第43話:紬の小さな違和感
あの記録的な冬季ゲリラ豪雨と落雷によるエレベーター停止事件から、三日が過ぎた日曜日の夜。
外の空気は真冬の澄み切った冷気に満ち、窓ガラスの向こうには、港区の整然とした夜景が静かに広がっていた。大通りを走る車のヘッドライトが、川の流れのように滑らかな光の帯を描いている。
デザイナーズマンション402号室のリビング。
間接照明の柔らかな琥珀色の明かりに包まれた部屋で、槇原紬は、お気に入りのマグカップを両手で包み込み、ソファに深く腰掛けていた。
カップからふわりと立ち上るのは、カモミールとラベンダーをブレンドした温かいハーブティーの湯気。甘く優しい香りが鼻腔をくすぐり、強張っていた肩の筋肉をじんわりと解きほぐしてくれる。
部屋の中は、驚くほど快適だった。
室温は二十四度、湿度は五十五パーセント。エアコンの送風音は気配すら感じさせず、足元からは微かな床暖房の心地よい温もりが伝わってくる。
すべてが平和だった。
新春特大号の校了は無事に終わり、明日からの月曜日も特段のトラブルはなく、来週末には成瀬が手配してくれた(と紬が信じている)声優イベントの最前列チケットが手帳のポケットに収まっている。
まさに、順風満帆。
誰もが羨むような、ストレスフリーで穏やかな日常。
――それなのに。
「…………」
紬は手元のマグカップを見つめたまま、小さく唇を噛んだ。
胸の奥に、チクリと刺さった小さな棘のような感触。
それは、ここ数日の間に、ふとした瞬間に心の中に現れては、波紋のようにじわじわと広がり続けている、得体の知れない「引っかかり」だった。
きっかけは、木曜日の夕方に起きた、あのエレベーターの閉じ込め事件だった。
「……変、だったよね」
紬は独り言のように呟き、湯気の中に視線を彷徨わせた。
あの夜の出来事を、頭の中で最初から丁寧に巻き戻していく。
激しいゲリラ豪雨の中、エントランスで隣人の梶原と鉢合わせ、一緒に乗り込んだエレベーター。
突然の閃光と轟音、そして停電。
地上二十メートル、三階と四階の中間地点で宙吊りになったカゴの中で、暗闇と浮遊感に耐えかねて自分が過呼吸を起こしかけたこと。
その時、梶原が背中を向け、自らの上着を脱いで肩に掛けてくれたこと。
『俺がいる限り、何者もお前を傷つけさせない』という、あの力強い言葉に救われて涙を流したこと。
そこまではいい。
梶原は元SPの警備会社社長だ。危機管理のプロとして、パニックに陥った隣人を的確に保護し、落ち着かせてくれたのだと理解できる。
問題は――その「後」だった。
「……早すぎた」
紬の指先が、マグカップの陶器の表面をキュッと擦った。
エレベーターが停止してから、頭上で激しい金属音が響き、扉がこじ開けられるまで。
体感で、わずか八分。長く見積もっても、十分は絶対に経っていなかった。
通常、マンションのエレベーターが停電で非常停止した場合、非常通報ボタンを押してコールセンターに繋がり、そこから近隣の保守技術員が手配され、現場に駆けつける。どんなに迅速な対応であっても、早くても三十分、大雨の渋滞があれば一時間以上かかるのが普通だと、以前担当した防災特集の記事でも読んだ記憶があった。
それなのに。
カゴの扉を油圧ジャッキでこじ開け、救助ロープを垂らして現れたのは、エレベーター管理会社の作業員でも、東京消防庁のレスキュー隊でもなかった。
びしょ濡れの高級スーツを着て、息を切らし、血走った目で身を乗り出してきた鷹見副社長。
だぶだぶのパーカー姿で、ノートパソコンを抱えて「制御盤バイパス完了!」と叫んでいた社内エンジニアの成瀬くん。
そして、白衣の上からコートを羽織り、緊急医療バッグを握りしめて滑り込んできた幼馴染の保科貴文。
あの三人が、揃いも揃って、現場にいたのだ。
「……どうして?」
紬の喉から、掠れた疑問が漏れ出た。
赤坂にある鷹見ホールディングスの本社から、この港区の住宅街まで、車を飛ばしても通常なら十五分はかかる。夕方の退勤ラッシュと豪雨の渋滞を考えれば、三十分以上かかってもおかしくない。
成瀬くんの常駐先や自宅がどこにあるのかは知らないが、呼び出されてから駆けつけるにはあまりにも短時間すぎる。
南青山のクリニックで診療していたはずのタカちゃんに至っては、なぜ救急救命キットを完備した状態で、ピンポイントにこのマンションの四階に立っていたのか。
三人が、まるで「エレベーターが止まったその瞬間に、そこにいた」かのような速度で現れたのだ。
そして――何より不可解なこと。
「……そもそも、なんで副社長や成瀬くんが、私のマンションの場所を知ってたんだろう?」
紬の背筋を、ツツッと冷たいものが撫でていった。
会社の人事データベースには、もちろん社員の現住所が登録されている。副社長という立場であれば、個人情報にアクセスすること自体は不可能ではないかもしれない。
けれど、成瀬くんは外部の業務委託エンジニアだ。社員の個人情報を閲覧する権限など、絶対にないはずだ。
百歩譲って、二人が住所を知っていたとしよう。
では――なぜ二人は、紬が『あの時間』に、『そのマンションのエレベーターに乗っていて』、『三階と四階の間で停止した』という事実を、寸分の狂いもなく把握していたのか?
紬はエレベーターの中から、誰にも電話をかけていない。非常通報ボタンは停電で繋がらなかったし、スマートフォンを取り出して連絡する余裕すら届かなかった。
誰にも知らせていないのに。
なぜ、彼らはあのピンポイントの縦穴の前に、油圧ジャッキを携えた特殊レスキュー部隊を引き連れて現れることができたのか?
「…………っ」
紬はマグカップをローテーブルに置いた。
カツン、と小さな音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。
一度生じた疑問の種は、固い殻を破り、恐ろしい速度で過去の記憶の土壌へと根を伸ばし始めていた。
◇
一つ、不自然な点を見つけてしまうと。
これまで「運が良かった」「日本の治安が素晴らしいおかげだ」と屈託なく笑って受け流してきた過去の数々の出来事が、まるでオセロの駒が黒から白へと一斉に裏返るように、全く別の意味を帯びて脳裏に押し寄せてきた。
(……思い返せば、最初からずっとそうだった……?)
紬はソファの上で膝を抱え、記憶の糸を急速に手繰り寄せ始めた。
【記憶の断片1:限定カヌレ事件】
秋の初め、オフィスのデスクで何気なく呟いた一言。
『あー、表参道に新しくできた店の限定カヌレ、一日二十個限定なんだよね……食べてみたいなあ』
ただの独り言だった。隣の茉莉花先輩すら聞き流していた程度の、他愛のない願望。
それなのに――その翌日の午後。
千冬さんから「取引先からの差し入れ」として一箱。
成瀬くんから「システムテストの景品」として一箱。
タカちゃんから「患者さんからのお礼の余り」としてクール便で一箱。
そして帰宅時、隣の梶原さんから「買い出しのついで」として一箱。
合計四箱。一日二十個しか焼かれない幻のカヌレが、なぜか一日のうちに十六個も自分の元に集結したのだ。
あの時は「今年分の運を使い果たしちゃったかも!」と大喜びしたけれど……今考えれば、異常だ。
なぜ、私が「カヌレを食べたい」と思ったことを、所属も立場もバラバラな四人が、申し合わせたように同時に知っていて、同時に同じ店へ走り、同時に届けてきたのか?
【記憶の断片2:ゲリラ豪雨のバス停】
夏の終わり、予報外れの激しい雷雨に見舞われた退勤時。
傘を持っていなかった紬が、本社のエントランスで立ち往生していた数分間。
雨宿りをしていた紬の目の前に、ほぼ同時に現れた四つの影。
黒塗りハイヤーから英国製の最高級傘を持って降りてきた鷹見副社長。
自転車用レインコートを着て折りたたみ傘を差し出してきた成瀬くん。
往診車を手配して大きな医療用ジャンプ傘を持って駆けつけたタカちゃん。
そして、自宅マンションから傘を二本抱えて徒歩で走ってきた梶原さん。
四人が同時に現れ、互いに目を血走らせて火花を散らしていた、あの光景。
あの時も「すごい偶然ですね!」と笑って同僚のビニール傘を借りてしまったけれど……偶然なわけがない。なぜ、四人が全員、同じ雨の日に、同じビルのエントランスに、傘を持って同時に現れるのか?
【記憶の断片3:神隠しに遭うトラブルメーカーたち】
企画会議で理不尽な怒号を浴びせてきた他部署の角田部長。翌朝九時にコンプライアンス違反で即日解雇。
担当記事に「顔写真を晒せ」と執拗に粘着コメントを連投してきた悪質なネットクレーマー。通報する間もなく、投稿から三十分で謝罪文を残してアカウントごと完全消滅。
そして、先月の東都エージェンシーの花形プロデューサー・神崎氏。馴れ馴れしく肩に手を回し、不快な圧力をかけてきた翌週、過去の横領と女性問題の動かぬ証拠を突きつけられて、地球の裏側の南米チリ支社へ永久左遷。
あの時は「うちの会社の自浄作用が素晴らしいんだ」「悪事は必ず罰せられるんだ」と胸を撫で下ろしていた。
けれど――世の中のトラブルが、これほどミリ秒単位の精度で、完璧に、寸分の狂いもなく「自分に危害が及ぶ直前」に消滅することなど、あり得るのだろうか?
まるで、見えない巨大な防波堤が、自分に向かってくる波をすべて粉砕しているかのように。
【記憶の断片4:伊豆の社員旅行】
格安旅館の予約が「配管トラブル」で急遽キャンセルになり、鷹見グループ最高峰の迎賓館『翠巒亭』の全館貸し切りに変更されたこと。
そこに、仲居頭として現れた千冬さん。
ネットワーク点検員として現れた成瀬くん。
嘱託医として医務室に待機していたタカちゃん。
夜間警備員として竹林を巡回していた梶原さん。
そして深夜の廊下で鉢合わせた鷹見副社長。
【記憶の断片5:先週の風邪の夜】
微熱を出して早退した日の夕方。
部屋に帰ると、なぜか室温が二十四度、湿度六十パーセントに完璧に保たれ、電動カーテンが自動で閉まったこと。
そして、インターホンが鳴って玄関を開けると、頼んでもいないのに「区のキャンペーン」を名乗る完璧な解熱薬と、「近隣店舗の無償提供」を名乗る最高級すっぽん雑炊が置き配されていたこと。
それを食べて一晩寝たら、翌朝には奇跡のように平熱に戻っていたこと。
【記憶の断片6:声優イベントの神席】
一般販売で秒殺され、机に突っ伏して泣きそうになっていた、ギルバート卿の声優イベント。
そのわずか二時間後、なぜかファッションメディアである自分の編集部に「公式メディア特別招待枠」がたった一枚だけ舞い込み、その座席が、二千人の頂点である『アリーナ1列12番(ゼロ番席)』だったこと。
「…………っ」
紬の背中に、冷や汗がどっと噴き出した。
点と点。
これまで「バラバラの幸運」として受け取ってきたすべての出来事が、一本の太く、強固で、恐ろしいほど緻密な「線」となって繋がっていく。
偶然じゃない。
運が良いだけでもない。
日本の治安が優れているからでもない。
誰かが――意図して、計算して、途方もない労力と権力と技術を使って、私の身の回りをコントロールしている。
私の欲しいものを先回りして与え、
私のストレスの原因を瞬時に消し去り、
私の体調の異変を即座に感知して薬を運び、
私の危機には十分足らずで駆けつけて扉をこじ開ける。
そして、その中心にいるのは――
「……鷹見副社長。成瀬くん。タカちゃん。梶原さん……」
四人の顔が、鮮明に脳裏に浮かび上がった。
会社のトップエリートである副社長。
人懐っこくて甘え上手な社内エンジニア。
昔から家族のように優しい幼馴染の名医。
無口で強面だけど、家庭的で頼もしいお隣さん。
本来であれば、接点などほとんどないはずの四人。
住む世界も、職種も、年齢も異なる男たち。
それなのに――なぜ彼らは、いつも私の半径数メートル以内に、同時に、寸分の隙もなく存在しているのか?
◇
その時。
紬の脳裏に、数週間前にカフェで交わした、ある人物の言葉が、強烈なフラッシュバックとなって蘇った。
『……紬。あんた、自分がどれだけヤバい「鳥かご」の中にいるか、分かってないでしょ』
南青山のテラス席で、フォークを置き、真剣な眼差しで自分を見つめていた親友・日下部莉緒の顔。
『あんたの住んでる部屋も、職場も、人間関係も……全部、誰かが計算して作った「檻」の中の出来事だとしたら、あんたはどうする?』
『違う。ストーカーされてるんじゃない。これ、もっとヤバい何かに「完全包囲」されてる』
あの時、紬は笑い飛ばしたのだ。
「もう、莉緒ちゃんったらサスペンスドラマの観すぎだよ!」と、ケラケラと笑って否定したのだ。
けれど――莉緒のあの時の目は、一切笑っていなかった。
夜の港区の社交界を知り尽くし、人間の欲望と悪意を誰よりも鋭く見抜く親友が、心からの警告として放った言葉。
さらに、昨日の退勤時、オフィスのエレベーターホールで先輩の関茉莉花が漏らした、何気ない呟き。
『それにしても紬、あんたのエレベーター救出劇、社内でも伝説になってるわよ。副社長と成瀬くんが雨の中を猛ダッシュして駆けつけたって……いくらなんでも過保護すぎない? まるで、あんたの居場所をGPSで常に監視してるみたいじゃない』
茉莉花先輩はいつもの調子で「愛されてるわねえ」と笑っていた。
だが、その言葉が、今、冷たい刃となって紬の胸に突き刺さっていた。
(GPS……監視……?)
紬はハッと息を呑み、自らの左手首を見つめた。
そこには、ピンクゴールドの華奢なスマートウォッチが巻かれていた。
先月、成瀬くんが「社内システムのモニター用支給品です!」と無邪気な笑顔で手渡してくれた端末。
画面には、現在の心拍数、歩数、そして体温がリアルタイムで表示されている。
(先週、私が熱を出した時……タカちゃんから届いたお薬と、梶原さんが届けてくれた雑炊……)
紬の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
あの時、紬はオフィスで微熱を感じて早退しただけだった。タカちゃんにも、梶原さんにも、「熱を出した」なんて一言も連絡していなかった。
なのに、なぜあの二人は、私が三十八度近い熱を出していることを正確に知っていて、それに適合したお薬とおかゆを玄関に用意できたのか?
このスマートウォッチから……データが、どこかへ送られていたとしたら?
紬の視線が、部屋のあちこちを彷徨った。
自宅のWi-Fiルーター。成瀬くんが「調子が悪いなら直してあげるよ」と休日に来て設定してくれた、あの黒い四角い機械。
窓の外のベランダ。隣の梶原さんの部屋との間にある、非常用隔壁。
エアコン。先週の熱を出した日、帰宅した瞬間に部屋を完璧な温度に保ち、自動で閉まった電動カーテン。
そして――家賃三万円。
港区の一等地に建つ、このデザイナーズマンションの最上階。
相場三十万円の部屋を、「オーナーの好意の格安物件」として紹介してくれた不動産屋。
(……この部屋も……?)
ゾクリ、と。
生まれて初めて感じる、底知れぬ悪寒が全身を駆け抜けた。
温かいはずの部屋の空気が、急に息苦しく、重たく感じられる。
四方の壁が、自分を優しく抱きしめているのではなく、外界から逃げ場をなくすために分厚く塗り固められた【壁】に見えてくる。
「私……」
紬は両手で自らの二の腕を抱きしめた。
指先がカタカタと震えている。
「私、運が良いだけじゃなくて……何か、見えていないことがあるのかな……?」
声が震えていた。
信じたくなかった。
いつも自分を正当に評価し、温かく見守ってくれる尊敬すべき鷹見副社長。
人懐っこい笑顔で、パソコンの不調をいつも笑顔で直してくれる頼れる後輩の成瀬くん。
幼い頃からどんな悩みも優しく聞いてくれた、家族のように大切なタカちゃん。
無口だけど、美味しいお惣菜を分けてくれて、エレベーターの暗闇で身を挺して守ってくれた梶原さん。
みんな、優しい。
みんな、親切だ。
みんな、自分のことを大切にしてくれている。
それは、嘘じゃないはずだ。彼らの眼差しに宿る温もりを、紬は肌で感じてきた。
けれど――その優しさは、普通の人間関係の枠組みを、あまりにも遥かに逸脱していた。
見えない糸。
自分の日常を取り囲む、目に見えない巨大で緻密な網の存在。
その網の中心で、自分は何一つ知らされず、ただ「世界は優しいな」「私は運が良いな」と無邪気に笑っていただけだったのか?
「…………」
紬は立ち上がり、静かにベランダのガラス戸へと歩み寄った。
サッシを開けると、真冬の冷たい夜風がヒュッと吹き込み、頬を鋭く撫でた。
見下ろせば、静まり返った夜の街。
その街の片隅角、街灯の薄暗い光の届かない路地の物陰に――
紬の部屋のベランダを、見上げるようにして佇む、黒い人影の輪郭が見えた気がした。
息を呑んで目を凝らすと、その人影は夜風の中に溶け込むようにスッと消え去り、ただ冷たい風が笹の葉を揺らす音だけが残された。
「……気のせい、だよね」
紬は窓を閉め、鍵をカチャリと回した。
しかし、胸の中に落ちた小さな波紋は、もう二度と消え去ることはなかった。
無菌室の完璧だったガラスのドーム。
外界のあらゆる悪意と理不尽を遮断し、彼女の笑顔を守り続けてきた絶対防衛の檻に――
他でもない、その中で無邪気に笑っていたはずの少女自身の手によって、最初の、小さな、けれど決定的な疑問符が刻まれた夜だった。
明日、会社へ行ったら。
茉莉花先輩に、相談してみよう。
紬は決意を胸に秘め、冷めきったハーブティーのカップをキッチンへと運んでいったのだった。




