第35話:推し活という名の新章
六本木『ザ・クラウンタワー東京』の最上階、プレジデンシャル・スイート。
床に飛び散ったクリスタルグラスの破片と、無残に散らばった胃薬の空き袋。世界金融の破壊プログラムがスタンバイされ、神経麻酔の注射針と百二十万ボルトのスタンガンが抜き身のまま晒されていたこの密室は、つい数分前まで【第0次世界大戦】の火薬庫そのものだった。
それが、佐伯千冬が突きつけた一枚のタブレット画面――『覇権ファンタジーアニメ【聖銀の騎士団】・ギルバート卿名シーンまとめ』という、あまりにも平和で俗世的な真実によって、奇妙な静けさの中に取り残されていた。
パノラマウィンドウの向こうでは、夕闇に包まれた東京の街が、きらきらと無数のイルミネーションを瞬かせ始めている。
「……ふぅ」
千冬は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷え切った紅茶のカップをトレイに戻した。
「状況はご理解いただけましたね。紬様が『胸がキュッとなって夜も眠れない』と仰っていたのは、来週発売されるフィギュア付き特装版コミックスの抽選予約が外れるのではないかという、純粋極まりない物欲の不安によるものです。……皆様、各々の武器を速やかに収納し、正気にお戻りください」
カウンターの奥では、割れたシェイカーを片付け終えたチーフバーテンダーの九重圭が、両手で胃袋を擦りながら「助かった……本当に助かった……」と呟き、安堵の涙を拭っていた。
誰も死ななかった。無実のコンビニ店員も、若手デザイナーも、宅配ドライバーも、社会的にも物理的にも消滅させられずに済んだのだ。これでようやく、いつもの胃痛混じりの平穏が戻ってくる――。
九重は、そう信じて疑わなかった。
――しかし。
プレジデンシャル・スイートを支配する四人の怪物の脳内回路は、常人のそれとは根本から構造を異にしていた。
「…………」
ラウンドテーブルの上座。
ネクタイを締め直し、乱れた黒髪をかき上げた鷹見征司は、微動だにせず正面の大型スクリーンを見つめていた。
スクリーンいっぱいに映し出された、アニメ『聖銀の騎士団』のメインビジュアル。白銀の甲冑を纏い、月光を反射するプラチナシルバーの長い髪をなびかせ、切れ長の紫色の瞳でこちらを冷徹に見下ろす男――ギルバート・フォン・シルフィード卿。
鷹見の瞳の奥で、戻ったはずのハイライトが、再び不穏な暗色を帯びて揺らめき始めた。
「……千冬」
「何でしょうか、副社長。これ以上の妄言はお控えいただきたいのですが」
「あの男は……何だ」
鷹見の声は、氷の結晶のように研ぎ澄まされていた。
「何だ、とは? ですから申し上げた通り、大人気深夜アニメのメインキャラクターで――」
「そうではない」
鷹見は立ち上がり、スクリーンへと歩み寄った。
そして、ギルバート卿の美麗なイラストの胸元を、ペーパーナイフの先端でコンコンと硬い音を立てて叩いた。
「この男は、実在しない。肉体も、戸籍も、銀行口座も持たない。……つまり、我が鷹見ホールディングスの資本力をもってしても買収できず、我が法務部の訴訟部隊をもってしても名誉毀損で訴えられず、梶原の武力をもってしても路地裏で骨を折ることができん」
「当たり前です。画面の向こうの光の点滅ですよ」
「にもかかわらず!」
鷹見は激昂し、ナイフを持つ手を強く握りしめた。
「今、この瞬間も……彼女の心は、この実体のない虚構の男に奪われているのだぞ!!」
「「…………ッ!!」」
成瀬郁と保科貴文が、弾かれたように顔を上げた。
「成瀬、貴様は先ほど何と言った!」
鷹見が鋭く振り返る。
「紬のスマートフォンの待ち受け画面が、今朝からこの銀髪の男に変わっていたと言ったな!? 彼女が毎朝、目覚めた瞬間に最初に視界に入れる男が、この架空の騎士だということだ! 彼女が夜、ベッドの中で微笑みかける相手が、この電子データの集合体だということだ!! これを……屈辱と言わずして何と言う!!」
「う……うわあああああああっ!!」
成瀬が頭を抱え、リクライニングチェアの上で激しく身悶えした。
「言わないで鷹見さん! 思い出すだけで発狂しそうだよ!! 僕が……僕がどれだけ苦心して、紬さんのスマホに世界最強の暗号化プロトコルを仕込んだと思ってんの!? その鉄壁の端末の画面のど真ん中に、この銀髪野郎が鎮座してるんだよ!? 僕の作ったセキュリティの壁の内側で、こいつが紬さんの笑顔を二十四時間独占してるんだ!!」
成瀬はノートパソコンのキーボードを乱暴に叩き、ギルバート卿の公式設定資料を呼び出した。
「見てよこれ! 身長百八十八センチ、白銀の長髪、不器用だけどヒロインのために帝国全土を敵に回す……って、設定盛りすぎでしょ!! 人間界にこんなスペックの男がいるわけないじゃん! 二次元だからって何でも許されると思ってんの!?」
「ええ、極めて狡猾な造形です」
保科貴文が、白衣のポケットから取り出した精神安定剤をカリリと噛み砕きながら、冷ややかな瞳でスクリーンを睨み据えた。
「実在する生身の人間であれば、必ずどこかに欠点が存在します。口臭がある、靴下の脱ぎっぱなしがある、金銭感覚がだらしない、体調を崩せば情けない声を出す……。しかし、虚構のキャラクターには生理現象すら存在しない。作画監督の神がかり的なペン先によって、常に完璧な角度、完璧な光彩、完璧な声音で愛を囁き続けるのです」
保科は銀縁眼鏡のブリッジを押し上げ、医学的な見地から冷酷に告げた。
「これは、ある意味で実在の害虫よりも遥かに恐ろしい精神的侵略です。紬ちゃんの脳内において、ギルバート卿という存在は、一切の減点要素を持たない【絶対無欠の偶像】として神格化されてしまう。……このまま放置すれば、紬ちゃんの現実における恋愛閾値は成層圏を突破し、我々三次元の人間など、視界の片隅にすら入らなくなりますよ」
「……実体がない」
部屋の最奥で、腕を組んだままの梶原敦志が、地底のマグマのような重低音を響かせた。
その黒い瞳には、暗殺者の冷徹な光が宿っている。
「実体がないということは、警護対象の視界から物理的に引きずり下ろすことが不可能だということだ。待ち伏せもできず、急所を極めることもできん。……かつて警視庁SP時代にも、このような敵と対峙した経験はない。……極めて手強い標的だ」
「だから、標的じゃないと言っているでしょうが!!」
カウンターの奥で、九重圭が頭を抱えて叫んだ。
「相手はアニメのキャラですよ!? 日曜日の昼下がりに、二十代の女の子が『あのアニメのキャラ、カッコいいな〜』ってキャッキャとはしゃいでるだけです! 世間一般の女性の八割が通過する、ごくごく普通のオタク趣味ですよ!! なんで上場企業の副社長と天才ハッカーと名医と元SPが、日曜朝のニチアサ敵組織の幹部会みたいな顔して二次元キャラの脅威度を査定してるんですか!?」
「九重、貴様は黙っていろ!」
鷹見が一喝し、机を拳で叩いた。
「彼女が心から笑っている日常を維持すること――それこそが、我々が血の滲むような思いで締結した【不可侵条約】の絶対防衛ラインだ! その彼女の笑顔の源泉が、今や我々の提供する無菌室ではなく、あの銀髪の騎士に依存しているのだぞ! 我々の存在意義が根底から揺らいでいるのだ!!」
「そうだよ!」成瀬が叫ぶ。「紬さんは、あのアニメを見て、あの男のグッズを欲しがって、夜も眠れなくなってるんだ! だったら、僕たちが手をこまねいて見てるわけにはいかないでしょ!!」
「成瀬の言う通りです」保科が頷く。「二次元の存在を消去できないのであれば、我々が取るべき選択肢は一つしかありません」
四人の怪物の視線が、再びピタリと交錯した。
先ほどまでの殺伐とした同士討ちの空気は、完全に霧散していた。
代わりにそこに満ちていたのは――「二次元の完璧超人」という、かつてない強大な仮想敵を前にして、己の持てるすべてのリソースを注ぎ込んで対抗しようとする、歪み切った狂気と競争心だった。
「千冬」
鷹見が、手帳を開きながら冷徹に命じた。
「直ちに【不可侵条約・特別付帯規定】を起草しろ。件名は――【推し活支援条約】だ」
「……は?」
千冬の鉄仮面のようなポーカーフェイスが、今日何度目か分からない歪みを見せた。
「推し活……支援条約、ですか?」
「そうだ」
鷹見は胸を張り、淀みない口調で宣告した。
「第一条:紬の『推し活』に対する、いかなる妨害・否定・嘲笑もこれを固く禁ずる。彼女がギルバート卿を愛でる自由は、憲法上の基本的人権と同等のものとして不可侵とする」
「……ほう」千冬が眉を動かす。意外にもまともな条文だ。
「第二条!」
成瀬が身を乗り出してキーボードを叩いた。
「紬さんが欲しがるギルバート卿の全公式グッズ、限定特装版、イベントチケットの確保において、加盟者は全知全能のリソースを投入してバックアップすること! 紬さんに『手に入らなかった』という悲しみや落胆を、一秒たりとも味わわせてはならない!!」
「第三条」
保科が優雅に万年筆を回しながら付け加える。
「推し活に伴う過度な興奮、夜更かしによる睡眠障害、ならびに長時間のイベント待機列におけるヒートショックや低体温症を予防するため、加盟者は各々の専門領域に基づき、紬ちゃんの心身の健康を完全に管理・保護すること」
「……第四条」
梶原が、低く太い声で締めくくった。
「イベント会場、物販会場、コラボカフェ等の危険地帯において、密集による圧死、将棋倒し、ならびに転売ヤーや不審者との接触を物理的に完全遮断する。……聖域の防衛は、いかなる雑踏であっても継続される」
「そして、最も重要な最終条項だ」
鷹見の瞳に、ギラリと妖しい光が宿った。
「これらすべての支援は、従来の不可侵条約の鉄則に従い、【紬本人に対する個人的な見返りの要求、ならびに直接的な既成事実作り(抜け駆け)の完全禁止】のもとで行われなければならない。あくまで自然な幸運、あるいは正当な社内ルートを装って彼女の手元へ届けること。……その上で、誰が最も彼女の推し活を完璧にサポートし、彼女の最高の笑顔を引き出せたかを競い合うのだ」
「異議なし!!」成瀬が叫ぶ。
「賛成です。医学的にも極めて健全な競争ですね」保科が微笑む。
「……受けて立つ」梶原が拳を鳴らす。
「満場一致だな」
鷹見が満足げに頷き、ペーパーナイフを手帳の間に挟み込んだ。
「これより、対二次元・全面支援戦争を開始する。……画面の中の騎士ごときに、生身の我々の愛が劣るはずがないということを、証明して見せようではないか!」
カウンターの奥で、九重圭は特大ボトルの液体胃腸薬を抱きしめたまま、静かにカウンターに突っ伏した。
「……もう何も言いません。勝手にしてください。……誰か、私の胃に新しい粘膜を移植してください……」
千冬は深々と、天を仰ぐように溜息をつくと、手帳に『推し活支援条約・可決(全員重症)』と書き殴り、パチンと音を立てて閉じたのだった。
◇
翌日、月曜日の午前十時。
週明けの赤坂、『Lumiere』編集部のフロアは、冬の清々しい陽光に満ちていた。
「――それでね、茉莉花先輩! 第7話のギルバート卿が、もう本当に信じられないくらい尊くて……っ!!」
給湯室の前で、淹れたてのハーブティーのマグカップを両手で包み込みながら、槇原紬は熱弁を振るっていた。
頬をほんのりと上気させ、大きな瞳をキラキラと星のように輝かせている。
「ヒロインが帝国軍に包囲されて絶体絶命のピンチになった瞬間、あの冷徹なギルバート卿が、白銀の甲冑を血で染めながら駆けつけてくれるんですよ!? 『我が剣は汝を守るためにある』って……あの低くて涼やかな声で囁かれた瞬間、私、テレビの前で息が止まるかと思いました!!」
向かい側で、ブラックコーヒーの紙コップを持っていた関茉莉花は、目を丸くして紬を見つめていた。
「……紬。あんた、昨日のカフェで『気になってる人ができた』って言ってたの……それのこと?」
「え? はい! ギルバート卿のことですけど……何か変でしたか?」
紬がきょとんとして小首をかしげる。
「…………」
茉莉花は五秒間ほど固まり、それから盛大に噴き出した。
「ぶっ……あはははははははっ!! なんだそれ! アニメのキャラかよ!!」
「も、もう! 茉莉花先輩、笑わないでください!」
紬が真っ赤になって唇を尖らせる。
「私、本気で胸が締め付けられたんですから! 今までお仕事ばっかりで、あんまりアニメとか見てこなかったんですけど……こんなに誰かを応援したくなる気持ちって、初めてで……! これが世に言う『推し活』なんだって、感動しちゃったんです!」
「はいはい、可愛いこと言っちゃって。でも分かるわよ、その気持ち。私も舞台俳優の蒼太くんに命救われてるようなもんだからね」
茉莉花は笑いながら、紬の肩をポンポンと叩いた。
「いいじゃない、推し活! 日々の激務の最高の栄養剤よ! で、グッズとかは買ったの?」
「それがですね……」
紬はしゅんと眉を下げ、手元のマグカップを見つめた。
「来週、ギルバート卿の特装版フィギュア付きコミックスが発売されるんですけど……完全限定生産で、予約の抽選倍率がすごいことになってて。夜中に何度も公式通販のサーバーを見に行ってるんですけど、全然繋がらなくて……当たるといいなあ……」
「ああ、限定モノの争奪戦ね。あれは修羅の道よ。まあ、気負わずに祈りなさい」
「はい! 神様にお祈りしながら、お仕事頑張ります!」
紬は気を取り直したように満面の笑みを咲かせ、マグカップを手に自分のデスクへと軽やかな足取りで戻っていった。
日々の生活に現れた、小さな、けれど胸を温かく灯してくれる二次元の推し。
彼女にとっては、退勤後の深夜にアニメを見返し、手帳の片隅に小さなイラストのシールを貼るだけの、ささやかで無害な日常の潤いに過ぎなかった。
――しかし。
紬が自席に戻り、パソコンを立ち上げたその瞬間。
社内イントラネットの深淵、そして三十階の役員フロアでは、彼女のその「ささやかな願い」を巡って、早くも異常な歯車が猛烈な勢いで回転を始めていた。
◇
正午、本社ビル三十階・副社長室。
コンコン、とノックの音が響き、千冬が入室した。
「副社長。午後の役員会議の資料をお持ちいたしまし――」
千冬の言葉は、室内の異様な光景を前にして、喉の奥でピタリと凍りついた。
執務机の奥。
鷹見征司は、スリーピーススーツのジャケットを脱ぎ捨て、真剣な面持ちでデスクの上に広げられた一冊のカタログを熟読していた。
そこには、国内外の有名美容サロン、ならびに最高級ヘアカラー剤の成分分析表が、ぎっしりと並べられていた。
「……副社長。それは、何でございますか」
千冬が恐る恐る尋ねると、鷹見は顔を上げ、一片の迷いもない澄み渡った瞳で言い放った。
「千冬。午後の役員会議、ならびに明日のスケジュールをすべてキャンセルしろ」
「……は?」
「表参道にある、セレブ御用達の超高級ヘアサロンを今すぐ貸し切りで押さえろ」
鷹見は立ち上がり、自らの漆黒の濡れ羽色の前髪を、指先で静かにかき上げた。
「私のこの髪を……今すぐ、プラチナシルバーに染め上げる」
「「…………」」
静寂。
千冬の手から、重役会議の分厚い資料が、ハラハラと床へこぼれ落ちていった。
三次元の怪物たちによる、理性をかなぐり捨てた「推し活支援」という名の奇行の嵐が、今まさに、吹き荒れようとしていたのである。




