第39話:幼馴染の仮面が剥がれる時
カチリ。
防音仕様の重厚なドアノブの根元で、サムターンが回る硬質な金属音が、静まり返った診察室の空気を鋭利に切り裂いた。
日下部莉緒の細い背筋を、氷水のような悪寒がツツツと駆け抜けた。
南青山の高級クリニック。二重サッシと吸音壁によって外界のクラクションや街の喧騒から完全に遮断された、十畳ほどの診察室。その唯一の脱出経路である扉に、内側から完璧な施錠が施されたのだ。
白衣を纏った男――保科貴文は、鍵を回した右手をゆっくりとドアノブから離すと、音もなく振り返った。
その顔には、先ほどまで浮かんでいた「優しく柔和な幼馴染のお兄さん」の面影など、塵芥ほども残されていなかった。
銀縁眼鏡の奥で細められた切れ長の瞳。その光彩は、深海の底のように光を一切跳ね返さず、ただ底なしの闇だけを湛えている。唇の端に刻まれていた営業用の微笑みは消え去り、彫刻のように整っていながらも、生きた人間の温もりを完全に喪失した無機質な貌がそこにあった。
「……莉緒ちゃん」
保科の声は、低く、湿り気を帯びていた。
鼓膜を揺らすというよりは、頸椎の奥に直接冷たい針を刺し込まれるような、抗い難い威圧感。
「君は昔から、勘が良すぎるのが玉に瑕だね」
保科は白衣のポケットに両手を滑り込ませると、音もなく足を進めた。
カツ、カツ、と莉緒の履くルブタンのヒールが立てていたような派手な音は一切しない。まるで床に吸い付くような、無音の滑走。
保科は診察机を回り込み、莉緒の座る回転椅子の真横、わずか数十センチの位置で足を止めた。
至近距離から漂ってくるのは、消毒液と微かな白檀の冷たい芳香。見下ろしてくる長身の影が、天井の間接照明を遮り、莉緒の身体をすっぽりと黒い影の中へと飲み込んでいく。
「…………っ」
莉緒は喉の奥をキュッと締め付けられるような圧迫感を覚えながらも、決して視線を逸らさなかった。
外資系コスメブランドのPRとして、魑魅魍魎の跋扈する社交界を渡り歩いてきた女の矜持。ここで目を伏せれば、二度と顔を上げられなくなるという野生の直感が、彼女の顎を誇り高く保たせていた。
莉緒は脚を組み直すこともせず、両膝の上で革の手帳を握りしめ、冷徹な声で応じた。
「……鍵をかけるなんて、物騒な真似をしてくれるじゃない、保科先生。患者を密室に監禁して脅迫するのも、あなたのクリニックの特別な治療方針かしら?」
「監禁だなんて、人聞きの悪いことを言わないでおくれ」
保科はふっと、わずかに首を傾げた。その仕草すら、獲物の骨の構造を観察する解剖医のように冷淡だった。
「防音ドアの施錠は、患者の極めてセンシティブな個人情報を守るための正当なプライバシー管理手順だよ。……君が今、この部屋に持ち込んだ話題は、あまりにも劇薬で、世間一般の法と倫理の枠組みを容易に焼き切ってしまうものだからね」
保科は診察机の端に片手を置いた。
その指先が、机の上に置かれていた莉緒の手帳――四人の男たちの行動ログと不可侵条約の仮説がびっしりと書き込まれた手帳の表紙を、トントンと規則正しいリズムで叩いた。
「見事な調査結果だ。正直、感服したよ」
保科の口元に、嘲弄にも似た薄い笑みが浮かんだ。
「鷹見グループによるマンションの登記偽装、神崎をはじめとする害虫たちの社会的な消滅、成瀬くんの通信掌握、梶原さんの物理的警護網、そして先週の伊豆の迎賓館『翠巒亭』における全方位的な潜入体制……。すべて、君の推察通りだよ。何ひとつ間違っていない」
「……あっさりと認めるのね」
「隠す理由がないからね。君がここまで正確に外堀を埋めて本丸に到達している以上、下手に誤魔化すのは医学的にも非効率だ」
保科はスッと瞳を細めた。
その瞬間、彼の視線が、莉緒の顔面から首筋、そして指先へと、一瞬の間に走った。
「……現在時刻、午後六時三十八分。君の瞳孔径は四・五ミリメートルまで散大し、頸動脈の拍動は目視で確認できるほど亢進している。胸鎖乳突筋の過度な硬直、ならびに呼吸数は毎分二十二回。……強気な口調とは裏腹に、君の自律神経は今まさに『闘争か逃走か(Fight or Flight)』の極限的な交感神経緊張状態に悲鳴を上げているよ、莉緒ちゃん」
「っ……!」
「指先がわずかに震えているね。膝の上でバッグを握りしめる握力は、通常の三倍以上に達している。……恐怖しているんだろう? 目の前にいる男が、かつて紬ちゃんと一緒に泥遊びをしていた『優しいタカちゃん』などではなく、法と倫理の向こう側に足を踏み入れた怪物だと、その聡明な脳が理解してしまったからだ」
保科の淡々とした医学的観察の言葉が、莉緒の防壁を容赦なく剥ぎ取っていく。
心拍が跳ね上がり、冷汗が背筋を濡らす。
相手は精神科と心身医学の権威だ。人間の肉体と精神のメカニズムを知り尽くし、どの神経を圧迫すれば人間が絶望し、どの言葉を投げかければ精神の平衡が崩壊するかを、ミリ単位で把握しているプロフェッショナルなのだ。
しかし――莉緒は奥歯をギリリと噛み締め、震えそうになる唇を無理やり吊り上げた。
「……ええ、そうね。鳥肌が立つほど気持ち悪いわよ、あなたたちのやってることは」
莉緒はまっすぐに保科の眼鏡の奥を睨み据えた。
「何が『不可侵条約』よ。何が『世界で一番安全な無菌室』よ! あの子がどれだけ生真面目で、純粋で、自分の力で一生懸命生きようとしているか……幼馴染のあなたなら、誰よりも分かっているはずでしょう!?」
莉緒の声に、親友としての激しい怒りの炎が宿る。
「家賃三万の部屋に住まわせて、周囲の人間を勝手に神隠しにして、旅行先まで全員でストーカーみたいに包囲して……! あの子が吸う空気の成分までコントロールして、何が楽しいの!? あの子はあなたたちのペットじゃない! お人形遊びの道具じゃないのよ!!」
診察室の静寂を揺るがす、魂からの糾弾。
しかし――その言葉を受け止めた保科の表情は、怒るでもなく、動じるでもなく、ただ哀れな患者の譫言を聞き流す精神科医のように、どこまでも冷ややかだった。
「……ペット? お人形遊び?」
保科は微かに息を吐き、静かに首を横に振った。
「心外だな。君のような粗雑な言葉で、僕たちの崇高な防衛体制を汚さないでおくれ」
「崇高……!?」
「そうとも」
保科は白衣の胸元に手を当て、自らの心臓の鼓動を確かめるように目を細めた。その横顔には、宗教的な殉教者すら想起させる、恐るべき純度の「信仰」が宿っていた。
「莉緒ちゃん。君は大学時代、紬ちゃんがどんな目に遭ったか、もう忘れてしまったのかい?」
「…………!」
莉緒の呼吸が、喉の奥で詰まった。
大学時代。
三島――紬を精神的な泥沼へと突き落とし、人間不信寸前にまで追い詰めた、あの陰湿で執拗な元ストーカーの男。
「彼女はね、他人の悪意を疑うことができないんだ」
保科の声が、低く、暗い熱を帯びていく。
「誰に対しても真面目で、誠実で、お人好しで……理不尽な暴力を振るわれても『私の努力が足りなかったのかもしれない』と自分を責めて笑ってしまう。そんな彼女の無垢な魂を、この薄汚い社会の有象無象どもが、どれほど残酷に搾取し、踏みにじろうとしてきたか……君にも見えていたはずだろう?」
保科の瞳の奥で、青黒い炎がメラメラと燃え上がった。
「角田のようなパワハラ上司、匿名で彼女を罵倒するネットのクレーマー、そして先月の神崎のような、地位と権力で彼女を弄ぼうとした広告代理店のゲス野郎……! もし僕たちが手を下さなければ、彼女はどうなっていたと思う? 傷つき、涙を流し、その太陽のような笑顔を永久に曇らせていたはずだ!!」
ダンッ、と保科の手が診察机を静かに叩いた。音は小さいが、その衝撃は机を震わせるほど重かった。
「僕たちが何をしていようと、紬ちゃんは傷ついていない」
保科は莉緒の瞳を、至近距離から真っ直ぐに見据えた。
「彼女は毎朝、誰にも邪魔されずに澄んだ空気を吸い、大好きな編集の仕事に情熱を注ぎ、仲間と笑い合い、美味しいものを食べて、夜は温かいベッドでぐっすりと眠っている。……彼女は今、この東京という巨大なコンクリートジャングルの中で、【世界で一番安全で、幸せな環境】にいるんだよ」
「それは……あなたたちが作った偽物の平和でしょう!?」
「結果として彼女が心から笑えているなら、その過程が虚構であろうと真実であろうと、医学的には何の違いもない!」
保科の断言には、一切の迷いがなかった。
狂気。だが、その狂気はあまりにも精緻で、あまりにも強固な論理の鎧に守られていた。
保科はスーッと荒い呼気を整え、再び氷のような冷徹なトーンへと声音を戻した。
「……だからね、莉緒ちゃん」
保科は一歩、莉緒の前へと踏み出した。
その影が、莉緒の全身を完全に覆い尽くす。
「それを暴いて彼女を怯えさせようとするなら――たとえ紬ちゃんの親友である君でも、僕は排除を躊躇しないよ」
ゾクリ。
その瞬間、莉緒の全身の産毛という産毛が、一斉に逆立った。
言葉の重み。
それは、ただの脅しやハッタリでは決してない。
この男は、本気だ。
もし自分が紬に真実を話し、この完璧な無菌室に亀裂を入れようとした瞬間――この男は、自らの手で、自分の人生を完全に解体しにかかる。
保科は白衣のポケットから、一本の万年筆を取り出し、机の上のメモ用紙にサラサラとペン先を走らせた。
「君の勤務先である外資系コスメブランド『エトワール・ジャポン』。素晴らしい会社だね。だが、来期の全社プロモーション予算の配分において、我が鷹見ホールディングスの傘下にある商業施設への出店計画が、全体の四十パーセントを占めていることは知っているかい?」
「……っ」
「鷹見副社長が一言『契約を見直せ』とサインするだけで、君の会社は巨額の赤字を抱え、君の率いるPRチームの予算はすべて凍結される。……さらに、成瀬くんの手にかかれば、君のスマートフォン、PC、SNSの裏アカウント、過去の交友関係のプライベートな写真に至るまで、今夜のうちにすべて丸裸にされ、ネット上へ完全に流出する」
保科はメモを莉緒の目の前に滑らせた。
そこには、莉緒が過去に親しい友人たちにしか話していないはずの、プライベートな行動記録や家族構成の概要が、几帳面な文字で記されていた。
「そして……僕の専門領域だ」
保科の眼鏡の奥が、妖しく光った。
「君が明日から、いかに『紬の周りの男たちは狂っている』と叫ぼうとも……僕が港区の医師会、ならびに法曹界の重鎮たちに向けて『重度の被害妄想、ならびに誇大妄想を主徴とする統合失調症様精神障害の疑い』という確定診断書を発行すれば、どうなると思う?」
「な……!?」
「君の言葉は、すべて『哀れな精神疾調者の妄言』として処理される。警察も、君の会社の上層部も、誰も君の言葉に耳を貸さなくなる。……君を強制入院させるための医療保護入院同意書を揃えることなど、僕の立場をもってすれば三十分もかからないんだよ」
逃げ場のない、四重の包囲網。
鷹見の経済的暗殺。
成瀬のサイバー的抹殺。
梶原の物理的封殺。
そして――保科貴文による、医学的・社会的完全拘束。
この男たちは、国家機関すら動かしかねない強大な力を、ただ「一人の少女の笑顔を守るため」だけに、平然と私物化し、武器として行使できる狂人たちなのだ。
診察室の空気は、息を吸い込むことすら躊躇われるほどの絶対零度へと沈み込んでいた。
莉緒の唇から、血の気が完全に引いていた。
震える指先。冷え切った足先。
本物の権力と狂気が融合した怪物を前にして、普通の女性であれば、その場で泣き崩れて許しを請うていただろう。
――しかし。
日下部莉緒は、屈しなかった。
莉緒は膝の上でぎゅっと握りしめていた拳に、爪が手のひらの肉に食い込むほどの力を込めた。激痛が、麻痺しかけていた理性を覚醒させる。
そして――
莉緒は組んでいた脚をゆっくりと解くと、背筋をピンと伸ばし、保科の冷酷な眼差しを真正面から睨み返したのだ。
「……ふっ」
莉緒の紅を引いた唇から、乾いた冷笑が零れ落ちた。
「脅しの手際も、完璧ね。さすが、セレブ御用達の精神科医様だわ」
「ほう?」
保科がわずかに眉を動かす。
莉緒は机の上に置かれていた自分の手帳を、迷いのない手つきで掴み取ると、バッグの中へと力強くしまい込んだ。
その瞳には、恐怖を完全にねじ伏せた、不屈の知性と友情の光がギラギラと燃え盛っていた。
「自分の力を見せつけて、私を怯えさせれば、すべてが思い通りになると思った? ……甘く見ないでよ、保科貴文」
莉緒は椅子からすっと立ち上がった。
ハイヒールの踵を鳴らし、保科と視線の高さを合わせる。
「あなたたちのやってることはね、愛なんかじゃないわ」
莉緒は一歩も引かず、保科の鼻先へと言葉を叩きつけた。
「それはただの、肥大化した独占欲と自己満足よ。あの子が傷つくのを恐れているんじゃない。あの子に嫌われるのが怖くて、あの子が自分以外の世界を見るのが怖くて……四人で傷を舐め合いながら、あの子を鳥かごに閉じ込めているだけじゃないの!」
「…………」
「あの子が本当に望んでいるのは、誰かが作った無菌室なんかじゃない。自分の足で立って、自分の頭で考えて、泣いたり笑ったりしながら、不完全な世界を生きていくことよ! あの子からその機会を奪って『世界一幸せだ』なんて……虫唾が走るわ!!」
診察室の壁に、莉緒の毅然とした叫びが反響する。
保科の表情筋が、微かにピクリと動いた。
莉緒は冷え切った目で、目の前の幼馴染の怪物を一刀両断にした。
「……やっぱり狂ってるわ、あなたたち」
吐き捨てるように告げられた、決定的な拒絶の言葉。
二人の視線が、火花を散らして衝突する。
一秒。
二秒。
三秒。
静寂の中、時計の秒針の音だけが、チク、タク、と虚しく時を刻んでいた。
やがて――
保科の口から、ふっと微かな吐息が漏れた。
「……はぁ」
保科は銀縁眼鏡のブリッジを押し上げると、先ほどまでの張り詰めた殺気を、まるで最初から存在しなかったかのようにスッと霧散させた。
その顔に、再びプロの精神科医としての、穏やかで柔和な微笑みが戻ってくる。
しかし――その瞳の奥には、先ほどよりも遥かに深い、底知れぬ闇が沈殿していた。
「……素晴らしい友情だね、莉緒ちゃん」
保科は静かに身を引くと、ドアの方へと歩み寄った。
カチリ。
サムターンが回され、防音ドアのロックが解除される。
保科はドアを細く開けると、会釈とともに通路を指し示した。
「今夜のところは、これくらいにしておこうか。……君の言う通り、僕たちは狂っているのかもしれない。だがね、莉緒ちゃん」
保科の低く穏やかな声が、莉緒の背中に投げかけられた。
「この狂気があるからこそ、紬ちゃんは今日も、明日も、明後日も、世界で一番安全な場所で笑っていられるんだよ。……その笑顔を壊す権利は、たとえ親友である君にだって、絶対にありはしない」
「…………」
「夜道は冷える。気をつけて帰りなさい」
完璧な、非の打ち所のない「優しい幼馴染」の挨拶。
莉緒は振り返ることもなく、ハイヒールを鳴らして診察室を後にした。
カツ、カツ、カツ、と遠ざかっていく靴音。
クリニックのエントランスの自動ドアが開き、夜の南青山の冷たい闇の中へと、莉緒の背中が消え去っていった。
◇
一人残された診察室で、保科貴文は、ゆっくりと扉を閉めた。
机の上には、先ほど莉緒の個人情報を書き殴ったメモ用紙が残されている。
保科は万年筆を胸ポケットに戻すと、白衣の内ポケットから、男四人専用の最高機密ホットライン端末を取り出した。
画面をタップし、暗号化グループ通話を立ち上げる。
わずか一秒で、三つの回線が同期した。
『……保科か』
鷹見征司の冷徹な声が響く。
『何かあったのか。貴様からこの時間に通信を入れてくるとは珍しい』
「ええ、鷹見さん」
保科はデスクの椅子に腰を下ろし、冷えたお茶を一口含んだ。
「報告があります。……先ほど、僕のクリニックに日下部莉緒が突撃してきました」
『何だと!?』
受話器の向こうで、成瀬郁の素っ頓狂な声が跳ね上がった。
『莉緒ちゃんが!? 九重さんのバーの次は、保科先生のところに行ったの!?』
『……どこまで知られている』
梶原敦志の地底のような重低音が割り込んでくる。
「すべて、ですよ」
保科は淡々と告げた。
「四人の不可侵条約の存在、役割分担、神崎の排除、そして伊豆の迎賓館の潜入工作に至るまで……完璧にプロファイリングされていました。彼女の調査能力は、僕たちの想定を遥かに超えています」
『排除するか』
梶原の短い一言。回線の向こうで、タクティカルナイフの鞘が鳴る音が微かに響く。
『今夜のうちに動線を断つ。紬の生活圏から、事故に見せかけて一時的に隔離する』
『待て、梶原』
鷹見の威厳ある制止が入った。
『日下部莉緒は、紬にとって唯一無二の親友だ。もし彼女が突然神隠しに遭えば、紬が受ける精神的打撃は計り知れん。……それこそが条約の絶対規範に抵触する』
「鷹見さんの仰る通りです」
保科は静かに頷いた。
「莉緒ちゃんには、僕の方から十分すぎるほどの医学的・法的威嚇を与えておきました。聡明な彼女のことですから、すぐに紬ちゃんに直接ぶちまけるような真似はしないでしょう。……ですが」
保科は銀縁眼鏡を外し、冷たい夜の窓の外を見つめた。
「彼女の瞳には、一切の屈服の色がありませんでした。……監視網の存在を察知した外敵が、紬ちゃんのすぐ隣に居座り続けている。この事実は、我が不可侵条約にとって、過去最大の【潜在的爆弾】です」
『……成瀬』鷹見が命じる。『日下部莉緒の全端末、通信、動線を最高警戒レベルで監視しろ。彼女が紬と接触する兆候があれば、一秒たりとも見逃すな』
『了解……! バックドアはとっくに仕込んである。莉緒ちゃんの一挙一動、二十四時間体制で監視するよ!!』
通話が切れた。
保科は端末を机の上に置くと、深く、深くソファーの背もたれに身体を沈めた。
外敵は退けた。
しかし――完璧だったはずの無菌室のガラスに、目に見えない微細なヒビが、確実に刻まれ始めていた。
親友の鋭い直感と、狂人たちの絶対防衛網。
二つの知性が激突した南青山の夜は、やがて訪れる【日常の崩壊】へ向けて、静かに、そして残酷に更けていくのだった。




