第30話:ふかふかのベッドの中で
深い海の底から、ゆっくりと柔らかな水面へと浮上していくような感覚だった。
ふわりと肌を包み込むのは、雲のように軽やかで温かな羽毛布団。シーツの隙間から漂うのは、清潔に洗い立てられたリネンの微かなラベンダーの香り。
遮光カーテンのわずかな隙間から、澄んだ冬の朝の光が一筋、フローリングの床の上に金色の直線を引いていた。
「……んん……っ」
槇原紬は、小さく喉を鳴らして寝返りを打った。
腕を伸ばし、シーツの上でぐっと指先を広げる。
その瞬間、紬はパチリと目を見開いた。
「あれ……?」
身体が、軽い。
昨日の夕方、オフィスで鉛のように重かった四肢の怠惰感も、背筋を這い回っていた不快な悪寒も、どこにも見当たらない。唾を飲み込んでみても、昨日はあれほどチクチクと針で刺されるように痛んでいた喉の粘膜が、まるで最初から何もなかったかのように滑らかに潤っていた。
頭の奥を万力で締め上げるようだった鈍痛も完全に消え去り、視界は驚くほどクリアに澄み渡っている。
紬はベッドサイドのナイトテーブルに手を伸ばし、電子体温計を取り上げた。
ピピピッ、ピピピッ。
数秒後に鳴った電子音とともに、液晶パネルに表示された数値を覗き込む。
『36.5℃』
「えっ……嘘でしょう!?」
紬は思わず声を出して、体温計を二度見した。
何度見直しても、数字は変わらない。三十六度五分。平熱そのものだ。
「昨日、夕方に帰ってきたときは三十八度を超えてたのに……! 一晩寝ただけで、平熱まで下がってる……!?」
紬は布団を跳ね除け、ベッドの上に正座した。
自分の両手を見つめ、グーパーと握り直してみる。関節の軋みも完全に消えている。
「すごい……! 喉も痛くないし、頭も全然痛くない! 昨日あんなに熱があったのに、嘘みたいにスッキリしてる!」
紬は立ち上がり、寝室の扉を開けてリビングへと向かった。
ダイニングテーブルの上には、昨夜の奇跡の痕跡がそのまま残されていた。
空になった漆黒の超真空保温キャニスター。
飲み干した電解質補水液のパウチ。
そして、額の熱を完璧に吸い取ってくれたハイドロゲル冷却シートの小箱。
「やっぱり……あのおかゆとお薬のおかげだ……!」
紬は両手を頬に当て、感嘆の息を漏らした。
すっぽんと地鶏の濃厚なコラーゲンとアミノ酸が溶け込んだあの至高の雑炊。
保科が処方した、胃に優しく中枢神経をじんわりと鎮めてくれた解熱カプセル。
そして、細胞の隅々にまで電光石火で染み渡った特製の電解質補水液。
それらの奇跡的な相乗効果が、紬の体内に眠っていた自然治癒力を極限まで活性化させ、一晩で急性発熱を完全に撃退したのだ。
「区の健康キャンペーンもすごいし、近隣の飲食店さんの無償提供サービスも、効き目が神がかり的すぎるよ……! あんなに美味しいおかゆとお薬、普通なら何万円もするんじゃないのかな……?」
紬は胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、パアッとひまわりのような満開の笑顔を咲かせた。
「私ってやっぱり……病気になっても、奇跡みたいにすぐ治る強運の持ち主なんだ! 世界って、本当に温かくて、困ったときには必ず誰かが助けてくれるようにできてるんだわ!」
己の周囲で蠢く狂気じみた男たちの存在など微塵も疑わず、すべてを「日本の治安の良さ」と「自身の天性の強運」として受け止める、筋金入りの天然ポジティブ。
紬は軽やかな足取りでリビングの大きな掃き出し窓へと歩み寄り、シャッと電動カーテンのスイッチを押した。
左右へと滑らかに開いていく遮光カーテン。
ガラス窓の向こうには、どこまでも青く澄み渡った冬晴れの空が広がっていた。
サッシを開けると、凛とした朝の冷気がふわりと頬を撫でる。
「ふあーっ……! 空気が美味しい!」
紬はベランダに出て、手すりに手を添えながら、胸いっぱいに冷たく清らかな朝の空気を吸い込んだ。
体中を満たす活力。昨日までの疲労感は嘘のように吹き飛び、全身が新しいエネルギーで満ち溢れていた。
「よしっ! お腹もペコペコだし、朝ご飯に温かいお味噌汁とご飯を炊いて、しっかり食べよう! それから、昨日迷惑をかけちゃった茉莉花先輩と会社のみんなに、お礼のメールを送らなきゃ!」
紬は鼻歌交じりにキッチンへ向かい、元気いっぱいに朝の準備を始めたのだった。
◇
同じ時刻、午前七時。
六本木『ザ・クラウンタワー東京』最上階プレジデンシャル・スイート。
静寂に包まれた室内の空気は、まるで激しい戦闘が終結した直後の野戦病院のような、凄まじい疲弊と脱力感に支配されていた。
壁一面を覆う巨大モニター。
そこには、紬のスマートウォッチから送られてくるバイタルグラフが、安定した緑色の水平線を描いていた。
【被検体:槇原紬 バイタル最終判定】
【現在体温:三十六度五分(完全平熱復帰)】
【安静時心拍数:六十二bpm(完全正常値)】
【血圧:百十/七十mmHg】
【自律神経バランス:副交感神経優位から活動モードへスムーズに移行】
【総合健康評価:AAA(極めて良好)】
画面中央に、緑色の巨大なチェックマークがポンと点灯した。
その瞬間――
ドサッ。
バタン。
ガタタンッ。
室内のあちこちで、同時に何かが倒れ込む鈍い音が連続して響いた。
「……ハァッ……ハァッ……」
ソファーの背もたれに、泥のように崩れ落ちたのは鷹見征司だった。
普段の隙のないスリーピーススーツは皺だらけになり、ネクタイは完全に解かれて首元からだらしなくぶら下がっている。額に貼られた冷却シートはカピカピに乾き、充血した両目は虚空を見つめていた。
昨夜の午後三時から現在に至るまでの十六時間、鷹見は一睡もせず、モニターの前に仁王立ちして紬の体温推移をコンマ一秒単位で監視し続けていたのだ。
「……平熱だ」
鷹見の乾いた唇から、掠れた声が漏れた。
「三十六度……五分。……我が命が、繋ぎ止められた……」
鷹見は両腕を投げ出し、ソファーに完全に沈み込んで天井を見上げた。
「もし……もし彼女の熱が三十九度を超えていたら……私は今朝、全グループ企業の業務を停止させ、本社ビルを臨時休業に追い込むところだった……。耐え抜いたぞ、私は……」
その足元。
デスクの上の特注キーボードに、顔面から突っ伏していたのは成瀬郁だった。
「ふへ……へへ……なおったぁ……」
成瀬はキーボードに頬を押し付けたまま、口の端から微かによだれを垂らし、魂が抜けたような間抜けな声を漏らした。
昨夜、紬の部屋のエアコンの気流制御、加湿器の噴霧量、遮光カーテンの開閉タイミング、さらには近隣の基地局の電波強度に至るまで、すべてのデジタルインフラを徹夜で手動微調整し続けていたのだ。
「僕の……室温最適化スクリプトの……完全勝利……。もう指が動かないよ……一ミリもキーボード叩けない……このまま三日間眠らせて……」
成瀬の指先がピクピクと痙攣し、そのまま静かにいびきをかき始めた。
一方、部屋の窓際。
デスクに両肘をついて座っていた保科貴文は、震える手で銀縁眼鏡を外した。
その切れ長の目尻には、じわりと光る涙が浮かんでいた。
「……よかった……本当によかった……」
保科は白衣の胸ポケットから取り出した精神安定剤を一粒、カリリと噛み砕くと、ティッシュで目元の涙をそっと拭った。
「急性上気道炎の初期段階における完璧な薬物介入……。僕の調合したアセトアミノフェンと生薬エキスの血中濃度は、理論値通りの完璧な解熱曲線を描きました。……紬ちゃんの繊細な胃腸粘膜を傷つけることなく、解熱に成功した……。医師として、これ以上の名誉はありません……」
保科は机に額を預け、深い安堵のため息を吐き出した。
そして――部屋の隅。
壁にもたれかかって腕を組んでいた梶原敦志は、微動だにしないまま、ゆっくりと目を閉じた。
その黒いタクティカルジャケットの肩口には、昨夜銀座の厨房とマンションの廊下を往復した際の微かな名残が漂っていた。
「……雑炊の消化吸収速度、計算通りだ」
梶原の地底から響くような重低音が、静かに落ちた。
「あの人の胃に、負担は一切かからなかった。……任務、完了だ」
梶原は深く、深く、肺の中のすべての熱気を吐き出すように長い息を吐いた。
四人の怪物。
日本の頂点に君臨する知性と権力と武力を持った男たちが、たった一人の女性の「微熱」を巡り、国家総力戦のようなエネルギーを注ぎ込んで、全員揃って屍のように転がっていた。
カラン、コロン。
静まり返ったスイートルームに、氷の涼やかな音が響いた。
カウンターの奥から歩み出てきたのは、チーフバーテンダーの九重圭だった。
手元のシルバートレイには、結露した薄張りのグラスが四つ。中には、レモンを一搾りした冷たいミネラルウォーターが注がれていた。
「……皆様。お疲れさまでした」
九重は一人ひとりの前に、静かにグラスを置いた。
その顔には、先ほどまでの激痛とパニックの影は消え去り、幾多の修羅場を乗り越えてきたバーテンダー特有の、静かで達観した微笑みが浮かんでいた。
「紬さんの日常は、今日も完璧に守られましたよ」
「……九重」
鷹見がソファーから顔だけを向け、グラスを掴んで一気に喉へ流し込んだ。
「美味いな……水が、五臓六腑に染み渡る」
「当然です。私の胃壁も、ようやく穿孔の危機を脱しましたからね」
九重はため息をつきながら、蝶ネクタイを直した。
「それにしても……本当に手のかかる方々ですね。一人の女の子が三十七度八分の熱を出しただけで、ビルを停電させようとし、街の信号を全部青にし、銀座の料亭を脅迫して雑炊を作らせる……。世間一般では、これを『異常事態』と呼ぶんですよ」
「異常ではない」
保科が冷水を飲み干し、眼鏡をかけ直しながら反論した。
「愛する者の健康を司ることは、人間として最も崇高な義務です。九重さん、あなたにはこの至高の達成感が理解できませんか?」
「理解したくもありませんよ、胃に穴が空きますから」
九重は肩をすくめ、キーボードの上でよだれを垂らして眠る成瀬の背中に、ブランケットをそっと掛けてやった。
「……まあ、何はともあれ。抜け駆けもなく、条約の規定を完璧に遵守した上での看病リレー……見事なチームワークでしたよ。彼女が心から笑っていられる日常は、これでまた一つ、強固なものになりました」
「……フッ」
鷹見が短く鼻を鳴らした。
「当然だ。我々の結んだ不可侵条約は、いかなる病魔であっても打ち砕く。……紬の笑顔がある限り、この均衡は永遠に不滅だ」
男たちは、それぞれのグラスを掲げ、静かに朝日を浴びる東京の摩天楼を見下ろした。
神崎という外圧を退け、伊豆の迎賓館を制圧し、そして冬の体調不良という最大の内的危機をも、完璧な連係プレーで乗り越えた。
男たちの間には、奇妙なまでの達成感と、揺るぎない自信が満ち満ちていた。
自分たちの構築した「無菌室」は完璧だ。
何者もこの均衡を破ることはできない。紬の日常は、未来永劫、自分たちの手によって平和に守られ続けるはずだ――と。
◇
同日、金曜日の正午。
冬晴れの心地よい陽光が降り注ぐ、赤坂の『Lumiere』編集部のフロア。
ガララッ、とエントランスの扉が開いた。
「皆様、おはようございます!」
フロア全体に響き渡ったのは、鈴を転がすような、あまりにも元気いっぱいで明るい声だった。
社員たちが一斉に顔を上げる。
そこに立っていたのは、淡いミントグリーンのニットに白いプリーツスカートを揺らし、両手に有名パティスリーの大きな紙袋を抱えた槇原紬だった。
肌はツヤツヤと輝き、頬はほんのりと健康的な桜色。目の下には隈ひとつなく、昨日熱を出して早退した人間とは到底思えないほどの、圧倒的な生命力と輝きを放っていた。
「……え?」
デスクで赤ペンを走らせていた関茉莉花が、目を見開いて固まった。
「つ、紬……!? あんた、昨日三十八度近い熱を出して早退したのよね!?」
「はい! 茉莉花先輩、昨日は急に仕事を代わっていただいて、本当にありがとうございました!」
紬は小走りで駆け寄ると、持っていた紙袋を茉莉花のデスクの上に置いた。
「これ、お詫びと感謝の気持ちです! 先輩の大好きな限定カヌレと焼き菓子の詰め合わせを買ってきました!」
「いや、カヌレは嬉しいけどさ……!」
茉莉花は立ち上がり、紬の額にペタッと手のひらを当てた。
「冷たい……! 熱、完全に引いてるじゃない! どういうことなの!? 風邪引いて早退した翌日に、なんでそんなに肌のコンディション最高潮で元気百倍になって出社してくるわけ!?」
「えへへ、それがですね!」
紬は満面の笑みを咲かせ、誇らしげに胸を張った。
「昨日、お家に帰ったら奇跡が起きたんです! 玄関の前に、区の健康キャンペーンの特製お薬と、近所の料亭の無料お裾分けのすっぽん雑炊が届いてて! それを食べて一晩ぐっすり寝たら、今朝には三十六度五分の平熱に戻っちゃったんです!」
「……すっぽん雑炊。無料のお裾分け」
茉莉花の目が、すっと細められた。
「そうなの! すっごく美味しくて、身体の芯から温まって! 私、やっぱり病気になっても奇跡みたいにすぐ治る強運の持ち主なんだなって、改めて神様に感謝しちゃいました!」
「…………」
茉莉花は遠い目をし、心の中で(……絶対にあのハイスペック狂人たちの仕業だわ)と確信しながらも、紬の無邪気すぎる笑顔を見つめて、深く溜息をついた。
「……まあ、あんたが無事でピンピンしてるなら、それに越したことはないわ。あ、そうそう紬」
「はい?」
「昨日の新春特集の原稿だけどね。今朝一番で、タイアップ先のクライアント全社から連絡があってね」
「えっ!? やっぱり、私の早退のせいでご迷惑を……!?」
「逆よ、逆」
茉莉花は苦笑しながら、手元のメール画面を指差した。
「なぜか全社の宣伝部長から『槇原さんの丁寧な仕事ぶりに敬意を表し、最終入稿の締め切りを三日間延長します。体調を最優先に、じっくり素晴らしい記事を仕上げてください』って、異例中の異例の温かいメールが届いたのよ。うちの会社の営業も『こんな神クライアント見たことない』って拝んでたわ」
「ええええっ!? 締め切りを延ばしてくださったんですか!?」
紬は目をまん丸にして、胸の前で両手をパチパチと叩いて歓喜した。
「す、すごい……! うちの会社も、クライアントの皆様も、本当に、本当に神様みたいに優しい方ばかりですね……! 私、ますます全力で最高の記事を書かなきゃ!」
「はいはい、無理しない程度に頑張りなさい」
茉莉花が笑い、編集部のフロアは再び温かな活気に包まれた。
病魔すらも一瞬で霧散させ、周囲の人間関係も仕事のトラブルも、すべてが都合よく綺麗に解決していく。
世界で一番安全で、世界で一番過保護な無菌室。
紬はその完璧な温もりの中で、今日もまた、心からの笑顔を輝かせていた。
◇
――しかし。
彼らは、まだ知らなかったのだ。
外敵を殲滅し、病魔を退け、鉄壁の結束を誇るようになった四人の怪物たち。
その彼らの理性を、プライドを、そして血と汗で築き上げてきた『不可侵条約』のすべてを、根底から木っ端微塵に粉砕する最大の嵐が――
他でもない、全快した槇原紬自身の、あまりにも無邪気な「ある一言」によって引き起こされることを。
週明けの月曜日の午後。
カフェのテラス席で、紬が紅茶のカップを両手で包み込みながら、頬をほんのりと赤らめて口にする、その運命の爆弾発言。
『茉莉花先輩……実は私、最近すごく気になってる人ができちゃって』
第0次世界大戦の開戦ベルが鳴り響くまで、残された猶予は、あとわずか七十二時間であった。




