第24話:露天風呂の鉄壁防衛
大広間での大宴会が終わり、夜の帳がしっとりと降りた午後九時過ぎ。
『翠巒亭』の広大な敷地は、冬の澄んだ静寂と、山あいの清冽な冷気に包まれていた。
夕食の席は、まさに夢のような時間だった。伊豆の海で獲れたばかりの巨大な金目鯛の姿造り、伊勢海老の鬼瓦焼き、極上の静岡そだち牛の陶板焼き――テーブルから溢れんばかりのご馳走を前に、編集部の面々は歓声を上げっぱなしだった。
もちろん、その華やかな宴会の裏で、仲居頭の着物に身を包んだ佐伯千冬が、酒に酔った男性社員たちが紬の座敷へ近づこうとするたびに「お酒のおかわりでございますか」「あちらの席で編集長がお呼びでございます」と冷徹な微笑みと神がかり的な動線コントロールでことごとく撃退し、自室に戻って胃薬を二包一気に飲み干していたことなど、紬は知る由もなかった。
「ふあー……っ! 美味しかったし、楽しかったなあ!」
離れ『月の間』の脱衣所で、紬は満腹のお腹をさすりながら、楽しそうに笑みをこぼした。
「本当にねえ。宴会料理であんなに本物の高級料亭の味がするなんて思わなかったわ。それにしても……」
隣で化粧落としシートを手にしていた関茉莉花が、肩口で髪をクリップで留めながらジト目を向けた。
「営業部の若手連中、なんであんなに紬の周りから不自然に弾き飛ばされてたのかしらね。千冬さんのガード、もはや要人警護のプロ並みだったわよ」
「え? 千冬さん、お給仕の手際がすごくスマートで素敵でしたよね! さすが副社長の秘書さん、何をやらせても一流なんだなあって見惚れちゃいました」
「……ええ、そうね。もうあんたのそのフィルター、一生外さなくていいわ」
茉莉花は諦めたように溜息をつくと、脱衣所のガラス戸をカラリと開けた。
瞬間、ふわっと立ち込める温かな湯気とともに、清々しい檜の香りと微かな硫黄の匂いが鼻腔をくすぐった。
「わあ……っ!」
紬は思わず感嘆の声を漏らした。
専用の濡れ縁から続く露天風呂は、贅沢な天然の巨石をくり抜いて作られた岩風呂だった。滔々と注がれる源泉は無色透明で、湯面からは白い湯気が夜空へと優雅に立ち上っている。
見上げれば、冬の漆黒の夜空に、息を呑むほど無数の星々が瞬いていた。都会のネオンに邪魔されない満天の星空が、まるで降るように頭上に広がっている。
露天風呂を取り囲むのは、美しくライトアップされた深紅のモミジと、その背後に壁のようにそびえ立つ、鬱蒼とした青々しい孟宗竹の竹林。サラサラ、と夜風に笹が擦れ合う音が、まるで天然の子守唄のように耳に心地よい。
「見てください茉莉花先輩! 星がすっごく綺麗!」
「最高じゃない……。しかもこれ、私たちだけの完全なプライベート露天風呂なのよね。大浴場と違って、他の宿泊客に気兼ねする必要が全くないなんて、本当に極楽だわ」
「はい! 足、入れちゃいますね……んん〜〜っ!」
紬がそっと爪先をお湯に浸し、ゆっくりと肩まで沈み込む。
「ふあ〜〜極楽〜! お湯がトロトロしてて、肌に吸い付くみたい! お肌がツルツルになる気がする!」
「本当ね、貸し切りだから誰も入ってこないし最高。極楽極楽……」
二人は岩の縁に頭を預け、手足を伸ばして幸せそうに深く息を吐き出した。
日頃の締め切り前の激務や、パソコン作業でガチガチに凝り固まっていた肩と腰の筋肉が、名湯の温もりによって芯からじんわりと解きほぐされていく。
「はあ……本当に、天国に来ちゃったみたい。千冬さんも、成瀬くんも、タカちゃんも、梶原さんも……みんながこの旅館を最高におもてなししてくれて、守ってくれてるから、こんなに安心して温泉を満喫できるんですよね」
「……守られてるっていうか、包囲されてるっていうか……まあ、今夜くらいは難しいこと考えるのやめましょ」
二人が温泉の多幸感に浸り、心地よく目を細めていた、まさにその時。
湯気立つ露天風呂からわずか二十メートル。
ライトアップの光すら届かない、漆黒の竹林の奥深くでは――人間界の平穏とは完全に断絶された、冷徹無比な【絶対防衛戦】の火蓋が切って落とされていた。
◇
カサリとも、音がしなかった。
夜風が竹の葉を揺らす自然のノイズの中に、その男の存在は完全に同化していた。
露天風呂を見下ろす山側の斜面、高さ七メートルの赤松の太い枝の上。
全身を夜間迷彩のタクティカルスーツに包み、頭部には最新型の四眼式パノラミック暗視ゴーグル(PNVG)を装着した巨漢――梶原敦志が、音もなく身を潜めていた。
暗視ゴーグルの緑色の視界の中には、広大な庭園の地形、赤外線トラップの配置ライン、そして風向きに至るまでの全データが、HUD上にリアルタイムで投影されている。
当然ながら、梶原の視線は、紬のいる露天風呂の方向には一ミリたりとも向けられていなかった。
【不可侵条約・第4条付帯規定】:
『いかなる防衛・警護任務中であっても、対象(紬)の入浴、着替え、その他プライベートな露出行動を直接視認することは、条約に対する重大な反逆とみなし、即時処刑の対象とする』
梶原はその鉄の掟を、己の魂に刻み込んでいた。
暗視ゴーグルの視野には、露天風呂のエリア全体に巨大なデジタルマスキング(黒塗りモザイク)が自動でかけられており、湯気と竹垣の外側――すなわち「外敵が侵入しうる外周境界線」のみが、極限の解像度で監視されていたのだ。
チッ、と極小の耳内インカムから、ノイズ混じりの電子音が響いた。
『――梶原さん、聞こえる?』
地下の通信室、ならびに館内の臨時サーバー室に潜入している成瀬郁からの、暗号化ダイレクト通信だった。
『外周セキュリティセンサー・エリア4に反応あり。敷地外の北側山林、二時の方向から熱源が一個接近中。移動速度は時速約四キロ、明らかに人間の足取りだよ』
「……確認した」
梶原はインカムに向かって、声帯を微かに振動させるだけの極小のウィスパーボイスで応じた。
「映像の補足は可能か」
『今、敷地外周の赤外線トレイルカメラのズームを回したよ……うわ、出た。大型の望遠レンズをつけた一眼レフカメラを抱えてる。身元照合完了、地元の悪質パパラッチ兼フリーのゴシップカメラマン・鮫島三十八歳。過去にも高級旅館の宿泊客を盗撮して週刊誌に売り飛ばしてた常習犯だね』
成瀬の声から、冗談めかしたトーンが完全に消え去った。
『『翠巒亭』が今夜、全館貸し切りになってるって情報をどこからか聞きつけて、大物芸能人か政界の大物でもお忍びで来てるんじゃないかって嗅ぎ回ってるみたい。……露天風呂の竹垣の隙間を狙える狙撃ポイントへ向かってるよ。到達まで、あと四十五秒』
「……了解した」
梶原の瞳の奥で、感情の光が完全に消失した。
「無音で処理する」
梶原は背中のスリングから、艶消しブラックの特殊消音麻酔銃(カスタム・サプレッサー付きトランキライザーガン)を滑り出させた。装填されているのは、保科貴文が直々に調合した、象をも五秒で昏倒させる即効性の医療用神経麻酔弾。
フッ、と息を吐いた瞬間、梶原の巨躯が木の枝から舞い降りた。
七メートルの高低差。しかし、着地の音は一切しなかった。落ち葉の一枚すら踏み割らず、猫科の猛獣のようなしなやかさで地面に着地すると、梶原は竹林の影から影へと、風のように滑走した。
◇
敷地の外周、石垣と竹垣が交差する薄暗い斜面。
生い茂る笹をかき分けながら、黒いウインドブレーカーを着た男・鮫島は、下卑た笑みを浮かべて這い進んでいた。
「へへっ……間違いねえ。『翠巒亭』が全館貸し切りなんて、絶対に大物タレントの密会旅行に決まってる……。離れの露天風呂なら、女のすっぴんも無防備な姿も撮り放題だぜ……」
鮫島はカメラの三脚を立てようと、首から提げた超望遠バズーカレンズを構えた。
竹垣の隙間、湯気の向こうに、ほんのりと灯る露天風呂のオレンジ色の明かりが見えた。
「もらった……! これで今夜は数百万円のスクープ――」
男がファインダーに右目を押し当てようとした、まさにその刹那。
プシュッ。
夜風の音にすら掻き消されるような、微かな圧縮空気の破裂音。
「……え?」
鮫島の左首筋に、チクッとした鋭い痛みが走った。
蚊に刺されたような微小な刺激。男が思わず首筋へ手を伸ばすと、そこには長さ三センチほどの極細のプラスチック製ダーツが深々と突き刺さっていた。
「な……んだ……これ……?」
言葉が、途切れた。
次の瞬間、脳のシナプス伝達が暴力的に遮断された。
視界がぐるりと激しく回転し、手足の筋肉から急速に力が抜け落ちる。心臓の鼓動が急停止したかのような強烈な脱力感とともに、鮫島の身体がぐらりと前のめりに倒れ込んだ。
ガサリ、と音を立てて地面に激突する――はずだった。
パシッ。
暗闇から音もなく伸びてきた黒い革手袋の手が、倒れかけた鮫島の胸元を、寸分の狂いもなく空中でガッシリと受け止めた。
地面に小枝の一本も折らせない、完璧なキャッチ。
「…………」
梶原は昏睡した男の巨体を、まるで羽毛のクッションでも扱うかのように軽々と片手で抱え上げた。
即座に男の手元から望遠カメラを抜き取ると、懐から取り出した成瀬特製の小型電磁パルス(EMP)照射器をカメラのSDカードスロットへ密着させ、カチリとスイッチを押す。不可視の高周波パルスが走り、記録メディア内部の全フラッシュメモリが分子レベルで完全に焼き切れた。
インカムに指を添える。
「……害虫一名、無力化完了。これより搬送する」
『了解! 裏門の警備車両のトランクを開けてあるよ。所轄の警察署の前に「泥酔して山林で行き倒れていた不審者」として置き配しといてね〜』
梶原は昏睡した鮫島を俵担ぎに担ぎ上げると、竹林の闇の中を風のように駆け抜け、わずか二十秒で敷地外へと搬送を完了させた。
残された斜面には、争った痕跡も、足跡ひとつ残されていなかった。
◇
だが――防衛ミッションは、まだ終わっていなかった。
梶原が再び竹林の防衛ラインへと帰還した直後、成瀬からけたたましい緊急警告がインカムに飛び込んできた。
『梶原さん、緊急事態!! 裏山の自然保護区側から、想定外の超巨大熱源が接近中!!』
「……何だ」
『人間じゃない! 生体スキャン、質量約百三十キロ……野生の巨大イノシシだよ!!』
「猪だと」
『うん! 旅館の厨房から出た出汁の匂いか、温泉のミネラルの匂いに誘われたみたい! 時速三十キロで山肌を突進してきてる! 進路の延長線上にあるのは……紬さんたちの入っている露天風呂の竹垣の真裏だよ!!』
画面越しに見えるサーモグラフィーには、猛烈な勢いで木々を薙ぎ倒しながら直進してくる、赤く燃え盛る巨大な獣のシルエットが映し出されていた。
百三十キロの野生の突進。
もしあの竹垣を突き破って露天風呂に乱入すれば、竹垣の破片で紬が怪我をするどころか、無防備な入浴中にパニックに陥り、取り返しのつかない大惨事になる。
「麻酔銃の残弾は」
『ダメだよ、イノシシのあの極厚の皮下脂肪と剛毛には、人間用の細い麻酔針じゃ通らない! 効果が出る前に突進されちゃう! 大型ライフルを使う!? でも発砲音を出したら紬さんたちに気づかれちゃうよ!!』
「……問題ない」
梶原は麻酔銃を背中に戻すと、両手のタクティカルグローブのベルクロをバリッと締め直した。
「銃など使わん。……手で止める」
『はァァァァァ!? 手で止めるって、相手は百三十キロの野生の重戦車だよ!?』
「あの人の聖域を、獣の蹄で踏み荒らさせはしない」
梶原の瞳に、漆黒の闘志が宿った。
ズズズズズ……ッ!
地響きとともに、竹林の奥から激しい鼻息と唸り声が迫ってきた。
竹をバキバキとへし折りながら猛烈なスピードで突っ込んできたのは、湾曲した鋭い牙を生やし、筋骨隆々の毛皮を逆立てた巨大な雄イノシシだった。血走った目で、湯気の立ち上る竹垣へと一直線に突進してくる。
竹垣まで、あと十メートル。
その獣道の中央に――影のように、梶原敦志が立ちはだかった。
ブゴォォォォッ!!
イノシシが邪魔者を跳ね飛ばさんと、頭を下げて牙を突き出し、さらに加速する。時速三十キロ、百三十キロの運動エネルギーは、小型自動車の衝突に匹敵する破壊力。
しかし――梶原は一歩も引かなかった。
突進が激突する、コンマ数秒前。
梶原は低く腰を落とし、阿吽の呼吸で右足を斜め後方へスライドさせた。
そして――
ドォォォォンッッ!!
鈍い衝撃音が、竹林の底に響いた。
「…………ぬんッ!!」
梶原の両手が、突進してきたイノシシの側頭部と巨大な牙の根元を、正面からガッシリと受け止めていた。
凄まじい衝撃。靴底が地面の腐葉土を三十センチほど削り取ったが、梶原の膝は一ミリも折れなかった。警視庁SP時代、要人を暴走車両から身を挺して庇うために鍛え抜かれた鋼の肉体と、絶対的な重心制御。
ブヒィィィィッ!? と驚愕の声を上げるイノシシ。
自分の全霊の突進を、たった一人の人間が素手で真正面から受け止めて静止させたのだ。
「……ここは、お前の通る道ではない」
梶原はイノシシの眉間に、自らの顔を至近距離まで近づけた。
暗視ゴーグルを跳ね上げた梶原の素顔。
その瞳に宿っていたのは――百戦錬磨の野生の巨獣すら本能的な死の恐怖で竦み上がらせる、完全なる【捕食者の殺気】だった。
山林の食物連鎖の頂点に君臨するあらゆる獣を超越した、冷酷無比な悪魔の眼差し。
ゴゴゴゴゴ……と、梶原の全身から立ち上る濃密な覇気のような威圧感に、イノシシの全身の毛が逆立ち、瞳孔が恐怖で小さく収縮した。
「……失せろ」
梶原は腰の回転とともに、腕力だけでイノシシの巨体をテコの原理で真横へ豪快にねじ伏せ、山側の斜面へと放り投げた。
ドサァァァッ!
斜面に転がったイノシシは、立ち上がると同時に、脱兎のごとく尻尾を巻いて山奥の暗闇へと一目散に逃げ去っていった。
二度とこの旅館の敷地には近づかないであろう、魂に刻み込まれた絶対的な敗北の記憶とともに。
「……ふぅ」
梶原は乱れた息を一つ吐き出し、胸元の砂埃を手で払った。
時計を確認する。イノシシの出現から排除まで、所要時間わずか十八秒。
インカムに指を添える。
「成瀬。……山林の害獣、排除完了だ」
『……あ、ありえない……人間じゃないよあの人……』
通信の向こうで、成瀬の引きつった声が漏れていた。
『梶原さん、怪我はない?』
「かすり傷ひとつない。……露天風呂の状況は」
『バイタルセンサー正常。紬さんの心拍数はリラックス状態の六十八。……完全に無事だよ』
「そうか。……任務を継続する」
梶原は再び暗視ゴーグルを下ろすと、何事もなかったかのように赤松の枝の上へと跳躍し、漆黒の闇と同化したのだった。
◇
竹林の奥で、カサリと小枝が一本、微かに折れる音がした。
パキッ。
湯船の中で、肩までお湯に浸かっていた紬が、ふと耳を澄ませて小首をかしげた。
「……あれ? 茉莉花先輩」
「ん? どうしたの、紬」
「今、竹林の向こうでパキッて乾いた音がしませんでした? なんだか、大きな動物か何かがいたような……」
紬がじっと竹垣の向こうの暗闇を見つめる。
茉莉花は湯船から片手を持ち上げ、湯をパシャリと跳ねさせて笑った。
「風じゃない? さっきから夜風が結構吹いてるし、笹の葉や枯れ枝が落ちたのよ。だいたい、こんな頑丈な塀に囲まれた超高級旅館の庭に、変なものが入ってくるわけないじゃない」
「あ、それもそうですね! 外にはお隣の梶原さんたち警備員さんもいてくださってますし!」
「そうそう。本当に平和ねえ……」
茉莉花は目を閉じ、再び温かいお湯に身を委ねた。
「えへへ、本当に極楽ですね! 明日の朝風呂も絶対に入りましょうね、茉莉花先輩!」
「賛成! 朝ご飯の前にひと風呂浴びて、伊豆の美味しい鯵の干物を食べ尽くしましょ!」
満天の星空の下、二人の屈託のない笑い声が、湯気とともに夜空へと溶けていく。
その笑顔のわずか数十メートル先で、悪質なパパラッチが首に麻酔針を撃ち込まれて警察署へ運ばれ、百三十キロの野生のイノシシが素手で投げ飛ばされていたことなど、彼女たちは夢にも知らなかった。
無菌室の絶対防衛網は、今夜もまた、完璧な勝利を収めていたのである。
――しかし。
外敵の脅威が去ったその時、旅館の内側――本館の長い渡り廊下において、もう一つの「理性の崩壊危機」が静かに牙を剥こうとしていたのだった。




