第42話:扉が開いた先で
ギギギギギ……ッ、ガガガガガッッ!!
三階と四階の中間地点、地上二十メートルの縦穴に宙吊りとなったエレベーターシャフトの内部に、重金属が無理やり引き裂かれるような凄まじい破壊音が反響していた。
停止から、わずか八分。
本来であれば、通報を受けた保守点検会社の作業員が現場に到着するかすら怪しい時間である。しかし、カゴの天井の向こう、四階のエレベーターホールの扉の隙間には、すでに重機に匹敵するパワーを誇るレスキュー専用の油圧スプレッダー(拡張ジャッキ)の鋼鉄の爪が深々と割り込んでいた。
「うわああっ……!? す、すごい音……!」
カゴの隅にしゃがみ込んでいた槇原紬は、頭上から降ってくる地響きのような激震に、思わず身をすくめて両手で耳を塞いだ。
薄暗い赤色の非常灯の下、紬の肩には、先ほど梶原がそっと掛けてくれた黒いタクティカルジャケットが羽織られている。大柄な男の体温と清潔な石鹸の匂いが残るその上着のおかげで、激しかった過呼吸と寒気は嘘のように収まっていたが、突然始まった外界からの暴力的な救出作業には目を白黒させるしかなかった。
「……油圧ポンプの駆動音だ」
紬の前に仁王立ちになり、天井から埃や破片が落ちてこないよう自らの背中で庇い続けていた梶原敦志が、低く冷静な声で告げた。
「外扉とシャフト扉の噛み合わせを、外側から力任せに押し広げている。……あと三十秒で開く。頭を下げていろ」
「は、はいっ!」
梶原の推測通りだった。
四階のフロア側では、豪雨の中を時速百キロ超で緊急走行してきた鷹見ホールディングス傘下の民間特殊警備レスキュー部隊員三名が、防火ヘルメットを被り、オレンジ色の高圧ホースで繋がれた油圧ジャッキのレバーを全力で操作していた。
プシューーーッ! ギチギチギチッ!
三万ニュートンの油圧トルクが鋼鉄の扉を押し広げ、十センチ、二十センチと隙間がこじ開けられていく。
その直後、外のフロアから、誰もが聞き覚えのある、しかし普段の彼からは想像もつかないほど切迫した青年の叫び声がシャフトの縦穴へと飛び込んできた。
『開いた! 隙間できたよ!! 制御盤の予備電源バイパス完了! シャフトの非常電磁ロック、全解除コマンド送信――いっけぇぇぇぇぇっ!!』
カチリ、と軽やかなリレー音が響いた瞬間、油圧ジャッキによって押し広げられていた外扉と、エレベーターの内扉が、ガララララッと左右へ力強く引き開けられた。
◇
パァァァァァッ……!
突如として、赤暗い密室の中に、目が眩むほど眩い純白の光が差し込んできた。
四階フロアの天井照明、そして救助隊員たちが構える大型サーチライトの強烈な光束。
「っ……まぶし……」
紬が思わず腕で目を覆う。
エレベーターのカゴは、四階のフロアの床面からおよそ八十センチほど低い位置で停止していた。開かれた扉の向こう、四階の廊下の床から、カゴの中を覗き込むようにして、三つの影が身を乗り出してきた。
「紬ッ!! 無事かッ!?」
雷鳴を切り裂くような怒号とともに、床に膝をついて身を乗り出してきたのは、鷹見征司だった。
普段の隙のない冷徹エリートの姿は、完全に崩壊していた。仕立ての良いスリーピーススーツのジャケットは雨水でぐっしょりと濡れそぼり、完璧に結ばれていたはずのネクタイは斜めに引きちぎれかけ、額に張り付いた濡れた黒髪の下で、その切れ長の瞳は血走るほど見開かれていた。東京の副社長室からハイヤーを飛ばし、豪雨の道路を突き抜けて駆けつけてきたのだ。
「紬さん!! 怪我はない!? 頭ぶつけなかった!?」
鷹見の隣から、半泣きの顔でノートパソコンを抱えて身を乗り出してきたのは、成瀬郁だった。だぶだぶのパーカーはびしょ濡れで、息を切らし、キーボードを握りしめる指先はカタカタと震えている。
「紬ちゃん! 意識はあるかい!? 呼吸は!? 瞳孔の対光反射を確認させておくれ!」
さらにその背後から、純白のドクターコートの上からトレンチコートを羽織り、大型の緊急医療バッグを抱えた保科貴文が、銀縁眼鏡を雨の雫で濡らしながら滑り込んできた。
「…………え?」
カゴの隅で上着に包まれていた紬は、ポカンと口を開けて固まった。
目の前に並ぶ、三つの顔。
自分の勤務先の最高権力者である副社長。
社内システムの業務委託エンジニアの年下男子。
そして、南青山でセレブ向けクリニックを開業しているはずの幼馴染の医師。
停電でエレベーターに閉じ込められてから、わずか八分。
どう考えても、物理的にここに揃っているはずのない男たちが、全員揃って息を切らし、雨に濡れ、鬼気迫る表情で自分を取り囲んでいるのだ。
「え……ええええっ!?」
紬の口から、間抜けな叫びが零れ落ちた。
「み、みなさん!? な、なんでここにいらっしゃるんですか!?」
「そんなことはどうでもいい! 怪我はないのか、どこか痛むところはないのか!?」
鷹見が身を乗り出し、カゴの中へ長い腕を差し伸べた。
「はい……! 怪我は、全然していません! ちょっとびっくりして座り込んじゃっただけで……!」
「よかった……神よ……!」
成瀬がその場にへたり込み、胸を撫で下ろして涙を拭った。
保科も深く長い息を吐き出し、胸ポケットから取り出した聴診器を握りしめながら、天を仰いだ。
「外傷なし、意識清明……。奇跡だ……本当によかった……」
三人の怪物が、愛する少女の無事を確認し、極限の緊張から解放された瞬間だった。
――しかし。
安堵の時間は、わずか二秒で終わりを告げた。
◇
「さあ、手を。上へ引き上げる」
鷹見が紬の身体を抱き起こそうと、四階の床からカゴの中へと手を伸ばした。
その時だった。
カゴの隅から、立ち上がろうとした紬の肩。
サーチライトの白銀の光が、彼女の華奢な上半身をくっきりと照らし出した。
彼女が羽織っていたもの。
ベージュのウールコートの上から、すっぽりと包み込むように掛けられていた、見慣れない漆黒の衣服。
特殊部隊仕様の高耐久ノーメックス生地。
左胸に鈍く光る、強靭なタクティカルベルクロのホルダー。
そして――紬の小さな身体にはあまりにも不釣り合いな、鍛え抜かれた成人男性の圧倒的な肩幅を誇る、特注のミリタリージャケット。
「…………」
鷹見征司の伸ばしかけた右手が、ピタリと空中で静止した。
成瀬郁の涙を拭う手が、止まった。
保科貴文の眼鏡の奥の瞳が、凍りついた。
三人の視線が、吸い寄せられるように、紬の肩に掛けられた「その黒い上着」へと釘付けになった。
そして――その上着の本来の持ち主である男へと、スッと視線がスライドしていく。
カゴの中。
紬のすぐ隣。
上着を脱ぎ、黒いロングスリーブのアンダーシャツ一枚になった屈強な肉体を晒し、直立不動の姿勢でそこに立っていたのは――
401号室の住人、梶原敦志だった。
ヒュッ、と。
エレベーターシャフトの冷たい風が吹き抜けた。
その瞬間、四階のフロアを満たしていた空気が、一瞬にして絶対零度の氷点下へと叩き落とされた。
「……あ?」
成瀬の口から漏れたのは、低く、濁った、獣の唸り声だった。
成瀬の瞳から、光が完全に消滅した。
涙で濡れていた目元が急速に引きつり、黒目が針の先のように細く収縮していく。
「……上着。……なんで、紬さんが……梶原さんの上着を、着てるの……?」
成瀬の声は、震えていた。
怒りと、絶望と、そして沸騰する嫉妬の混ざり合った、この世の終わりのような声音。
「密室。……停電。……暗闇」
鷹見征司が、ゆっくりと立ち上がった。
その顔から、先ほどまでの必死な安堵の表情が綺麗さっぱり削ぎ落とされていた。
残されたのは、世界金融を破滅させる時よりも冷酷で、人間を虫けらのように踏み潰す時の、純粋な殺戮者の仮面。
「梶原敦志」
鷹見の唇から紡ぎ出されたのは、地獄の底から響くような呪詛の音だった。
「……貴様。この八分間、あの暗闇の密室の中で……彼女と二人きりで、何をしていた」
鷹見の右手は、胸ポケットの中で、プラチナのネクタイピンの針を自らの親指の肉に深々と突き刺していた。しかし、その激痛をもってしても、目の前で紬が他の男の上着に包まれているという狂気の光景を相殺しきれなかった。
「二人きり。……密閉空間。……接触」
保科貴文が、静かに一歩前へ進み出た。
その手には、救急バッグから取り出されたばかりの、鋭利なステンレス製のメスが握られていた。
保科の口角が、ピキピキと不気味に吊り上がる。眼鏡のレンズが光を反射して白く輝き、その奥の瞳は完全に死んでいた。
「梶原さん。……説明していただきましょうか。なぜ紬ちゃんの肩に、あなたの体温と皮脂と匂いが染み付いた私物が掛けられているのですか? これは……我が条約に対する明白な反逆、ならびに彼女の神聖領域に対する不可逆的な侵襲行為とみなしてよろしいですね?」
ゴオオオオオオオオッ……!!
言葉にならない、濃密極まりない三つの殺気が、四階の開口部からカゴの中へと滝のように雪崩れ込んできた。
常人であれば、その場に卒倒し、失禁して命乞いをするレベルのプレッシャー。
成瀬のノートパソコンの画面には、梶原の警備会社の全サーバーと銀行口座を即座に消滅させるためのハッキングスクリプトが立ち上がり、
鷹見の指先は、梶原の会社を破産に追い込むための緊急法務手続きのショートカットへ触れ、
保科の手元のメスは、梶原の頸動脈を切り裂くための角度をミリ単位で捉えていた。
◇
しかし――カゴの中に立つ梶原敦志は、微動だにしなかった。
殺気の嵐を真正面から浴びながらも、梶原はピシリと背筋を伸ばし、能面のような無表情を崩さなかった。
ただ――
梶原は自らの左腕を、無造作に体の後ろ側へと回していた。
タクティカルシャツの袖口。
その内側で、理性を繋ぎ止めるために自らの奥歯で力任せに噛み破った手首の傷口から、今なおジワリと熱い鮮血が滲み出ている。
もしこの血を見られれば、他三人から「密室で理性を失いかけた証拠だ」として即座に処刑の口実を与えてしまう。何より――隣にいる紬に、自分がどれほど異常な狂気を抱えていたのかを気付かれてしまう。
梶原は傷口を背後の影に完全に隠したまま、氷のような視線で、頭上の三人の男たちを静かに見据え返した。
「……寒気による、初期低体温症の兆候が確認された」
梶原の地底から響くような重低音が、シャフトの空気を押し戻した。
「カゴ内の室温は急激に低下していた。被警護者の体温保持は、警備任務における第一優先事項だ。……私情は一切挟んでいない」
「嘘をつけェェェッ!!」
成瀬がノートパソコンを抱えたまま、喉を裂かんばかりに叫びそうになった。
しかし――叫び声が完全に炸裂する、そのコンマ一秒前。
「あ……あのっ!」
澄んだ、鈴を転がすような声が、殺気の嵐のど真ん中に割って入った。
紬だった。
紬は掛けられたジャケットの袖をぎゅっと握りしめながら、四階の床に並ぶ三人の男たちを見上げて、心底から感動したように目を輝かせたのだ。
「梶原さん、私のために上着を貸してくださったんです! 私、暗くて怖くて……ちょっと泣いちゃったんですけど、梶原さんが『大丈夫だ、俺がいる限り傷つけさせない』って励ましてくださって……! 本当に、ものすごく優しくしていただいたんです!」
「「「…………っっ」」」
三人の怪物の息が、喉の奥で詰まった。
紬の純度百パーセントの、一点の曇りもない感謝の証言。
紬は手すりにつかまりながら立ち上がり、四階にいる鷹見、成瀬、保科に向かって、満開のひまわりのような笑顔を咲かせた。
「それにしても……本当にすごいです! エレベーターが止まってから、まだ十分も経ってないのに……鷹見副社長も、成瀬くんも、タカちゃんも、こんな大雨の中を駆けつけてくださるなんて……!」
紬は胸の前で両手を合わせ、潤んだ瞳をパチパチと瞬かせた。
「副社長、スーツがびしょ濡れじゃないですか! 成瀬くんも息が上がってるし、タカちゃんもお仕事中だったはずなのに……! 私、自分がこんなにたくさんの人に心配してもらえて、助けてもらえるなんて思ってもみませんでした……!」
紬の頬に、じわりと温かな感動の紅潮がさす。
「やっぱり……うちの会社って、本当に社員思いで温かいですね! そしてタカちゃんも、昔と変わらず世界一優しいお兄ちゃんです! 私、本当に、本当に世界一幸せ者です!!」
満開の笑顔。
悪意の欠片も、不審の影も一切ない、神聖にして無垢な感謝の言葉。
その眩しすぎる光を真正面から浴びせられ、頭上の三人は、構えていた凶器をそれ以上振り下ろすことが物理的に不可能になった。
「あ……あ、ああ……」
鷹見は引きつった笑みを必死に顔に張り付け、伸ばした手を整えた。
「う、うむ……。槇原、無事で本当によかった。……我が社の優秀な社員の危機に駆けつけるのは、経営陣として当然の義務だ」
「そ、そうだよ紬さん! 僕、社内システムの異常検知ログを見て、飛んできたんだからね! 無事でよかったよぉ……!」
成瀬は涙を無理やり引っ込め、愛想笑いを作った。
「ええ、紬ちゃん。幼馴染として、君の危機を見過ごすはずがないだろう? 怪我がなくて何よりだよ」
保科は背中にメスを隠し、仏のような慈愛の笑みを浮かべ直した。
◇
「さあ、危ないから、私の手を取って上がりなさい」
鷹見が両手を差し伸べ、成瀬と救助隊員たちがカゴの縁を固定する。
「はい! ありがとうございます!」
紬は梶原の上着をしっかりと羽織ったまま、鷹見の手を取って、軽やかに四階のフロアへと引き上げられた。
続いて、救助隊員の手を借りて、梶原敦志がカゴから静かに上がってくる。
四階の廊下に、五人の人間が揃った。
外界の雨音が、遠くの窓ガラスを打ち据えている。
「ふあーっ……! 地面の上がこんなに安心するなんて、初めて知りました!」
紬は自分の部屋――402号室のドアの前で、大きく伸びをした。
そして、羽織っていた黒いジャケットを丁寧に脱ぎ、両手で畳んで梶原へと差し出した。
「梶原さん、本当にありがとうございました! お上着、お返ししますね。すごく温かかったです!」
「……役に立ったのなら、何よりだ」
梶原は右腕だけでジャケットを受け取り、左手はポケットの中に突っ込んだまま、短く会釈した。
「皆さん、雨で身体が冷えちゃってますよね! あの、よかったら私の部屋で、温かいお茶でも飲んでいかれませんか? タオルもたくさんありますし!」
紬が無防備に提案した、まさにその瞬間。
「「「「滅相もない!!!!」」」」
四人の男たちの声が、四重奏のように寸分の狂いもなく重なり合った。
「えっ?」紬がきょとんとする。
「こ、コホン!」鷹見が激しく咳払いをした。
「貴女のプライベートな部屋に、男が上がり込むなど言語道断だ! 我が社のコンプライアンス基準が許さん! ……君は今夜、温かい風呂に入り、早く寝なさい!」
「そうだよ紬さん! 僕たちはプロだから雨くらい平気! 風邪引いちゃうから、早く部屋に入って!」成瀬が手を振る。
「精神的ショックの急性期です。静かな環境で休息を取ることが第一選択ですよ、紬ちゃん」保科が優しく微笑む。
「……施錠を徹底しろ。俺も自室に戻る」梶原が低く告げる。
「あ、は、はい……! みなさん、本当に、本当にありがとうございました!」
紬は深々と頭を下げると、402号室の鍵を開け、温かな光の中へと入っていった。
ガチャリ。
ドアが閉まり、内側から施錠される音が響く。
廊下に、再び静寂が戻った。
◇
一秒。
二秒。
三秒。
紬の部屋の明かりが灯り、彼女が完全に安全圏へ戻ったことを確認した、まさにその刹那――
スッ。
廊下に残された三人の男たちの顔から、すべての営業用スマイルが同時に蒸発した。
鷹見征司の冷酷な切れ長の瞳。
成瀬郁の底知れぬ漆黒の眼差し。
保科貴文の絶対零度の眼鏡の奥の光。
三人の怪物の殺気配りの視線が、寸分の狂いもなく、401号室のドアノブに手をかけていた梶原敦志の背中へと、一斉に突き刺さった。
「……梶原」
鷹見が、低く濁った声で呟いた。
「今夜二十三時。……定例会議室へ来てもらおうか」
「僕も絶対に許さないからね」成瀬が冷たく笑う。
「徹底的な査問会が必要です。……八分間の密室ログ、一秒単位で検分させていただきますよ」保科がメスを胸ポケットにしまいながら告げる。
背後に突き刺さる、致死量の三つの殺気。
しかし――梶原敦志は、振り返ることすらしなかった。
ポケットの中で、血の滲む左手首の傷を強く握り締めながら、梶原はただ一言、地底から響くような重低音を落とした。
「……受けて立つ」
カチャリ。
梶原は401号室へと消え、廊下には再び冷たい冬の静寂が戻ったのだった。
愛する者の笑顔を守り抜いた代償。
それは、四人の男たちを再び血みどろの内部査問会へと引きずり戻す、新たな火種の始まりに過ぎなかったのである。




