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私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


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第38話:莉緒の包囲網

十二月中旬の黄昏時。南青山の骨董通りから一本奥に入った閑静な路地は、冬の澄んだ藍色の帳に包まれつつあった。


ブランドの旗艦店や洗練されたギャラリーが立ち並ぶエリアの最奥、コンクリート打ち放しのモダンな低層デザイナーズビル。その二階へと続く専用のプライベート階段の足元には、控えめな真鍮のプレートが掲げられていた。


『保科メディカル・メンタルクリニック』


完全紹介・完全予約制。政財界の要人、トップアスリート、芸能界のセレブリティたちが、人目を避けて心身の調律に訪れる、都内屈指の隠れ家的な名院である。


午後六時三十分。


冬の短い一日が終わりを告げ、本日の診療終了時刻を告げるチャイムが院内に静かに響き渡った。


間接照明の柔らかな温もりに満たされた院長室で、保科貴文(ほしな たかふみ)は、デスクの上のカルテを丁寧に整頓していた。純白のドクターコートの袖を折り返し、銀縁眼鏡を外してレンズをクロスで拭う。


デスクの隅のモニターには、今日も平和を示す緑色の波形が映し出されていた。


成瀬郁の電脳パケット工作によって、最前列中央の「ゼロ番席」を確保し、今頃は編集部のデスクで飛び跳ねて喜んでいるであろう槇原紬のバイタルデータ。


(紬ちゃん、心拍数が少し上がっているけれど、これは純粋な多幸感によるものだね。……成瀬くんの手段は褒められたものではないけれど、彼女の笑顔が守られたのなら、一時的な対症療法としては及第点といったところかな)


保科は穏やかな笑みを口元に浮かべ、眼鏡をかけ直した。


その時だった。


ピンポーン、と控えめな電子音がインターホンから鳴り、受付の内線電話が静かに点滅した。


「……ん?」


保科はわずかに首を傾げ、受話器を取り上げた。


「はい、保科です」


『あ、院長、大変申し訳ありません。すでに本日の受付時間は終了しているのですが……どうしても院長に直接お目にかかりたいという、予約外のお客様がお見えになりまして……』


受付の医療事務スタッフの困惑した声が漏れてくる。当院のシステムを熟知しているはずの患者なら、アポイントなしの突撃などあり得ない。


「急患ですか? 急性パニック発作などであれば、応急処置室へ案内してください」


『いえ、それが……体調不良というご様子ではなく……「幼馴染の旧友です」と仰いまして。問診票のお名前が――』


スタッフが読み上げたその名前に、保科の指先がピクリと止まった。


『――日下部莉緒様、と』


「…………」


保科の瞳の奥で、静かな水面が一瞬で氷結した。


日下部莉緒。


紬の大学時代からの大親友であり、外資系人気コスメブランドの敏腕PR。


先週、九重圭のバー『スプレンディード』へ単身で乗り込み、九重の胃壁を穿孔寸前まで追い詰めたという、あの外部の女性探偵。


九重から「紬ちゃんの親友が、私たちの不可侵条約の存在を嗅ぎ回っています。命の保証ができないと警告しておきましたが、あの目は絶対に引き下がりませんよ」という悲鳴のような連絡が入っていたことを思い出す。


まさか、バーのマスターを締め上げた足で、今度は医療機関の本丸である自分のクリニックへ直接乗り込んでくるとは。


(……フッ。なるほどね)


保科は口角をわずかに持ち上げ、普段の柔和で慈愛に満ちた声で受話器に応じた。


「構いませんよ。大切な友人です。……そのまま、こちらの第一診察室へお通ししてください」


『か、かしこまりました!』


通話を切った保科は、モニターの画面を素早く操作し、紬のバイタル画面を一般的な医学論文のPDFへと切り替えた。


白衣の襟元を正し、胸ポケットに高級万年筆を挿す。


準備は整った。


◇


トントン。


ノックの音とともに、厚手の防音ドアが静かに開いた。


カツ、カツ、カツ。


磨き抜かれたフローリングに、クリスチャン・ルブタンの鋭利なピンヒールが澄んだ音を響かせる。


診察室の空気が、一瞬で華やかな、そして張り詰めた芳香に塗り替えられた。


入室してきたのは、日下部莉緒だった。


チャコールグレーの洗練されたチェスターコートを肩に羽織り、インナーには深紅のシルクブラウス。艶やかな黒髪は完璧なウェーブを描き、華奢な首元には細身のゴールドネックレスがきらめいている。


外資系コスメブランドの第一線で、夜の港区の社交界を渡り歩いてきた美女。その立ち姿には、病院という閉鎖空間特有の陰鬱さを物ともしない、圧倒的な自己肯定感と自信が満ち満ちていた。


「あら、保科先生。お久しぶり。紬の幼馴染の莉緒よ」


莉緒はふわりと香水の甘い香りを残しながら、診察机の前の回転椅子へと歩み寄った。


保科は立ち上がり、完璧な医師の微笑みを浮かべて頭を下げた。


「やあ、莉緒ちゃん。久しぶりだね。大学の卒業式以来かな? 相変わらず綺麗で、雑誌やWEBメディアでも君の活躍はよく見かけるよ」


「ありがとう。先生こそ、南青山にこんな立派なクリニックを構えて、すっかり名医の風格ね」


「買い被りだよ。……それで、今日はどうしたんだい? 診療終了間際にアポなしで飛び込んでくるなんて、どこか具合でも悪いのかい? 偏頭痛や不眠なら、すぐに適切な処方を出すけれど」


保科はカルテ用のタブレットを手に取り、柔和な眼差しで莉緒を見つめた。


しかし――莉緒は、その優しい気遣いを鼻先でふっと受け流した。


莉緒は背筋をピンと伸ばして椅子に深く腰掛けると、すらりと伸びた細い脚を、躊躇いなく優雅に組み替えた。


スリットから覗く黒いストッキングの足首。ピンヒールの先端が、チク、タク、とメトロノームのように微かに揺れる。


そして、莉緒は手元のバッグを膝の上に置くと、まっすぐに保科の瞳を射抜いた。


「体調不良で来たんじゃないわよ、先生。……そんなこと、あなたも最初から分かっているでしょうに」


「……おや?」


保科は小首を傾げ、困ったような苦笑いを浮かべた。


「僕には君が何を言っているのか、さっぱり分からないな。ここはクリニックだよ。健康相談以外に、僕にどんな用事があるというんだい?」


「すっとぼけないで」


莉緒の声は、低く、澄んでいた。


診察室の静寂を、薄い剃刀で切り裂くような冷徹な響き。


「単刀直入に聞くわ」


莉緒は机の上に両肘をつき、指先を組んで身を乗り出した。


「紬の周りで起きてる奇妙なこと……あなたたち男四人、裏で繋がってるでしょ。何が目的なの?」


◇


室内の空調の微かな送風音だけが、耳に届く。


保科の表情筋は、ミリ単位の乱れすら見せなかった。


机の上に組まれた保科の手。その指先は完璧に脱力しており、心拍の乱れも、動揺の兆候も一切ない。精神医療の権威として、無数の患者の深層心理と対峙してきた男のポーカーフェイスは、並大抵の尋問では揺らぎようがなかった。


「……男四人、かい?」


保科は優雅に眼鏡を外し、机の上にコトリと置いた。


「君が何を根拠にそんな妄想めいた話を口にしているのか、僕には見当もつかないよ。僕が知っている紬ちゃんの知人といえば、せいぜい彼女の勤め先の上司や同僚くらいのものだ。裏で繋がっているだなんて、まるで悪質な組織犯罪のような言い種だね」


「妄想? よくそんな白々しい台詞が吐けるわね」


莉緒は冷笑を浮かべ、バッグの中から一冊の黒い革製の手帳を取り出した。


パラリ、とページがめくられる。


そこには、莉緒がこの数週間、持ち前の人脈と観察眼を総動員して記録してきた、克明なタイムラインと調査メモがびっしりと書き込まれていた。


「いい、保科先生。私の専門はPRよ。世の中のトレンドを先読みし、不自然なバズや作為的な情報の歪みを暴くのが仕事なの。……だからこそ、紬の周囲で起きている現象が、どれほど統計学的にあり得ない異常値なのか、誰よりも正確に理解できるのよ」


莉緒は手帳を指先でトントンと叩いた。


「第一の点。彼女の住居。港区の駅徒歩三分、デザイナーズマンションの最上階角部屋。近隣の相場家賃はどう安く見積もっても三十万円以上よ。それを、紬は『オーナーの好意の格安物件』として、毎月たったの【三万円】で借りている」


「……それは、紬ちゃんが運良く掘り出し物の物件を見つけただけじゃないのかな?」


「掘り出し物? 笑わせないで。そのマンションの謄本を不動産関係の知人に洗わせたわ。登記上の所有会社は、ある大手不動産アセット。そしてその親会社の筆頭株主は――鷹見ホールディングスよ」


「…………」


「第二の点。不可解すぎる神隠し事件の連続」


莉緒は指を一本ずつ折っていった。


「紬に横柄な態度を取った他部署のベテラン部長が、翌朝九時にコンプライアンス違反で即日解雇。

紬の担当記事に粘着していた悪質なクレーマーが、投稿からわずか三十分で土下座の謝罪文を残してアカウントごと完全消滅。

そして極め付けは、先月の東都エージェンシーの神崎プロデューサーよ。業界の花形だった男が、紬にセクハラまがいの圧力をかけた直後、過去の横領と女性問題の動かぬ証拠を完璧に突きつけられ、地球の裏側の南米チリ支社へ永久追放された」


莉緒の眼差しが、一段と鋭さを増す。


「普通のOLの身の回りで、こんな神がかり的な自浄作用が立て続けに起きると思う? 偶然が一度なら幸運、二度なら奇跡。でも十回続けば――それは意図的な工作よ。何者かが、国家警察並みの情報網と法務部を使って、紬に近づく人間を片っ端からスクラップにしているのよ」


「……随分と想像力が豊かだね、莉緒ちゃん」


保科は動じず、静かに足を組み替えた。


「だが、それが僕とどう関係あるんだい? 僕はただの町医者だよ」


「町医者? 白々しいこと言わないで!」


莉緒は身を乗り出し、机の上に手帳をバシッと叩きつけた。


「第三の点。先週の伊豆旅行よ!!」


診察室の壁に、莉緒の毅然とした声が響く。


「紬から聞いたわ。一泊数十万の老舗迎賓館『翠巒亭』の全館貸し切り。

そこに、なぜか仲居頭の着物を着て現れた鷹見副社長の専属秘書・佐伯千冬。

電気工の作業着を着て全監視カメラを掌握していた社内エンジニア・成瀬郁。

夜間警備主任として竹林で不審者を狩り続けていた、紬の隣人の警備会社社長・梶原敦志。

深夜にわざわざ東京から駆けつけて廊下を見張っていた鷹見征司」


莉緒は保科の鼻先数センチまで顔を近づけた。


「そして――その旅館の医務室に、有給休暇を取って『専属嘱託医』として白衣で張り付いていた、あなたよ!!」


「…………」


「全員が揃っていたのよ! 紬の生活圏を取り囲む四人のハイスペック男子と、その取り巻きが! それぞれ別の身分に偽装して、一人の女の子の社員旅行にストーカーみたいに張り付いていたのよ! これが偶然で片付くと思う!?」


完璧な包囲網の開示。


逃げ場のない、圧倒的な事実の羅列。


莉緒は呼吸を整え、冷徹な声で核心を突きつけた。


「鷹見征司。成瀬郁。梶原敦志。そして、保科貴文。……あなたたち四人は、紬を巡って裏で同盟を結んでいる。誰か一人が抜け駆けしないように監視し合いながら、あの子を外敵から隔離し、自分たちの都合のいい『無菌室』の中に飼い殺しにしているんでしょう!?」


莉緒の瞳には、親友を理不尽な檻から救い出そうとする、不屈の正義と怒りの炎が燃え盛っていた。


「答えなさいよ、保科先生。……あなたたち、あの子を閉じ込めて、一体何をするつもりなの!?」


◇


沈黙。


診察室の中は、針の一本が落ちても響くほどの、恐ろしいまでの静寂に包まれた。


莉緒の放った鋭利な告発が、壁に跳ね返り、空気を震わせている。


しかし――


机の向こう側に座る男は、動揺するどころか、身じろぎ一つしなかった。


保科貴文は、机の上に置かれていた眼鏡を、ゆっくりと、音もなく手に取った。


そして――それを再び、自らの鼻梁へと戻した。


カチリ。


フレームが収まったその瞬間。


保科の顔から――それまで浮かんでいた「柔和な幼馴染のお兄さん」の仮面が、氷が融解するように、完全に剥ぎ取られた。


「…………」


スッ、と保科の瞳から温度が消え去った。


光彩のない、底知れぬ漆黒の闇。


感情の揺らぎすら存在しない、絶対零度の静謐。


世界中のあらゆる人間の精神を、レントゲン写真のように冷酷に透視し、解体してきた、本物の怪物の眼差しだった。


保科は椅子の背もたれからゆっくりと身体を起こした。


白衣の袖口を正し、机の上の万年筆を手に取ると、カチリとキャップを外す。


その仕草の一つひとつが、信じられないほど静かで、そして息が詰まるほどの圧倒的な威圧感を放っていた。


莉緒の背筋に、ゾワリと総毛立つような悪寒が走る。


(な……に……? この、空気は……)


目の前にいるのは、幼い頃から知っている、あの穏やかで優しかった「タカちゃん」ではない。


他者の命と精神を、指先ひとつで弄ぶことのできる、完全なる捕食者の気配。


保科は万年筆を机の上にトンと立て、冷え切った声音で、静かに呟いた。


「……莉緒ちゃん」


低く、耳の奥に直接染み込んでくるような、冷酷なバリトンボイス。


「君は昔から、勘が良すぎるのが玉に瑕だね」


その言葉とともに、保科は静かに立ち上がった。


そして――診察室の入り口へと、音もなく歩みを進めたのだった。

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