第33話:容疑者のプロファイリング
六本木『ザ・クラウンタワー東京』の最上階、プレジデンシャル・スイート。
チーフバーテンダー・九重圭が命がけでカクテルシェイカーを床に叩きつけ、胃酸の逆流と引き換えに放った痛烈な正論によって、男四人による血で血を洗う同士討ちは辛うじて回避された。
しかし――部屋を満たす殺気は、霧散するどころか、より純度の高い、研ぎ澄まされた毒へと変貌を遂げていた。
疑心暗鬼という内向きの刃が収まった瞬間、四匹の怪物の牙は、寸分の狂いもなく「外部」――すなわち、自分たちが心血を注いで維持してきた完璧な無菌室の隙間をすり抜け、槇原紬の心を奪い去ろうとした【未知の男】へと向けられたのだ。
「……九重の言う通りだ」
ネクタイを乱暴に外したままの鷹見征司が、冷え切った声で言った。床に転がっていたペーパーナイフを拾い上げ、机の端にコツンと置く。その切れ長の瞳には、もはや理性のかけらもなく、冷徹な統制者の狂気だけがギラギラと渦巻いていた。
「我々の中に抜け駆けの裏切り者がいないとすれば、答えは一つしかない。……外界の害虫が、我が保護領域の境界線を踏み越え、彼女に不埒な毒を吹き込んだのだ」
「許せない……絶対に許せないよ……!」
成瀬郁が、乱れた前髪を激しくかき上げながら、ノートパソコンのキーボードを猛然と叩き始めた。その指先は怒りと焦燥で小刻みに震え、キーを打つたびにパチパチと乾いたプラスチックの悲鳴が室内に響く。
「紬さんが『最近すごく気になってる人ができちゃって』って言ったんだよ!? あんなに仕事一筋で、無邪気に笑ってた紬さんが、誰かのために胸を痛めて、夜も眠れなくなってるなんて……! そんな男、この地球上に一秒たりとも存在させちゃいけないんだ!!」
「ええ、完全に同意します」
保科貴文が、白衣の胸ポケットから取り出した清潔なリネンで、自らの手のひらに刺さったガラス片の血を淡々と拭い取った。銀縁眼鏡を押し上げる指先には、一分の慈悲もない。
「紬ちゃんの発熱を治癒させ、完璧なバイタルを取り戻させた矢先に、このような精神的侵襲が発生するとは……。その男は、彼女の自律神経と心身の健康を脅かす、最も悪質な病原体です。病原体は、特定次第、直ちに滅菌・切除されなければなりません」
「……話は後だ」
壁際で腕を組んでいた梶原敦志が、特殊警棒をカチャリと腰のデューティーベルトへ収めながら、地底から響くような重低音を落とした。
「成瀬。映像を出せ。……あの人の周囲に存在したすべての雄を、白日の下に晒せ」
「言われなくても今やるよ!!」
成瀬が主幹エンターキーを強く叩き込んだ。
パッ、と部屋の照明が一段階落ち、スイートルームの正面の壁一面を覆う、横幅五メートル超の特大マルチディスプレイが青白い光を放って起動した。
画面の中央に、禍々しい真紅のタイトルが展開される。
【対象者:槇原紬 周辺男性環境・徹底査問プロトコル】
【抽出期間:直近三十日間(社員旅行・神崎事案を含む全期間)】
【索敵範囲:対象者の半径十メートル以内に侵入した全男性】
【照合リソース:街頭防犯カメラ、交通ICログ、社内入退室ゲート、クレカ決済、通信電波ログ】
滝のように流れる数万行のアクセスログと、ミリ秒単位で切り替わる監視カメラの静止画群。
成瀬が構築した監視網の全容が、巨大スクリーンに丸裸となって映し出された。
カウンターの奥で、割れたグラスの破片をちり取りで片付けていた九重は、その画面を一目見た瞬間、胃を押さえて息を呑んだ。
(……化け物め。一人の女性の行動を、ここまで完璧にトラッキングしていたというのか……。恐ろしい、恐ろしすぎる……!)
だが、四人の男たちにとって、それは息をするのと同じ「日常の防壁」に過ぎなかった。
「紬ちゃんがカフェで語った、相手の特徴を再確認します」
保科が電子カルテのスタイラスペンを手に取り、スクリーンの一角に手書きのプロファイル項目を走らせた。
背が高い
髪が綺麗
冷たそうに見えるのに、本当は誰よりも優しくて、守ってくれるような人
「この三つの要素……特に三番目の『冷たそうに見えるのに、本当は誰よりも優しくて守ってくれる』という心理的認知。これは典型的なギャップ萌え、ならびに庇護欲と安心感の混在です。……紬ちゃんの深層心理に、強烈な認知的不協和と好意を同時に植え付けた男が存在する。外見的特徴と行動履歴から、該当者をスクリーニングしなさい、成瀬くん」
「了解……AIフィルタリング開始!」
成瀬のスクリプトが、直近三十日間に紬と接触した数百名の男性データをミリ秒単位で精査していく。
宅配便の受取、コンビニのレジ、電車のすれ違い、社内での名刺交換、カフェの店員――有象無象の顔写真が次々と弾かれ、やがて、画面の中央に三つのファイルが大きくポップアップした。
ピピピッ、と警告音が鳴り響く。
「……出たよ」
成瀬の瞳が、獲物を屠る獣のように細められた。
「直近三十日間で、紬さんと複数回接触し、なおかつ会話を交わし、条件に部分合致する【最重要警戒容疑者】は……この三人だ!!」
◇
スクリーンに、一人目の男の顔写真と詳細な個人情報が大きく拡大された。
【容疑者A:木村 涼介/ 21歳】
所属:都内私立大学三年生(経済学部)
接触地点:紬のマンション最寄り駅前・ナチュラルローソン赤坂店(早朝シフト店員)
身長:百八十二センチ
外見:塩顔爽やか系、清潔感のある黒髪マッシュヘア
接触頻度:週四〜五回(毎朝午前八時十五分前後)
「……コンビニの店員だと?」
鷹見が眉をひそめ、冷徹な目で画面を睨みつけた。
「そうだよ!」成瀬が唾を飛ばしてまくし立てる。
「紬さんが毎朝出社前に立ち寄るコンビニのバイトだよ! 見てよこのシフト表、火曜から金曜の早朝に必ず入ってる! 紬さんが買う定番の無糖アイスラテとブランパンを、紬さんがレジに置く前に棚から取り出して準備してた形跡が、店内の防犯カメラの映像から確認されたんだ!!」
画面が切り替わり、コンビニのレジカウンターの映像が再生された。
朝の柔らかな光の中、笑顔で小銭を渡す紬。
その対面で、店員の青年・木村が、白い歯を見せて爽やかに会釈し、お釣りを両手で紬の手のひらへと返している。その際、紬の手の甲に青年の指先がわずかコンマ数秒触れ合い、紬が「ありがとうございます!」と可愛らしく微笑んでいた。
「き、貴様ァァァ……ッ!!」
鷹見の額に、ドス黒い青筋が一気に浮き彫りになった。
「我が社の社員の手を……お釣りの受け渡しにかこつけて、不当に愛撫したというのか!? あまつさえ、彼女の嗜好品を先回りして差し出すなど、我が条約の専権事項である『先回り配慮』に対する明白な宣戦布告だ!!」
「それだけではありませんよ」
保科が冷酷極まりない表情で、木村の顔写真をペン先で突いた。
「身長百八十二センチ。紬ちゃんの発言した『背が高い』に完全合致。さらにこの整った黒髪マッシュ……『髪が綺麗』という条件も満たしている。毎朝のルーティンの中で、爽やかな笑顔と細やかな気配りを見せられれば、生真面目な紬ちゃんが『冷たそうな都会の朝に、優しく守ってくれるような人』と錯覚しても医学的に何ら不思議はありません!!」
「……排除する」
梶原が即座に低く唸った。
「大学名、現住所、通学ルートは特定されているな。……今夜の退勤時、大学の最寄り駅の階段で足を滑らせ、全治半年の複雑骨折を負わせる。コンビニのシフトに入れない肉体にして、生活圏から永久に退場させる」
「待て待て待て、梶原敦志!!」
カウンターの奥から、九重がちり取りを放り出して飛び出してきた。
「ただの親切なバイトの大学生でしょうが!! 常連客の買うものを覚えて先回りしただけで、なんで全治半年の重傷を負わされなきゃいけないんですか!? やめなさい、靴紐を結び直すな!!」
九重の決死のツッコミを完全に無視して、成瀬は次のファイルへと画面を切り替えた。
「まだ終わってないよ! 次、容疑者B!!」
◇
画面に映し出されたのは、仕立ての良さそうな黒のノーカラージャケットを着た、いかにもクリエイター然とした青年の写真だった。
【容疑者B:浅井 蓮/ 27歳】
所属:新進気鋭のフリーランス・WEBデザイナー
接触地点:『Lumiere』編集部・第一ミーティングルーム
身長:百八十センチ
外見:アンニュイな美青年、銀色に近いアッシュグレーのセンターパート
接触履歴:先週水曜日の午後、新春特集の特設サイトデザイン打ち合わせにて名刺交換
「……デザイナーか」
鷹見の目が、さらに一段低く据わった。
「先週の水曜日……! 紬さんが風邪を引く前日の午後だよ!」
成瀬がキーボードを叩き、ミーティングルームの防犯カメラの映像を再生する。
画面の中では、浅井がノートパソコンを開き、紬に向かって冷淡なポーカーフェイスでデザイン案を説明していた。無駄な愛想笑いを一切見せず、淡々とロジックを語るその横顔は、確かに「冷たそう」に見える。
しかし――紬が「このフォント、すごく読者目線で温かいですね!」と目を輝かせた瞬間、浅井はふっと視線を和らげ、紬の瞳をじっと見つめ返しながら、優しく微笑みかけたのだ。
『槇原さんの企画書が素晴らしかったからですよ。……僕、あなたの書く文章のファンなんです』
「ぎゃああああああああっっ!!」
成瀬が頭を抱えて机に突っ伏した。
「言った! 今コイツ、紬さんの目を見て『ファンなんです』って言った!! しかも見てよこの髪型! アッシュグレーのセンターパートでサラッサラじゃん! 完全に『髪が綺麗』にドンピシャで当てはまってる!!」
「浅井……蓮……」
鷹見の全身から、黒いオーラが立ち上った。
「我が傘下のメディアの業務委託でありながら、社内恋愛禁止の不文律を踏みにじり、職権を利用して彼女の純真な心に色目を使ったというのか……!」
「心理学的プロファイル、完璧ですね」
保科が眼鏡を外して、冷たい息を吐き出した。
「普段は口数が少なく冷徹なクリエイターが、自分にだけ見せる『文章のファンです』という特別な肯定。これは承認欲求を強烈に刺激し、急速な好意を形成させる極めて悪質な心理誘導テクニックです。……背が高く、冷たそうに見えて、実は優しい。完全に紬ちゃんの語ったプロファイルと一致しますよ」
「……この男は、社会的に抹殺する」
鷹見が懐からスマートフォンを取り出し、画面をタップしようとした。
「我が鷹見ホールディングスの法務部、ならびに知財統括部を動かす。この男が過去に納品した全デザインデータを著作権侵害の疑いで精査させ、即日取引停止、業界内の全エージェントへ『盗作常習者』としてのブラックリスト通達を回す。二度とこの国でキーボードに触れられないようにしてやる」
「だから待ちなさいって鷹見征司!!」
九重がカウンターを飛び越えて鷹見の手首を掴んだ。
「仕事でクライアントを褒めただけで、業界から永久追放ってどんな独裁国家ですか!? あんたの法務部は暗殺部隊じゃないんですよ!!」
「離せ九重! 彼女の笑顔を脅かす者を野放しにはできん!!」
「まだその男が犯人と決まったわけじゃないでしょうが!!」
二人が揉み合う中、成瀬が「まだいるんだよ、一番ヤバいのが!!」と叫んで、三枚目の写真をドスンと全画面表示にした。
◇
スクリーンいっぱいに映し出されたのは、引き締まった筋肉質の体躯に、紺と黄色のユニフォームを着こなした精悍な男の姿だった。
【容疑者C:立花 颯太/ 25歳】
所属:大手宅配便『クロネコ急便』港区赤坂・南青山エリア担当ドライバー
接触地点:紬のマンション・402号室玄関前
身長:百八十五センチ(元大学陸上部・十種競技選手)
外見:日焼けした精悍なスポーツマン、短髪黒髪、爽やかな笑顔
接触頻度:月四〜六回(書籍や生活用品の定期配送)
「……宅配ドライバー」
梶原の視線が、画面の男の胸元に鋭く突き刺さった。
「そうだよ、梶原さんのすぐ隣、402号室の玄関に定期的に現れる男だよ!」
成瀬がインターホンの録画ログを呼び出した。
画面には、重たい段ボール箱を両手で抱えた立花が、紬の玄関前に立っている姿が映し出されている。
紬がドアを開けると、立花は人懐っこい笑顔で「重いので、玄関の内側まで運びますね!」と爽やかに声をかけ、軽々と荷物を部屋の中へ運び入れていた。紬が「わあ、ありがとうございます! 助かりました!」とお礼を言うと、立花は額の汗を拭いながら、「槇原さん、いつもお仕事お疲れさまです! 風邪引かないように気をつけてくださいね!」と、眩しい笑顔を残して去っていった。
「…………」
梶原の眉間が、深く、恐ろしいほどの溝を刻んだ。
「身長百八十五センチ。……フィジカルの強度は一般人の上位五パーセントに該当する」
梶原の声が、低く濁った。
「重い荷物を無償で運び入れ、『守ってくれるような人』という錯覚を抱かせるには十分な肉体だ。……あまつさえ、あの人の居住空間の敷居を、足先とはいえ跨いだ罪は重い」
「しかも梶原さん、見てくださいよ!」
保科が画面の立花の短髪を指差した。
「汗に濡れた艶やかな黒髪……健康美の象徴です。普段は重い荷物を黙々と運ぶ寡黙な肉体労働者が、ふとした瞬間に見せる『気をつけてくださいね』という無償の気遣い。……紬ちゃんのような生真面目でお人好しな女性が、最も心を許しやすい典型的なヒーロー像ですよ!」
「許さん……」
鷹見の瞳から、完全にハイライトが消滅した。
「宅配業者の現場ドライバーごときが、我が神聖なる不可侵領域に土足で踏み込み、彼女の私生活に色目を使いおって……!」
「決定だね」
成瀬の唇が、狂気で三日月型に歪んだ。
「容疑者A・コンビニ店員の木村涼介。
容疑者B・デザイナーの浅井蓮。
容疑者C・宅配ドライバーの立花颯太。
……この三人の誰かが、紬さんの心を奪った元凶だ!!」
◇
密室に、息の詰まるような沈黙が落ちた。
四人の怪物が、互いに視線を交わし合う。
誰一人として、異論を挟む者はいなかった。
彼らにとって、可能性が零コンマ一パーセントでもあるのなら、それは「確定した脅威」と同義だった。一人の男を特定して排除するのではなく、疑わしき者はすべて、根こそぎ、生活圏から完全に退場させる。
それこそが、彼らがこれまで紬の平和を守り続けてきた、冷酷無比な絶対防衛の論理だった。
「成瀬」
鷹見が、手帳を開きながら冷徹に告げた。
「三名の現住所、戸籍謄本、銀行口座、勤務先、親族関係、交友関係の全ログを、五分以内にリスト化しろ」
「了解。とっくにバックドア仕込んで全部抜いてあるよ」成瀬が笑う。
「保科。三名の過去の健康診断データ、および精神科受診歴を照合しろ。社会的に隔離するための法的診断書の準備を」
「ええ、いつでも『重篤な感染症の疑い』、あるいは『過度なストレスによる緊急就業停止勧告書』を各所へ発行できますよ」保科がペンを回す。
「梶原。……動線を断て」
「……了解した」
梶原は無言で靴紐を結び直すと、デューティーベルトの留め金をカチリと締め直した。
「三名が同時に、明日からあの人の生活圏から完全に姿を消すよう、物理的・心理的包囲網を敷く。……事故に見せかけた足止め、ならびに強制転居のプロトコルを開始する」
「よし。……作戦を開始する」
鷹見が立ち上がり、冷酷に宣告を下した。
三人の一般人を、一晩のうちに、社会的にも物理的にも完全に解体し、地球の裏側へ追放するための処刑命令。
カウンターの奥で、九重圭は特大ボトルの胃腸薬を抱きしめたまま、床に正座して天を仰いでいた。
「終わった……。東京が終わる……。一般人の罪なき男三人が、明日から神隠しに遭う……! 誰か……誰かこの狂人たちを止めてくれ……!!」
九重の悲痛な祈りが、スイートルームの天井に虚しく吸い込まれた――まさに、その刹那だった。
バァァァァァァァァァァァァンッッッッッッッッッ!!!!
密室の静寂を、耳を聾するような凄まじい衝撃音が打ち破った。
二重ロックが施され、電子錠で完全に施錠されていたはずのプレジデンシャル・スイートの重厚なマホガニー扉が――
ノックのひとつもなく、外側から蹴破られたかのような猛烈な勢いで、壁に激突して跳ね返ったのだ。
「「「「…………ッ!?」」」」
四人の男たちの動きが、一瞬で彫像のように硬直した。
開け放たれた扉の向こう、薄暗い廊下の光を背負って、そこに立っていたのは――
カツ、カツ、カツ。
静まり返った部屋に、氷の刃のように冷徹で、規則正しいハイヒールの音が響き渡った。




