第22話:社員旅行の悪夢
十二月を間近に控えた、冬晴れの金曜日の午後。
『Lumiere』編集部のフロアは、ここ数ヶ月で一番の祝祭ムードに包まれていた。
悪徳プロデューサー・神崎翔吾が南米チリ支社へと華麗に追放され、後任に着任した実力派の西園寺プロデューサーと紬がタッグを組んだ大型連動企画『冬の都市を彩る、エシカル&ラグジュアリー・ライフ』は、公開初週からSNSで爆発的な反響を記録したのだ。
タイアップ先の商業施設には開店前から長蛇の列ができ、紹介したオーガニックコスメやインテリア雑貨は軒並みサーバーがダウンするほど注文が殺到。クライアント各社からは感謝の花束と絶賛のメールが山のように届き、社内の月間MVP特集賞の獲得も確実視されていた。
「――というわけで、みんな本当によく頑張ってくれた!」
フロアの中央で、編集長が満面の笑みを浮かべてパンと手を叩いた。
「この大成功を祝して、役員会から特別レクリエーション予算が下りたぞ! 来週末、金曜の午後から一泊二日で、『Lumiere』編集部と営業サポートチームの合同・温泉慰労旅行を開催します!」
「「「「わああああああああっっっっっっっっっ!!!!」」」」
フロア全体から、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
「行き先は、冬の味覚と名湯が楽しめる伊豆温泉! 金曜の昼に東京を出発して、夜は温泉と金目鯛の舟盛りで大宴会! 土曜日は現地解散で観光し放題! もちろん交通費と宿泊費は編集部持ちだ!」
「温泉旅行……っ!」
自席で資料をまとめていた槇原紬は、パチパチと目を輝かせ、思わず両手を胸の前で握りしめた。
「やったあ……! 温泉、ずっと行きたかったんだよね!」
「ちょっと紬、聞いた!? 伊豆よ、伊豆!」
隣の席からオフィスチェアを滑らせてきた関茉莉花が、配られたばかりの手作りの旅程しおりをバサバサと振って身を乗り出してきた。
「伊豆の温泉旅館なんて最高じゃない! 見てこのしおり、予約したお宿は海岸沿いにある昔ながらの大衆温泉旅館『波音亭』だって! ちょっと建物は古めかしいけど、源泉掛け流しの広々とした大浴場に、満天の星空が見える絶景露天風呂もあるらしいわよ!」
「絶景露天風呂……! 素敵ですね! 波の音を聞きながらお湯に浸かるなんて、考えただけでお肌がツルツルになりそう!」
「でしょう!? 夜は浴衣着て、大広間でみんなでお酒飲んで、卓球大会よ! 紬、あんた浴衣持ってる?」
「あ、旅館に備え付けの温泉浴衣をお借りしようと思ってます! 帯をきゅっと結んで、湯上がりに冷たい牛乳を飲むのが夢だったんです!」
紬は無防備な笑顔で頬を染め、楽しそうに両手を合わせた。
日頃の努力が実を結び、大好きな同僚たちと行く初めての温泉旅行。美味しい海の幸、温かいお湯、畳の匂い、そして浴衣姿での語らい。すべてが楽しみで、胸が弾んで仕方がなかった。
――しかし。
紬がデスクで「みんなで温泉、楽しみだな〜! 露天風呂もあるみたいだし!」と無邪気に微笑み、パンフレットの露天風呂の写真を指先でなぞったその瞬間。
社内ネットワークの通信パケット、および天井の指向性集音マイクを介して、その音声と画像データを受信した男たちの世界で、マグニチュード十を超える大恐慌が勃発していた。
◇
同日、午後八時。六本木『ザ・クラウンタワー東京』最上階プレジデンシャル・スイート。
ドォォォォォォォォンッッッッ!!!!
スイートルームの黒檀のラウンドテーブルが、凄まじい衝撃音とともにミシリと軋んだ。
「――社員旅行だとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッッッッ!?!?!?!?」
絶叫したのは、ネクタイを引きちぎり、血走った眼で巨大モニターを睨みつける鷹見征司だった。
普段の冷徹無比な財閥総帥の仮面は完全に消滅し、額には怒りとパニックの青筋が幾重にも浮き彫りになっている。
「外泊!? 彼女が……我が社の保護領域である港区を離れ、伊豆などという遠隔地で一晩を過ごすだと!? あり得ん! 断じてあり得ん!!」
「それだけじゃないよ鷹見さん、もっと深刻な問題があるでしょ!!」
成瀬郁が、ノートPCのキーボードを殴りつけるように叩きながら立ち上がった。その顔は蒼白を通り越して土気色に染まり、過呼吸寸前で肩を激しく上下させている。
「モニター見てよ! 『営業サポートチーム合同』って書いてあるじゃん! つまり、他部署の若い男性社員も同じ宿に泊まるってことだよ!? 紬さんが……浴衣姿で……すっぴんで……髪の毛を濡らした無防備極まりない姿を、社内の下劣な男どもに晒すことになるんだよ!?」
「ぐっ……がああああああっ!!」
鷹見は胸を掻きむしり、吐血せんばかりの苦悶の声を上げてソファーに崩れ落ちかけた。
「紬の……浴衣姿……! 湯上がりの桜色の肌……湿ったうなじ……乱れた襟元……! それを、あの有象無象の男どもが視界に入れるだと!? 許さん……! 全社員の視神経を今すぐ不可逆的に切断してやる……!!」
「落ち着いてください二人とも! 僕が一番発狂しそうなんですよ!!」
保科貴文が、白衣のポケットから取り出した鎮静剤のシートを床に叩きつけた。銀縁眼鏡の奥の瞳は、絶対零度の殺意でギラギラと濁り切っている。
「成瀬くん、その旅館――『波音亭』の衛生およびセキュリティデータを今すぐ出しなさい!」
「ハッキングしたよ! 築四十二年、客室の鍵は旧式のシリンダー錠、廊下の防犯カメラはゼロ! あまつさえ、露天風呂は海岸に面した平屋造りで、周囲の防風林や砂浜からの死角が完全にガバガバだよ!!」
「なんということだ……!」
保科はカルテを握り潰し、ペン先をへし折った。
「大浴場の泉質は単純アルカリ性温泉……それ自体は肌に良いですが、温度管理が杜撰でヒートショックのリスクがある! それ以上に、鍵の甘い木造旅館で紬ちゃんが無防備に眠るなど、防犯衛生上、万死に値する環境です! もし夜中に酒に酔った男性社員が部屋を間違えて入室でもしたら……! 想像しただけで僕の側頭動脈が破裂しそうだ!!」
「……焼き払うか」
部屋の最奥、暗がりの中で腕を組んでいた梶原敦志が、地底から響くような重低音を吐き出した。
その両目には、獲物の急所を瞬時に粉砕する暗殺者の光が宿っている。
「伊豆の旅館ごと、今夜のうちに解体する。あるいは、社員旅行の前日に東海道本線および伊東線の全線路を物理的に封鎖し、伊豆半島へ続く道路を土砂崩れで通行止めにする」
「「「物理破壊に走るな脳筋がァァァァァッッ!!」」」
三人が同時に怒号を浴びせる。
カウンターの奥で、チーフバーテンダーの九重圭は、特大ボトルの胃腸薬を抱きしめ、カウンターに突っ伏して涙を流していた。
「胃が……! 今週は平和に終わると思ったのに……! なぜあなた方はそうやって、女の子のささやかな社員旅行ひとつで国家非常事態宣言を発令するんですか……!!」
「九重、黙っていろ!」
鷹見が立ち上がり、机の上のペーパーナイフを乱暴に掴み取った。
「彼女の笑顔を守るための【不可侵条約】だ! 彼女の無防備な姿が衆目に晒され、あまつさえ不審者や不埒な男に接近される危機を前にして、手をこまねいて見ていることなどできるはずがない!」
「そうですよ!」と成瀬が叫ぶ。「紬さんは『温泉楽しみだな〜』って言ったんだ! 旅行そのものを中止にしたら、紬さんが悲しむ! 紬さんの笑顔を守りつつ、完璧な無菌室を伊豆に構築しなきゃいけないんだ!!」
「そのためには……どうする!?」
四人の怪物が、互いの鼻先数センチで目を血走らせて睨み合う。
その時だった。
カツ、カツ、カツ。
重厚な扉が開き、手帳を抱えた佐伯千冬が、氷のような冷徹な足取りでスイートルームへ入室してきた。
「……皆様。騒音計の針が百デシベルを突破しております。近隣のスイートのお客様から通報される前に、その見苦しい怒号をおやめください」
「千冬!」
鷹見がすがりつくように千冬を振り返った。
「聞いたか! 紬が……紬が伊豆の温泉旅館で無防備な浴衣姿を晒そうとしているのだぞ!!」
「ええ、社内回覧板の起案段階で把握しております」
千冬はため息ひとつ漏らさず、手帳から一枚の不動産目録を取り出してテーブルの中央へ滑らせた。
「副社長。そして皆様。すでに解決策の法意・財務的裏付けは完了しております」
「……何だと?」
四人が一斉に目録を覗き込む。
そこに記されていたのは、息を呑むような格式を誇る、ある老舗旅館の概要だった。
【伊豆修善寺・純和風高級老舗旅館『翠巒亭』】
創業三百年。広大な一万坪の日本庭園を抱き、歴代の皇族や文豪、政財界の重鎮たちに愛されてきた、日本屈指の超高級旅館。全室離れ造り、各部屋に専用の源泉掛け流し露天風呂が完備され、外壁は最新の防犯センサーと堅牢な築地塀で外界から完全に隔絶された、まさに「地上の楽園にして鉄壁の要塞」。
「この旅館は……」
鷹見が息を呑む。
「ええ。我が鷹見リゾートトラストが株式の百パーセントを保有する、グループ最高峰の迎賓館でございます」
千冬はメガネを押し上げ、淡々と事務的に告げた。
「一般客の宿泊料金は一泊二食で最低でも十五万円から。通常であれば、一編集部の慰労旅行などで使用できるランクではございません。……しかし」
千冬は手帳をペンで叩いた。
「『福利厚生特別規定第七条・全社的功績を挙げたプロジェクトチームに対する特別慰労保養所の無償供与』の特命決済文書を、先ほど副社長の電子印で起案・承認いたしました。編集部が予約していた大衆旅館『波音亭』につきましては、我が社の息のかかった設備点検会社を急行させ、『温泉給水管の緊急破裂および配電盤の漏電事故による営業停止』の名目で、違約金を全額我が社が負担した上で、先ほど強制キャンセルさせました」
「千冬……っ!」
鷹見の瞳に、歓喜の光が宿る。
「さらに」と千冬は続けた。
「当該日程における『翠巒亭』の既存の一般予約客につきましては、グループ内の他ホテルへの無償アップグレードおよび旅行券五十万円分の配布により、全員に円満な日程変更を承諾していただきました。これにより――来週末の『翠巒亭』は、我が社の一行による【全館完全貸し切り】となります」
「全館……貸し切り……!!」
成瀬がゴクリと唾を呑んだ。
「費用は、宿泊費、最高級会席料理、移動の貸し切り特急列車のグリーン車代を含め、すべて『社長室特命福利厚生費』から全額会社持ち。一般社員への負担は完全ゼロ円です」
「見事だ……! 完璧すぎるぞ、千冬!!」
鷹見が狂喜乱舞して叫んだ。
しかし、千冬の冷徹な眼差しは、一切緩まなかった。
「お喜びになるのは結構ですが、副社長。これだけのリソースを動かしたのですから、株主への説明責任のために、来期は必ず『翠巒亭』の稼働率実績を十五パーセント押し上げる事業計画を策定していただきますからね。私の胃壁をこれ以上削らないでください」
「善処する! いくらでも補填しろ!」
鷹見は胸を張り、保科と梶原と成瀬に向き直った。
「聞いたな、諸君! 舞台は我がグループの牙城、『翠巒亭』だ! 他部署の男どもと同じ大部屋に雑魚寝させるような事態は万に一つも起きん! 彼女には、敷地内で最も格式高く、防犯設備の完璧な最高級離れ『月の間』を単独で割り当てる!」
「待ってください、鷹見さん」
保科が静かに、しかし冷酷な笑みを浮かべて前に出た。
「全館貸し切りにしたからといって、安心するのは早計ですよ。旅館という空間は、日常のオフィスとは比較にならないほど理性のタガが外れやすい場所です。酒に酔った同僚、夜の暗闇、そして露天風呂……」
「……その通りだ」
梶原が低く唸り、自らの屈強な拳を鳴らした。
「敷地一万坪。外部からの侵入経路、庭園の死角、屋根伝いの動線……警戒すべきポイントは無数にある。番犬を配置せねば、無菌室など成立しない」
「僕も行くよ」
成瀬が妖しく目を光らせた。
「旅館内の全館内ネットワーク、監視カメラ、スマートキーの制御盤……僕が現地で直接ハッキングして掌握しなきゃ、誰が夜中に紬さんの部屋のドアノブを回すか分かったもんじゃないからね」
「ならば……決まりだな」
鷹見の口元に、絶対的な統制者の笑みが浮かんだ。
「我々もまた、現地へ急行する。……不可侵条約の防衛網を、伊豆の地にそのまま移植するのだ!」
こうして、一人の少女の「温泉楽しみだな〜」というささやかな呟きは、財閥の巨額マネーを動かし、伊豆の最高級老舗旅館を丸ごと舞台にした、前代未聞の潜入防衛ミッションへと発展していったのである。
◇
週が明けた月曜日の朝、午前九時。
『Lumiere』編集部のフロアに、編集長の甲高い絶叫が響き渡った。
「――み、みんな、聞いてくれえええええええええっっっっっっ!!!!」
編集長が両手に持った社内回覧書類をヒラヒラと掲げながら、フロアを走り回っている。
「大変なことが起きた! 奇跡だ! 盆と正月とクリスマスが一度にやってきたぞ!!」
社員たちが一斉にデスクから顔を上げた。紬も茉莉花とともに目を丸くする。
「編集長、どうしたんですか!? 何かトラブルですか!?」
「逆だ、逆! 今朝、役員室から緊急通達が下りたんだ! 先週予約した大衆旅館の『波音亭』さんが、急な配管トラブルで臨時休業になってしまってな……普通なら旅行中止になるところだったんだが……!」
編集長は息を呑み、ゴクリと唾を飲み込んでから、書類をバンと掲げた。
「なんと、社長室と鷹見副社長のご厚意により! 我が社の最高級提携旅館である、修善寺の『翠巒亭』の【全館貸し切り】へと、慰労旅行の宿泊先が変更になったあああああああっっっっっっ!!!!」
「「「「「「ええええええええええええええええっっっっっっっっっっっっっ!?!?!?!?!?!?!?」」」」」」
編集部フロアが、文字通り揺れた。
「す、翠巒亭って……あの一泊十数万する、皇族とか海外の国賓が泊まるあの伝説の旅館ですか!?」
「全館貸し切り!? うちの編集部三十人ぽっちで、あの一万坪の旅館を丸ごと独占!?」
「しかも費用全額会社持ち……!? 交通機関も特急のグリーン車貸し切りって書いてあるぞ!!」
社員たちが狂乱し、抱き合って飛び跳ねている。
茉莉花は口をあんぐりと開け、手元のコーヒーカップを落としそうになりながら、紬の肩をガクガクと激しく揺さぶった。
「つ、紬……っ!! あんた、これ現実!? 翠巒亭よ!? 私、一生に一度でいいからあそこの離れに泊まってみたいって死ぬほど憧れてたのよ!? なんで一編集部の慰労旅行でそこ貸し切りになるわけ!? うちの会社の福利厚生、完全にバグってるでしょぉぉぉぉぉぉっ!!」
「わ、わああああっ! す、すごいです茉莉花先輩!!」
紬も目をまん丸にして、胸の前で両手をパチパチと叩いて歓喜した。
「配管トラブルは残念でしたけど、副社長や社長室の方々が、私たちのためにそんな素晴らしい旅館を手配してくださるなんて……! 社員の頑張りをこんなに手厚く報いてくださるなんて、本当に、本当に夢のような会社ですね!」
紬の顔には、一点の曇りもない感動と幸福の光が満ち溢れていた。
「私、ますますお仕事頑張らなきゃ! 翠巒亭の露天風呂、すっごく楽しみです!!」
「ええ、楽しもう! 死ぬ気で贅沢を満喫してやりましょう!!」
お祭り騒ぎに沸き立つフロアの隅で。
書類を届けに来ていた佐伯千冬だけが、手帳を胸に抱えたまま、冷ややかな、そして深い憐憫の籠もった視線を紬に向けていた。
(……ええ、そうね。無邪気にはしゃぐのは今のうちよ、紬さん)
千冬は引き出しの中にある胃薬のシートを思い浮かべ、そっと心の中で合掌した。
(あなたがこれから足を踏み入れるのは、風情ある温泉旅館などではないわ。……四人の狂人たちが総力を結集して作り上げた、蟻の一匹すら侵入できない【絶対無菌要塞】なのだから――)
何も知らぬ無垢な女神の、波乱に満ちた社員旅行の幕が、今まさに上がろうとしていた。




