第16話:新進気鋭の悪徳プロデューサー
二十六歳の誕生日を迎え、周囲から(なぜか全員一律三千円ジャストの)最高級ハンドクリームを四本も贈られるという謎の奇跡から、およそ一週間。
十一月も半ばを過ぎると、街を吹き抜ける風はいよいよ冬の冷たさを帯び始め、通勤途中に見上げる並木道のイチョウは鮮やかな黄色い絨毯を舗道に広げていた。
そんな澄んだ朝、槇原紬は、いつも以上に背筋をピンと伸ばしてオフィスビルのエントランスをくぐり抜けた。
「おはようございます!」
編集部のフロアに足を踏み入れると、デスクを並べる同僚たちから「おはよう、紬ちゃん」「今日も早いね」と温かい声が返ってくる。
今日の紬がこれほど気合を入れているのには、明確な理由があった。
彼女が所属するライフスタイル系WEBメディア『Lumiere』において、今年度最大規模となる大型タイアップ企画が、いよいよ本日から本格始動するのだ。
企画名は『冬の都市を彩る、エシカル&ラグジュアリー・ライフ』。
大手商業施設、高級コスメブランド、そして新進気鋭のインテリアメーカーを巻き込み、紙の特別増刊号とWEB連動記事、さらにはリアルイベントまでを包括する、総予算数億円規模の一大プロジェクト。
そして――その栄えあるメイン編集担当として、先週の編集会議で抜擢されたのが、他ならぬ紬だった。
『槇原さんの企画書は、いつも読者の心に寄り添っていて温かい。数字の根拠もしっかりしているし、この大型連動の顔として一番ふさわしいわ。自信を持ってリードしてちょうだい』
角田元部長の失脚後に着任した温厚な女性部長からの推薦であり、編集長からの満場一致のゴーサインだった。もちろん、紬にとっても編集者人生の中で最大の挑戦だ。プレッシャーがないと言えば嘘になるが、それ以上に「読者のために最高の特集を作りたい」という情熱が胸の奥で心地よく燃えていた。
「紬ー、顔がガチガチよ。深呼吸、深呼吸」
隣の席から、いつものようにオフィスチェアをキャスターごと滑らせて現れたのは、先輩デスクの関茉莉花だった。手には淹れたてのブラックコーヒーを持っている。
「茉莉花先輩! あ、やっぱり顔に出てますか……?」
「出てる出てる。生まれたての小鹿みたいに目が真ん丸になってるわよ。まあ、気持ちは分かるけどね。今日のキックオフミーティングに来る相手、業界最大手の広告代理店『東都エージェンシー』の連中だし」
茉莉花はコーヒーを一口すすり、わずかに眉をひそめた。
「特に、向こうのプロジェクト統括として送り込まれてくるプロデューサー。業界じゃ飛ぶ鳥を落とす勢いの花形らしいけど……なんて言ったかしら、神崎とかいう男」
「神崎さん……ですね。私も事前に経歴を拝見しました。数々のヒットキャンペーンを手掛けていて、カンヌの広告賞も獲ったことがある敏腕の方だとか」
「敏腕なのは結構だけど、悪い噂も絶えない男よ。手柄は全部自分のもの、下請けや若い女性スタッフを私物化する女癖の悪さで有名なんだから。紬、相手がどれだけ大物面してきても、変な圧をかけられたらすぐ私に言いなさいよ。私がボイスレコーダー片手に殴り込んであげるから」
「ふふ、ありがとうございます、茉莉花先輩! でも、仕事の実績は本物の方ですし、私も失礼のないようにプロとしてしっかり向き合ってきます!」
紬は資料の束を胸に抱き、前向きに微笑んだ。
理不尽なトラブルなど、自分の周囲では一度も起きたことがない。真摯に誠意を持って接すれば、きっと相手にも伝わるはず――そう信じて疑わない無垢な心で、紬は午前十時、十階のプレゼンテーションルームへと足を踏み入れた。
――しかし。
その部屋の扉を開けた瞬間から、紬の予想は、悪い意味で大きく裏切られることになった。
◇
ガラス張りの広々とした会議室。
中央の長テーブルの上座に、足を組んでふんぞり返るように座っていたのは、仕立ての良さそうなイタリア製スーツを着崩した三十代前半の男だった。
茶色く染められた髪をワックスで無造作にセットし、日焼けサロン仕込みの浅黒い肌。胸元からはハイブランドのシルバーネックレスが覗き、時計はダイヤが散りばめられた派手なスイス製高級クロノグラフ。
彼こそが、東都エージェンシーの花形プロデューサー――神崎翔吾だった。
「失礼いたします。『Lumiere』編集部の槇原紬と申します。本日はよろしくお願い――」
紬がビジネスの基本通りに腰を折り、名刺入れを両手で差し出そうとした、その時だった。
「おっ、君が噂の担当者?」
神崎は名刺を受け取るどころか、ニヤリと下卑た笑みを口元に浮かべて立ち上がると、無遠慮な足取りで紬の前へと歩み寄ってきた。
そして――
サッ、と紬のパーソナルスペースへ土足で踏み込むと、紬が驚いて身を引く隙すら与えず、その右手を紬の華奢な右肩へと豪快に回してきたのだ。
ガシッ。
「…………っ!?」
紬の身体が、硬直した。
至近距離から漂ってくる、過剰につけられた甘ったるい香水の匂い。
肩を抱き寄せられ、男のスーツの生地越しに生々しい体温と圧力が押しつけられる。初対面の仕事相手に対する挨拶としては、常軌を逸した不躾さと馴れ馴れしさだった。
「へえ、思ってたよりずっと可愛いじゃん! 写真で見るより実物の方が全然いいよ、紬ちゃん」
神崎は紬の肩をぐっと引き寄せ、顔を至近距離まで近づけて囁くように言った。その視線は、紬の目ではなく、胸元や鎖骨のあたりをねめ回すように舐め回している。
「僕さ、堅苦しい挨拶とか大っ嫌いなわけ。これからの時代、大型プロジェクトを成功させるには、クライアントとメディアの担当者が『裸の付き合い』で信頼関係を築かなきゃダメでしょ? 安心してよ、僕と組めばさ、君みたいな地方出身の地味な子でも、業界で一目置かれる一流の編集者に引き上げてあげるからさ」
「あ……あ、あの……神崎さん」
紬は背筋にツツッと嫌な汗が流れるのを感じながら、愛想笑いを必死に顔に張り付け、身を捩るようにして一歩後ずさった。
「お、お褒めにあずかり光栄ですが……まずは本日のアジェンダに沿って、企画の骨子をご説明させていただきたく存じます」
何とか神崎の手を肩から滑り落とし、紬は逃げるようにテーブルの反対側へと回り込んだ。
触れられた肩の感触が、まるでナメクジに這われたかのように気持ち悪くてたまらない。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打っている。
それでも紬は、プロとしての矜持で平静を装い、震えそうになる指先でノートパソコンをプロジェクターに接続した。
「チッ、真面目ちゃんぶっちゃってさ」
神崎は舌打ちを一つ漏らし、気だるそうに椅子に深く腰掛け直した。
「まあいいや。君の企画書、ざっと目を通したけどさ、地味なんだよね。もっとこう、僕が連れてくる芸能人やモデルを派手に使ってさ、僕のネームバリューを前面に押し出す構成に全部書き換えてよ。細かい修正点は、後で二人きりでディナーでも食べながら教えてあげるからさ」
露骨な見下しと、公私混同の誘い。
紬は手元の資料をギュッと握り締め、何とか耐えるように奥歯を噛み締めていた。
――しかし。
紬自身が必死に大人の対応を貫こうとしていた、まさにその瞬間。
会議室の天井の角に設置された、ドーム型の防犯監視カメラ。
その無機質なレンズの奥で、カチリと微かな駆動音が鳴り、部屋全体のコントラストが急速に失われていく。
神崎翔吾という男は、夢にも思っていなかった。
自分が無知と傲慢ゆえに伸ばしたその右手が、この国の頂点に君臨する四匹の怪物の逆鱗を、同時に、完膚なきまでに引きちぎったことなど――。
◇
地下三階、機械管理区画の深淵。
成瀬郁のプライベート・ラボラトリー。
カタカタと小気味よく鳴っていたはずのキーボードの打鍵音が、ピタリと止まった。
静寂。
室温が常時一定に保たれているはずの室内で、空気そのものが凍りつき、床から霜が降りていくかのような絶対零度の殺気が満ちる。
成瀬は、大画面モニターに映し出された会議室のリアルタイム映像を見つめていた。
画面の中では、神崎の手が紬の肩を抱き寄せ、顔を近づけている。
成瀬の瞳から、光が完全に消え去っていた。
それは、怒りや嫉妬といった人間的な感情の揺らぎすら超越した、ただ「存在する価値のない汚物を、この宇宙からいかにして分子レベルで消滅させるか」という純粋な破滅の眼差しだった。
「……あ?」
成瀬の口から漏れたのは、低く、掠れた、獣の唸り声だった。
パキリ。
成瀬が握りしめていたマウスのプラスチック筐体が、握力だけで無惨にひび割れ、破片が床に落ちる。
「触った……? 今、あの薄汚い豚の手が……紬さんの肩に……触れた……?」
カタカタカタカタカタカタカタッ――!!
成瀬は壊れたマウスを投げ捨て、残像すら結ばない超絶的なタイピングで、男四人専用の最高機密ホットラインを開いた。
画面に叩き込まれたテキストは、わずか一行。
【成瀬:条約第1条・不当接触事案発生。対象名、神崎翔吾。……殺す】
送信ボタンが押されたコンマ五秒後。
成瀬のモニターのスピーカーから、地底のマグマが噴き出すような、低く冷たい声が響き渡った。
『待て、成瀬』
三十階、副社長室にいる鷹見征司だった。
鷹見の手元で、スマートフォンが微小に振動していた。
普段は完璧に梳かしつけられている鷹見の黒髪が乱れ、その右手は、胸ポケットの中でプラチナのネクタイピンを親指に深々と突き刺していた。革張りの執務机には、万年筆のペン先が深々と突き立てられ、インクが黒い血のように滲み出ている。
『オフィス内での物理排除は、彼女に拭いきれないトラウマを植え付ける。……血で床を汚せば、彼女の足元が穢れる』
鷹見の声は、静かであればあるほど、その奥底に眠る狂気の質量を物語っていた。
『社会的に解体する。男の誇り、業界での地位、築き上げてきた名声、金、人間関係……そのすべてを灰燼に帰し、二度と人間の言葉を話せない廃人にしてから、地の果てへ放逐する』
そこへ、優雅で、しかしこの世のどんな毒薬よりも冷徹なアルトの声が、クリニックの回線から滑り込んできた。
『ええ、鷹見さんの仰る通りです』
保科貴文だった。
南青山の院長室で、保科はカルテの上に万年筆を走らせながら、氷のように冷え切った笑みを浮かべていた。
『神崎の行動ログ、および紬ちゃんのスマートウォッチのバイタルデータを受信しました。……不当接触の瞬間、紬ちゃんの心拍数は百二十まで急上昇し、末梢血管の収縮と冷汗が検知されています。明確な急性ストレス反応、ならびに精神的侵襲です』
保科はカルテに「重篤なセクシャルハラスメントによる外傷性精神障害の兆候」と即座に走り書きし、公認の医師印をドンと叩き落とした。
『精神的圧迫による自律神経失調の兆候を、カルテに先回りして作成しておきますね。これにより、法務部および司法当局への提出用エビデンスは完璧です。いつでも彼を、精神的加害者として社会の檻へ送り込めますよ』
そして――
回線の最奥から、ガシャリと防弾タクティカルベストの留め金を締める重厚な音が響いた。
『……退勤時の動線をロックした』
梶原敦志の声だった。
すでにマンションを出て、黒塗りの警備車両の中でエンジンをアイドリングさせている元SPの男。その両目は、獲物の喉笛を裂く瞬間の狼のように鋭利に光っていた。
『神崎翔吾。港区六本木三丁目のタワーマンション在住。移動手段は社用車のアルファード。……車両の動線、退勤後の立ち寄り先、すべて掌握した。紬の半径一キロ以内に再び侵入する気配を見せれば、その瞬間に首根っこを押さえる。いつでもやれる』
「よし……」
成瀬は液晶画面の向こうの神崎の顔を睨みつけ、唇を歪めて嘲笑した。
「東都エージェンシーの花形プロデューサー様……。自分の薄汚い手をどこに置いたのか、その頭蓋骨に直接刻み込んであげるよ」
四人の狂人たちの間を繋ぐ【不可侵条約】。
互いの抜け駆けを監視し、足を引っ張り合うための冷戦構造は、外部から「紬を脅かす明確な敵」が侵入した瞬間、世界で最も凶悪で完璧な【共同殲滅システム】へとその姿を変貌させるのだ。
神崎翔吾の社会的命運は、彼が紬の肩に触れたその一秒の時点で、すでに完全な秒読み段階へと突入していた。
◇
午前十一時半、会議室。
「――じゃ、そういうことで。紬ちゃん、企画の修正案、明日の朝までに僕の好みに合わせて直しておいてね」
神崎はノートパソコンを小脇に抱え、上着のボタンを外したまま立ち上がった。
「言っとくけど、僕の基準は厳しいからさ。徹夜してでも完璧なもの持ってきてよ? あ、どうしても困ったら、夜中に僕のホテルに相談に来てもいいからさ。部屋、いつでも開けて待ってるよ」
最後まで品のない笑みを浮かべ、神崎はひらひらと手を振りながら会議室を出て行った。
バタン、と重い扉が閉まる。
「…………っ」
一人残された会議室で、紬は深く、深く溜息を吐き出した。
張り詰めていた緊張の糸が解け、どっと疲労感が押し寄せてくる。
「……はぁ。やっぱり、ちょっと強引な人だなあ」
紬は手元に残された企画書を見つめ、苦笑いを浮かべた。
肩を抱かれた時の不快感や、ホテルに誘うような下品な物言いに、恐怖や憤りが全くなかったわけではない。普通の女性なら、その場で泣き出したり、上司に直訴して担当を降板させてもらってもおかしくないレベルのセクハラだ。
だが、紬はぎゅっと両手で頬を叩き、パッと顔を上げた。
「……ううん! めげてちゃダメだよね!」
紬は大きく息を吸い込み、自分を鼓舞するように小さく呟いた。
「神崎さんは確かに距離感がバグってるし、ちょっと言葉遣いが強引だけど……でも、業界のトップランナーとして、この大型連動にかける熱量があるからこそ、厳しいことを言ってるのかもしれない。せっかく任せてもらった大きなチャンスなんだもん。相手の態度に振り回されないで、企画のクオリティで納得してもらわなきゃ!」
理不尽な悪意すらも、「相手の仕事への熱意の裏返し」と解釈してしまう、筋金入りの天然ポジティブ。
紬はノートパソコンを抱え、軽やかな足取りで会議室を出て行った。
「よし! まずは茉莉花先輩に相談して、修正の優先順位を整理しよう!」
自らの前向きな笑顔の足元で、四匹の怪物が牙を研ぎ澄まし、神崎翔吾の人生を包囲殲滅するための冷徹な包囲網が音もなく完成しつつあることなど、彼女は露ほども知らなかった。
こうして、世界で一番安全な無菌室に侵入した一匹の害虫を巡る、最初の共同防衛戦が幕を開けたのだった。




