第32話:第0次世界大戦の幕開け
【コード・オメガ】が発令されてから、わずか十二分後。
東京・六本木『ザ・クラウンタワー東京』の最上階。地上二百メートルに位置するプレジデンシャル・スイートの分厚い防音扉が、ドンと地鳴りのような重い音を立てて内側から施錠された。
室内の温度は、空調が故障したわけでもないのに、肌を刺すような絶対零度まで冷え切っていた。
パノラマウィンドウの向こうには、夕暮れに染まりゆく東京の摩天楼が広がっている。しかし、黒檀の巨大なラウンドテーブルを取り囲む四人の男たちの視界には、その美しい夕景など一ミリたりとも映っていなかった。
そこに立っていたのは、人間ではなかった。
東証プライム上場の若き総帥――鷹見征司。
国家防衛ネットワークを掌上で弄ぶ天才ハッカー――成瀬郁。
セレブ御用達クリニックの院長にして精神医療の権威――保科貴文。
要人警護の極致を極めた武闘派警備会社社長――梶原敦志。
四人全員の瞳から、光彩という光彩が完全に消滅していた。
黒目が針の先のように小さく収縮し、ハイライトの一切ない底なしの闇が眼窩の奥底に淀んでいる。それは、愛する者を奪われかけた狂人たちだけが宿す、破滅と殺戮の眼差しだった。
静寂。
あまりにも張り詰めた沈黙の中、誰かの荒い呼気すら聞こえない。ただ、互いの喉笛に目に見えない刃を突きつけ合うような、濃厚極まりない殺意の気圧が部屋全体を軋ませていた。
この密室に集うまでの十二分間、彼らがどのような手段を使ったのかは想像に難くない。
信号をハッキングして白昼の幹線道路を猛スピードで逆走し、エレベーターを非常停止させて直通運転させ、ホテルの警備網を力づくで押し通ってきたのだ。すべては、この部屋で「裏切り者」を処刑するために。
口火を切ったのは、ラウンドテーブルの上座に立つ男だった。
「――誰だ」
鷹見征司が、自らの首元に手をかけた。
仕立ての良いスリーピーススーツのネクタイを、乱暴に、引きちぎらんばかりの勢いで引き抜く。ボタンが一つ弾け飛び、絨毯の上にポトリと落ちた。
鷹見の唇が、見る者の神経を凍りつかせるような、冷酷極まりない歪んだ笑みを刻む。
「誰が……抜け駆けをして彼女を誑かした。貴様か、成瀬」
チィン、と澄んだ金属音が鳴り響いた。
鷹見の右手には、すでに刃渡り十五センチの鋭利なスチール製ペーパーナイフが逆手に握られていた。日頃の紳士的な仮面など粉々に砕け散り、手首のスナップひとつで相手の頸動脈を切り裂く構えを寸分の狂いもなく取っている。
「彼女の通信ログ、端末のカメラ、果ては街頭のセンサーに至るまで、全権を掌握しているのは貴様だ。……貴様がその権限を悪用し、裏で彼女に接触して甘言を弄したのではないのか? 答えろ、成瀬郁」
鷹見の切っ先が、成瀬の眉間へとピタリと突きつけられた。
しかし――成瀬の顔に、恐怖の色など微塵も浮かばなかった。
「……はっ」
成瀬の口から漏れたのは、低く、湿った嘲笑だった。
成瀬は首元を覆っていたパーカーのフードを乱暴に跳ね上げると、抱えていた特注ノートパソコンの液晶画面を、カチリと鷹見の眼前に向けた。
画面には、緑色のコンソールラインとともに、世界中の金融ネットワークと直結した、見たこともない軍用級の送金インターフェースが立ち上がっていた。
「笑わせないでくださいよ、鷹見さん」
成瀬の右手の親指が、エンターキーの真上に置かれた。キーの表面には、小さなプラスチック製の赤いセーフティカバーが外されている。
「僕を疑うなら、今すぐこのキーを押し込みますよ。所要時間はコンマ零三秒。……鷹見ホールディングスの主幹口座、グループ傘下三十社の当座預金、ついでにスイスとケイマン諸島に隠してあるあなたの個人資産、総額四千八百億円を、今この瞬間に東欧と中東のペーパーカンパニーへ分散送金して完全に消滅させてあげましょうか?」
「何……?」
「僕が紬さんに手を出した? ふざけるな! 僕がどれだけ理性をすり減らして、頭を撫でられただけで心拍数百五十出してサーバー室の液体窒素で冷やしてると思ってんだ! 抜け駆けしたのはアンタの方だろ! 伊豆の旅館にわざわざ東京から駆けつけて、深夜の廊下で紬さんの浴衣姿を待ち伏せしてたのはどこの誰だよ!!」
「あれは正当な査察だ!」
「嘘をつくな! 柱に頭突きして流血してたログ、防犯カメラにバッチリ残ってんだよ!!」
成瀬が叫び、エンターキーに爪を食い込ませる。
鷹見のペーパーナイフが、成瀬の皮膚をわずかに掠め、一筋の血が滲んだ。
資本主義の頂点に立つ財閥の総帥と、サイバー空間の支配者による、国家崩壊レベルの即時報復のチキンレース。
だが――部屋の狂気は、それだけでは終わらなかった。
ジャキッ。
冷たい金属の噛み合う音が、二人の横合いから響いた。
梶原敦志だった。
全身を隙のない黒いタクティカルコートに包んだ巨漢が、音もなく一歩前へと踏み出していた。
コートの裾が翻り、腰のホルスターから引き抜かれたのは、高強度カーボン製の三段伸縮式特殊警棒。カチリと音を立てて最長まで展開され、もう片方の手には、バチバチと青白い閃光を迸らせる百二十万ボルトの最新型スタンガンが握られている。
「……全員、動くな」
地底の底から響くような重低音が、部屋の空気を圧殺した。
梶原の瞳には、一切の感情の揺らぎがなかった。ただ、目の前の標的をいかに効率よく、何秒で完全無力化するかという、戦闘機械の冷徹な計算だけが宿っている。
「成瀬。キーから指を離せ。……鷹見、ナイフを下ろせ。一歩でも動けば、両名の膝蓋骨を粉砕し、頸椎を極める」
「梶原……貴様まで我々に刃を向ける気か」
鷹見が刃を向けたまま、目を細める。
「……あの人は、言った」
梶原の声が、低く濁った。
「『背が高くて、冷たそうに見えるのに、本当は誰よりも優しくて、守ってくれるような人』と。……背が高い。冷たそうに見える。守ってくれる。……貴様ら二人にも、該当する要素だ」
「なっ……!?」
「俺を疑うなら、それでもいい」
梶原はスタンガンのスパークを消すことなく、三人全員を同時に射程に収める位置へと移動した。
「だが、あの人の純潔と平和を汚した者がこの中にいるのなら……俺がここで全員を解体する。条約の遵守など、あの人を失うことに比べれば塵同然だ」
「ふふ……あはははは!」
その時、室内に場違いな、あまりにも美しく澄んだ笑い声が響き渡った。
保科貴文だった。
白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、保科はゆっくりと歩み出てきた。銀縁眼鏡の奥の瞳は完全に三日月水のように細められ、菩薩のような、しかし狂気で爛々と輝く笑みを浮かべている。
「皆さん、随分と野蛮ですね。ナイフに、サイバー攻撃に、特殊警棒ですか? 知性のかけらも感じられませんよ」
保科は白衣の右ポケットから、一本の太いガラスシリンダーを取り出した。
先端には、光を反射して冷たく光る、極太の医療用注射針。シリンダーの内部には、無色透明の液体が満たされている。
「保科……それは何だ」
鷹見が眉をひそめる。
「超高濃度の筋弛緩剤と、中枢神経系を完全遮断する特殊麻酔薬の混合カクテルですよ」
保科は愛おしそうにシリンダーを指先で弾いた。ピュッと針先から微量の液体が飛び散る。
「首筋に一ミリリットル注入するだけで、心停止を起こすことなく、全身の随意運動を七十二時間完全に停止させることができます。思考力だけを残し、指一本動かせない完全な生ける屍にして差し上げます」
保科は優雅に首を傾げ、三人の顔を順に見渡した。
「皆さん、落ち着いて聞いてください。僕が導き出した、最も合理的で、最も医学的に正しい解決策を提案してあげますよ」
「……何だと?」
「全員一度、眠りなさい」
保科の口元が、狂気で限界まで吊り上がった。
「僕が今ここで、あなた方三人にこの薬を注射して無力化します。そして、僕が紬ちゃんを迎えに行き、用意してある医療用チャーター機でスイス・アルプスの私の私有サナトリウムへ移住します。あそこなら外界から完全に隔絶され、空気も水も完璧に滅菌されている。僕が一生、紬ちゃんのバイタルと食事と睡眠を二十四時間体制で管理し、愛してあげる……。これこそが、彼女にとって最も安心で安全な『究極の無菌室』だと思いませんか?」
「ふざけるな、このサイコパスがァ!!」
成瀬が絶叫した。
「紬さんをスイスに軟禁する気か!? そんなの愛じゃない、ただの医療実験だ!!」
「実験ではありません、至高の治療ですよ成瀬くん! 君のような盗聴魔に紬ちゃんを渡すくらいなら、僕の手で永遠に管理してあげた方が何億倍も幸せです!」
「黙れッ!!」
鷹見のペーパーナイフが、保科の喉元へと一直線に閃いた。
「彼女を支配するのは私だ! 我が鷹見グループの総帥夫人として、世界の頂点で囲い込むことこそが私の唯一の宿願! 貴様のようなヤブ医者に彼女の指一本触れさせてたまるか!!」
「……あの人は、誰の所有物でもない」
梶原の特殊警棒が、風を切り裂いて鷹見の腕を撃ち落とさんと振り下ろされる。
スタンガンの青白い火花。
キーボードのエンターキーにかかる成瀬の体重。
保科の突き出された注射針。
鷹見の閃く鋼の刃。
「条約破棄だ!! 貴様らをここで全員抹殺する!!」
「死ね! 口座ごと消し飛べ!!」
「眠りなさい、永遠に!!」
「……排除する!!」
四つの狂気が完全に衝突し、互いの喉笛に凶器が深々と突き刺さる――まさに、その刹那だった。
ガッシャアアアアアンッッッッ!!!!
プレジデンシャル・スイートの床に、凄まじい破壊音が炸裂した。
最高級クリスタル製の大型ミキシンググラスと、ステンレス製のカクテルシェイカーが、大理石の床に力任せに叩きつけられ、粉々に砕け散って四方八方へと破片を撒き散らしたのだ。
「「「「…………ッ!?」」」」
四人の動きが、彫像のようにピタリと静止した。
カウンターの脇。
蝶ネクタイを引きちぎり、ベストのボタンを二つ吹き飛ばしたチーフバーテンダー――九重圭が、両手で激しく左脇腹を鷲掴みにしながら、鬼のような形相で肩を上下させていた。
その顔色は土気色を通り越して真っ白に抜け落ち、額からは脂汗が滝のように流れ、唇の端からは微かな胃液の泡が零れ落ちていた。
九重は、粉々になったシェイカーの破片を踏みしめながら、四人の怪物の中心へと、命を削るような足取りで割って入った。
「……やめなさいッッ!!」
短く、しかし鼓膜を直接叩き割るような、魂の底からの叫び。
九重は鷹見のナイフを素手で掴み取って床へ投げ捨て、成瀬のノートパソコンをバチンと力任せに閉じ、保科の注射器を奪い取ってテーブルへ叩きつけ、梶原のスタンガンの電源スイッチを親指で無理やりオフにした。
「ハァッ……! ハァッ……! ハァッ……!」
九重はテーブルに両手をつき、激痛に耐えるように背中を丸めながら、血走った目で四人を順に睨みつけた。
「落ち着いて相手の正体を突き止めるのが先でしょうが!! ここを血の海にする気ですか!?」
「九重……しかし……」
鷹見が呻くように口を開きかけるが、九重はそれを鋭い一瞥で制圧した。
「黙りなさい鷹見副社長! いい年をした大人の男たちが四人揃って、刃物を振り回して、口座を凍結して、毒薬を出して、スタンガンを鳴らす……! 恥を知りなさい、恥を!! 私の胃壁が……今まさに十二指腸ごと決壊しかけてるんですよ!!」
九重はカウンターの下から特大ボトルの液体胃腸薬を掴み出すと、キャップを噛みちぎって床へ吐き捨て、ラッパ飲みで一気に半分ほど胃の中へ流し込んだ。
ゴク、ゴク、ゴク、ゴクッ!
「ぷはぁっ……! ゴホッ、ゲホッ!!」
胃薬を撒き散らしながら激しく咳き込み、九重は荒い息を整えて叫んだ。
「いいですか!? 冷静になりなさい! 成瀬くんの集音ログを、もう一度最初から最後まで耳の穴かっぽじって聞き直したんですか!?」
「え……?」
成瀬が呆然と瞬きをした。
「紬ちゃんが言った言葉は何でしたか!? 『最近すごく気になってる人ができちゃって』! ただそれだけでしょうが!!」
九重はテーブルをバンと叩いた。
「彼女が『付き合っている』と言いましたか!? 『告白された』と言いましたか!? 『キスをした』と一言でも言いましたか!? 何も言っていないでしょう!! ただ『気になっている』と言っただけです!!」
四人の背筋が、ピクリと跳ね上がった。
「それに!」と九重は指を突きつけた。
「あんたたち四人が、互いに抜け駆けをした証拠がどこにありますか!? 成瀬くん、鷹見さんの行動ログに紬ちゃんへの個人的接触はあったんですか!?」
「な……ないです。伊豆の廊下で牛乳買った時以外、一切接触してない……」
「保科先生は!?」
「つ、紬ちゃんが風邪を引いた時も、置き配だけで部屋には入っていません……」
「梶原さんは!?」
「……接触回数は、肉じゃがを渡した時と、雨の日に傘を持っていった時と、イノシシを投げ飛ばした時だけだ。それ以外は視界にすら入っていない」
「なら、あんたたち四人の誰かが抜け駆けしたわけがないでしょうが!!」
九重の痛烈極まる正論の連射に、四人の怪物が、まるで雷に打たれたように息を呑んだ。
部屋を支配していた狂乱の熱気が、急速に引いていく。
そうだ。
彼らは互いを twenty-four-seven(二十四時間年中無休)でトラッキングし合っていたのだ。誰か一人が紬に個人的なアプローチを仕掛けようものなら、他の三人が即座に感知し、阻止してきた。
抜け駆けなど、物理的にもデジタル的にも、絶対に不可能なシステムの中にいたのだ。
「……ということは」
鷹見の顔から、疑心暗鬼の表情が消え去った。
代わりに浮上してきたのは――先ほどまでの同士討ちの殺意を遥かに凌駕する、底知れぬ「外敵への憎悪」だった。
「……我々ではない、ということか」
「当たり前でしょう」
九重は胸を押さえ、深く溜息をついた。
「外部です。彼女の生活圏に、あんたたち四人の包囲網の隙間を縫って、彼女の心を揺さぶった【未知の男】が侵入したんですよ」
その言葉が落ちた瞬間。
四人の怪物の視線が、一斉に、壁の巨大スクリーンへと集中した。
同士討ちの構えは完全に解かれていた。
ペーパーナイフは机に置かれ、
送金プログラムのウィンドウは閉じられ、
特殊警棒は収納され、
注射器はポケットへと戻された。
そして――四人の瞳に、かつてないほど濃密な、世界で最も危険な【絶対共闘】の炎が灯った。
「成瀬」
鷹見が、低く冷たい声で命じた。
「直近三十日間の彼女の全ログを展開しろ。……彼女の半径十メートル以内に侵入した全男性の身元を、洗いざらいリストアップするのだ」
「……了解」
成瀬の指先が、再び光速のタイピングを開始した。
「直近三十日間の監視カメラ映像、GPS位置情報、クレジットカード決済履歴、電子マネーの利用記録……すべてを統合解析する。紬さんの視界に映ったすべての男を……一人残らず特定してやる」
「僕も手伝いましょう」
保科が銀縁眼鏡を冷ややかに押し上げた。
「紬ちゃんの発言にあった『背が高くて、冷たそうに見えるのに、本当は誰よりも優しくて、守ってくれる人』……この心理描写から、対象の性格特性と外見的特徴をプロファイリングします。容疑者を五分で絞り込んでみせましょう」
「……動線をロックする」
梶原が無線機のチャンネルを最高警戒へと切り替えた。
「対象が特定され次第、我が社の実力部隊を急行させる。……その男の息の根を止める準備は、いつでもできている」
四つの狂気が、再び一つのベクトルへと束ねられた。
自分たち以外の男に、彼女の心を奪わせるなど――天地が裂けても許さない。
カウンターの奥で、九重圭は特大ボトルの胃腸薬を抱きしめたまま、力なくソファーに座り込んだ。
「……あーあ。始まっちゃったよ……」
無菌室の平穏を揺るがす「謎の男」の正体を暴き、地球上から消去するための、狂気と執念の査問会。
【第0次世界大戦】の真の戦火が、今、静かに燃え上がろうとしていた。




