第1話:世界はこんなにも優しい
世の中の人々は、どうしてあんなにも「生きづらさ」を訴えているのだろうか。
テレビのニュースをつければ、理不尽な人間関係や通勤ラッシュのストレス、街中で起きる物騒な事件の話題ばかりが流れている。SNSを開けば、誰かが誰かの悪口を叩き、満員電車でのトラブルに憤慨している。
けれど、槇原紬の知る世界は、いつだって驚くほどに穏やかで、親切で、温かかった。
「……うん、今日も雲ひとつない快晴。絶好の出勤日和だな」
港区の閑静な住宅街に佇む、コンクリート打ち放しの瀟洒なデザイナーズマンション。その四階にある自室の姿見の前で、紬はベージュのオフィスカジュアルに身を包み、くるりと一回りした。
この部屋は、天井が高く、最新のスマート家電が完備され、オートロックは顔認証と静脈認証の二重構造という、セキュリティの塊のような物件だ。周辺の家賃相場はどう控えめに見積もっても三十万円は下らない。
それなのに、なぜか紬が支払っている家賃は、毎月きっかり「三万円」だった。
『前の住人がちょっと特殊な事情で急遽退去してねぇ。オーナーさんが「とにかく真面目で綺麗に使ってくれる若い女性なら、管理費程度でいいから入居してほしい」って言ってるのよ。槇原さん、本当に運がいいわね』
不動産屋でそう言われたときは、事故物件か何かの罠かと疑ったものだ。だが、実際に住み始めて半年、幽霊が出る気配もなければ、設備に不備があったことなど一度もない。水道のパッキンが少し軋んだだけで、翌日にはなぜか大手ハウスメーカーの特命修理班が飛んできて、新品の最高級水栓に取り替えてくれたほどだ。
「私って、能力も学歴も平凡だけど……運の良さだけは世界一かもしれないな」
紬は小さく笑い、お気に入りのトートバッグを肩にかけて玄関のドアを開けた。
内廊下は静まり返っている。隣の401号室の住人――要人警護会社を経営しているという大柄で無口な男性、梶原の部屋のドアは固く閉ざされていた。たまに顔を合わせると「作りすぎたので」とプロ顔負けの煮物や汁物をタッパーで分けてくれる、とても親切で家庭的なお隣さんだ。
エレベーターで一階に降り、エントランスを抜けると、心地よい秋の風が頬を撫でた。マンションの一階テナントに入っているブックカフェ『月白』のテラス席には、すでに店主の志乃が立っていた。
「おはよう、紬ちゃん。今日も早い移動ね」
「志乃さん、おはようございます! はい、今日は午前中に企画会議があるので気合を入れなきゃいけなくて」
「ふふ、偉いわね。はいこれ、テイクアウト用のアイスラテ。ミルク多めにしておいたから、持っていきなさい」
「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」
「いいのよ。あの子……じゃなくて、紬ちゃんが美味しそうに飲んでくれるのが一番の宣伝だから」
志乃は意味深に微笑み、駅へと続く並木道の先へと視線を流した。紬は恐縮しつつも温かい感謝を告げ、ストローをくわえながら駅へ向かって歩き出す。
ほら、やっぱり世界は優しい。
横断歩道に差しかかれば、まるで紬の歩調を測っていたかのように信号が青に変わる。紬は自分の担当するライフスタイル系WEBマガジン『Lumiere』の企画書を頭の中で反芻しながら、軽やかな足取りで地下鉄の改札へと吸い込まれていった。
――彼女の真後ろ、わずか三歩の距離に、異様な気配を完全に殺した長身の影が滑り込んできたことなど、露ほども知らずに。
◇
午前八時十五分。地下鉄・赤坂見附駅のホームは、すでに身動きも取れないほどの人で埋め尽くされていた。
いわゆる「混雑率一八〇パーセント」の魔の時間帯である。押し寄せる人の波、蒸せ返るような熱気、苛立ちを隠そうともしない通勤客の舌打ち。ホームに滑り込んできた銀色の車両は、すでに乗客の背中で窓ガラスが圧迫され、軋んだ悲鳴を上げていた。
紬もまた、その人の渦に巻き込まれる……はずだった。
「わ、すごい人……でも、乗れるかな」
紬が意を決して開いたドアへ足を踏み入れると、奇妙な現象が起きた。
ぎゅうぎゅう詰めで殺気立っていたはずの乗客たちが、なぜか紬の周囲からすっと身を引き、まるで目に見えない結界に弾かれたかのように、彼女の半径五十センチほどの空間を綺麗に空けたのだ。
紬の前方に立つサラリーマンは、吊り革を握りしめたまま直立不動の姿勢を崩さない。紬の後ろに立つ人々も、どれほど電車の揺れに煽られても、決して彼女の肩や背中に触れようとはしなかった。
「……ふう、よかった。今日もみなさん、マナーが良くて助かるな」
紬は吊り革に掴まり、心の中でそっと胸を撫で下ろした。
東京の人は冷たいなんて嘘だ。みんな、こんなに混んでいるのに、小柄な自分が押し潰されないように気を遣ってくれているのだ。日本人の譲り合いの精神、本当に素晴らしい――そう信じて疑わない紬の視線は、スマートフォンに表示されたスケジュール帳に向けられていた。
だが、その穏やかな空気の裏側で、ひとつの「悪意」が鎌首をもたげていた。
紬の背後、二人ほど挟んだ位置にいた脂性の男――毎朝この路線で女性を物色しては痴漢行為を繰り返している常習犯の男が、紬の華奢な背中と、タイトスカートから伸びる細い足首に目を留めたのだ。
(……へへっ、見つけた。めちゃくちゃ上玉じゃん)
男は下卑た笑みを口元に浮かべ、混雑による電車の揺れを装って、じりじりと紬の背後へと擦り寄っていく。周囲の乗客が不自然に空間を空けていることすら、男には「好都合な隙間」にしか見えていなかった。
(誰も見てねえよな……。電車の揺れに合わせて、一気に――)
ガタン、と車両がポイントレールを通過し、大きく横揺れした。
男は体重を預けるようにして、紬の腰へ向けて右手を伸ばした。湿り気を帯びた指先が、紬のジャケットの裾に触れるまで、あとわずか一センチ。
だが、その指先が紬の服の繊維に触れることは、永遠になかった。
――カチリ。
骨と骨が噛み合う、乾いた微小な音が男の耳元で響いた。
「がッ……!?」
男の喉から、空気が漏れるような掠れた悲鳴が漏れた。声にならなかったのは、鳩尾の急所に、誰かの肘が寸分の狂いもなくめり込んでいたからだ。
伸ばしたはずの男の右手首は、黒い革手袋に包まれた万力のような手によって、完全に逆方向へと極められていた。関節技の初歩にして極致――動けば手首の靭帯が断裂し、神経が破壊される完璧な拘束術。
「ひ、ぐ……ッ!?」
激痛と酸欠で男の視界が明滅する。
男の背後に音もなく立っていたのは、黒のワークキャップを目深に被り、仕立てのいいダークグレーのトレンチコートを着た筋骨隆々の巨漢だった。
梶原敦志。
元警視庁警護課(SP)のエリートであり、現在は政財界の要人を顧客に持つ民間警備会社の若き社長。そして――紬の住むマンションの、心優しきお隣さん。
キャップの庇の奥から覗く梶原の瞳には、一切の感情が宿っていなかった。それは人間を見る目ではない。路上に落ちた汚物、あるいは即座に踏み潰すべき害虫を見つめる、絶対零度の光だった。
梶原は極めた手首にさらにミリ単位のトルクをかけながら、男の耳元へ唇を寄せた。その声は、周囲の走行音にかき消されるほど低く、しかし男の鼓膜を直接凍りつかせるほど鋭利だった。
「……動くな。声を出せば、貴様の右腕の神経をその場で引きちぎる」
ヒィッ、と男の喉が鳴った。冗談ではない。本物の暴力の匂い、人を殺し慣れている者だけが放つ死の気配が、男の全身の毛穴から冷汗を噴き出させていた。
「呼吸音を殺せ。あの人の視界を、貴様のようなゴミで汚すな」
梶原は男の右手首を極めたまま、もう片方の手で男の首筋の頸動脈を指先で圧迫した。男の意識が朦朧とし、足から力が抜ける。梶原は倒れ込みそうになる男の体を自らの巨躯で支え、まるで「体調を崩した同僚を介抱する親切な乗客」のような姿勢を完璧に作り上げた。
その間、わずか三秒。
前方を向いていた紬は、背後で自分の命運を分けるような凶行と制圧劇が繰り広げられていたことなど、微塵も気づいていなかった。
「あ、もうすぐ駅に着く」
紬が吊り革を放し、ドアの方へと体を向け直す。
その瞬間、梶原は男を引きずりながら、紬の視線の死角へと滑り込むように後退した。紬の瞳に、不穏な影ひとつ映らせないための、ミリ単位のポジショニング。
プシュー、とドアが開き、乗客たちが一斉に吐き出されていく。
紬は人の波に乗り、軽やかな足取りでホームへと降り立った。「ふう、無事に着いた!」。
その背後で、梶原は意識の半分飛んだ男の襟首を掴み、人通りのない駅構内の非常階段――防犯カメラの死角となっている保守用通路へと、無音のまま引きずり込んでいた。
◇
「……ぐ、あ……な、なんだよお前……警察……警察呼べ……ッ!」
薄暗い非常階段の踊り場に叩きつけられた男が、床を這いずりながら怯えた声で叫ぶ。
梶原は無言のまま、コートの内ポケットから小型のインカムを取り出し、耳に装着した。
『あー、梶原さん? 聞こえてますよー。お疲れさまです』
インカムから流れてきたのは、軽薄なほど明るく、ひどく幼い青年の声だった。
成瀬郁。紬の勤務先で社内システムの保守を請け負っている業務委託の天才エンジニアであり、水面下では世界有数のホワイトハッカーとして名を馳せる男だ。
『駅構内の防犯カメラ四台、および非常階段へ続く通路のセンサー、すでに十秒前からループ映像に差し替え完了してまーす。あと一分十五秒は、そこ、完全なブラックホールだから何しても映らないよ』
「……すまない、成瀬」
梶原が低く答えると、インカムの向こうでカチャカチャと小気味よいキーボードの打鍵音が響いた。
『いいってことよ。それより、その害虫のスマホ、落とさせた?』
「ああ、床にある」
『オッケー、今ブルートゥース経由でトロイの木馬流し込んだ。……うわ、きっしょ。過去の盗撮画像がフォルダにびっしり。位置情報ログと照合して、余罪を全部リスト化完了。ついでにこの男の個人情報、勤務先、実家の住所、銀行口座の残高まで全部抜いたから』
「処理は」
『警察庁のサイバー犯罪対策課のダミーサーバー経由で、所轄の生活安全課に匿名告発パケットを一斉送信したよ。三十分後には、こいつの職場に捜査員が踏み込む手はずになってる。……あ、もちろん、スマホのストレージは紬さんの画像以外、全部不可逆暗号化で物理破壊しといたから。二度と復元できないゴミだよ』
「上出来だ」
梶原は倒れ込んでいる男を見下ろした。男は二人の会話の意味を理解できず、ただガチガチと歯を鳴らして震えている。
「お、お前ら……何者なんだよ……あんな女に、ちょっと触ろうとしただけだろ……!?」
その言葉が出た瞬間、インカムの向こうのキーボード音がピタリと止まった。
『……あ?』
成瀬の声から、先ほどまでの軽薄さが綺麗さっぱり消え去っていた。
『今、なんて言った? “あんな女”? ……梶原さん、そのゴミの舌、根元から引っこ抜いていいよ。僕が救急車の到着時間を二十分遅らせるプログラム組むから、失血死しない程度に痛めつけて』
「……いや」
梶原は静かに靴の先で男の右手の指を踏み躙った。メキ、と鈍い音が響き、男が声のない絶叫を上げてのたうち回る。
「流血は避ける。靴底に血がつけば、あの人の歩く道を汚すことになる」
『あ、そっか。さすが梶原さん、冷静〜。じゃあ、精神的制裁だけで勘弁してあげて』
梶原はしゃがみ込み、脂汗で顔をぐしゃぐしゃにしている男の胸ポケットに、成瀬が事前に偽造した「悪質な反社会的勢力のフロント企業」の名刺をねじ込んだ。
「……お前の名前も、家族の顔も、すべて把握した。次にあの人の半径一キロ以内に現れたら、お前の存在そのものをこの社会から消去する。分かったなら、今すぐこの街から這い出せ」
男は首が折れそうなほど激しく縦に振った。梶原が足を退けると、男は折れた指を抱え、獣のような悲鳴を上げながら非常階段の出口へ向かって転がるように逃げ去っていった。
男の足音が消えると、階段室には再び完全な静寂が戻った。
梶原は胸ポケットから滅菌シートを取り出し、男の手首に触れた革手袋を丁寧に拭き清める。そして、手袋を外した素手で、自らの胸元――ジャケットの内ポケットをそっと触れた。
そこには、以前紬から「引っ越しの挨拶のお返しです」と渡された、市販の焼き菓子の包み紙が、特殊な真空フィルムでラミネートされた状態で大切に収められていた。
「……紬」
無骨な元SPの男の口から、祈るような、熱病に冒されたような微かな呟きが漏れる。
触れたい。抱きしめたい。誰の手も届かない場所へ連れ去り、自分の腕の中だけで一生を過ごさせたい。
だが――そんなことをすれば、彼女は怯える。あの太陽のように眩しい笑顔を失い、恐怖で涙を零すだろう。それだけは、死んでも耐えられない。
彼女が笑っていられるなら、自分は一生、日陰の番犬でいい。
『……梶原さーん? トリップしてないで戻ってきてくださーい』
成瀬の呆れたような声がインカムから響き、梶原はハッと我に返った。
『紬さん、もう地上に出て改札抜けましたよ。今日の天気予報、降水確率ゼロだから傘の配備はいりません。……それと、鷹見副社長から連絡。“今朝の排除ログを精査した。規定通り、接触未遂事案として今夜の会議で共有する”とのことです』
「了解した」
梶原はキャップを目深に被り直し、乱れた息を整えて階段を上り始めた。
◇
秋晴れの心地よい日差しが降り注ぐ、赤坂のオフィス街。
スマートフォンの画面をタップし、地下鉄の改札を軽やかに抜けた紬は、見上げるような高層オフィスビルのエントランスへと足を踏み入れた。
「ふあー、いいお天気! 今日も一日、頑張るぞ!」
両手を小さく伸ばし、満面の笑みを浮かべる紬。
その足元で――紬のスマートフォンが、社内のWi-Fiに自動接続された。
『ピコン』
紬には聞こえない極小のパケット通信音とともに、成瀬の端末から、鷹見、保科、梶原の三人が共有する極秘暗号化チャンネルへ、簡潔なメッセージが送信される。
【ステータス:オールグリーン。害虫1名、処理完了。条約第4条・物理排除の規定時間内です。対象(紬さん)のバイタル正常、ストレス指数ゼロ。本日も世界は極めて平和です】
冷徹なエリート副社長。
天才ホワイトハッカー。
心身を管理する幼馴染の医師。
そして、影から敵を狩る隣人の元SP。
互いの喉元に刃物を突きつけ合い、抜け駆けを絶対に許さない四人の狂人たちが結んだ、奇跡の均衡――【ヤンデレ不可侵条約】。
「今日も世界は優しいな」
無菌室の中心で、無自覚な女神は屈託のない笑みを浮かべ、エレベーターへと乗り込んでいった。




