第15話:第一回・条約改定会議
十一月の声を聞くと、東京の街はいっそう足早に冬の装いへと移り変わっていく。街路樹の葉がカサカサと舗道を舞い、ショーウィンドウには温かそうなマフラーやブーツが並び始めていた。
そんな木曜日の昼下がり。『Lumiere』編集部の給湯室で、槇原紬は持参したタンブラーにお気に入りのルイボスティーを注ぎながら、ふと思い出したように呟いた。
「あ、そういえば……来週の水曜日、私、誕生日なんだった」
その言葉に、隣でドリップコーヒーを淹れていた先輩デスクの関茉莉花が、目を丸くしてパッと顔を上げた。
「えっ!? 紬、来週誕生日なの!? ちょっと、なんで今まで黙ってたのよ! 二十六歳になるんだっけ?」
「あ、はい。二十六になります! いえ、特に大々的にお祝いするような歳でもないですし、平日ですから普通に仕事かなって思ってて」
「何を言ってるのよ、二十代半ばの誕生日は一大イベントでしょ! よし、編集部のみんなでお祝いしなきゃね。紬、何か欲しいものとかある? プレゼントのリクエスト、今のうちに言っておきなさいよ!」
「ええっ、そんな、気を遣わないでください!」
紬は慌てて両手を振った。その表情には、恐縮と、生真面目な彼女らしい遠慮がにじみ出ていた。
「お祝いの言葉をいただけるだけで本当に十分ですから! 高価なプレゼントとか、ブランド物のアクセサリーなんていただいちゃったら、申し訳なくてどうしていいか分からなくなっちゃいますし……。もし何かいただくとしても、ハンドクリームとか、ちょっとしたお菓子とか、ハンカチみたいな……そう、予算三千円くらいの、使ったらなくなる消耗品が一番気兼ねなくて嬉しいです!」
「三千円の消耗品ねえ……。あんたって子は本当に無欲というか、堅実というか」
茉莉花は苦笑しながら、紬の肩をぽんと叩いた。
「分かったわよ。あんたが重荷にならないような、とびきり可愛いハンドクリームでも見繕っておくわ。楽しみにしてなさい!」
「ふふ、ありがとうございます、茉莉花先輩!」
紬は屈託のない満面の笑みを浮かべ、タンブラーを胸に抱えてスキップ混じりの足取りでデスクへと戻っていった。
――しかし。
給湯室の換気扇のダクト内部に仕込まれた、超高感度の指向性集音マイク。
そのマイクが紬の「来週、私、誕生日なんだった」という発言を捉えたコンマ一秒後、都内の複数の地点で、震度七クラスの激震が同時に走っていた。
◇
同日、午後十時。六本木『ザ・クラウンタワー東京』最上階プレジデンシャル・スイート。
バァァァァァァンッッ!!
重厚な防音扉が、まるで破城槌で打ち破られたかのような凄まじい音を立てて開け放たれた。
室内に足を踏み入れた四人の男たちの纏う空気は、先週までの「冷戦」などという生ぬるい言葉では表現できない、完全に「最終戦争」の様相を呈していた。
部屋の中央に置かれた黒檀の巨大ラウンドテーブル。
そこに、四つの影が殺気を剥き出しにして対峙する。
「……定刻だ」
口を開いたのは、スリーピーススーツのネクタイを乱暴に引き抜き、襟元をはだけさせた鷹見征司だった。
普段の理知的で冷徹な副社長の仮面は完全に剥がれ落ち、切れ長の瞳の奥には血走った狂気の炎がギラギラと渦巻いている。
「これより、【第百四十五回・臨時安全保障サミット】兼【第一回・誕生日プレゼント条約改定会議】を開会する」
鷹見はドスン、と机の上に一つのベルベット張りの黒いケースを叩きつけた。
バネ仕掛けのフタがパカッと開き、室内のシャンデリアの光を反射して、息を呑むような極彩色の輝きが部屋を満たす。
それは、世界最高峰のジュエラー『ハリー・ウィンストン』に鷹見が特注で作らせた、五カラットの最高等級フローレス・ブルーダイヤモンドを中央に配したプラチナネックレスだった。
「……推定価格、八億四千万円」
鷹見は恍惚とした表情で、その宝石を見つめた。
「彼女の二十六年の歩みを讃え、今後の我が鷹見グループの総帥夫人としての座を約束するにふさわしい、唯一無二の至宝だ。すでにスイスの金庫からプライベートジェットで空輸させた。彼女の首元を飾るのは、これ以外にあり得ない」
「正気ですか、この資本主義の権化が!!」
保科貴文が、バンッと机を両手で叩いて立ち上がった。
普段の仏のような微笑みは消え去り、銀縁眼鏡を激しく光らせながら、胸ポケットから一枚の金箔押しのチケットを突き出す。
「八億のダイヤなど渡してみろ! あの生真面目な紬ちゃんが『盗品ですか!?』と恐怖して警察へ駆け込む姿が目に見えるようです! プレゼントとは、対象の心身を癒やし、健康を増進させるものでなくてはならない!」
保科が机に叩きつけたのは、スイス・アルプスの最高峰に位置する、門外不出の超富裕層専用再生医療スパの『永久フリーパス』だった。
「世界最高峰の専属医師団による遺伝子レベルのデトックスプログラム、ファーストクラス往復航空券、およびアルプス山麓の特等スイート終身利用権! これこそが、日頃の激務で疲弊した紬ちゃんの自律神経と細胞を極限まで若返らせる至高の贈り物です!」
「バッカじゃないの!? どっちも完全にピントがズレすぎ!!」
成瀬郁が、パーカーの袖をまくり上げ、自作のノートパソコンをデスクの中央へ滑り込ませた。
モニターの横に置かれていたのは、手のひらサイズのマウスのような、美しい流線型を描くチタン合金製の特注ガジェットだった。
「ダイヤなんてただの炭素の結晶だし、スイスに行ったら紬さんと何日も会えなくなるじゃん! 僕がプレゼントするのはこれ! 僕が半年かけてゼロから開発した、世界に一台だけの【紬さん専用超高機能AIアシスタント・コンパニオンデバイス】!!」
成瀬は狂ったように早口でまくし立てた。
「筐体は航空宇宙規格のドライカーボンとチタン合金! 内部には量子暗号通信プロセッサを搭載し、紬さんの自宅の全スマート家電、オフィスのPC、街中の防犯カメラと自動連携! 紬さんが『ちょっと喉が渇いたな』と呟くだけで最適な温度の飲み物を自動発注し、周囲の不審者を半径五十メートル手前で自動検知して電磁パルスでスマホをクラッシュさせる、世界最強の自律型守護デバイスだよ!!」
「成瀬……貴様」
鷹見の目が据わった。
「そのデバイスにかこつけて、彼女のプライベートな吐息や寝言を二十四時間リアルタイムで盗聴・録音する魂胆だろう」
「ギクッ……!? な、何のことですか!? これは純粋なセキュリティ機能であって、僕のローカルストレージに紬さんのくしゃみ音コレクションフォルダが生成されるのは完全に技術的な不可避の副産物ですーだ!!」
「貴様……万死に値する変態め!」
「八億のダイヤで囲い込もうとしてるアンタに言われたくないね!!」
罵声が飛び交う中、それまで部屋の隅で腕を組み、彫像のように沈黙を守っていた梶原敦志が、重い足取りで一歩前へ進み出た。
ズゥン……と床がきしむ。
梶原は無言のまま、背中に背負っていた大きな黒いダッフルバッグのジッパーを開け、中から漆黒の分厚いコートを取り出してテーブルの上に置いた。
ドサッ、と異様な重量感を伴った鈍い音が響く。
「……これだ」
梶原の低く太いバリトンボイスが、室内の喧騒を圧殺した。
「軍用規格の超高密度ケブラー繊維、ならびにアラミド複合装甲プレートを内蔵した、特注防弾・防刃・防爆・耐火トレンチコートだ」
「「「…………は?」」」
三人が同時に固まった。
「重量はわずか四・八キログラム」と梶原は至極真面目な顔で続けた。
「ゼロ距離からのマグナム弾の直撃に耐え、軍用ナイフの刺突を完全に弾き、火炎瓶の直撃を受けても内部温度を平熱に保つ。ポケットには消音麻酔針発射機構、ならびに超小型煙幕弾が二発ずつ内蔵されている。……これを羽織れば、いかなるテロリストや暴徒が街を襲撃しようとも、あの人の肉体は無傷で生還できる」
「重いわボケェェェェェェッ!!!!」
成瀬が頭を抱えて絶叫した。
「四・八キロ!? 紬さんの体重の何分の一だと思ってんの!? そんな歩くトーチカみたいな重金属コート着せたら、五歩歩いただけで紬さんの肩が脱臼して腰椎ヘルニアになるわ!!」
「……筋力トレーニングを行えば問題ない」
「紬ちゃんに軍隊の基礎訓練を強要する気ですか、この筋肉ダルマは!!」
保科が唾を飛ばして叫ぶ。
「だいたい、デザインが無骨すぎます! あんな漆黒の殺し屋みたいなコートを着てオフィスに出社できるわけがないでしょう!」
「……機能美だ。命を守ること以上に優先される装飾などない」
「あるわ!! 女の子にはお洒落というものがあるんだよ!!」
八億円のブルーダイヤ。
スイスの超高級再生医療スパ。
盗聴機能付きの量子暗号AIデバイス。
そして、五キロ近い防弾トレンチコート。
四人の怪物が持ち寄った「至高の愛の結晶」は、どれ一つとして常人の感覚にカスリすらしていなかった。
そして、互いのプレゼンを完全に否定し合った結果、残されたのは――純度百パーセントの、剥き出しの殺意だった。
「……私のダイヤを拒絶するというのなら」
鷹見の右手が、机の上のペーパーナイフを逆手に握り直した。
「貴様らのそのゴミのような提案を、物理的にこの世から消去するまでだ」
「やってみなよ!」
成瀬が両手の指をパキパキと鳴らし、ノートパソコンのエンターキーに爪を立てる。
「アンタたちの個人銀行口座、スイスのオフショア口座、ついでにクリニックの電子カルテサーバーにウイルスを一斉着弾させて、今夜中に全員無一文の犯罪者にしてあげる!!」
「ふふ……成瀬くん、君の心臓のペースメーカー(※成瀬は健康体だが比喩)に過電流を流す準備はいつでもできていますよ」
保科が白衣のポケットから、キラリと銀色に光る特大の注射器を抜き放った。
「全身の筋肉を二秒で弛緩させ、明日の朝まで一歩も動けないようにしてあげましょう」
「……邪魔をするなら、全員へし折る」
梶原が無言で腰のホルスターから、バチバチと青白い火花を散らす百二十万ボルトのスタンガンを引き抜いた。
チィン! バチバチッ! カタカタカタッ!
四つの狂気が極限まで膨張し、互いの喉元に凶器が突きつけられた。部屋の気圧が下がり、空気が焦げ付くような凄まじい緊張感。
誰かが息を吸った瞬間に、四人が相打ちとなって全滅する――まさにその刹那だった。
ガッシャアアアアアアアアアアアンッッッッ!!!!
カウンターの奥で、ステンレス製の大型シェイカーが凄まじい力で壁に投げつけられ、鏡を派手に叩き割って床を転がった。
「「「「…………っ!?」」」」
四人の動きが、彫像のようにピタリと静止した。
カウンターの向こうで、チーフバーテンダーの九重圭が、首の蝶ネクタイを引きちぎり、両手で激しく胃を押さえながら、般若のような形相で肩を上下させていた。
その額には青筋が血管浮き彫りになり、顔色は土気色を通り越してどす黒い紫に染まっている。
「……お前ら……ええ加減に……せえよ……ッ!!」
地獄の業火のような、凄まじい怒声が九重の喉から轟いた。
「店内で! 凶器を! 出すなと! 先週も! 言ったばかりでしょうがァァァァァァッッ!!」
九重はカウンターを飛び越える勢いでラウンドテーブルへ詰め寄ると、鷹見のナイフ、成瀬のPC、保科の注射器、梶原のスタンガンを、素手で次々と弾き飛ばした。
「胃が……! 私の胃壁が、今まさに十二指腸ごと破裂した音が聞こえたんですよ……ッ! 八億のダイヤ!? スイスのスパ!? 軍用AI!? 防弾コート!? 頭が沸いてるんですかあんたたち!! 小学生でもそんなプレゼント選びませんよ!!」
「九重……しかし彼女の誕生日だぞ……」
「うるさい鷹見征司!! あんたが一番重症だ!!」
九重はカウンターの下から特大ボトルの液体胃腸薬を掴み出すと、ラッパ飲みで一気に半分ほど喉へ流し込んだ。
ゴク、ゴク、ゴク、と荒々しい音。
「ハァ……ハァ……ッ! だいたいねえ! あの子が給湯室でなんて言ったか、成瀬くんの集音ログをちゃんと聞いたんですか!?」
「え……?」と成瀬が目を瞬かせる。
「『高価なプレゼントは気を遣うから困る』! 『ハンカチとかお菓子みたいな、三千円くらいの消耗品が一番嬉しい』! そう言ったでしょうが!! 日本語が理解できないんですか、このエリート崩れ共は!!」
九重の痛烈極まる正論の鉄拳に、四人の怪物が、まるで雷に打たれたように息を呑んだ。
「紬ちゃんは……三千円の……消耗品を……?」
鷹見の膝がガクリと折れかけた。
「八億円ではなく……三千円……? そんな……私の愛の総量の、何億分の一だというのだ……」
「僕のAIデバイスも……受け取ってもらえない……?」
成瀬が涙目になって床にへたり込む。
「……五キロのコートは、重いのか……」
梶原が呆然と自らの拳を見つめる。
圧倒的な絶望が部屋を支配した、その時だった。
カツ、カツ、カツ。
静まり返ったスイートルームに、冷徹で規則正しいヒールの音が響いた。
開け放たれた扉から入ってきたのは、手帳を胸に抱え、完璧なポーカーフェイスを保った秘書――佐伯千冬だった。
「副社長。そして皆様。……見苦しい茶番劇は、そこまでにしていただきましょうか」
「千冬……」
千冬は机の上に散らばったダイヤや防弾コートを一瞥し、深々と、心の底から呆れ果てた溜息を吐き出した。
「本当に、知能指数だけが高くて情緒が幼稚園児並みの集団ですね。皆様の脳内メモリを一度フォーマットして差し上げたいくらいです」
千冬は手帳を開き、凛とした声で全員を見渡した。
「紬様のお言葉は絶対です。彼女が『三千円以内の消耗品』と仰った以上、それ以外の選択肢は存在しません。もし誰かが一円でも高いものを渡せば、彼女は重荷に感じ、あなた方を『空気が読めない迷惑な人』として認識するでしょう。……それでよろしいのですか?」
「「「「…………っっ!!」」」」
四人の背筋が、恐怖で一斉に凍りついた。
嫌われる。迷惑がられる。それだけは、死んでも避けなければならない。
「そこで、私から妥協案……いえ、【新条約・誕生日協定】を提示いたします」
千冬は万年筆を抜き、机の中央に一枚の合意文書を置いた。
「条項は極めてシンプルです」
第1条:プレゼントの購入金額は、税込【3,000円以内】を厳守すること。一円の超過も認めない。
第2条:品目は、紬様が仰った『消耗品(消えモノ)』に限る。
第3条:プレゼントは直接手渡し、または正規のルートで届けること。抜け駆けや裏工作による不当な加点は禁止とする。
第4条:本協定に違反し、高額な贈答品を強行した者は、残る三名および本調停委員会によって、社会的・物理的に完全に抹殺する。
「……以上です。異論はございますか?」
千冬の冷徹な宣告に、室内に重苦しい沈黙が落ちた。
三千円。
彼らにとって、それは鼻紙を買うのにも足りないほどの端金だった。
しかし――その「三千円」という極限の制約の中でこそ、誰がもっとも彼女を理解し、彼女の心を掴むことができるかという、かつてない高度な知能戦が課せられたのだ。
「……面白い」
鷹見が立ち上がり、不敵な笑みを浮かべた。
「三千円という枠の中で、我が鷹見グループの審美眼の極致を見せてやろう」
「僕だって負けませんよ」成瀬が眼鏡を押し上げ、不気味に目を細める。「テクノロジーの粋を集めた三千円をお見せします」
「医学的な最適解は、僕が導き出します」保科が穏やかな笑みを取り戻す。
「……任務を遂行する」梶原が低く唸る。
四人は万年筆を取り、千冬の提示した協定書に、己の血のような署名を力強く書き殴った。
こうして、血で血を洗う「第一回・条約改定会議」は、奇跡的な妥協をもって幕を閉じたのだった。
◇
そして――翌週の水曜日。
十一月十一日、槇原紬の二十六歳の誕生日当日。
雲ひとつない秋晴れの朝、紬は「今日で二十六歳かあ。一年って本当にあっという間だな」と、少しだけ特別な気持ちでオフィスへ出社した。
「おはようございます!」
元気に挨拶をして自分のデスクへ向かった紬だったが、足を踏み入れた瞬間、その足がピタリと止まった。
「……え?」
紬のデスクの真ん中に、異様な光景が広がっていた。
整然と、寸分の狂いもなく等間隔で並べられた、四つの小さなギフトパッケージ。
大きさも形もほぼ同じ。そして、そのすべてに添えられたカードを恐る恐る確認した紬は、目を白黒させて固まってしまった。
一つ目。
鷹見副社長の専属秘書・佐伯千冬から「役員会からの福利厚生の一環です」と手渡された、南仏プロヴァンスの老舗オーガニックブランドの特注ハンドクリーム。
『樹齢百年のオリーブオイルと野生のシアバター配合。定価:税込3,000円』。
二つ目。
社内エンジニアの成瀬郁が「アンケート協力のお礼です!」と真っ赤な顔で置いていった、最新ナノカプセル浸透型・無香料高保湿ハンドクリーム。
『肌の水分量を二十四時間維持するバイオナノコーティング処方。定価:税込3,000円』。
三つ目。
幼馴染の保科貴文から「定期健診のアフターフォローだよ」とクール便で届いた、院内調剤のオーガニック生薬配合ハンドクリーム。
『皮膚常在菌のバランスを整えるヘパリン類似物質配合。定価:税込3,000円』。
そして四つ目。
今朝、マンションのエントランスを出た瞬間、隣人の梶原敦志が無言で「……作りすぎた。使ってくれ」と差し出してきた、老舗馬油専門店の手作り生ハンドクリーム。
『北海道産無添加純馬油百パーセント。防腐剤完全不使用。定価:税込3,000円』。
「…………」
紬は椅子に腰を下ろすこともできず、机の上に綺麗に並んだ四本のハンドクリームを見つめ、呆然と立ち尽くしていた。
一、二、三、四本。
全部、ハンドクリーム。
全部、価格がぴったり「三千円」。
「お、おはよう紬ー! 誕生日おめで……って、ちょっと待ちなさいよ何これ!?」
出社してきた関茉莉花が、紬のデスクを見て手に持っていたカフェラテを吹き出しそうになった。
「な、なんなのこのハンドクリームの整列は!? なんで全部三千円の最高級ハンドクリームが四本も召喚されてるわけ!? あんた、手のひら何枚あると思われてるのよ!?」
「わ、私にもさっぱり分かりません……!」
紬は両手を頬に当て、パチパチと瞬いた。
だが――次の瞬間。
四本のハンドクリームを愛おしそうに見つめた紬の顔に、まるで春の陽光が降り注いだかのような、とびきり眩しい笑顔が咲き誇った。
「でも……っ!」
紬は四本のチューブを両手で抱きしめるようにして、胸元にぎゅっと引き寄せた。
「私、先週給湯室で『三千円くらいのハンドクリームが嬉しいな』って、茉莉花先輩とお話ししたばかりだったんです! きっと、みんな私の手が荒れやすいのを心配して、偶然、一番いいものを選んでくれたんだ……!」
「……偶然で片付けていい奇跡じゃないと思うんだけどね!?」
「嬉しいなあ……! 朝用、昼用、夜用、お出かけ用で使い分ければ、一年中手がすべすべになっちゃいます! 私の周りの人たちって、どうしてこんなに私の好みを分かってくれて、優しい人ばかりなんだろう……!」
純度百パーセントの、神々しいまでの感謝と多幸感。
その笑顔を、オフィスの監視カメラ越しに、役員室のモニター越しに、クリニックのタブレット越しに、そしてマンション前の警備車両越しに見つめていた四人の怪物は――
全員がそれぞれの場所で、机に突っ伏し、顔を手で覆いながら、声にならない至福の悶絶を噛み締めていた。
((((紬……っ! 喜んでくれた……! 生きててよかった……ッ!!))))
誰一人として抜け駆けせず、誰一人として彼女を怖がらせることなく、完璧に達成された「誕生日の無菌室」。
彼女の足元で、四人の悪魔たちが今日も命がけで理性のナイフを研ぎ澄ませていることなど、二十六歳を迎えた槇原紬は、まだ知る由もない。
今日も世界は、ちょっと騒がしくて――そして、とびきり優しかった。




