第23話:現地潜入部隊
東京駅を出発した臨時貸し切り特急『踊り子号』のグリーン車は、冬の澄み渡る陽光の中を滑るように南下し、相模湾のきらめく水平線を車窓に映し出していた。
「見て見て、茉莉花先輩! 海がすっごく青くてキラキラしてますよ!」
深くリクライニングを倒したフカフカの独立シートで、槇原紬は子供のように窓に張り付いて歓声を上げていた。
「ほんとねえ……。それにしても、一編集部の慰労旅行で特急のグリーン車を一両丸ごと貸し切りだなんて、やっぱり何度考えても頭がおかしいわ」
通路を挟んだ隣の席で、関茉莉花が手にしたウェルカムシャンパン(もちろん会社持ち)を傾けながら、呆れたように窓の外を眺めていた。
「普通、社員旅行っていったら、大型観光バスに詰め込まれて、ぬるい缶ビール飲まされながらカラオケさせられるのが定番でしょ。なのに何よこれ。軽食に銀座千疋屋のフルーツサンドが配られて、車掌さんが『皆様、快適な空調温度はいかがでしょうか』って十五分おきに聞きに来るのよ? 皇族の行幸啓か何かなの?」
「ふふ、鷹見副社長や社長室の方々が、私たちの頑張りをそれだけ評価してくださったってことですよ! 本当にありがたいですよね」
紬は無邪気に笑い、手元の旅のしおりを愛おしそうに眺めた。
修善寺駅に到着すると、駅前ロータリーにはすでに『翠巒亭』の金文字が誇らしげに輝く、漆黒の大型迎賓ハイヤーが三台、エンジン音も立てずに待機していた。専属の運転手が白手袋の手で恭しくドアを開け、紬たち三十名あまりの社員を乗せた車列は、湯煙の立ち上る修善寺の温泉街を抜け、深い原生林に抱かれた山の手へと登っていった。
そして――
重厚な冠木門をくぐり抜けた瞬間、車内の社員たちから一斉に息を呑む音が漏れた。
「す、すごい……ここ、本当に旅館なの……?」
紬の大きな瞳が、驚嘆で丸くなる。
創業三百年、一万坪の敷地を誇る純和風高級老舗旅館『翠巒亭』。
手入れの行き届いた枯山水の日本庭園には見事な冬咲きの椿が深紅の花を咲かせ、樹齢数百年の赤松の間を清らかなせせらぎが縫うように流れている。歴史を感じさせる重厚な入母屋造りの本館と、点在する数寄屋造りの離れ。まるで江戸時代の御殿か、選ばれた者しか立ち入ることを許されない秘密の別宮のような圧倒的な風格が漂っていた。
「いらっしゃいませ。『翠巒亭』へようこそお越しくださいました」
車寄せにハイヤーが滑り込むと、玄関の式台の前には、色無地の着物に端正な白の帯を締めた十数名の仲居たちが、一分の隙もなく整列して深々と頭を下げていた。
その光景だけでも圧巻だったが――紬の視線は、その仲居たちの先頭、女将の位置に立っている女性の顔に吸い寄せられた瞬間、ピタリと固まった。
「……え?」
紬は目をパチパチと瞬かせ、二度見した。
凛とした立ち姿、乱れのない夜会巻きに結い上げられた美しい黒髪、そして知的なシルバーフレームの眼鏡の奥から覗く、一切の感情を排したクールな眼差し。
その着物の襟元には、本来なら大理石の役員フロアで見かけるはずの、見慣れすぎた社章バッジが小さく光っていた。
「さ……佐伯さん……!?」
紬が思わず叫ぶと、周囲の編集部員たちも一斉にざわめいた。
「えっ、佐伯さんって……あの副社長専属秘書の佐伯千冬さん!?」
「なんで副社長秘書が、旅館の仲居さんの着物着て出迎えてるんだ!?」
動揺する社員たちの前に、千冬は静かにすり足で歩み寄り、完璧な角度の四十五度のお辞儀を繰り出した。
「『Lumiere』編集部の皆様、長旅のお疲れ様でございました。本日のご案内役を務めさせていただきます、佐伯でございます」
「ちょ、ちょっと待ってください千冬さん!」
紬が駆け寄り、目を丸くして尋ねた。
「なんで千冬さんがここにいらっしゃるんですか!? 東京の本社で、副社長の秘書業務をされているはずじゃ……!?」
その問いに、千冬の鉄仮面のようなポーカーフェイスが一瞬だけピクリと引きつった。
千冬は紬にだけ聞こえるよう、スッと顔を近づけ、低い声で囁いた。
「……社長室、ならびに鷹見副社長からの『特命』でございます」
「特命……ですか?」
「ええ。『我がグループの誇る最高級迎賓館において、功績を挙げた編集部の皆様……特にメイン担当である槇原紬様に対して、万が一にも不備や粗相があってはならない。最高峰のおもてなしと安全管理を、現地で直接統括せよ』との厳命が下りまして」
(※なお、この特命を断ろうとしたところ、副社長から『行かねば貴様の来期の賞与を全額カットした上で、表参道のカヌレ店の皿洗いに異動させる』と脅迫されたことは、絶対に言えない)
千冬は胸元をそっと押さえ、着物の帯の下で激しく自己主張を始めている胃の痛みに耐えながら、完璧な営業スマイルを作った。
「槇原様のお部屋は、敷地内で最も格式の高い特別離れ『月の間』をご用意しております。専用の掛け流し露天風呂が庭園に面した、至高の客室でございます。……関デスク、あなたも同室でお願いいたしますね。槇原様の護衛……失礼、お話し相手として」
「あ、は、はい……ありがたく……」
茉莉花は引きつった笑みを浮かべ、千冬の隙のない着物姿をまじまじと見つめていた。
◇
千冬の案内で、紬と茉莉花は本館から渡り廊下を進み、離れへと向かった。
磨き抜かれた檜の廊下は、歩くたびに微かな木の芳香を放ち、中庭のせせらぎの音が心地よく響いている。
「すごいね茉莉花先輩! 千冬さんが直々におもてなしを統括してくださるなんて、本当に手厚いですよね!」
「手厚いっていうか……異常よ、異常。なんで一部上場企業のトップ秘書が、仲居頭のバイトみたいなことしてるわけ……?」
茉莉花が眉をひそめながら歩いていると、渡り廊下の角、離れへと続く分岐点に、黄色い脚立がデンと置かれていた。
脚立の上には、紺色の作業着に身を包み、ツールベルトから無数のドライバーやケーブルをぶら下げた小柄な人影。天井の点検口に頭を突っ込み、何やら猛烈な勢いで機械をいじっていた。
「あれ? 電気工事かな……?」
紬が立ち止まった、その時。
「あ、もしもし鷹見さん? 館内の光回線ルーターのファームウェア書き換え、あと三分で終わるよ〜。監視カメラ三十六台の映像、全部僕のプライベートサーバーにバイパス直結したから、死角はゼロパーセントね〜」
「…………え?」
紬が小首をかしげた瞬間、脚立の上の人影がビクッと跳ね上がった。
バタン! と点検口のフタが閉まり、作業着の青年が慌てて脚立から飛び降りてきた。
だぶだぶの作業着、首から下げた静電防止ストラップ、そして人懐っこい子犬のような笑顔。
「な……成瀬くん!?」
紬が叫ぶと、社内エンジニアの成瀬郁は、真っ赤な顔をして後頭部をポリポリと掻いた。
「あ、あはは……! 紬さん、お疲れさまでーす! 奇遇ですね〜!」
「奇遇って……成瀬くん、どうして伊豆の旅館にいるの!? その作業着は一体……!?」
「いやー、実はですね!」
成瀬は胸を張り、作業着の胸ポケットに刺繍された『鷹見ITインフラサービス』のロゴを指差した。
「この『翠巒亭』の全館ネットワーク設備、鷹見グループのシステム管理部が保守を担当してるんですよ! ちょうど今週、年に一度の【超高セキュリティ・ネットワーク特別点検ウィーク】に指定されちゃいまして! 僕が特命技術員として派遣されてきたんです!」
(※嘘である。紬が伊豆に来ると知った成瀬が、旅館の基幹システムを遠隔でわざとバグらせ、『重大インシデント発生のため現地出張が必要』と偽装して強引に潜り込んできたのだ)
「そうだったんだ! 成瀬くん、伊豆まで出張なんてお疲れさま! 旅館のお仕事も担当してるなんて、やっぱり優秀なんだね!」
「えへへ……紬さんにそう言ってもらえるなら、徹夜で光ファイバー敷設した甲斐がありました!」
成瀬は嬉しそうに目を細めたが、紬が無邪気に「頑張ってね!」と肩をぽんと叩いた瞬間、成瀬の手首のスマートウォッチが『ピピピピピッ! 心拍数140検知』と警告音を鳴らしそうになり、成瀬は慌てて袖口で押さえ込んだ。
「じゃ、僕は中庭の監視カメラ……じゃなくて、屋外アクセスポイントの点検に行ってきまーす!」
成瀬は脚立を担ぎ、脱兎のごとく走り去っていった。
その背中を見送りながら、茉莉花は冷や汗を拭った。
「……ねえ紬。あの子、さっき『監視カメラ三十六台の映像を直結』とか言ってなかった?」
「言ってましたね! やっぱり高級旅館って、防犯対策も最新テクノロジーで万全なんですね! 成瀬くんが管理してくれてるなら安心だなあ」
「……あんたのその前向きな脳内変換、一度解剖してみたいわ」
◇
離れ『月の間』は、息を呑むほど贅沢な空間だった。
踏込を抜けると、十二畳の本間と次の間、そして広縁の向こうには、苔むした岩風呂に滔々(とうとう)と湯を湛える専用の露天風呂。立ち上る湯気からは、微かな硫黄と檜の甘い香りが漂っている。
「きゃあーっ! すごい、本当に部屋にお風呂がついてる!」
紬が広縁のガラス窓に駆け寄り、歓声を上げる。
「ちょっと茉莉花先輩、見てください! お庭のモミジが真っ赤で、露天風呂から紅葉狩りができちゃいますよ!」
「本当ね……。ここ、普通に泊まったら一泊三十万は下らないわよ。本当に私たちが泊まっていいのかしら……」
茉莉花が荷物を置き、安堵のため息をついた、その時だった。
トントン。
控えめなノックとともに、離れの障子戸が静かに開いた。
「失礼いたします。ご気分の優れない方や、移動のお疲れなどはございませんか?」
現れたのは、仕立ての良い純白のドクターコート――白衣を身に纏い、首から聴診器を提げた優美な青年だった。
銀縁眼鏡の奥から、仏のように穏やかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
「……タ、タカちゃん!?!?!?」
紬の口から、今日一番の絶叫が飛び出した。
保科貴文。紬の幼馴染であり、南青山でセレブ御用達のクリニックを開業しているはずの名医が、なぜか伊豆の老舗旅館の離れの玄関先に、完璧な医師の装いで立っていたのだ。
「やあ、紬ちゃん。無事に着いたようだね。長時間の移動で車酔いなどはしなかったかい?」
「し、してないけど……! なんでタカちゃんが白衣着て旅館にいるの!? 東京のクリニックはどうしたの!?」
「ああ、それなら心配いらないよ」
保科はカルテを胸元に抱え、さも当たり前のように微笑んだ。
「僕のクリニックは、鷹見グループの産業医契約を結んでいるだろう? 今回は大規模な慰労旅行ということで、急な発熱やアレルギー、ヒートショック等に対応するため、僕が【旅館専属臨時嘱託医】として現地医務室に待機することになったのさ。金曜と土曜のクリニックの診療は、信頼できる副院長に任せて、僕自身は正規の有給休暇を取得してここへ来ているんだ」
(※なお、有給休暇の申請を出した際、副院長から『院長、週末の予約患者が五十人いるのですが!?』と泣きつかれたが、保科は『紬ちゃんの血圧管理以上の重要案件はこの世に存在しない』と一刀両断して新幹線に飛び乗ってきた)
「ええっ、タカちゃんが専属のお医者さんとして待機してくれてるの!?」
紬は胸に手を当て、パアッと顔を輝かせた。
「すごい……! もし温泉で湯あたりしたり、美味しいものを食べすぎてお腹が痛くなっても、タカちゃんがいてくれたら百人力だね!」
「ふふ、何でも相談しておくれ。医務室には最新の点滴設備と、紬ちゃん専用に調合したビタミン剤、胃腸薬、各種漢方薬を完璧に常備してあるからね。……関さんも、お酒の飲みすぎには気をつけてくださいね」
「あ、は、はい……先生、よろしくお願いします……」
茉莉花は引きつった笑顔で頷きながら、内心で(この男、目の奥が一切笑ってない……! 絶対に医療目的以外の何かで張り付いてるわ……!)と戦慄していた。
保科は満足そうに一礼すると、「では、医務室におりますのでごゆっくり」と優雅に去っていった。
◇
午後四時。夕食の大宴会まで少し時間があるということで、紬は旅館の浴衣に袖を通し、羽織を引っ掛けて庭園の散策に出ることにした。
「茉莉花先輩、ちょっと中庭をお散歩してきますね!」
「はいよー、私は部屋の露天風呂に先に入ってるわねー」
紬は下駄をカランコロンと鳴らし、手入れの行き届いた庭園の小道へと足を踏み出した。
夕暮れの冷たい空気が、湯上がりの火照った頬に心地よい。小川のせせらぎ、風に揺れる竹林の笹の音。どこを切り取っても絵画のように美しい風景に、紬はうっとりと息を呑んだ。
竹林のアーチをくぐり、庭園の最も奥まった小道へ差しかかった、その時だった。
ザッ、ザッ、ザッ。
規則正しい、軍靴のような重厚な足音が、竹林の静寂を切り裂いて近づいてきた。
角を曲がってきたその人物を見た瞬間、紬はピタリと下駄を止めた。
「…………えっ?」
そこに立っていたのは、全身を隙のない漆黒のタクティカル警備服に包んだ、筋骨隆々の巨漢だった。
胸元には『KAJIWARA SECURITY』の刺繍ワッペン、腰のデューティーベルトには特殊警棒、無線機、大型フラッシュライト、そして催涙スプレー。
彫刻のように鋭利な輪郭、冷徹な光を宿した黒い瞳。
隣の401号室の住人であり、要人警護会社社長――梶原敦志だった。
「か……梶原さん!?!?!?!?!?」
紬の口から、今日二度目の絶叫が響いた。
「梶原さんですよね!? なんで伊豆の竹林に、完全装備の警備服で立ってるんですか!?」
梶原はピシリと直立不動の姿勢をとり、胸元の無線機のスイッチを切ると、微かに顎を引いて会釈した。
「……こんばんは、槇原さん。浴衣姿、よく似合っている」
「あ、ありがとうございます……じゃなくて! どうして梶原さんがここに!?」
「……任務だ」
梶原は能面のような無表情を崩さず、地底から響くような重低音で言った。
「『翠巒亭』の敷地一万坪における、夜間特別警備の委託を我が社が請け負った。火気配備の点検、敷地外からの野生動物の侵入防止、ならびに不審者警戒任務中だ。俺自らが夜間警備主任として現地指揮を執っている」
(※本職である。ただし、委託費用は相場の十分の一で請け負い、実態は『紬の周囲に近づく不審人物を物理的に殲滅するため』に、精鋭部隊二十名を敷地の外周に完全配備している)
「梶原さんの会社が、ここの警備を担当されてたんですか!?」
「……ああ。防犯カメラの死角となる竹林、ならびに露天風呂の周辺は、俺が直接巡回する。何者であれ、あの……お前を脅かす存在は、一歩たりとも近づけさせない」
「梶原さん……っ!」
紬は両手を胸の前で合わせ、感動で目を潤ませた。
「すごい……! お隣の梶原さんが警備してくださってるなんて、これ以上心強いことないです! お仕事、寒い中本当にありがとうございます!」
「……当然の職務だ。湯冷めをしないよう、早く部屋へ戻るといい」
「はい! 梶原さんも、お体に気をつけて警備頑張ってくださいね!」
紬は満面の笑みで手を振り、カランコロンと下駄を鳴らして離れへと戻っていった。
その背中を見送りながら、梶原の耳たぶが、夕暮れの赤に染まるようにカッと熱を帯びていた。
◇
離れ『月の間』に戻ってきた紬は、濡れ縁に腰掛け、お茶をすすっていた茉莉花に向かって、興奮気味に両手を広げた。
「茉莉花先輩! 聞いてください!」
「ん? どうしたの紬、顔が真っ赤よ」
「やっぱり、この旅館、世界一素晴らしいです!」
紬は目をキラキラと輝かせ、満開の笑顔で言った。
「千冬さんが仲居頭としてお世話してくださって、成瀬くんが最新テクノロジーでWi-Fiを直してくれて、タカちゃんがお医者さんとして医務室で待機してくれて、お隣の梶原さんが外で警備してくれてるんですよ!? 知ってる人たちがみーんな勢揃いして、私たちの旅行を全力でサポートしてくれてるんです! 本当に手厚くて、あったかくて、最高に安心できる旅館ですね!!」
「…………」
茉莉花は持っていた湯呑みをカタカタと震わせ、ゆっくりと広大な庭園を見渡した。
渡り廊下の角で、監視カメラの角度を微調整している成瀬の作業着。
医務室の窓際で、救急キットの薬品を整然と並べている保科の白衣。
竹林の影で、双眼鏡を構えて山林の不審者を索敵している梶原の巨躯。
そして、本館の玄関で、冷徹な目で仲居たちに指示を飛ばしている千冬の着物姿。
四方八方、天と地、デジタルとフィジカル、医療と治安。
そのすべてが、この『月の間』にいる槇原紬というたった一人の少女を中心に、寸分の隙もなく張り巡らされていた。
茉莉花の背筋を、ツツツ……と氷のような冷汗が伝い落ちる。
(……これ、手厚いおもてなしなんかじゃないわ)
茉莉花は引きつった顔で、無邪気に笑う後輩を見つめた。
(これ……逃げ場のない【絶対防衛要塞】じゃないの……!? 私たち、国家元首の避難シェルターに軟禁されてるの……!?)
しかし、そんな先輩の恐怖など露ほども知らず、紬は嬉しそうに浴衣の帯を締め直した。
「さあ茉莉花先輩! もうすぐ夕食の大宴会ですね! 金目鯛の舟盛り、いっぱい食べましょうね!」
無菌室の楽園の中で、無自覚な女神の特別な夜が、いよいよ静かに幕を開けようとしていたのだった。




