第28話:体調不良のサイン
十二月中旬の東京は、本格的な冬将軍の到来によって、朝から凍てつくような冷気に覆われていた。
並木道のイチョウはすっかり枝を枯らし、ビルの谷間を吹き抜けるビル風は刃物のように鋭く通行人の頬を削っていく。街行く人々は厚手のダウンジャケットにマフラーを巻き、足早に駅の改札へと吸い込まれていく。
そんな木曜日の午後三時、赤坂の『Lumiere』編集部のフロアは、年末特大号の最終校了を控えて、独特の張り詰めた熱気に包まれていた。
カタ、カタ、カタ……ターン。
キーボードを叩く指先が、いつもの軽快なリズムを刻めずにいた。
窓際の自席でノートパソコンと向き合っていた槇原紬は、ふと作業の手を止め、右手で自分の額にそっと触れた。
「……あれ?」
指先を通して伝わってきたのは、皮膚の内側からじくじくと立ち上る、明らかに平熱とは異なる熱っぽさだった。
喉の奥がツンと痛み、唾を飲み込むたびに小さな針で刺されたような違和感が走る。関節の節々がキシキシと軋み、背筋のあたりには微かな寒気が波のように寄せては引いていく。
目をしばたたくと、モニターの文字がわずかに二重に滲み、頭の芯がずっしりと重い鈍痛を訴えていた。
「ちょっと……体が熱いかも」
紬は手元のタンブラーから白湯を一口含んだが、喉の渇きは一向に癒えない。
原因には心当たりがあった。
先週の伊豆旅行から戻って以来、大型連動企画の追加取材や年末年始の合併号の入稿作業が重なり、ここ数日は睡眠時間が普段の半分ほどに落ち込んでいたのだ。加えて、昨夜の急激な気温の低下。いくら普段は健康そのものの紬であっても、肉体は正直だった。
体温計を持っていなくても、自分の体の声で分かる。これは、確実に熱がある。
ふらりと目眩を覚え、紬はデスクの上に肘をついて額を押さえた。
「うーん……風邪、引いちゃったのかな」
いつもなら、隣のデスクで先輩の関茉莉花が「ちょっと紬、顔が赤いわよ」と鋭くツッコミを入れてくれるところだった。しかし生憎、茉莉花は午後から丸の内の大手印刷所へ出向いており、夕方まで戻らない予定だった。フロアを見渡しても、どの社員も年末の締め切りに追われて鬼気迫る表情で画面を睨みつけており、周囲に心配をかけるような空気ではない。
紬は手元のスケジュール表に視線を落とした。
赤ペンで囲まれた今日の枠には、太字で『本日十七時・新春ライフスタイル特集・初校出し締切』と記されている。
「……今日締め切りの原稿があるんだもん。今、私が抜けたら校了が遅れて、印刷所やデザイナーさんに迷惑がかかっちゃう」
紬はぎゅっと小さく唇を噛んだ。
生真面目で責任感の強い彼女にとって、「自分の体調管理不足で他人に迷惑をかけること」は、何よりも避けたい事態だった。
「あと二時間。定時までは何とか頑張らなきゃ。原稿をサーバーにアップして、印刷所にデータを渡したら、すぐに帰ってお薬を飲んで寝よう」
紬は机の引き出しからミントタブレットを取り出して口に放り込み、熱っぽさでぼんやりし始めた意識を叱咤した。
そして、震えそうになる指先を再びキーボードの上へと滑らせた。
彼女は、自分がただの「少し我慢強いOL」として、健気に仕事を全うしようとしているだけだと信じて疑っていなかった。
――しかし。
紬の左手首に巻かれた、淡いピンクゴールドの華奢なスマートウォッチ。
社内システムのセキュリティ向上と健康増進という名目で、先月、成瀬郁から「社内モニター用の支給品です!」と手渡されていたその端末の裏蓋。
皮膚に密着した医療・軍事グレードの超高感度バイオセンサー群が、紬の生体信号の微小な変調を、一ミリ秒の狂いもなく検知していたことなど、彼女は露ほども知らなかったのである。
◇
午後三時十分。港区南青山『保科メディカル・メンタルクリニック』。
アロマの香りが静かに漂う静謐な院長室で、保科貴文は、カルテに万年筆を走らせていた。
デスクの片隅、通常の業務端末とは物理的に回線を隔離された、特注の超薄型高解像度モニター。
そこには、二十四時間体制で転送されてくる『被検体:槇原紬』のリアルタイム・バイタルストリームが描画されていた。
心拍波形、末梢血管抵抗、皮膚電気伝導度、呼気間隔、深部体温予測モデル。
そのモニターの画面が、前触れもなく、不吉な真紅のフラッシュを発した。
ピピッ。ピピッ。ピピッ。
電子音が鳴り響く。
画面中央のグラフィックが急変し、赤く太いアラートウィンドウが警告音とともに展開された。
【生体計測値異常】
【推定深部体温:三十七度八分(直近二時間でプラス一度三分の上昇)】
【安静時心拍数:百五bpm(頻脈傾向)】
【自律神経指数:交感神経過緊張、ストレス値八十二(警戒域突破)】
【末梢皮膚温度低下、シバリング(悪寒・震え)の微細振動を感知】
パキリ。
院長室に、硬質な破壊音が響いた。
保科が握りしめていたドイツ製の高級万年筆が、指先の異常な圧力によって真っ二つにへし折れ、黒いインクが純白のカルテの上に飛び散っていた。
「……三十七度、八分……?」
保科の口から漏れたのは、氷河の底から這い上がってきたような、低く掠れた声だった。
銀縁眼鏡の奥、普段は患者を包み込むような慈愛の笑みを湛えている瞳から、すべての光彩が完全に消滅していた。残されたのは、世界そのものを解体しかねない純粋な狂気の闇。
「紬ちゃんが……熱を、出している……?」
保科の呼吸が、急速に荒くなる。
直近二時間で一度三分の上昇。心拍数百五。
この数値は、急性上気道炎、あるいは過労による免疫力低下が引き起こした急性発熱の初期症状そのものだった。
彼女の華奢な体が、今この瞬間も、オフィスの冷たい空気の中で熱に焼かれ、苦痛に耐えている。
「あの細い首筋が……熱を持って……息を乱している……? なのに……なぜまだオフィスの端末から作業ログが送られてきているんだ……!?」
保科はへし折れた万年筆を床に叩き落とし、白衣の胸ポケットから男四人専用の最高機密ホットライン端末を鷲掴みにした。
そして、コンソールに備え付けられた【非常事態ボタン】を、親指で渾身の力で押し込んだ。
◇
ジリリリリリリリリリッ!!
赤坂、六本木、南青山、そして港区の路上。
四つの異なる座標に位置する端末が一斉に火を噴き、強制音声回線が瞬時に接続された。
『全員、直ちに聞け!!』
保科の絶叫に近い怒号が、スピーカーを劈いた。
『紬ちゃんが発熱した! 体温三十七度八分、心拍数百五! 現在、オフィスで急性発熱と悪寒に耐えながら作業を継続している! 直ちに彼女の業務を中断させろ!!』
『何だとッ!?』
三十階の副社長室から、鷹見征司の雷鳴のような叫びが返ってきた。
受話器の向こうで、書類が派手に床へぶちまけられる音が響く。
『三十七度八分だと!? 我が社の労働安全衛生基準において、三十七度五分以上の発熱者は即刻就業禁止の対象だ! 誰だ、彼女に原稿を書かせているのは! 編集長か!? 今すぐ編集部を解体しろ! 千冬、全社システムを落とせ!! 本社ビルの基幹サーバーの主電源を切断し、今日の業務を全員強制終了させろ!!』
『待ってください鷹見さん、落ち着いて!』
地下のラボラトリーから、成瀬郁が猛烈な打鍵音とともに割り込んできた。
『全社システムをいきなり落としたら、紬さんの作成中の原稿データが消し飛んじゃうでしょ! そんなことしたら、紬さんがショックで泣いちゃうよ! 原稿の自動保存スクリプトは僕が今バックグラウンドで強制同期したから大丈夫! それより環境制御が先!!』
成瀬のモニターには、本社ビル全体のビルディング・オートメーション・システム(BAS)の空調管理マップが展開されていた。
『本社ビルの空調システムをハッキングした! 十階編集部フロアの空調を、通常モードから【風邪・急性発熱ケアモード】へ遠隔書き換え中! 設定温度を二十二度から二十四度に引き上げ、加湿器をフル稼働させて湿度六十パーセントを固定! 紬さんのデスク周辺の気流を弱風にして、冷たい隙間風を完全に遮断したよ!!』
『……俺だ』
地を這うような重低音が、回線に割り込んだ。
梶原敦志だった。受話器の向こうから、大型エンジンの重厚な咆哮が響いてくる。
『本社のエントランス車寄せに、防弾・遮熱仕様の大型ワンボックス警備車両を横付けした。車内の後部座席はすでに完全フラットシートへ展開し、保温ブランケットを配備済みだ。……いつでも彼女を収容し、搬送できる。搬送ルート上の赤信号は、成瀬、貴様がすべて青に固定しろ』
『了解、警視庁の交通管制システムにパッチを当てる準備はできてる!』
男たちの狂気が、一瞬で都市機能を巻き込むレベルへエスカレートしていく。
その時――
『落ち着きなさい、あんたたち!!』
スピーカーの奥で、カクテルグラスが激しく叩きつけられる音とともに、チーフバーテンダー・九重圭の悲痛な叫びが轟いた。
『救急車を呼ぶ前に本人の意思を確認しなさい! 車寄せに黒塗りの装甲車を横付けして、ビルを停電させて、交通信号を全部青にしたら、大パニックになって紬さんが怯えて気絶するでしょうが!! 胃が……私の胃が今まさに悲鳴を上げてるんですよ!!』
『九重、黙っていろ!』と鷹見が吼える。
『彼女が熱を出しているのだぞ! 平熱三十六度二分の彼女が、三十七度八分だ! 一刻の猶予もない!』
『だからこそです!』
保科が冷徹に、しかし有無を言わせぬ気迫で議論を制圧した。
『僕の指示に従いなさい。……まずは、彼女に恐怖や違和感を与えずに、合法的に、かつ迅速にオフィスから退去させる。千冬さん、聞こえていますね?』
『……ええ、すでに副社長室の前で待機しております』
回線に、千冬の冷ややかな、しかし完璧にコントロールされた声が滑り込んできた。
『佐伯千冬、現時刻をもって【体調不良者・強制帰宅オペレーション】を開始いたします。……皆様は、各自の担当領域における看病リレーの準備を整えてください』
◇
午後三時十五分、編集部フロア。
「……ふう」
紬は小さく吐息をつき、首筋を指先で押さえた。
なんだか、さっきから妙だった。
フロアの空気が、急にふわりと柔らかく、暖かくなっていたのだ。
天井の吹き出し口から流れてくる風は心地よいぬるま湯のようで、乾燥していた喉が、いつの間にかしっとりとした湿度に包まれている。
(あれ……? エアコンの設定温度、誰かが上げてくれたのかな? すごくあったかくて、呼吸がしやすい……)
ビルの空調が急に自分にとって最も快適な環境へと最適化されたことに、紬はぼんやりとした頭で感謝していた。
しかし、体内の熱までは消えてくれない。
キーボードを叩く指が鉛のように重く、視界の隅がチカチカと明滅する。
「あと、半分……。導入部分と、特集のまとめだけでも仕上げなきゃ……」
紬が画面に顔を近づけ、必死に文字を打ち込もうとした、その時だった。
カツ、カツ、カツ。
静まり返った通路を、乱れのない規則正しいヒールの音が近づいてきた。
「――槇原さん。少々、よろしいでしょうか」
紬が顔を上げると、そこには手帳を胸に抱え、完璧なスーツを着こなした副社長秘書・佐伯千冬が立っていた。
「あ……千冬さん。お疲れさまです……どうされたんですか?」
紬が掠れた声で応じると、千冬のポーカーフェイスの奥の瞳が、わずかに細められた。
千冬の視線は、紬の上気した赤い頬、乾燥した唇、そして微かに震える指先を、コンマ数秒で冷徹にスキャンしていた。
(……本当に、三十七度八分あるわね。こんな状態で仕事を続けさせるなんて、あの男たちが発狂するのも無理はないわ)
千冬は心の中で深々と溜息をつきながら、手元のバインダーから一枚の書類を取り出した。
「槇原さん。大変申し上げにくいのですが、業務を直ちに中断し、速やかに退勤の準備をしてください」
「えっ……!?」
紬は目を白黒させた。
「た、退勤ですか!? でも、私、今日の十七時までに新春特集の初校を出さなきゃいけなくて……」
「その件につきましては、すでに手配が完了しております」
千冬は淀みない口調で、淡々と告げた。
「先ほど、産業医ならびに社内衛生管理委員会より、全社に向けた【冬季感染症予防に関する緊急衛生指導】が発令されました。現在、社内の一部ネットワークにおいて空調フィルターの緊急除菌作業を行うため、本フロアの社員は順次、前倒しでの退勤が命じられております」
「ええっ、除菌作業ですか!?」
「はい。また、あなたが担当されている新春特集の初校データにつきましては、先ほど総務経由で外部の提携デスク――関茉莉花デスクのモバイル端末へ全権委譲されました。関デスクより『残りの校正は私が責任を持って引き受けるから、紬は余計なことを考えずに即座に帰りなさい』との直電を受領しております」
「茉莉花先輩が……!?」
千冬は手帳を閉じると、紬のデスクの脇にスッと歩み寄り、椅子の背もたれにかかっていた紬のウールコートを丁寧に手に取った。
「槇原さん。あなたの顔色、かなり熱をお持ちのようにお見受けいたします」
「あ……」
「責任感が強いのは素晴らしい美徳ですが、無理をして倒れてしまっては、関デスクも、編集長も、そして……会社の上層部も、深く心を痛めることになります」
千冬は紬の肩に、ふわりと温かいコートを掛けてあげた。
その手つきは、いつもの冷徹な秘書のものとは思えないほど、優しく、丁寧だった。
「初校の遅れなど、会社組織にとってはかすり傷にすらなりません。しかし、あなたの健康が損なわれることは、我が社にとって極めて重大な損失です。……分かりますね?」
紬は熱で潤んだ瞳をパチパチと瞬かせ、それから申し訳覚悟に小さく頭を下げた。
「……はい。ごめんなさい、千冬さん。お言葉に甘えて……今日は早退させていただきます」
「賢明なご判断です」
千冬は微かに口元を緩めると、ポケットから一枚のタクシーチケットを取り出し、紬のバッグの持ち手にそっと滑り込ませた。
「エントランスに、ハイヤーを手配してございます。車内は暖房を効かせてありますので、真っ直ぐご自宅へお帰りください。……明日の朝まで、社用スマートフォンの電源は切っておくことを強くお勧めいたします」
「ありがとうございます……千冬さん、本当に優しいですね」
「……職務でございます」
千冬は一礼し、紬が荷物をまとめてヨロヨロと立ち上がるのを、転倒しないよう背後から静かに見守りながら、エレベーターホールへと送り届けた。
◇
午後三時三十分、本社ビル・エントランス。
自動ドアを抜けると、千冬の言葉通り、正面玄関の最も乗り降りしやすい位置に、ピカピカに磨き上げられた黒塗りのハイヤーがハザードランプを点滅させて停車していた。
紬が近づくと、運転手が無言で最敬礼し、恭しく後部座席のドアを開けた。
「槇原紬様ですね。港区のご自宅まで、揺れの少ないルートで安全にお送りいたします」
「あ、よろしくお願いします……」
車内に滑り込むと、そこは驚くほど快適な空間だった。
座席にはシートヒーターが程よく効き、柔らかいカシミアのブランケットが膝の上に用意され、カップホルダーには人肌に温められたミネラルウォーターのボトルがセットされていた。
バタン、と重厚なドアが閉まり、ハイヤーは滑るように走り出した。
暖かな車内の揺れに身を任せながら、紬はブランケットをぎゅっと抱きしめた。
「……はぁ。あったかい……」
窓の外を流れる冬の街並み。
信号はなぜか、交差点に近づくたびに吸い込まれるようにすべて青へと切り替わり、車は急ブレーキひとつ踏むことなく、信じられないほどスムーズに赤坂の坂道を下っていく。
「私って……本当に、恵まれてるなあ」
熱で火照った頭の奥で、紬はぼんやりと幸せな感謝を噛み締めていた。
「体調を崩した瞬間に、先輩が仕事を代わってくれて、千冬さんがハイヤーを手配してくれて、こんなにあったかい車で送ってもらえるなんて……。世界って、どうしてこんなに優しいんだろう……」
重くなるまぶたを閉じ、紬はシートに身を預けた。
――しかし。
彼女が静かに眠りに落ちていくその頃。
彼女の帰るべき港区のマンション、そして男たちのネットワークの深淵では――
彼女を迎え撃つための、空前絶後の【至高の看病リレー】が、全速力でその歯車を噛み合わせ始めていたのである。




