第2話:毎週木曜日、スイートルームの悪魔たち
一週間の中で、木曜日の夜ほど不思議な安らぎに満ちた時間はないと、槇原紬は昔から思っていた。
金曜日になれば週末への期待で街全体が浮き足立ち、居酒屋の周りは騒がしくなる。週の初めである月曜日や火曜日は、誰もが時間に追われてピリピリとした空気を漂わせている。だが、木曜日の夜だけは違う。まるで世界中が深い呼吸を整えているかのように、しんと静まり返るのだ。
「……うん、いい香り」
マグカップから立ち上る、ベルガモットの華やかな湯気。お気に入りのアールグレイにほんの少し蜂蜜を落とし、紬はリビングのふかふかしたローソファーに身を沈めた。
間接照明の柔らかなオレンジ色の光が、無機質なコンクリート打ち放しの壁を温かく染めている。壁に取り付けられた大型モニターには、お気に入りの北欧家具のカタログがスライドショーのように流れていた。
外からは、車のクラクションはおろか、遠くを走る電車の走行音すら聞こえてこない。港区のど真ん中、大通りからそう離れていない場所にあるはずなのに、このデザイナーズマンションの四階は、まるで深い森の奥深くにあるロッジのように静まり返っていた。
「木曜の夜って、なんだか街全体が静かで落ち着くなあ」
膝の上に置いたエッセイ本をパラパラとめくりながら、紬はひとりごちて微笑んだ。
今週も色々とあった。水曜日には担当記事のレイアウトが崩れて焦ったし、今朝の満員電車も凄まじい混雑だった。けれど、終わってみればすべてが驚くほどスムーズに解決している。電車の中では周囲の人がスペースを譲ってくれたし、オフィスに着けばシステムの不具合は社内エンジニアの成瀬が「ついでに直しておきましたよ!」と満面の笑顔で解決してくれていた。
本当に、自分は人に恵まれている。
世の中には理不尽な悪意やトラブルに怯えながら暮らしている人も多いというのに、自分の周りに限っては、まるで悪意そのものが最初から存在しないかのように世界が優しい。
「明日一日頑張れば、週末はお休み。よし、今夜は夜更かししないで、ゆっくり温まって寝よう」
紬はマグカップに口をつけ、幸せそうに目を細めた。
彼女は夢にも思っていなかった。
自分が「今夜は街全体が静かだな」と感じているまさにその瞬間、港区の夜景を一望する超高層ホテルの最上階で、四人の狂人たちが互いの喉元に刃物を突きつけ合いながら、その「静寂」を作り出すための血生臭い会議を開いていることなど。
◇
午後十時、港区・六本木。
会員制超高級ホテル『ザ・クラウンタワー東京』の最上階、ワンフロアを丸ごと占有するプレジデンシャル・スイート。一泊の室料が百五十万円を超えるその部屋の重厚な扉の内側は、張り詰めた氷のような殺気に満ちていた。
カラン、と澄んだ音を立てて、丸い氷がロックグラスの縁を叩く。
カウンターの内側に立つ支配人兼チーフバーテンダーの九重圭は、蝶ネクタイの首元を指で微かに緩めながら、密かに胃のあたりを押さえた。彼の手には、氷を削るための鋭利なアイスピックが握られている。だが、今夜もまた、このアイスピックがカクテル用ではなく「店内で発生した凶刃の制圧用」に使われないことを、九重は胃酸の逆流を感じながら祈るしかなかった。
「……皆様、ご注文のスコッチです」
九重が音もなく置いた四つのグラスには、誰も手をつけない。
部屋の中央に置かれた黒檀の巨大なラウンドテーブルを囲むようにして、四つの影が座っていた。
上座に君臨するのは、オーダーメイドの三つ揃えスーツを完璧に着こなした男――鷹見ホールディングス副社長、鷹見征司。冷徹な切れ長の瞳の奥に昏い光を湛え、卓上に置かれたタブレット端末を長身の指先でスクロールしている。
その対面には、オーバーサイズの黒いパーカーのフードを浅く被り、膝の上で広げた特注ノートPCのキーボードをカタカタと高速で叩き続けている青年――社内システム担当の成瀬郁。
鷹見の右手側には、アイロンの効いた白衣を羽織り、銀縁の眼鏡の奥から仏のような柔和な微笑みを絶やさない男――総合診療・心療内科クリニック院長の保科貴文。
そして左手側には、一切の無駄を削ぎ落とした黒のタートルネック姿で、彫刻のように微動だにせず腕を組んでいる巨漢――要人警護会社社長の梶原敦志。
全員がそれぞれの世界で頂点を極めた、非の打ち所のないハイスペック男子。
だが、この室内に漂う空気は、国際的な首脳会談よりも冷徹で、地下組織の幹部会よりも狂気に満ちていた。
「――定刻だ。これより、第百四十二回・定期安全保障連絡会議を開会する」
鷹見の低く、よく通る声が静寂を切り裂いた。
不可侵条約の議長を務める鷹見が、手元のタブレットの画面を室内の巨大モニターへとミラーリングする。画面には、紬の顔写真を中心に据えた、緻密極まりない相関図と移動マップが映し出された。
「今週の総括だ。対象――槇原紬の半径五メートル以内に侵入、ないしは悪意を持って接触を試みた不審人物は、計十二名。……全員、規定に基づき処理済みだ」
淡々と告げられる報告に、誰も驚きを見せない。
「内訳を報告する。月曜日、通勤路での悪質アンケート業者二名。成瀬の遠隔誘導により、所轄の道路交通法違反取締部隊を派遣して排除。火曜日、取材先で紬に執拗に私用連絡先を聞き出そうとしたフリーライター一名。保科、お前の担当だったな」
促された保科が、優雅に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ええ。彼の過去の脱税疑惑と、複数の女性トラブルに関するカルテ情報を……おっと失礼、関係各所への匿名の情報提供を行いました。昨日付けで業界誌の連載はすべて打ち切られ、現在は実家のある地方へ引っ越し準備中ですよ。二度と彼女の視界に入ることはありません」
「結構だ。……そして今朝の事案だ」
鷹見の冷たい視線が、梶原へと向けられた。
「赤坂見附駅のプラットホーム、および車内において、対象の腰部への接触を企図した痴漢常習犯一名。梶原、成瀬。事後処理の報告を」
「……右前腕部の不全脱臼、および正中神経の圧迫による一時的運動障害。精神的打撃の付与」
梶原が短く、感情の籠もらない声で告げる。
「成瀬の手配したダミー名刺を胸ポケットにねじ込み、再接近時の社会的抹殺を通告した。対象の衣類、ならびに皮膚への直接接触はゼロミリ。未遂だ」
「僕の方からも補足〜」
成瀬がノートPCの画面を指先で弾くようにしてモニターを切り替えた。
「防犯カメラの映像はリアルタイムでループ処理済み。痴漢男のスマホから抽出した過去の盗撮データと位置情報を束ねて、警視庁生活安全課のホットラインへ匿名送信しました。男は先ほど、勤務先のデスクで緊急逮捕されてまーす。明日の朝刊の三面記事に小さく載る予定だから、紬さんの目に入らないよう、社内配信のニュースフィードからは該当記事をフィルタリングしておきました」
「完璧だ」
鷹見が静かに頷き、手帳にチェックを入れる。
「今朝の事案を含め、今週の彼女の生活圏における『悪意の侵入』は完全に防壁の内側で無力化された。彼女の精神的平穏、ならびに笑顔は維持されている。……諸君の迅速な対応に感謝する」
九重がカウンターの奥で胸を撫で下ろしかけた、その時だった。
「――ねえ、鷹見さん」
ふわりとした、しかしどこか底知れない粘度を持った声が、成瀬の口から漏れた。
成瀬はフードの奥から、黒曜石のように光のない瞳で鷹見をじっと見つめていた。その口元には、冷ややかな笑みが張り付いている。
「議長としての報告は素晴らしいと思いますけど……ご自身の『規約違反』については、どう釈明されるおつもりですか?」
室内の温度が、一気に氷点下まで急降下した。
保科の微笑みがスッと薄くなり、梶原の肩の筋肉がわずかに強張る。九重のアイスピックを持つ手がピキリと凍りついた。
鷹見は眉ひとつ動かさず、冷徹に成瀬を見据え返した。
「……何のことだ」
「とぼけないでくださいよ」
成瀬がキーボードを叩くと、モニターに社内フロアの監視カメラ映像が再生された。昨日の夕方、オフィスの給湯室前の廊下だ。
画面の中では、資料を抱えた紬が歩いている。そこへ通りかかった鷹見が立ち止まり、紬に声をかけているシーンだった。
「昨日十六時四十二分、社内第四通路。あなたは紬さんに『お疲れさま。あまり根を詰めないようにな』と声をかけました。……そこまでは業務上の会話として百歩譲って認めましょう。でも、その直後」
成瀬が映像を拡大し、ミリ単位でコマ送りにする。
「あなたの右手が、彼女の左肩に向けて二十三センチ移動しています。角度、速度、指先の開き方から解析して、これは明らかに『肩をポンと叩くスキンシップ』を意図した初動動作です。……違いますか?」
「ッ……!」
鷹見の喉仏が、わずかに揺れた。
成瀬の指先が、キーボードの上で不気味に踊る。
「条約第3条・抜け駆け的身体接触の禁止。違反者は他の三名による共同制裁の対象とする。……鷹見さん、あなた昨日、紬さんに触れようとしましたよね? 職権を乱用して、上司という立場を利用して、彼女の体温を感じようとしましたよね?」
「戯れ言を」
鷹見の声が低く地を這った。その額には青筋が浮かび、エリートとしての完璧な仮面の下から、獣のような凶暴な独占欲が滲み出ていた。
「彼女のジャケットの肩口に、コピー機のトナーの粉が付着していた。それを払おうとしただけだ。やましい意図など微塵もない」
「へえ? トナーを払うのに、あんな熱病に冒されたような目配せをするんですか? 心拍数モニタリングのログ見ます? あの瞬間のあなたのスマートウォッチ、心拍数が百三十まで跳ね上がってましたよ。言い訳は見苦しいなァ」
成瀬が嘲笑を浮かべた瞬間、鷹見の右手が電光石火の速度でデスクの上のペーパーナイフへと伸びた。
チィン、と銀色の刃先が成瀬の喉元へと向けられる。
「口を慎め、小僧。貴様のその腐った指を二度とキーボードが叩けないようにへし折ってやろうか」
「やってみなよ」
成瀬は刃先を鼻先数センチに突きつけられても、瞬き一つしなかった。むしろ嬉しそうに口角を吊り上げ、エンターキーの上に人差し指を置く。
「あなたがナイフをあと一ミリでも前に出したら、鷹見ホールディングスのメインバンクの基幹システムを落とします。ついでにあなたの個人PCに保存されている、紬さんの社内入館ゲート通過写真三千枚のコレクションフォルダを、全社員の社内チャットに一斉誤爆送信してあげましょうか? 副社長の社会的生命、今ここで終わらせます?」
「貴様……ッ!」
殺意と殺意が正面衝突し、部屋の空気がバチバチと火花を散らす。
どちらかが一歩でも踏み出せば、即座に血の海と社会的破滅が確定する極限状態。
「――はいはい、そこまでですよ。二人とも」
その間に、白衣の袖が音もなく割り込んだ。
保科が穏やかな、しかし絶対的な冷徹さを含んだ笑顔で、鷹見の持つペーパーナイフの峰を指先で軽く押し下げた。そして、もう片方の手で、銀色のアルミシートから押し出した一粒の白い錠剤を、鷹見の目の前に差し出す。
「鷹見さん、ひどい頻脈ですね。側頭動脈が浮き出ていますよ。血管が破綻して脳出血でも起こしたらどうするんです? 紬ちゃんに『上司が目の前で倒れる』というトラウマを植え付けたいのですか?」
「保科……」
「はい、精神安定剤です。水なしで飲める口腔内崩壊錠ですよ。紬ちゃんを怖がらせたくないなら、大人しくお薬を飲んで理性を保ってください。……それとも、僕の手で鎮静剤を直接頸静脈に筋注されたいですか?」
保科の白衣のポケットから、キラリと本物の注射針の先端が覗いた。心療内科医の皮を被った怪物の言葉に、鷹見は屈辱に唇を噛み締めながらも、ナイフを机に戻し、差し出された錠剤を舌の上に乗せて苦々しく飲み下した。
「……ふう。素直でよろしい」
保科は満足そうに微笑むと、今度は成瀬へと視線を向けた。その瞳の奥には、鷹見に向けたものと同じ、底知れない狂気が宿っている。
「成瀬くんも、挑発が過ぎますよ。君だって、紬ちゃんの自宅ルーターに勝手に割り込ませた軍事用暗号化プロトコルのせいで、先週彼女のスマホの通信速度を落としたでしょう? 彼女が『最近動画が止まるな』と困っていたバイタルデータがこちらに届いています。彼女に小さなストレスでも与えたら、君のサーバー室に睡眠ガスを流し込むと約束しましたよね?」
「……うッ」
成瀬が気まずそうに視線を逸らし、口を尖らせる。
「だ、だって……誰かが紬さんのスマホを盗聴しようとしたら困るし……」
「理由はどうあれ、彼女の快適さを損なう行為は条約違反です。次はありませんよ」
保科は優しく言い聞かせるように告げると、手元のカルテを開いた。
「今週の紬ちゃんの健康状態ですが、平均睡眠時間七時間十二分。レム睡眠とノンレム睡眠のバランスは極めて良好。血圧、脈拍ともに標準値です。ただし、木曜日の夕方に微小な肩こりの兆候が見られました。……梶原さん」
「……分かっている」
今まで沈黙を守っていた梶原が、低く太い声で応じた。
梶原は胸ポケットから、革張りの小さな黒い手帳を取り出し、万年筆で几帳面な文字を走らせた。
「今夜、彼女が帰宅した後の接触回数は『ゼロ』だ。……明日の朝、血行促進に効果のある生姜と根菜を使った特製のけんちん汁をタッパーに入れ、『作りすぎたので』と偽装して玄関前に届ける。塩分濃度は貴様の指示通り、〇・七パーセントに調合済みだ」
「素晴らしい配慮です、梶原さん。あなただけですね、私情を挟まずに完璧に任務を遂行しているのは」
保科の言葉に、梶原は眉ひとつ動かさず、ただ手帳の余白を指先でなぞった。
手帳のページには、万年筆の文字だけでなく、紬がゴミ集積所に出そうとしていた段ボール箱から密かに回収し、滅菌・アイロンがけを施した「通販の納品書の切れ端」が、聖遺物のように貼り付けられていた。
梶原の瞳にもまた、他三人と何ら変わらない、暗く重い狂気の焔が静かに揺らめいていた。
「……俺は、あの人の生活圏の盾だ。害虫を砕き、不快を払う。それ以上の望みはない」
「嘘つけ」と成瀬がぼそりと毒づく。「先週紬さんからもらったクッキーの箱、抱き枕にして寝てるくせに」。
「貴様……殺すぞ」
梶原の眉間に深い溝が刻まれ、テーブルがミシリと軋んだ。
「――はいはい、皆様。そこまででございます」
絶妙なタイミングで、九重がワゴンを押してテーブルへと歩み寄った。
ワゴンには、氷でキンキンに冷やされたクリスタルデキャンタと、人数分の新しいグラスが載せられている。九重の顔には、長年の接客で培われた鉄壁の営業スマイルが張り付いていたが、背中のシャツは冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
(胃が……胃に穴が空く……! なぜ私が毎週こんな怪物たちの相手をしなければならないんだ……! 全員資産数百億超えの超VIPだから無下にできないのが呪わしい……!)
内心で血の涙を流しながら、九重は完璧な所作でグラスに琥珀色の液体を注いでいく。
「皆様の熱い議論は重々理解いたしました。ですが、忘れてはなりません。この条約がなぜ締結されたのかを」
九重のその言葉に、四人の男たちの動きがピタリと止まった。
冷徹なエリート副社長も、天才ハッカーも、心身を掌握する医師も、屈強な元SPも。
全員が、胸の奥にある「絶対的な弱点」を突かれたかのように、押し黙る。
「彼女――槇原紬様は、誰よりも優しく、真面目で、そして理不尽な悪意や強引な支配を嫌う女性です」
九重は静かに言葉を紡いだ。
「もし、皆様のどなたかが欲望に負け、彼女を拉致監禁しようとしたら? あるいは、権力や知略を用いて無理やり自分のものにしようとしたら? ……彼女は一体、どうなるでしょうか」
「…………」
誰一人として、反論しなかった。いや、できなかったのだ。
彼女の心は壊れる。
あの眩しい、見る者すべての心を洗うような笑顔は永遠に失われ、自分たちを「怪物」として怯え、絶望の涙を流すだろう。
そして――何よりも恐ろしいのは、彼女に拒絶され、心底から軽蔑され、二度とその瞳に映してもらえなくなること。
彼らにとって、それは自らの死よりも耐え難い地獄だった。
「誰か一人が暴走すれば、残り三名が全力でその者を社会・物理の両面で抹殺する。そして何より、彼女に嫌われた者は、その時点で永遠に敗北者となる。……それが、皆様が自ら定めた【ヤンデレ不可侵条約】の鉄の掟でございます」
九重は一礼し、四つのグラスをそれぞれの前に配った。
「彼女が心から笑っていられる、世界で一番安全な無菌室。それを作り続けることだけが、皆様が彼女の側に存在することを許される、唯一の道なのではありませんか?」
室内に、重く、しかし奇妙な納得感を孕んだ沈黙が落ちた。
鷹見は深く息を吐き出し、乱れたネクタイを整え直した。
成瀬はノートPCを閉じ、椅子の背もたれに深く体を預けた。
保科は注射器をポケットの奥へしまい込み、穏やかな微笑みを取り戻した。
梶原は手帳を懐に収め、無言でグラスへと手を伸ばした。
互いに向けられる殺意が消えたわけではない。隙あらば他三人を蹴落とし、彼女の隣を独占したいという狂気じみた執着は、何一つ薄れてなどいない。
だが――彼女の笑顔という至高の聖域を守るためだけに、四人の悪魔は再び、冷戦という名の仮面を被り直す。
「……九重の言う通りだ」
鷹見がグラスを持ち上げた。琥珀色の液体が、シャンデリアの光を浴びて妖しく煌めく。
「我々の目的はただ一つ。彼女の日常から、あらゆる悪意と不幸を永久に排除することだ。……抜け駆けは許さん。だが、防壁の維持にのみ、貴様らの力を利用してやる」
「フン……言われなくても。紬さんの平和は僕が守るし」と成瀬がグラスを取る。
「ええ。彼女の健康と笑顔のために、来週も仲良くやりましょう」と保科がグラスを合わせる。
「……害虫は、すべて潰す」と梶原が低く唸る。
カチン、と乾いたガラスの重なる音が、スイートルームに響き渡った。
互いの喉元にナイフを隠し持ちながら、四人の狂人たちは静かにグラスを傾けた。
◇
「――ふわぁ……」
同じ時刻。港区のデザイナーズマンションのベッドの中で、紬は小さく欠伸を噛み殺していた。
ふかふかの羽毛布団に包まれ、加湿器が微かな水蒸気を吹き出している。スマートフォンの画面を暗転させ、サイドテーブルの上に置いた。
時計の針は、間もなく午後十一時を回ろうとしている。
「今夜も、本当に静かだなあ……」
目を閉じると、今日すれ違った人々の親切な顔が思い浮かぶ。笑顔で挨拶してくれたマンションの一階カフェの志乃、テキパキと仕事を助けてくれた成瀬、いつも公正に評価してくれる鷹見副社長、定期健診で優しく相談に乗ってくれる保科、そして時々美味しいご飯を分けてくれる隣人の梶原。
みんな、本当に温かくて優しい。
自分がこんなにも穏やかに、幸せに毎日を過ごせていられるのは、この街と、周囲の人々の優しさのおかげだ。
「明日も、いい日になるといいな」
ぽつりと呟き、紬は心地よい眠りの波の中へと沈んでいった。
彼女の知らない場所で、今夜も悪魔たちが彼女の眠りを守るために血の滲むような暗闘を繰り広げていることなど、知る由もなく。
無菌室の夜は、どこまでも深く、どこまでも平和に更けていくのだった。




