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私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


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第19話:裏路地の社交辞令

秋の陽が完全に落ちた午後六時過ぎ。


ビル街を吹き抜ける風は急速に冷たさを増し、足早に行き交う家路につく人々は、コートの襟元をぎゅっと掻き合わせていた。


赤坂見附の高層ビルから、ベージュのトレンチコートにマフラーを巻いた槇原紬(まきはら つむぎ)が、軽やかな足取りで姿を現した。


「ふあー……っ! 今日も一日、本当にお疲れさまでした!」


空を見上げて小さく伸びをすると、澄んだ夜空に星が瞬いていた。吐き出した息が、ほんのりと白く染まる。


午前中は東都エージェンシーの神崎翔吾が編集部に乗り込んできて一時はどうなることかと思ったが、頼れる先輩・関茉莉花が鉄壁のガードで追い払ってくれた。


さらに午後に開かれた正式な定例ミーティングでも、茉莉花が腕を組んで紬の隣に仁王立ちし、編集長も同席したため、神崎は苦虫を噛み潰したような顔で一切の無駄口を利けなくなっていたのだ。


『紬、今日はもう定時で上がりなさい! 企画書の骨子は完璧なんだから、後は私がデスク権限でチェックしておくわ。あんたは今夜、美味しいものでも食べて心身をしっかり休めること!』


そう言って背中を押してくれた茉莉花の頼もしさに、胸の奥がいまだに温かい。


「茉莉花先輩、本当にカッコよかったなあ……。私もいつか、後輩ができたときはあんなふうに身体を張って守れる先輩になりたいな」


紬は手袋をした手でバッグの持ち手を握り直し、駅へと続く並木道を歩き出した。


今夜は無理な残業もなければ、持ち帰りの仕事もない。手元のスマートフォンで時間を確かめると、まだ六時半前だ。普段ならまだまだオフィスでキーボードを叩いている時間帯である。


「こんなに早く帰れるなんて、何週間ぶりだろう。……よし、決めた! 今日は自分へのご褒美に、マンションの近くのコンビニでちょっと贅沢な新作スイーツを買って帰ろう!」


秋限定の安納芋の濃厚プリンにするか、それともカスタードがたっぷり詰まった窯出しシュークリームにするか。ささやかで平和な幸福に胸を弾ませながら、紬は地下鉄の改札へと吸い込まれていった。


――しかし。


紬が秋の夜風を心地よく感じていたその頃、彼女が帰るべき港区のマンションのすぐ近くには、どす黒い怨念と下劣な執着を煮詰めたような男の影が、闇の中に蠢いていた。


◇


午後六時四十分。港区の閑静な住宅街。


大通りから一本入った裏路地は、瀟洒な低層マンションやデザイン事務所が並ぶ落ち着いたエリアであり、夜になると人通りはまばらになる。


街灯の薄暗い光が落ちる電柱の陰、コインパーキングのブロック塀の隙間に、一人の男が身を潜めていた。


東都エージェンシーの花形プロデューサー、神崎翔吾だった。


「……クソがッ!!」


神崎は指先で安物の使い捨てライターをカチリと鳴らし、煙草の先端に火を灯した。紫煙を夜気の中へ乱暴に吐き出す。その浅黒い顔は、昼間の屈辱と逆恨みによって醜く歪んでいた。


「あの生意気な女どもめ……! この僕に恥をかかせやがって……! ボイスレコーダーだあ? コンプライアンスだあ? 調子に乗りやがって、たかが零細メディアの雇われ編集者が……!」


昼間の出来事を思い出すだけで、奥歯がギリギリと軋む。


編集部の全員の前で若い女に一喝され、捨て台詞を吐いて逃げ帰るしかなかった自らの無様さ。広告代理店の花形として、チヤホヤされ、下請けの制作会社やタレントたちに顎で指図してきた神崎のプライドは、粉々に打ち砕かれていた。


しかも、社に戻ってからも不穏な空気が漂っていた。専務の広瀬から「神崎、お前最近妙な動きをしていないだろうな」と冷徹な目線で釘を刺され、いつもならホイホイと機嫌を取ってくる後輩たちまでが、なぜか自分を避けるように遠巻きに見ている。


何かがおかしい。足元が崩れかけているような、得体の知れない焦燥感。


そのすべての元凶は――あの槇原紬という小娘だ。


「あの女の住所を突き止めるなんて、興信所に金を払えば一発だったぜ……」


神崎は胸ポケットから煙草の灰を路上に落とし、靴底で踏み躙った。


神崎の狙いは単純極まりないものだった。


退勤してマンションへ帰ってくる紬を、この死角の多い裏路地で待ち伏せする。


人気(ひとけ)のない場所で突然前に立ち塞がり、脅しをかけるのだ。『昼間の録音データを消去しろ。さもなくば、この大型連動企画の予算を完全に引き揚げ、お前が業界で二度と仕事ができないように裏から手を回してやる』と。


女の一人暮らしだ。夜道で男に凄まれれば、昼間の強気な態度など一瞬で吹き飛び、怯えて泣き出すに決まっている。


「……泣いて謝ったら、そのまま僕の車に乗せてホテルへ連れてってやるよ。一度身体に『上下関係』を叩き込んでやれば、二度と逆らえない従順な女になる。……へへっ、楽しみだなあ、紬ちゃん……」


神崎は下品な笑みを浮かべ、二本目の煙草に火をつけようとした。


――カチリ。


ライターの火が、神崎の鼻先を照らした。


その瞬間だった。


音は、何もしなかった。


風が草木を揺らす音よりも静かに。


重力そのものがその地点だけ消失したかのように、何の前触れもなく――神崎の真後ろ、わずか三十センチの空間に、漆黒の巨躯が滑り込んでいた。


「……え?」


背筋の毛穴という毛穴が、一斉に逆立った。


生物としての人間の本能が、致死性の猛毒を持つ捕食者の接近を察知し、警報を鳴らしたのだ。


神崎が息を呑み、ライターを握ったまま首を後ろへ巡らせようとした――そのコンマ一秒前。


バッ!


視界が、反転した。


「がッ……!?」


神崎の口から、空気が漏れるような掠れた音が漏れた。声にならなかったのは、喉元を巨大な影の肘で完全にロックされていたからだ。


神崎が振り返る隙など、最初から一ミリたりとも存在しなかった。


背後から伸びてきた黒い革手袋に包まれた剛腕が、神崎の顎の下から喉輪を描くように滑り込み、頸椎をミリ単位の狂いもなく固定。同時に、もう片方の鋼のような指先が、神崎の左首筋――頸動脈洞と星状神経節が交差する急所を、正確無比な角度と圧力で圧迫した。


ドスンッ!!


神崎の身体は、路地裏のコンクリートブロック塀に、音もなく叩きつけられていた。


「ひ……ぐ、あ……ッ!?」


激痛と、急激な脳貧血。


視界の端がチカチカと真紅に明滅し、指先から急速に感覚が失われていく。喉を締め上げられているため、肺に酸素が入ってこない。手足をバタつかせようとしても、背後から全身を万力のように押さえつけられ、指一本動かすことすら叶わなかった。


暗闇の中、神崎の耳元に、死神の吐息のように低く、冷たい声が吹き込まれた。


「……静かにしろ」


その声を聞いた瞬間、神崎の全身の血液が完全に凍結した。


低い。重い。一切の感情の揺らぎがない、人間の肉声とは思えないバリトンボイス。


ブロック塀に押し付けられた神崎の視線の端に、キャップを目深に被った男の横顔が映った。


彫刻のように鋭利な輪郭。暗闇の奥で、月光すら跳ね返さずに沈み込む、絶対零度の黒い瞳。


梶原敦志だった。


元警視庁SPであり、要人警護の極致を極めた男。


梶原の瞳には、怒りすら宿っていなかった。それは、路上に湧いた羽虫をティッシュで包んでゴミ箱へ捨てる時のような、純粋な「清掃作業」の眼差しだった。


梶原は神崎の首筋にめり込ませた指先に、さらにコンマ数ミリのトルクをかけた。メキッ、と軟骨がきしむ恐ろしい音が、神崎の頭蓋骨の内側に直接響く。


「ひ、ヒィッ……!?」


「声を出すなと言った。……次にお前の声帯が振動した瞬間、頸動脈を完全に閉塞させ、貴様の中枢神経を不可逆的に破壊する」


神崎の瞳から、恐怖のあまりボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。


冗談ではない。脅しでもハッタリでもない。


この男は、今この瞬間に、自分を「生ゴミ」として処理する技術と意志を、完全に持ち合わせている。本物の暴力の気配に当てられ、神崎の下腹部がキュッと縮み上がり、失禁寸前の寒気が内股を駆け巡る。


「た、助……け……」


「……お前の呼吸音が」


梶原の声が、さらに一段、地底の底へと沈み込んだ。


「あの人の帰宅ルートを汚している。……次はない」


梶原は神崎の喉元を極めたまま、もう片方の手で、自らのコートの内ポケットから一枚のカードを取り出した。


それは、成瀬郁が昨夜のうちに偽造した、ある外資系ヘッドハンティング会社の精巧な名刺だった。


神崎が他社への移籍や裏金工作を目論んでいたかのように見せかけるための、完璧な偽装工作(トラップ)。警察沙汰にして事件化すれば、紬が事情聴取を受け、過去のストーカー事件のような精神的負担を背負うことになる。だからこそ、男たちは警察を通さず、神崎個人に「底知れぬ組織に監視されている」という絶対的な精神的トラウマを植え付ける手法を選んだのだ。


カサリ。


梶原は神崎のスーツの胸ポケットに、その偽造名刺を無造作にねじ込んだ。


「……お前の過去の横領、背任、女性への暴行未遂、すべてのログは掌握されている。今夜のこの接触も、貴様の余罪リストに加算された」


梶原の冷たい唇が、神崎の耳たぶをかすめる。


「明日の朝九時。貴様のデスクに何が届くか、楽しみに待っているがいい。……今すぐここから這い出せ。あの人がこの角を曲がるまでに、貴様の影ひとつ残すな」


パッ、と拘束が解かれた。


「ゴホッ! ゲホッ、オエッ……!!」


アスファルトに両手をつき、神崎は喉を押さえて激しく嘔吐するように咳き込んだ。酸素が肺に流れ込むが、全身の震えは止まらない。


恐る恐る背後を振り返ると――


そこには、もう誰もいなかった。


風の音。遠くの車の走行音。


電柱の陰には、深い夜の闇が広がっているだけだった。


「ひ……っ、ヒィィィィィィッ!!」


神崎は這いつくばるようにして立ち上がると、脱げかけた靴も直さず、涙と鼻水を撒き散らしながら、夜の住宅街の向こうへと転がるように逃げ去っていった。


路地裏には、再び完全な静寂が戻った。


◇


それから、わずか五分後。


「るるん〜♪ やっぱり安納芋プリンにして大正解だったな〜!」


大通り側の角から、小さなビニール袋を指先で揺らしながら、ご機嫌な足取りで現れたのは槇原紬だった。


コンビニのスイーツコーナーで熟考を重ねた末、期間限定の濃厚安納芋プリンと、温かいほうじ茶のペットボトルを購入し、完璧な夜のデザートを手に入れたところだった。


澄んだ夜空を見上げ、ふんわりとマフラーに顔を埋めながら、紬はマンションへ続く路地へと足を踏み入れた。


「あ……」


曲がり角の先、街灯の柔らかい光の下に、見慣れた長身のシルエットが立っていた。


シンプルな黒のワークジャケットに、グレーのチノパン。無駄な脂肪の一切ない頑強な体躯と、どこか彫刻のように整った横顔。


お隣の401号室に住む、要人警護会社社長の梶原敦志だった。


「梶原さん!」


紬がパッと笑顔を咲かせ、小走りで駆け寄る。


その足音に、梶原はピシリと背筋を伸ばし、ゆっくりと振り返った。


先ほどまで暗闇の中で人をゴミのように圧殺しかけていた男とは到底思えないほど、その表情筋は静かに整えられていた。


「……こんばんは、槇原さん」


低く、落ち着いたバリトンボイス。


「梶原さん、こんばんは! こんなところで、どうされたんですか? お散歩ですか?」


紬が小首をかしげて尋ねると、梶原はわずかに視線を泳がせ、路地の奥の暗がりへと目を向けた。


「……ああ。近隣を少し見回っていた。……野良犬を、追い払っていたところだ」


「野良犬ですか?」


紬は目を丸くして、梶原の視線の先を覗き込んだ。


もちろん、そこには逃げ去った神崎の足跡すら残っていない。


「このあたり、野良犬なんているんですね。港区なのに珍しいなあ」


「……タチの悪い、躾(しつけ)のなっていない大型犬だ。暗がりでうろついていたので、二度と近づかないよう、少しばかり躾けておいた」


「へえっ! 梶原さん、動物の扱いもお上手なんですね!」


紬は両手を胸の前で合わせ、感心したように目を輝かせた。


「噛まれたりしたら危ないのに……近所の人のために追い払ってくれるなんて、梶原さんって本当に優しいですね!」


「…………」


優しい。


その純度百パーセントの、一点の曇りもない言葉が耳に届いた瞬間、梶原の耳たぶが、暗闇の中でも分かるほどカッと赤く染まった。


梶原は咄嗟に視線を逸らし、口元を手袋で覆って小さく咳払いをした。


「……当然の、ことだ。生活圏の安全を確保するのは、住人の義務だ」


「ふふ、真面目だなあ。あ、そうだ梶原さん! これ、見てください!」


紬は嬉しそうに、提げていたコンビニのビニール袋を持ち上げて見せた。


「コンビニで、すっごく美味しそうな安納芋のプリンを見つけちゃったんです! 今日は会社ですごく嬉しいことがあって……先輩が助けてくれたり、仕事が早く終わったりしたので、自分へのご褒美なんです!」


「……そうか。無事に定時で上がれたのだな」


「はい! 世界って、本当に温かい人ばかりですね!」


満開の笑顔で微笑む紬。


その笑顔を至近距離で見つめながら、梶原の胸の奥で、ドクンと重い鼓動が跳ね上がった。


守れた。


この無垢な笑顔を、あの薄汚い害虫の指先ひとつ触れさせずに、完璧に守り切ることができた。


梶原はポケットの中で、自らの拳をぎゅっと握り締めた。


「……プリン、美味しく食べるといい」


「はい! あ、梶原さんも、夜は冷えるので風邪引かないように気をつけてくださいね! それでは、お先に失礼します!」


紬はぺこりと頭を下げ、マンションのエントランスへと軽やかな足取りで歩いていった。


オートロックが開き、ガラス扉が閉まり、彼女の姿が温かな光の中へと消えていく。


その背中を、梶原は微動だにせず、完全に姿が見えなくなるまで見届けていた。


◇


エントランスの明かりが落ち、再び路地裏に静寂が戻る。


梶原は胸ポケットから、男四人の専用ホットライン端末を取り出した。


耳元の極小インカムに指を添える。


「……俺だ。現場の処理、完了した」


『あー、梶原さん? お疲れさまでーす!』


インカムから、成瀬郁の明るい声が響いた。


『街頭防犯カメラの映像、バッチリ見てたよ。神崎の野郎、腰抜かして涙目になりながらタクシー拾って逃げてったね。ざまあみろって感じ!』


『梶原、ご苦労だった』


鷹見征司の冷徹な声が重なる。


『神崎の精神的打撃は十分だ。……さて、外堀はすべて埋まった。東都エージェンシーの広瀬専務、コンプライアンス委員会、ならびに法務部への証拠パッケージの一斉送達タイマーを、明朝午前八時三十分にセットした』


『僕の方からも、最終報告書の準備が整いましたよ』


保科貴文の穏やかで恐ろしい声が響く。


『被害者女性たちの陳情書、ならびに医師としての重篤精神障害鑑定意見書を、神崎の弁護士宛てに内容証明で直送します。……明日の朝、彼が出社した瞬間、彼の業界人生は完全な終焉を迎えるでしょう』


「……了解した」


梶原は短く応じ、端末を懐へと収めた。


見上げれば、四階の角部屋――紬の部屋の窓に、ぽっと温かなオレンジ色の明かりが灯ったところだった。


彼女は今頃、こたつに入って甘い安納芋プリンのフタを開け、幸せそうに頬を緩めているはずだ。


自らの平和な日常のすぐ足元で、四人の狂人たちが完璧な連係プレーで一人の人間を完全に解体し尽くしたことなど、夢にも知らずに。


梶原は口元をわずかに緩めると、自らもまた、世界で一番静かな要塞へと足を踏み入れていった。

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