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私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


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第18話:茉莉花の防波堤

翌朝、十一月中旬の澄み渡るような青空のもと、オフィスビルの窓ガラスは眩しい朝の陽光を照り返していた。


午前八時四十分。始業時間より二十分早く出社した槇原紬(まきはら つむぎ)は、自席のパソコンを立ち上げると、昨夜エラーで送信トレイに眠っていた企画修正案のファイルを呼び出した。


「……うん、今朝は通信状況もバッチリ!」


昨夜の謎の送信エラーが嘘のように、東都エージェンシーの神崎翔吾宛てのメールは、送信ボタンを押した瞬間にシュッと軽やかな電子音を立てて飛び立っていった。


睡眠時間はたっぷり七時間半。昨夜は無理な深夜残業を切り上げて温かい肉まんを食べ、保科から処方された漢方薬を飲んでふかふかのベッドに潜り込んだため、体調はすこぶる良好だった。肌の調子も良く、目の下にクマひとつない。


「よしっ! 企画書も無事に届いたし、あとは神崎さんからのフィードバックを待って、今日の午後の取材先リストを詰めるだけ!」


紬が両手を組んで軽く伸びをした、まさにその時だった。


ガタタンッ、とフロアの入口のガラス扉が、耳障りな勢いで乱暴に開かれた。


「おいおいおい、どういうつもりかな、紬ちゃん?」


フロア全体に響き渡る、品のない甲高い声。


ツンと鼻を突く過剰な甘ったるい香水の匂いとともに、茶髪をワックスで固めた男が、大股で編集部の執務スペースへと土足で踏み込んできた。


東都エージェンシーの花形プロデューサー、神崎翔吾だった。


イタリア製のネイビーのジャケットを羽織り、胸元を大きく開けたシャツからは金のチェーンネックレスが覗いている。昨夜、銀座の街で泥酔してキャバクラ嬢に絡んでいたとは思えないほどギラギラとした目をしているが、その充血した瞳の奥には、隠しきれない苛立ちと焦燥感が滲み出ていた。


「か、神崎さん……!?」


紬は目を丸くして立ち上がった。アポイントメントは一切入っていないはずだった。


「どうしてここに……何か急ぎのご用件でしょうか?」


「急ぎも何も、僕の時間をなんだと思ってるわけ?」


神崎は紬のデスクのパーテーションにドカリと体重を預け、長い指でデスクの天板を爪でトントンと威圧的に叩いた。


「昨日の夕方、あれだけ大量に修正の指示を出したよね? なのに、夜の間はうんともすんとも返信なし。今朝の九時前になってようやくペラッとメール一本送ってくるなんて、ナメてんの? 大手の東都エージェンシーと仕事するっていう自覚、あんの?」


「も、申し訳ありません! 昨夜、十時前に一度お送りしようとしたのですが、メールサーバーの接続エラーが発生してしまいまして……夜分遅くに通知でご迷惑をおかけするのもと思い、今朝一番で再送させていただいたのですが……」


「言い訳はいいんだよ、言い訳は」


神崎は紬の言葉を乱暴に遮ると、デスクを回り込み、紬との距離を一気に詰めてきた。


紬が反射的に後ずさろうとするが、背後にはオフィスチェアとキャビネットがあり、逃げ場がない。神崎は紬の顔の真横のパーテーションにバシッと右手をつき、いわゆる「壁ドン」の体勢を作り出した。


「ヒッ……」


紬の喉から、微かな息が漏れる。


昨日の会議室と同じだ。男の生々しい呼気と香水が混ざり合った匂いが、紬の至近距離に迫る。神崎の視線は、紬の怯えた瞳を愉悦とともに舐め回していた。


「まあ、いいや。メールの文字面(もじづら)だけじゃ、君みたいな若い子には僕のハイセンスな演出意図が伝わらないみたいだしね」


神崎はニチャリと口角を吊り上げ、紬の耳元へ顔を寄せた。


「ここじゃ周りの目もうるさいしさ。あっちの個室のミーティングルームに入って、二人きりでじっくり『企画の詰め』をやろうよ。……あ、それとも、今夜僕の行きつけの西麻布の個室フレンチを予約してあるから、そこでシャンパンでも飲みながら朝までマンツーマンで指導してあげようか? 僕の部屋、すぐ近くだからさ」


「えっ……い、いえ……! 業務時間外のプライベートなお食事はお断りさせていただきます! 企画のご相談であれば、こちらのオープン席で編集長も交えて――」


「紬ちゃんさあ、僕の誘いを断るってことが、このプロジェクト……ひいては君の編集者としての将来にどういう影響を与えるか、分かってて言ってる?」


神崎の声が、スッと低く湿った脅迫の色を帯びた。


「僕の一言で、このタイアップの予算なんて明日にもゼロにできるんだよ? 君がどれだけ頑張って書いた企画書も、僕が『ボツ』って言えば紙屑になる。……分かってるよね? 賢い選択をしなよ」


神崎の伸ばされた左手が、紬の華奢な顎先へ向けて伸びる。


紬は恐怖で足がすくみ、ぎゅっと目を瞑った。


――だが。


その下卑た指先が紬の肌に触れる寸前、横合いから凄まじい風切り音とともに、ひとつの「氷の塊」がテーブルの上に叩きつけられた。


ドォンッ!!


「なっ……!?」


激しい衝撃音に、神崎が跳ね上がるように飛び退いた。


デスクの上に置かれたのは、プラスチックカップになみなみと注がれ、ストローからカランと鋭い音を立てる、キンキンに冷えたアイスブラックコーヒー。


そして――紬と神崎の間に、まるで鉄壁の城壁のように割って入ったのは、腕組みをして仁王立ちする一人の女性だった。


「――そこまでにしてもらおうかしら、東都エージェンシーのプロデューサー様?」


関茉莉花だった。


肩口で揺れるクールなボブヘア。普段のサバサバとした笑顔は綺麗さっぱり消え失せ、その鋭利な瞳は、路傍の汚物を見下ろすかのように冷たく神崎を射抜いていた。


「茉莉花先輩……っ!」


紬が震える声で叫ぶと、茉莉花は振り返りもせず、紬の前に自らの背中を盾のように滑り込ませた。


「紬、下がってなさい。……息を吸うのも汚らわしい害虫が迷い込んできたみたいだから」


「あ、あんた……誰だよ!? 関係ない部外者が口を挟むな!」


神崎が顔を真っ赤にして怒鳴りつける。


しかし、茉莉花は眉ひとつ動かさず、フッと鼻先で冷笑を浮かべた。


「関係なくないわね。『Lumiere』編集部デスク、関茉莉花。この企画の統括補佐であり、何より槇原紬の直属の指導係よ」


茉莉花は一歩、神崎の前へ踏み出した。


「神崎プロデューサー。うちの後輩に、気安く触ろうとしないでいただけます? それと――」


茉莉花は胸ポケットから、銀色に光る細長いスティック状の機器をスッと取り出し、神崎の目の前に突きつけた。


赤く小さなLEDランプが、規則正しくチカチカと点滅している。


「……あ?」


「オリンパス製、最高感度ステレオマイク内蔵・業務用ICボイスレコーダーよ」


茉莉花は冷徹に告げた。


「あなたがフロアに踏み込んできて紬を脅し始めた瞬間から、録音ボタンはオンになってるわ。『僕の部屋で朝までマンツーマンで指導してあげようか』『僕の一言で企画を紙屑にできる』『君の編集者としての将来にどういう影響を与えるか』……。完璧ね。クリアな音質で、一言一句漏らさず録音させていただきました」


「なっ……ざ、ざざ、ふざけるな! 盗聴かよ!?」


「盗聴? 心外ね。自己防衛のための『正当な記録業務』よ」


茉莉花は手元のレコーダーをポケットにしまい、今度は胸元から社員証ケースを取り出して掲げた。


「業務時間外における密室での個人的な会食の強要、取引上の優越的地位を背景とした業務妨害の示唆、ならびに身体的接触を試みるハラスメント行為。厚生労働省のセクシャルハラスメント・パワーハラスメント防止指針に、ことごとく完璧に抵触しているわね。……今すぐこの音声データを、うちのコンプライアンス委員会と法務統括部、そして御社の広瀬専務直通のホットラインに送達してもいいのよ?」


「ひっ……!?」


神崎の喉から、引きつった悲鳴が漏れた。


広瀬専務――自らの命運を握る社内トップの名前が出た瞬間、神崎の顔から血の気がサーッと引いていく。


「な、なんで……お前らが専務の名前を……!?」


「さあ? うちの会社の情報収集能力を舐めないことね」


茉莉花はアイスコーヒーをストローですすり、冷たい目で神崎の足元を指差した。


「用件が企画の打ち合わせだというなら、正規のスケジュール通り、本日の十四時に会議室で、編集長同席のもとで公明正大に行いましょう。……それ以外の個人的な接触を試みるなら、次はこのビルの警備員を呼んで、建造物侵入と暴行未遂で警察に突き出すわ。分かったら、さっさと自分の会社へ帰りなさい」


「くっ……っっ!!」


神崎は悔しげに奥歯をギリギリと鳴らし、額に青筋を浮かべた。


周囲を見渡せば、フロアの他の社員たちも、冷ややかな、蔑むような視線を神崎に向けている。


完全に逃げ場を失った神崎は、わざとらしく両手を挙げて嘲笑を作ろうとした。


「チッ……冗談だよ、冗談! ちょっと現場の士気を高めようと思って、フランクにスキンシップを取っただけじゃないか! 冗談も通じない堅物ばっかりだな、この会社は!」


神崎は捨て台詞を吐き捨てると、踵を乱暴に返して、逃げるようにエレベーターホールへと立ち去っていった。


バタン! とガラス扉が閉まり、フロアに再び静寂が戻る。


「……ふう」


茉莉花は肩の力を抜き、深く溜息をついてアイスコーヒーを飲み干した。


「まったく、朝っぱらから胸糞の悪い男ね。あんなのが業界の花形だなんて、世も末だわ」


「茉莉花先輩……っ!」


背後から、紬が感極まったような声で駆け寄ってきた。


見上げれば、紬の大きな瞳には、涙の代わりに、キラキラとした眩いばかりの光が溢れんばかりに輝いていた。


「茉莉花先輩……! す、すごいです……! かっこよすぎます!!」


「え?」


「あの大きな神崎さん相手に、一歩も引かずに正論でビシッと言い返して、ボイスレコーダーを突きつけるなんて……! まるでドラマに出てくる敏腕弁護士さんみたいでした! 私、怖くて何も言い返せなかったのに……先輩が守ってくれて、本当に、本当に感動しました!!」


紬は両手を胸の前で合わせ、熱烈な憧れの眼差しで茉莉花を見つめていた。


その純度百パーセントのキラキラした視線を浴びせられ、茉莉花は頬を微かに赤らめて、ポリポリとこめかみを掻いた。


「もう……大げさよ、紬。先輩が後輩を守るのは当たり前でしょ。あんた、いつも一人で抱え込んで無理するんだから。困った時は、いつでも私を盾にしなさい」


「はい! 一生ついていきます、茉莉花先輩!!」


紬が満面の笑みを咲かせ、編集部のフロアは温かな拍手と笑い声に包まれた。


――しかし。


茉莉花自身は、夢にも思っていなかった。


自分が手柄として誇らしげに掲げたその「ICボイスレコーダー」の内部で、一体どれほど神がかり的なデジタル工作が進行していたのかを。


◇


地下三階、機械管理区画の深淵。


成瀬郁のプライベート・ラボラトリー。


「……ぷっ、あはははははははっ!! 関先輩、最高すぎるでしょ!!」


成瀬はリクライニングチェアの上で足をバタバタとさせながら、腹を抱えて大爆笑していた。


成瀬のモニターには、茉莉花が持っていたICレコーダーの内部ストレージが、ミリ秒単位でリアルタイム同期されていた。


実は――茉莉花が愛用しているそのレコーダーは、以前成瀬が「社内備品の定期ファームウェア更新です」と称して預かり、内部に特注の超小型Wi-Fiモジュールと自動クラウド連携スクリプトを密かに仕込んでおいたものだった。


茉莉花がポケットの中で「録音ボタン」を押した瞬間、その音声信号は、成瀬のローカルサーバーへゼロ遅延でストリーミング中継されていたのだ。


「録音データの受信完了! ……さてと、お仕事お仕事!」


成瀬の指先が、目にも留まらぬ速度でキーボードを叩く。


カタカタカタカタッ、ターン!


『AIノイズキャンセリング・アルゴリズム適用:完了(エアコンの送風音および環境ノイズを完全消去)』

『声紋解析:神崎翔吾の登録声紋と百パーセント一致』

『自然言語処理によるテキスト文字起こし、ならびに証拠用タイムスタンプ付与:処理時間八・四秒で完了』


「ふふーん! 神崎の脅迫発言、一言一句漏らさず完璧なテキストファイルと高音質WAVファイルに変換完了〜!」


成瀬は満足げに唇を吊り上げると、男四人の専用ホットラインを開き、生成された証拠パッケージを投下した。


【成瀬:関先輩のボイスレコーダーから抽出した神崎の最新脅迫音声、ならびに文字起こしテキストを共有します! 「僕の部屋で朝まで指導」「企画を紙屑にできる」等の明確な脅迫言動を完全収録! 神崎の自爆フラグ、これで完全に成立しました!!】


即座に、三つの既読がつき、返信が怒涛のように流れ込む。


【鷹見:関デスクの行動を高く評価する。我が社の社員として、極めて模範的な危機管理対応だ。……千冬、関デスクの次期査定における特別賞与の加点率を最大枠に設定しろ】


【保科:素晴らしいですね。この音声データがあれば、神崎に対する接近禁止命令の申立書は、裁判所に提出したその日の午前に即日認可されますよ。医学的意見書の補強資料として完璧です】


【梶原:……音声ログを受領した。神崎の退勤後の動線は依然として掌握中だ。夜道での接触未遂、いつでも刈り取れる】


画面を眺めながら、成瀬はニヤニヤと笑いが止まらなかった。


「関先輩、グッジョブすぎるよ本当に……。紬さんを身体を張って守ってくれたし、神崎にとどめを刺すための最高の弾薬まで手に入れてくれたんだから!」


成瀬はチケット予約サイトのバックドアを開き、キーボードをパチパチと叩いた。


「よし決めた! 関先輩の推しの舞台俳優・如月蒼太くんの、来月のクリスマスプレミアムディナーショー……最前列の中央テーブル、関係者招待枠を関先輩のアカウントにねじ込んであげよう! 紬さんの平和を守ってくれた特別報酬だよ!」


成瀬はエンターキーをパチンと押し、満足そうに炭酸水を飲み干した。


「さーて、神崎翔吾……。昼間の威勢のいい態度はここまでだ。今夜、あんたの人生がどう終わるか、じっくり味わうといいよ」


オフィスの光の当たる場所で、先輩が守った紬の笑顔。


そして、光の届かない地下の深淵で、悪魔たちが研ぎ澄ます死神の鎌。


二つの防波堤に挟まれた一匹の害虫の命運は、いよいよ今夜、暗闇の裏路地において完全な終焉を迎えようとしていたのだった。

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