人の半径五百メートル以内に近づくことすら、物理的に不可能だ」
四人の怪物の連携。
誰一人として私情で抜け駆けすることなく、ただ「紬に恐怖を感じさせず、悪夢を永久に葬り去る」という一点において、完璧に同期した絶対防衛プロトコル。
「よし」
鷹見が最終通達を下した。
「これより、作戦コード【害虫完全駆除】を開始する。……紬の笑顔を曇らせる者は、この世界から跡形もなく消去せよ」
◇
午前九時四十分。
冬晴れの澄み渡る青空の下、赤坂のオフィス街。
東京の冷たいビル風が吹き抜ける歩道を、淡いキャメル色のウールコートを着た槇原紬は、軽快な足取りで歩いていた。
首元には、ふんわりとしたアイボリーのマフラー。手にはお気に入りのトートバッグ。
昨日の日曜日、自室で抱いた「周囲の不自然すぎる優しさ」への疑問、そして屋上で茉莉花先輩から告げられた『あんたが息をする空気すらコントロールしようとしてる目よ』という衝撃的な言葉。
胸の奥に、小さな引っかかりは依然として残っていた。
けれど――澄み切った青空を見上げた瞬間、紬は両手で自らの頬を軽くパチンと叩いた。
「よしっ! 今日も一日、頑張ろう!」
紬の瞳には、いつもの健気で前向きな光が宿っていた。
何が起きているのかは、まだ分からない。
周囲の男たちが何を隠しているのかも、見当がつかない。
けれど――お人形のように誰かに守られるだけの存在には、絶対になりたくない。
自分の足で歩き、自分の目で見て、編集者として胸を張って生きていくのだと、紬は心に誓っていた。
「ふあー……っ! 空気が冷たくて、なんだか風がすごく気持ちいいな!」
紬は深呼吸をして、冬の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
信号は青。
通り過ぎる人々はみな穏やかに歩き、街は何の淀みもなく平和そのものに見える。
紬は微笑みながら、赤坂の本社ビルのエントランスへと足を踏み入れた。
――彼女は知らなかった。
自らの過去を地獄に変えたあの元ストーカーが、今まさに数万台のカメラによって網の目のように追跡され、
そして、自らの愛する平和な日常の真下で、四人の狂人たちによる「人生の処刑宣告」が、無音のまま秒読み段階に入っていたことなど。




