第37話:声優イベントの神席
十二月中旬の火曜日、午前十時。
冬晴れの澄み渡る陽光が差し込む『Lumiere』編集部のフロアは、締め切りを終えたばかりの平穏な空気に包まれていた。
しかし――窓際のデスクの一角だけは、まるで局地的な低気圧が発生したかのように、重苦しくどんよりとしたオーラが立ち込めていた。
「…………うぅ」
デスクの上に突っ伏し、額をキーボードのパームレストに押し当てて小さく呻いていたのは、槇原紬だった。
淡いスモーキーピンクのニットに身を包んだその背中は、見るからにしょんぼりと丸まり、普段の元気いっぱいな彼女からは想像もつかないほど打ちひしがれていた。
「ちょっと紬、いつまで屍やってんのよ。パソコンの画面がスリープに入ってるわよ」
隣の席からオフィスチェアを滑らせてきた関茉莉花が、淹れたてのブラックコーヒーのマグカップをデスクに置きながら、苦笑交じりに声をかけた。
紬はのろのろと顔を上げた。
その大きな瞳の端には、じわりと涙の膜が張っていた。
「茉莉花先輩……私、もう駄目です……。生きる希望が、光の彼方へ消え去ってしまいました……」
「大げさねえ。……で、やっぱり一般販売も駄目だったわけ?」
「はい……」
紬は力なくマウスを握り、スリープを解除したモニターを指差した。
画面に表示されていたのは、チケット販売サイト『イープラス・プレミア』の購入画面。
そこには、残酷極まりない太字の赤文字で、無情なシステムメッセージが点滅していた。
『【聖銀の騎士団】公式ファン感謝プレミアムナイト〜銀嶺の誓い〜』
『一般先着販売:予定枚数は終了いたしました(完売御礼)』
「午前十時ジャストに時報に合わせてクリックしたんです……! でも、画面がぐるぐる回って『アクセスが集中しています』ってエラーが出て……リロードできた時には、わずか三秒で全席完売してました……」
紬は両手で顔を覆い、机に突っ伏した。
「先行抽選も外れて、昨夜のキャンセル戻りも駄目で、今朝の一般先着も秒殺……。ギルバート卿役の声優・神宮寺レンヤさんが生アフレコを披露するって聞いて、どうしても、どうしても行きたかったのに……! 生であの『我が剣は汝を守るためにある』を聞きたかったのにぃぃ……!」
「まあ、諦めなさいって。神宮寺レンヤよ? 当代きっての人気声優で、倍率百倍超えのプラチナチケットって言われてたじゃない。キャパ二千人のパシフィコ横浜で、全国のオタク女子何十万人がアクセスしてるんだから、取れるわけがないのよ」
茉莉花はコーヒーをすすりながら、紬の背中をポンポンと優しく叩いた。
「ほら、ブルーレイの特典ディスクにダイジェスト映像がつくって言ってたじゃない。円盤買って、家でポップコーンでも食べながら観ましょ」
「うぅ……はい……そうですよね。行けないものは仕方ないですよね……」
紬はぐずぐずと鼻をすすり、健気にも無理やり唇の端を上げて笑顔を作ろうとした。
「私なんて、普段お仕事ばっかりで徳を積んでないから……本当に当たった熱烈なファンの方々が、楽しんでくださればそれでいいんです……。うん、お仕事頑張ろう……」
しょんぼりと眉を下げ、悲しみを押し殺して健気にエクセルファイルを開こうとする紬。
そのいじらしく、あまりにも切ない横顔。
――しかし。
彼女のパソコンのウェブカメラ、天井に埋め込まれた防犯カメラ、そして彼女のスマートフォンのマイクを通して、その哀痛の吐息をミリ秒単位で受信していた男がいた。
◇
地下三階、機械管理区画の深淵。
成瀬郁のプライベート・ラボラトリー。
ズズズズズ……と、数十台の特注サーバーラックが排熱ファンの唸りを上げる薄暗い部屋の中で、成瀬の全身から、恐ろしいほどの青白い闘気が立ち上っていた。
「……あ?」
成瀬の瞳から、光が完全に消え去っていた。
モニター越しに見える、涙を堪えて無理に笑おうとしている紬の姿。
成瀬の心臓が、ガラスの破片で抉られたかのように激しく痛んだ。
「紬さんが……泣きそうになってる……? 紬さんが、あんなにしょんぼりして、健気に諦めようとしてる……?」
カタカタカタカタカタッ……!
成瀬の指先が、怒りと使命感で限界まで痙攣した。
昨日の午後、鷹見征司が「髪を銀髪に染める」などという愚行に走り、千冬に阻止されて自爆したばかりだ。
今こそ――この情報化社会の頂点に君臨する、成瀬郁の真の力を見せつける時ではないか!
「許さない……チケット販売会社め……! 紬さんに『予定枚数は終了いたしました』だと……!? この世に紬さんが欲しがって手に入らないチケットが存在していいわけがないだろォォォッ!!」
成瀬はリクライニングチェアを蹴り倒すように立ち上がると、コンソールの主幹ターミナルへ飛びついた。
しかし――成瀬の脳裏に、かつて男四人で締結した【不可侵条約】、そして昨日可決されたばかりの【推し活支援条約】の鉄の掟がよぎった。
【ルール1:不正アクセスによるチケットデータの直接改ざんは禁止】
もしチケット販売会社のデータベースをハッキングして座席を無理やりねじ込めば、入場時の電子チケット照合でエラーが出るリスクがある。万が一にも紬が「不正入場の疑い」でスタッフに呼び止められ、恥をかかされたり怯えたりする事態は、天地が裂けても許されない。
【ルール2:紬への直接手渡し(抜け駆け)の禁止】
成瀬が「紬さん、僕がチケット取ってあげましたよ!」と直接渡せば、即座に鷹見の法務部、保科の精神安定剤、梶原の特殊警棒が成瀬の首根っこをへし折りに来る。何より、紬に「どうして成瀬くんがそんなプラチナチケットを……?」と不審に思われてはならない。
「……いいよ。受けて立つ」
成瀬の唇が、狂気と天才の笑みを浮かべて吊り上がった。
「不正アクセスなんて三流のやることだ。……僕がやるのは、【合法的な完全物理制圧】だよ」
成瀬の指先が、目にも留まらぬ速度でキーボードの上を疾走し始めた。
カタカタカタカタカタカタカタカタッ――ターン!
画面に次々と展開される、見たこともない通信解析インターフェース。
「ターゲット:『イープラス・プレミア』のチケッティング・コアサーバー。設置場所は……江東区有明のデータセンター、ラック番号B-24。
サーバーのOS、Webサーバーソフト、データベースのトランザクション処理速度、すべて把握した」
成瀬は、自作の超高速通信スクリプトを呼び出した。
「一般販売は完売した……でも、関係者席の開放枠、決済エラーによる自動キャンセル戻り枠が、本日正午ちょうどに【二席】だけ、システム内部で再放流されるルーチンが組まれている!」
成瀬はチケット会社の内部プログラムのソースコードを、リバースエンジニアリングで完全に丸裸にしていた。
「正午ジャストのキャンセル戻り……一般のオタクが手動でリロードしても、絶対に間に合わない。コンマ数秒の世界だ。……なら、僕が回線そのものを独占するまで!」
成瀬は通信キャリアの基幹ルーターにアクセスした。
自らのラボラトリーから、有明のデータセンターまでの光ファイバー回線。その中継スイッチの優先パケット制御(QoS)をミリ秒単位で書き換え、成瀬の送信する購入リクエストが、日本のどの端末よりも最速――遅延時間〇・二ミリ秒(二百マイクロ秒)でチケットサーバーのCPUへ到達する「専用の光の高速道路」を構築したのだ。
「さらに、チケット会社の購入フォームの入力処理! 氏名、クレカ情報、セキュリティコードの入力を、人間が打つのではなく、ミリ秒単位で事前生成された暗号トークンで直接APIサーバーへ叩き込む自作ボットをスタンバイ!」
画面のデジタルクロックが、カウントダウンを刻む。
午前十一時五十九分五十秒。
五十五秒。
五十七秒。
五十八秒。
五十九秒――
十一時五十九分五十九秒九九八。
「――落ちろッッ!!」
成瀬が、浑身の力でエンターキーを叩き込んだ。
バチィンッ!!
光回線を駆け抜けた単一の暗号化パケットが、チケットサーバーの決済トランザクションへ、日本の誰よりも早く、神の速度で突き刺さった。
画面が激しく明滅し、一秒の静寂の後――
ピロリロリ〜ン♪
澄んだファンファーレとともに、画面中央に信じられない文字がポップアップした。
【購入完了:決済承認コード:AUTH_SUCCESS_777】
【公演名:聖銀の騎士団 公式ファン感謝プレミアムナイト】
【日時:十二月二十四日開場十七時/開演十八時】
【会場:パシフィコ横浜・国立大ホール】
【座席番号:アリーナ1列 12番(最前列中央・通称【0番席】)】
「……と、獲ったァァァァァァァァァァッッッッ!!!!」
成瀬は両拳を天に突き上げ、防音のラボラトリーで狂喜の雄叫びを上げた。
「アリーナ一列十二番……! 最前列の、ど真ん中!! 声優の神宮寺レンヤが立つセンターステージのマイクの、真ん前三十センチのゼロ番席だよ!!」
正真正銘、正規の購入ルートを通じた、技術の力だけで勝ち取った世界で唯一の奇跡のチケット。
しかし――成瀬のミッションは、まだ半分残っていた。
「よし……次は【偽装工作】だ」
成瀬の瞳が、再び鋭いハッカーの光を取り戻す。
条約違反を回避しつつ、このチケットを紬に届けるための完璧なピタゴラスイッチ。
「鷹見グループが協賛している某大手エンタメ広告代理店のメールサーバーを踏み台にして……『Lumiere』編集部の代表アドレスへ、公式のプレスリリースを偽装電送する!」
成瀬はカタカタと偽装メールを生成した。
『発信元:【聖銀の騎士団】製作委員会・メディア広報部』
『宛先:株式会社Lumiere 編集部御中』
『件名:【特別取材ご招待】ファン感謝プレミアムナイト・メディア特別ご招待席のご案内(余剰枠の優先配分)』
『本文:貴メディアにおける日頃のエシカル&エンタメ特集の素晴らしい反響に敬意を表し、関係者招待席のうち最前列プレビューシート(アリーナ1列12番)を、貴社女性編集者様向けに1席、特別優先供与いたします。取材・レポート記事の執筆は任意で構いません。つきましては、貴編集部内で最も本作品に造詣の深い編集担当者様へお渡しいただけますと幸甚に存じます』
「完璧……!!」
成瀬は満足げに笑い、送信ボタンをクリックした。
「あとは、編集長が紬さんに手渡すだけ……! 僕の神業、とくと味わってよね、紬さん!!」
◇
午後一時。昼休みが明けたばかりの『Lumiere』編集部。
自席でため息をつきながら、午後の校正作業を再開しようとしていた紬の元へ、フロアの奥から編集長が小走りで駆け寄ってきた。
その手には、上質な透かし入りの封筒が握られている。
「おーい、槇原! ちょっといいか!」
「は、はい! 編集長、何でしょうか?」
紬が慌てて立ち上がると、編集長はその封筒を、ポンと紬のデスクの上に差し出した。
「これ、さっき編集部の公式メールに届いたんだがな。アニメの【聖銀の騎士団】の製作委員会から、うちの編集部宛てに、今週末のプレミアム感謝イベントの【特別メディア招待状】が回ってきたんだよ」
「……え?」
紬の思考が、一瞬停止した。
「せ、聖銀の騎士団……の、招待状……ですか?」
「ああ。なんでも、うちのライフスタイル特集が業界で話題になってるらしくてな。『一番作品に詳しい編集者に渡してほしい』って特命で届いたんだ。うちの編集部で、あのアニメに一番熱中してるのって、お前だろ? 朝礼の後、給湯室で熱弁してたって関から聞いたぞ」
「え、ええええっ!?」
紬は目をまん丸にして、デスクの上の封筒を見つめた。
隣の席の関茉莉花も、椅子をガタッと鳴らして身を乗り出した。
「ちょっと編集長、嘘でしょ!? あの倍率百倍のプレミアイベントの招待枠が、なんでファッションWEBメディアのうちに回ってくるのよ!?」
「俺も驚いたよ。まあ、関係者席の余剰枠を親密なメディアに配分するのは業界じゃたまにあることだが……運がいいとしか言いようがないな。ほら槇原、中開けてみろ」
紬はガタガタと震える手で、封筒の封を丁寧に開いた。
中から滑り出てきたのは、金箔押しの豪華なピクチャーチケット。
そこに印字されていた文字を読んだ瞬間、紬の喉から、息を呑むような微かな悲鳴が漏れた。
「ア……アリーナ……1列……12番……?」
「はァ!?」
茉莉花がチケットを横から覗き込み、絶叫した。
「一列十二番って……アリーナの最前列の、ど真ん中じゃないの!! いわゆる【ゼロ番席】よ!? ステージの神宮寺レンヤの立ち位置の真ん前よ!? ちょっと紬、あんたこれ、数百万出しても手に入らない本物の神席よ!?」
「ぜ、ゼロ番席……!?」
紬の手が、カタカタと激しく震え出した。
信じられない。
つい二時間前まで、一般販売に落選して「生きる希望が消えた」と机に突っ伏して泣きそうになっていたのだ。
それが――公式の招待枠として、編集部にたった一枚だけ舞い込み、あまつさえその席が、会場で最も尊い「最前列のセンター」だなんて。
「神様……」
紬はチケットを胸に抱きしめ、涙をポロポロと零しながら、フロアの真ん中でその場に飛び跳ねた。
「神様、ありがとうございますぅぅぅぅぅっ!! 私、行ける……! 生でギルバート卿に会える……! しかも最前列のど真ん中で、あの声を聞けるなんて……!!」
紬はぴょんぴょんと飛び跳ね、満開の笑顔で両手を合わせた。
「私、やっぱり世界一ツイてる! 真面目にお仕事頑張ってて本当によかった! 編集長、ありがとうございます! 最高の取材レポート、原稿用紙五十枚分書きます!!」
「お、おう、そんなに書かなくていいから楽しんでこい!」
編集部中が温かい拍手と笑い声に包まれる。
紬は飛び切りの笑顔でチケットを何度も見つめ、頬を染めて幸せそうに胸を押さえていた。
◇
一方その頃。
地下三階、成瀬郁のラボラトリー。
「ぶふっ……!!」
モニター越しに、天使のように飛び跳ねて歓喜する紬の姿を見た瞬間。
成瀬の鼻から、タラリと鮮血が一筋、勢いよく吹き出した。
「ぐふっ……! 尊い……! 紬さんの笑顔が……可愛すぎて……致死量の光を浴びた……!」
成瀬はティッシュの箱を引っ掴み、鼻血を両方の鼻の穴に詰め込みながら、椅子の上で悶絶した。
胸が熱い。心拍数は優に百六十を突破している。
スマートウォッチがけたたましく警告音を鳴らすが、成瀬の顔には、勝利と多幸感に満ち溢れた満面の笑みが浮かんでいた。
「ふふ……あははは! 見たか鷹見征司! 見たか保科貴文! 紬さんを一番幸せにしたのは、この僕だ!!」
成瀬は鼻にティッシュを詰めたまま、サーバールームの大型液体窒素冷却ファンの前へ駆け込み、上半身を冷気に晒して正座した。
「ふぅー……っ! 冷たい! でも頭が冷えない! 紬さん、喜んでくれた……! 最前列で、思う存分推し活を満喫してきてね……!」
ピリリリリ、ピリリリリ。
その時、成瀬の端末に、男四人の専用ホットラインから怒涛の通知が流れ込んできた。
【鷹見:成瀬。……貴様、何をした】
【保科:成瀬くん。編集部に届いたあの不可解な招待状のIPヘッダ、君の踏み台サーバーの痕跡が綺麗に残っていますよ。説明してもらおうか】
【梶原:……抜け駆けか。今すぐ貴様のラボの電源コードをすべて切断する】
成瀬はティッシュを替えて、嘲笑のメッセージを打ち返した。
【成瀬:抜け駆けじゃないもーん! 僕は紬さんに直接手渡ししてないし、見返りも求めてない! 正規の招待ルートを編集部に流しただけ! 推し活支援条約の規定通りでーす! 文句があるなら、僕よりすごい神席を取ってみせてよ、負け犬の皆さん〜!!】
画面の向こうで、三人の怪物が歯軋りする気配がビンビンと伝わってくる。
成瀬の完全勝利。
二次元の銀髪騎士を巡る最初の戦いは、天才ハッカーの神業によって、完璧なハッピーエンドを迎えた――かに見えた。
――しかし。
彼らはまだ、知らなかったのだ。
男たちが二次元の騎士相手に不毛なマウント合戦を繰り広げているその裏で。
南青山の街において、もう一つの「冷徹な知性」が、男たちの張り巡らした無菌室の欺瞞を暴くため、静かに、そして確実に牙を研ぎ澄ませていたことを。
親友・日下部莉緒の本格的な強襲。
幼馴染の精神科医・保科貴文のクリニックの扉を、彼女が単身で叩く運命の時は、すぐそこまで迫っていたのである。




