↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/60

第27話:バーテンダー九重の苦悩

六本木の夜空を切り裂くようにそびえ立つ、地上五十階建てのランドマークタワー『ザ・クラウンタワー東京』。


その最上階、重厚な真鍮のプレートに『Bar Splendido(スプレンディード)』と刻まれた重い扉の向こうには、選ばれた富裕層と各界の頂点に君臨する要人しか立ち入ることが許されない、完全会員制のシークレットバーが存在していた。


一枚板のブビンガ材で設えられたカウンターには、琥珀色の間接照明が静かに灯り、眼下のパノラマウィンドウには息を呑むような東京の夜景が果てしなく広がっている。


カウンターの奥で、氷を削るリズミカルなピックの音を響かせていたのは、このホテルのチーフバーテンダーにしてフロア支配人を務める男――九重圭(ここのえ けい)だった。


仕立てのいいベストに、寸分の狂いもなく結ばれた黒い蝶ネクタイ。三十五歳という若さでありながら、国際的なカクテルコンペティションで数々の栄冠を手にしてきた名バーテンダーだ。


しかし――その端正な顔立ちの裏で、九重は今夜もまた、左脇腹の奥にある臓器の激痛に耐えていた。


(……痛い。今夜も確実に、胃粘膜が二、三箇所は削れ飛んでいる……)


九重はベストの裾の下、左手でそっと自らの胃を擦り、誰にも見えない位置で薄く息を吐き出した。


原因は分かっている。


毎週木曜日の夜、最上階のプレジデンシャル・スイートで開かれる、あの忌まわしき【定例監視会議】だ。


東証プライム上場の若き総帥・鷹見征司。


国家防衛レベルの腕を持つ天才ハッカー・成瀬郁。


セレブ御用達クリニックの院長にして精神科の権威・保科貴文。


元警視庁SPの武闘派警備会社社長・梶原敦志。


本来であれば、絶対に交わるはずのない四人の怪物が、一人の真面目な女性編集者・槇原紬(まきはら つむぎ)への執着から結んだ『不可侵条約』。


その調停人兼書記係という、世界で一番割に合わない役回りを押し付けられているのが、他ならぬ九重だった。


カヌレの買収を巡ってナイフとスタンガンが飛び交い、誕生日プレゼントの予算上限で怒号が響き、先週の伊豆旅行では鷹見が柱に頭突きして流血した。


毎回、修羅場を仲裁するために大声を張り上げ、特大ボトルの液体胃腸薬をラッパ飲みする日々。一般常識人枠である九重の胃壁は、とっくに穿孔寸前の限界領域に達していた。


(先週の社員旅行で、伊豆の迎賓館を丸ごと貸し切ってまで彼女を囲い込んだのだ……。今夜くらいは、何事もなく静かにグラスを磨かせてくれ……神よ、仏よ、ペプシンよ……)


九重が内心で神仏と消化酵素に祈りを捧げていた、まさにその瞬間だった。


カラン、とエントランスの重厚な防音扉が開き、フロアに澄んだヒールの音が響いた。


◇


入室してきた人物を一瞥した瞬間、九重のバーテンダーとしての審美眼が、無意識に警戒のレベルを引き上げた。


女性だった。


仕立ての良い漆黒のバックレスドレスに、羽織った毛足の長いフォックスファーのストール。すらりと伸びた細い足首をピンヒールが飾り、艶やかな黒髪が歩くたびに優雅に波打っている。


年齢は二十代半ば。しかし、その立ち振る舞いから漂う洗練された大人の色香と、男の視線を惹きつけてやまない華やかさは、この格式高い会員制バーの空気に完璧に溶け込んでいた。


日下部莉緒(くさかべ りお)。


外資系コスメブランドの敏腕PRであり、夜の港区の社交界を熟知した美女。


莉緒はカウンターの中央へと迷いのない足取りで進み出ると、優雅にバースツールへと腰掛けた。組まれた脚のラインが、スリットの隙間から妖艶に覗く。


「いらっしゃいませ。当店へようこそ」


九重はプロの仮面を被り、完璧な角度の会釈とともにメニューを差し出した。


「お連れ様はお見えになりますか? それとも、お一人でいらっしゃいますでしょうか」


「ええ、今夜は一人よ」


莉緒はメニューに視線を落とすこともなく、ふわりと香水の甘い香りを漂わせながら、艶やかな唇を微笑みの形に吊り上げた。


「こちらの会員権を持っている某外資系ホテルの総支配人に、無理を言ってゲストビジターの枠を融通してもらったの。ずっと来てみたかったのよね、このお店」


「光栄に存じます。……ご注文は、いかがいたしましょう」


「そうね……今の私の気分にぴったりのものをいただこうかしら。少し冷たい夜風に当たってきたから、頭をスッキリ冴えさせるような……そう、真実を見透かすためのドライな一杯を」


「かしこまりました」


九重は氷をミキシンググラスに入れ、手際よくステアを始めた。


オーダーの真意は掴みかねたが、客の注文に完璧な技術で応えるのがプロだ。ジンをベースに、ベルモットを数滴。ミリ単位の狂いもなくステアされた液体が、美しいカクテルグラスへと注ぎ込まれる。


「お待たせいたしました。『マティーニ』でございます。オリーブは別添えにしております」


「ありがとう、マスター」


莉緒はグラスのステムを指先でつまみ、唇をわずかに湿らせた。


「……完璧ね。氷の温度も、ジンの角の取り方も。さすが、日本を代表するトップバーテンダーの腕前だわ」


「過分なお言葉、恐れ入ります」


九重が一礼し、グラスを拭くために一歩下がろうとした、その時だった。


「――ねえ、マスター」


低く、澄んだ、しかし逃げ場を塞ぐような声がカウンター越しに投げかけられた。


「こちらのお店、鷹見ホールディングスの副社長や、保科メディカルクリニックの院長が……とても頻繁にいらっしゃるんですって?」


「…………」


九重の手元で、磨いていたクリスタルグラスが、キュッと微かな摩擦音を立てた。


九重の背筋を、ツツッと冷たい汗が流れ落ちる。


鷹見征司。保科貴文。


一般の客が、この二人の名前をセットで、しかもこの最上階のバーと結びつけて口にするはずがない。この店は完全会員制であり、彼らの来店履歴や利用記録は、最高機密として厳重に秘匿されているはずなのだ。


九重は表情筋のミリ単位のブレすら殺し、穏やかな笑みを浮かべたまま応じた。


「……お客様。恐れ入りますが、当店ではお客様のプライバシー、ならびにご来店履歴に関するお話は、一切控えさせていただいております。どなた様であっても、静かにグラスを傾けていただくのが当店の流儀でございますので」


完璧な、非の打ち所のない拒絶の言葉。


しかし――目の前の美女は、フッと楽しそうに目を細めただけだった。


「ふふ、教科書通りの回答ね。さすがプロだわ」


莉緒はマティーニのグラスを指先で弄びながら、身を乗り出してきた。


その瞳は、獲物の急所をロックした鷹のように、鋭く九重の瞳の奥を射抜いていた。


「隠さなくていいわよ、九重さん」


「……っ」


名前を呼ばれた瞬間、九重の喉仏が微かに上下した。


「あなた、ただの支配人じゃないでしょ。……あいつら男四人が水面下で結んでいる、あの狂気じみた『協定』の、仲介役兼調停人でしょ?」


◇


(胃がッ……!!)


ドクン、と九重の胃壁が凄まじい痙攣を起こした。


痛い。激痛だ。先週の鷹見の頭突き現場を目撃した時以上の、強烈な胃酸の逆流が喉元までせり上がってくる。


(なぜだ……!? なぜ外部の人間が『協定』の存在を知っている!? 情報漏洩か!? 成瀬の暗号化プロトコルにバックドアがあったのか!? それとも鷹見の秘書の佐伯さんが口を滑らせたのか!?)


九重の脳内で、警報サイレンがけたたましく鳴り響く。


だが、九重は必死で奥歯を噛み締め、呼吸を整えた。ここで動揺を見せれば、相手の思う壺だ。


「お客様、何のお話かさっぱり分かりかねますが――」


「とぼけないで」


莉緒は冷淡にその言葉を遮った。


「私の親友の名前は、槇原紬。……『Lumiere』の編集者よ」


「…………」


「あんたたち、あの子の周りを一体どんな手を使って囲い込んでるの? 家賃三万円の要塞マンション、国家機密仕様のルーター、神隠しに遭うパワハラ上司やクレーマー、そして先週の伊豆の迎賓館の全館貸し切り……。全部、あいつら四人が裏で結託して仕組んだ茶番劇よね?」


莉緒は細い指先でカウンターをトンと叩いた。


「大企業の副社長、天才ハッカー、セレブ御用達の精神科医、元SPの警備会社社長……。社会的地位も才能もある男たちが寄ってたかって、たった一人の純粋な女の子を『無菌室』に閉じ込めて何をしてるの? あの子に指一本触れさせない不可侵条約を結んで、水面下で何を企んでるわけ!?」


完璧だった。


外堀を埋め、証拠の点と点を繋ぎ合わせ、一撃で本丸の心臓部を抉り出すような、完璧なプロファイリング。


九重は、手元のクロスを握りしめたまま、彫像のように硬直していた。


(……この女、本物の化け物だ……!!)


九重の背中に、冷や汗が滝のように吹き出す。


成瀬のハッキングや鷹見の資本力、梶原の武力、保科の医学的洗脳――男四人の暴力と知能の結集を、たった一人の女性が、純粋な「観察眼」と「親友への愛」だけで、ここまで正確に解き明かしてみせたのだ。


恐ろしい。男たちのヤンデレぶりも狂気だが、この女の直感と追及能力もまた、常人の領域を遥かに超越していた。


だが――同時に、九重の脳裏に、底知れぬ悪寒が走った。


もし、この事実を男たちが知ったらどうなるか。


成瀬がこの女のスマートフォンと全SNSを即座にクラッシュさせ、


鷹見の法務部が彼女の勤務先であるコスメブランドに圧力をかけて解雇に追い込み、


保科が「重度の妄想性障害」の診断書を偽造して社会的に孤立させ、


そして梶原が――夜道で音もなく彼女の首を極め、二度と紬に近づけない地の果てへ放逐する。


男たちの『条約』は、紬の笑顔を守るためには、いかなる外敵に対しても一切の慈悲を持たないのだ。


たとえそれが、紬の大学時代からの大親友であったとしても。


「……はぁ」


静寂の中、九重の口から、深く、重い溜息が零れ落ちた。


九重はカウンターの下にクロスを置くと、背筋を伸ばし、先ほどまでの「営業用のバーテンダー」の仮面を静かに脱ぎ捨てた。


その瞳には、幾多の修羅場を胃薬とともに生き抜いてきた男の、冷徹で真摯な光が宿っていた。


「……マティーニのお味は、いかがでしたか」


「え?」


唐突な問いかけに、莉緒がわずかに眉をひそめた。


「アルコール度数は三十五度を超えています。……少々、胃に刺激が強すぎたのではありませんか」


九重は手元のマティーニグラスを静かに下げると、カウンターの下から新しいロンググラスを取り出した。


そして、バックバーの棚の奥から、数種類の特殊なボトルを手早く並べた。


イタリア産の薬草酒、フェンネルとカモミールの特製ハーブシロップ、絞りたてのグレープフルーツ果汁、そして胃粘膜を保護する成分を含む医療用生薬エキス。


氷を満たしたシェイカーにそれらを注ぎ入れ、九重は滑らかなストロークでシェイクを始めた。


シャカ、シャカ、シャカ、シャカ……。


澄んだ氷の音が、張り詰めたカウンターの空気を心地よく刻む。


ストレーナーを通してグラスに注がれたのは、淡いペールグリーンの、細やかな気泡を湛えた美しいモックテル(ノンアルコールカクテル)だった。


仕上げにフレッシュなミントの葉を添え、九重はそれを莉緒の前へと静かに滑らせた。


「……これは?」


「特製のノンアルコールカクテルでございます」


九重は淡々と説明した。


「生薬由来の抗炎症成分と、自律神経を整えるペパーミントを配合しております。……張り詰めた神経を鎮め、荒れた胃壁を保護する効果がございます」


莉緒はグラスを見つめ、それから九重の顔を見上げた。


「……私の質問に答えていないわよ、マスター」


「お答えすることは、何もございません」


九重はカウンターに両手を置き、真っ直ぐに莉緒の瞳を見据えた。


その声は、低く、静かで、しかし絶対的な重みを孕んでいた。


「ただ……一介のバーテンダーとして、親切心から忠告申し上げます」


「忠告?」


「ええ」


九重はわずかに目を細め、夜の闇が広がる窓の外へと視線を向けた。


「あの方々は……あなたが想像しているような、生ぬるい常識の通じる人間ではありません。……誰一人としてね」


「…………」


「彼らが手を結んでいるのは、奇跡のような薄氷の均衡です。もし外部の何者かが、その氷を不用意に割ろうとすれば……その瞬間に何が起きるか。私にも予測がつきません」


九重の脳裏に、スイートルームで飛び交うペーパーナイフとハッキングツール、そして頭突きで柱を割った副社長の血まみれの顔がフラッシュバックする。


九重は再び莉緒に向き直り、静かに告げた。


「……お嬢さん。これ以上のお話は、命の保証ができかねますよ」


命の保証は、できかねる。


脅しではない。誇張でもない。


四人の怪物の狂気を誰よりも間近で見てきた男だからこそ発せられる、純度百パーセントの、本物の警告。


莉緒の背筋に、ゾクリと冷たい刃物が触れたような戦慄が走った。


このバーテンダーは、男たちの味方をして自分を威嚇しているのではない。


むしろ――これ以上踏み込めば、彼女自身が四人の怪物の餌食になることを、本気で案じて警告しているのだと、莉緒の研ぎ澄まされた直感が告げていた。


「…………」


莉緒は小さく息を呑み、差し出されたペールグリーンのカクテルに口をつけた。


ひんやりとした清涼感。ミントの爽やかな香りと、柑橘の優しい酸味、そして薬草の微かな苦味が、緊張で強張っていた喉と胃袋を優しく包み込んでいく。


「……美味しいわね」


「恐れ入ります」


莉緒はグラスを置き、バッグからプラチナカードを取り出してカウンターに滑らせた。


「お会計をお願い。今夜はこれで引き揚げるわ」


「かしこまりました」


スマートに決済を済ませ、レシートを受け取った莉緒は、スツールから立ち上がった。


フォックスファーのストールを肩に掛け直し、出口へと向かう。


そして――重い扉の前に立った瞬間、莉緒は振り返り、九重に向かって艶然と微笑んでみせた。


「忠告、感謝するわ、マスター」


その瞳には、怯えの色など微塵もなかった。


むしろ、霧の向こうに隠されていた怪物の輪郭を捉えたことに対する、冷徹で確信に満ちた光が宿っていた。


「……でもね。あの子は私の、たった一人の大切な親友なのよ」


莉緒はドアノブに手をかけ、はっきりと告げた。


「あいつらの思い通りには、絶対にさせないわ」


カラン、とドアベルが鳴り、美しい美女の姿は夜の闇の中へと消え去っていった。


◇


フロアに、再び完全な静寂が戻った。


扉が閉まった、まさにその瞬間――


ガシャアンッ!!


九重圭はカウンターの内側に崩れ落ち、両手で激しく胃を押さえながら、床にうずくまった。


「痛い痛い痛い痛い痛いッ……!! 胃が……胃がぁぁぁぁぁっ!!」


九重は脂汗を滝のように流しながら、這いつくばるようにしてバックバーの最下段の引き出しを開けた。


そこには、高級ウイスキーのボトルではなく、各種の胃腸薬、粘膜保護剤、H2ブロッカー、そして強力な鎮痛剤のシートが、軍隊のように整然と並んでいた。


九重は特大ボトルの液体胃腸薬を掴み出すと、キャップを乱暴にひねり、ラッパ飲みで一気に喉へと流し込んだ。


ゴク、ゴク、ゴク、ゴクッ……!


「ぷはぁっ……! ハァ……ハァ……ッ!」


荒い息を吐きながら、九重はカウンターに背中をもたれかけ、天井を見上げた。


「……外部の美女探偵……勘が鋭すぎる……! なぜあの子の周りには、あんな厄介な人間ばかり集まるんだ……!?」


男四人の殺気だけでも胃潰瘍寸前なのに、今度は紬を本気で案じる最強の親友が、独自に包囲網の存在を暴きにかかっている。


もし彼女が男たちの誰かに接触し、挑発でもすれば、不可侵条約の枠組みそのものが音を立てて崩壊しかねない。


「……もう嫌だ……辞めたい……田舎に帰って、静かに喫茶店でも開きたい……」


九重は涙目で呟き、震える手で蝶ネクタイを緩めた。


その頃。


エレベーターで一階へと降り立った日下部莉緒は、冬の夜風が吹き抜ける六本木の街並みを見上げ、スマートフォンを握りしめていた。


(……確信したわ)


あのバーテンダーの態度、そして隠しきれなかった微かな動揺。


間違いなく、何かが動いている。


巨大で、緻密で、常軌を逸した組織的狂気が、紬の日常を完璧にコントロールしている。


「待ってなさいよ、ハイスペック狂人共……」


莉緒の瞳に、不屈の闘志が燃え上がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。