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私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


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第20話:精神の解体手術

午前八時五十分。東京・汐留にそびえ立つ、ガラス張りの超高層オフィスビル。


日本最大の広告代理店『東都エージェンシー』の本社エントランスに、足取りのおぼつかない一人の男が姿を現した。


神崎翔吾だった。


普段なら完璧にセットされているはずの茶髪は脂汗で額に張り付き、ネイビーのイタリア製ジャケットには無数のシワが寄っていた。ファンデーションでも隠しきれないほど土気色に淀んだ顔色、赤く充血した瞳の下には、濃い紫色の隈がくっきりと刻まれている。


(……ね、眠れなかった……一秒も眠れるわけがない……ッ!)


神崎はコートの襟元を掻き合わせ、首筋にズキリと走る痛みに思わず顔を歪めた。


昨夜の記憶が、鮮烈な悪夢となって脳裏を焼き尽くしていた。


薄暗い港区の路地裏。煙草に火をつけた瞬間、背後から音もなく現れたあの漆黒の巨漢――梶原敦志。


頸動脈を万力のように締め上げられ、骨が軋む音とともに味わった、息のできない絶対的な死の恐怖。


『お前の呼吸音が、あの人の帰宅ルートを汚している。次はない』


耳元に吹き込まれたあの地獄の底のような声が、今も鼓膜にこびりついて離れない。胸ポケットにねじ込まれた偽造名刺、そして「明日の朝九時、貴様のデスクに何が届くか楽しみに待っているがいい」という冷酷な宣告。


恐怖のあまり自宅マンションに逃げ帰り、玄関の鍵を三重に閉めて毛布にくるまったが、ガタガタと全身の震えは朝まで止まらなかった。


(な、なんだっていうんだ……あいつは何者なんだ……!? 槇原紬……あの女の背後に、ヤクザか裏社会のプロでもついてるっていうのか……!?)


だが、エレベーターに乗り込み、自らの所属する第十四営業局のフロアへと上がっていくにつれて、神崎の心に矮小なプライドが鎌首をもたげ始めた。


(……いや、落ち着け。いくら凄まれたところで、所詮は夜道の脅しだ。僕はこの東都エージェンシーの花形プロデューサーだぞ? 年間何十億もの広告予算を動かし、数々の賞を獲ってきた業界のスターだ。証拠もない暴力を会社に持ち込めるはずがない……。むしろ、あの女と編集部を『反社との繋がりがある危険な連中』として会社に通報し、企画ごと完全に叩き潰してやる……!)


チーン、と澄んだ電子音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。


「ふぅ……っ」


神崎はネクタイを整え、いつもの傲慢な笑みを無理やり唇に貼り付けた。


「おはよう――」


フロアへ足を踏み出した瞬間、神崎の言葉は喉の奥で凍りついた。


異様だった。


いつもなら電話のコール音、パソコンの打鍵音、打ち合わせに向かう社員たちの騒がしい声で溢れかえっているはずの百人規模のフロアが、まるで巨大な冷凍庫のように静まり返っていたのだ。


カタ、と誰かのキーボードを叩く手が止まる。


神崎が通路を進むと、両脇のデスクに座る部下や同僚たちが、一斉にバッと顔を伏せ、まるで致死性のウイルスを撒き散らす汚物でも避けるかのように、音を立てて椅子を引いた。


視線。


何十人もの冷え切った、軽蔑と恐怖と好奇の入り混じった無数の視線が、針のように神崎の全身に突き刺さる。


「お、おい……どうしたんだよ、お前ら。僕の顔に何かついてるか……?」


神崎が引きつった笑みを浮かべ、一番近くにいた後輩社員に声をかけた。


しかし後輩は、神崎と目を合わせることすら拒絶するように青ざめた顔で立ち上がり、書類を抱えて足早に逃げ去っていった。


「な、なんだよ……おい、誰か説明しろよ……!」


苛立ちと動揺に駆られながら自席へ辿り着いた神崎は、机の上の光景を見て、ヒッと息を呑んだ。


机の真ん中に置かれた社用ノートパソコンの画面。


全社員宛ての緊急一斉通知とともに、社内イントラネットのトップページに、赤黒い太字のダイアログが点滅していた。


『【コンプライアンス委員会・緊急招集通知】

対象者:第十四営業局シニアプロデューサー 神崎翔吾

本日午前九時十五分、役員応接室Aへ直ちに出頭のこと』


その下には、今朝の午前八時半に全役員、法務部、人事部、そしてコンプライアンス委員会へ向けて「外部の公益通報窓口」から一斉送信されたという、分厚い内部告発ドキュメントのインデックスが、残酷なまでに克明に表示されていた。


『添付資料1:神崎翔吾による過去三年間の下請け制作会社へのキックバック要求・不正着服総括リスト(総額四千二百八十万円・振込先ダミー口座明細およびLINEログ完全収録)』

『添付資料2:業務上の優越的地位を利用した女性スタッフ・契約社員に対する継続的セクシャルハラスメントの録音音声データ(音声解析・ノイズキャンセリング処理済み)』

『添付資料3:銀座・六本木のクラブにおける経費不正改ざん領収書の原本突合データ』


「な…………っ!?」


神崎の視界が、グラリと歪んだ。


成瀬郁の弾薬。


神崎が安全だと信じ込んでいたローカルドライブの暗号化フォルダ、秘密の裏アカウント、クラウドに保管していた個人的な脅迫の記録――そのすべてが、寸分の漏れもなく丸裸にされ、最高精度の証拠資料として社内の最上層部へと叩きつけられていたのだ。


ガタガタと歯の根が合わなくなる。


「う、嘘だろ……なんで……誰がこんなものを……!?」


その時、背広を着た大柄な総務部の警備担当社員二名が、音もなく神崎の両脇に立った。


「神崎さん。役員応接室へご案内いたします。社用携帯とノートパソコンは、そのまま机の上に置いていってください」


「ま、待ってくれ! これは何かの間違いだ! 誰かの捏造だ、僕はハメられたんだよ!!」


「応接室で、専務がお待ちです。……行きましょう」


有無を言わさぬ腕力で両腕を支えられ、神崎は足をもつれさせながら、最上階の役員フロアへと連行されていった。


◇


午前九時二十分、東都エージェンシー本社・最上階役員応接室A。


重厚な防音扉が閉ざされた密室の中は、息を吸い込むことすら躊躇われるほどの絶対零度の空気に支配されていた。


長テーブルの奥に並んで座っていたのは、腕を組んで般若のような形相を浮かべる専務取締役の広瀬、法務統括部長、コンプライアンス委員長、そして同席した顧問弁護士の計四名。


その中央、被告人席のような革張りチェアに、神崎は小さくなって腰掛けていた。全身から噴き出す冷や汗が、スーツの背中をぐっしょりと濡らしている。


「せ、専務……! 信じてください! 今朝のメールは、僕を妬んだ何者かによる悪質なフェイクデータです! AIで作られた偽の音声ですよ! 僕が会社の金を着服したり、女性スタッフに無茶な要求をするはずが――」


ドンッ!!


広瀬専務の拳が、テーブルの黒檀の天板を激しく叩き割らんばかりに振り下ろされた。


「黙れ、この恥さらしがッ!!」


広瀬の怒号が、密室の壁を震わせた。


「フェイクデータだと!? どの口がそんな戯言を吐くか! 社内サーバーの通信ログと、提示された銀行口座の入出金記録を財務部が照合した結果、一円の狂いもなく完全一致したんだよ!! お前が銀座の女に貢ぐために下請けから巻き上げた金が、克明に記録されているんだ!!」


「ひっ……!?」


神崎が悲鳴を上げて首をすくめる。


だが、処刑劇はまだ始まったばかりだった。


広瀬の隣に座る法務統括部長が、冷徹な手つきで一つの分厚い青いファイルをテーブルの中央へ滑らせた。


「神崎氏。君の横領と背任だけでも、会社としては即刻懲戒解雇および刑事告訴の対象だが……事態はそれだけに留まらない」


バサリ、と開かれたファイルの一ページ目。


そこには、格式ある医療機関のレターヘッドが印刷されていた。


『保科メディカル・メンタルクリニック 院長・保科貴文』。


神崎の目が、その名前に釘付けになる。


「こ、これは……?」


「港区南青山の名院・保科クリニックから、今朝一番で本社の法務部宛てに送達された正式な医療文書だ」


法務部長が、感情の欠片もない声で内容を読み上げる。


「かつて君のアシスタントを務め、君からの執拗な性的な強要および人格否定の暴言によって休職・退職に追い込まれた元女性社員三名。彼女たちの『重度外傷後ストレス障害(PTSD)』の確定診断書、ならびに医師による意見書だ」


机の上に並べられる、三通の診断書。


そこには、保科貴文の流麗かつ冷酷な筆跡で、神崎の言動がいかに被害者の脳と自律神経を破壊し、社会復帰不能なトラウマを与えたかが、医学的エビデンスとともに容赦なく論理的に書き連ねられていた。


「精神科の最高権威である保科院長の署名捺印、および詳細な診療記録(カルテ)の写しが完璧に添付されている。これにより、被害者三名は代理人弁護士を通じて、君個人に対して総額六千万円の損害賠償請求訴訟を提起する準備に入った。会社としても使用者責任を問われる案件だ。……言い逃れができると思うか?」


「ろ、ろくせん……まん……!?」


神崎の喉がカラカラに乾き、息が吸えなくなる。


昨日まで威張り散らしていた男の脳髄に、保科貴文の研ぎ澄まされたメスが、深々と突き立てられていた。


被害者たちの過去の傷を完璧な正義の告発へと昇華させ、神崎の逃げ道を医学的・法的にミリ単位の隙もなく塞ぎ切る、完璧な精神の解体手術。


「な、なんで……なんで過去の女どものカルテが……あんな有名な病院から出てくるんだよ……!?」


取り乱し、髪を掻きむしる神崎に、広瀬専務がトドメの一撃を放った。


「――神崎。お前が何を仕出かしたのか、まだ理解していないようだな」


広瀬は懐から、上質な和紙に包まれた一通の親書を取り出した。


中央に押された、格式高き財閥の紋章。


『鷹見ホールディングス株式会社 代表取締役副社長 鷹見征司』。


「た、鷹見……副社長……!?」


神崎の瞳が、限界まで見開かれた。


昨日の朝、自分が乗り込んで恫喝した相手――槇原紬が所属するメディアの、親会社の最高総帥の名前。


「昨夜、鷹見副社長から直接、我が社の社長宛てにこの親書が届いた」


広瀬の声は、もはや怒りを通り越して、底知れぬ絶望に震えていた。


「『貴社の神崎翔吾氏が関与するいかなるプロジェクトに対しても、我がグループは今後一切の広告費を出稿しない。また、当該事案の処分が極めて不誠実であると判断された場合、東都エージェンシーとの全取引を即時停止する』……とな」


「全……取引……停止……!?」


「年間、四百億円だぞ」


広瀬が立ち上がり、神崎の胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出した。


「お前たった一人の薄汚い下半身の緩みと小遣い稼ぎのせいで、我が社は年間四百億円の超巨大クライアントを失いかけたんだ!! お前一人をクビにして済むなら、安いものだ!!」


「ま、待ってください! 専務! 僕はただ、タイアップ企画の主導権を握ろうとしただけで……! あんな地味な女編集者一人に、なんで鷹見ホールディングスの総帥が動くんですか!? おかしいじゃないですか!!」


神崎は涙と鼻水を垂らし、叫び声を上げた。


「だ、誰なんですかあいつは!? 誰がこんなものを集めて、誰が僕をハメたんだよォォォッ!!」


密室に響き渡る、無様な負け犬の絶叫。


しかし――


応接室の誰一人として、その問いに答える者はいなかった。


広瀬専務も、法務部長も、弁護士も、ただ冷淡に神崎を見下ろしているだけだった。


彼ら自身も知る由がなかったのだ。


神崎が手を出そうとした相手の背後に、会社を買い取ろうとした副社長、全通信を掌握する天才ハッカー、心身を管理する幼馴染の医師、そして夜道で音もなく首を極めた元SPという、四人の怪物が水面下で手を組んでいたことなど。


「神崎翔吾」


法務統括部長が、冷酷に宣告書を読み上げた。


「本日付をもって、懲戒解雇処分とする。退職金は全額不支給。横領した金銭については全額の返還を求め、応じない場合は業務上横領罪で刑事告訴を行う。被害者女性たちからの損害賠償請求についても、会社は一切の援助を行わない。……私物をまとめ、警備員の指示に従って直ちに社屋から退去したまえ」


「そ、そんな……! 専務! 専務ぅぅぅぅぅっ!!」


すがりつこうとする神崎の腕を、二人の大柄な警備員が無慈悲にねじ上げた。


ガシャリと手首を固められ、神崎の身体が応接室の床を引きずられていく。


「嫌だ……! 僕のキャリアが……僕の人生が……! 助けてくれ……誰か助けてくれえええええええっっっ!!」


バタンッ!!


重厚な防音扉が閉ざされ、惨めな悲鳴は完全に遮断された。


かつて業界の花形として我が世の春を謳歌していた神崎翔吾の社会的生命は、誰に知られることもなく、静かに、そして完全に灰燼へと帰したのだった。


◇


同刻、午前十時。


赤坂の『Lumiere』編集部のフロア。


柔らかな晩秋の陽光が降り注ぐデスクで、槇原紬は湯気の立つ紅茶をすすりながら、パソコンの画面に向かって微笑んでいた。


「ふう……っ! 昨夜直した企画書の修正案、編集長にも見てもらえたし、あとは東都エージェンシーさんからの返信を待つだけだな」


神崎からのメールは、今朝送信してから一通も届いていなかった。


普段なら五分おきに理不尽な指示を飛ばしてくる男が、なぜか急に静かになっている。


(神崎さんも、きっと忙しいんだろうな。大手代理店の方だし、いろんなプロジェクトを掛け持ちしてるって言ってたし……)


紬がそんな呑気なことを考えていた、まさにその時だった。


「紬ー! ちょっと、大変よ!!」


フロアの通路を、オフィスチェアごと猛スピードで滑走してきた関茉莉花が、紬のデスクに勢いよく横付けした。手にはアイスコーヒーのカップが激しく揺れている。


「茉莉花先輩!? どうしたんですか、そんなに慌てて!」


「社内ポータルの業界速報、今すぐ見なさい! とんでもないニュースが飛び込んできたわよ!」


「えっ……?」


紬が首をかしげながら、社内イントラネットのメディア業界ニュースフィードをクリックした。


画面のトップに、速報の赤文字が躍り出た。


『【速報】東都エージェンシー、花形プロデューサー神崎翔吾氏を即日解任・懲戒解雇。巨額の背任横領およびハラスメント事案が発覚』

『関係者によると、当該プロジェクトの後任には、業界屈指の実力派として知られる女性統括プロデューサーが就任する見通し』


「…………えええっ!?」


紬の口から、あんぐりと間抜けな声が漏れた。


画面を二度、三度と見直すが、書かれている事実に変わりはない。


「か、神崎さんが……懲戒解雇……!? えっ、昨日の夕方まであんなにお元気そうにフロアにいらしてたのに……!?」


「お元気そうどころか、うちの後輩にセクハラかましてきた罰が当たったのよ!」


茉莉花はストローをくわえ、天を仰いで胸のすくような満面の笑みを浮かべた。


「ざまあみろってんだわ! あんな悪徳プロデューサー、業界から永久追放されて当然よ! しかも後任、東都エージェンシーで一番仕事が丁寧で人格者って評判の女性プロデューサーじゃない! これで紬の企画、最高の形で進められるわよ!!」


「は、はい……! それはすごくありがたいですけど……」


紬は胸に手を当て、パチパチと目を瞬かせた。


角田部長の時と同じだ。


自分に理不尽な圧力をかけてきた人間が、翌日にはなぜか言い逃れのできない証拠を固められて、神隠しのように綺麗さっぱり消え去っている。


「……やっぱり、うちの会社って」


紬は目を輝かせ、心からの感動とともに両手を合わせた。


「自浄作用どころか、業界全体のコンプライアンスの神様が味方してくれてるんですね……! 悪いことをしている人はちゃんと正されて、一生懸命頑張っている人の日常が守られる……日本の社会って、本当に素晴らしいです!」


「…………」


茉莉花はコーヒーを吹き出しそうになり、やがて力なく肩を落として呟いた。


「……うん。あんたが幸せなら、私はもう何も言わないわ」


◇


同じ時刻。


三十階の副社長室。


千冬がハーブティーのカップを静かにデスクに置いた。


「副社長。東都エージェンシーより正式な通達が届きました。神崎氏の解任手続き、ならびに後任の女性プロデューサーへの引き継ぎ、すべて滞りなく完了したとのことです」


「ご苦労だった」


鷹見征司は書類から目を上げることなく、満足げに手帳を閉じた。


「これで、彼女の企画は本来あるべき輝きを取り戻す。……彼女の歩む道に、泥を跳ね上げる者は二度と現れん」


地下のラボで冷たいコーラを飲み干す成瀬。


クリニックで優雅にカルテを片付ける保科。


そして、路地裏の警備車両から静かにエンジンを切る梶原。


四人の専用ホットラインに、最後の完了通知が流れる。


【コード・ペスト:完全終了。対象(紬さん)の生活圏における害虫の駆除完了。本日も世界は極めて平和です】


無菌室の中心で、無自覚な女神は新しい企画書を開き、太陽のような笑顔を咲かせていた。


悪魔たちの研ぎ澄まされたメスが、今日も完璧に、彼女の日常を守り抜いたのだった。

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