第14話:カフェの志乃さんの観察眼
秋風がイチョウの葉を金色に散らす土曜日の午後四時。
港区の閑静な住宅街の一角、コンクリート打ち放しのデザイナーズマンションの一階に、木製の小さな吊り看板が揺れていた。
『Book & Cafe 月白』。
大きなガラス窓に面した店内には、壁一面のオーク材の本棚に旅、建築、暮らし、写真集などの古書が美しくディスプレイされ、焙煎されたばかりの深煎り珈琲の香ばしい薫りが満ちている。街の喧騒から隔絶されたその空間は、都会の真ん中にぽっかりと空いた隠れ家のような静寂を湛えていた。
店外に設けられたウッドデッキのテラス席。白い丸テーブルの前に腰掛けた槇原紬は、両手で抱えた厚手のマグカップをそっと口元へと運んだ。
「……はぁ、美味しい」
ぽつりとこぼれた吐息とともに、温かな湯気が立ち上る。
きめ細かくスチームされたフォームミルクの上に、繊細なリーフのラテアートが描かれた特製カフェラテ。エスプレッソの芳醇な苦味と、濃厚なミルクの甘みが舌の上で溶け合い、冷えかけた喉をじんわりと温めていく。
「ふふ、お口に合ったようでよかったわ」
穏やかな声とともに、ガラス扉を開けてテラス席へ姿を現したのは、店主の及川志乃だった。
リネンのロングエプロンを身に纏い、肩口で緩く束ねた艶やかな黒髪に、落ち着いた大人の色香を漂わせる四十二歳の女性。目尻に刻まれた柔らかな笑い皺と、すべてを包み込むような深い瞳は、訪れる客たちの強張った心を自然とほどいてしまう不思議な包容力を持っていた。
「志乃さん! はい、もう最高に美味しいです。志乃さんのコーヒーを飲むと、一週間の疲れが全部吹き飛びます」
「まあ、嬉しいこと言ってくれるのね。紬ちゃんがそうやって美味しそうに飲んでくれるのが、淹れ手として一番の幸せよ」
志乃はトレイを抱え、紬の向かいの椅子に腰を下ろすことなく、ふわりと微笑んだ。
「今週もお仕事、忙しかったんじゃない? なんだか週の頭には、編集部で大きなトラブルがあったって噂を風の便りに聞いたけれど」
「あ、それ……もしかして私の記事についたクレーマーのことですか?」
紬は苦笑いを浮かべ、カップをソーサーに戻した。
「そうなんです。月曜日に、私の書いたルームリセットの記事に、すごく怖い脅迫コメントが連投されちゃって……一瞬だけ本当に背筋が凍ったんですけど。でも、うちの会社のIT部門と法務部がものすごいスピードで動いてくれたみたいで、三十分も経たないうちに相手が謝罪してアカウントごと消滅しちゃったんです!」
「……三十分で」
志乃の細い眉が、ピクリとわずかに動いた。
「ええ、本当に! 私、通報の手続きすらしてなかったのに、社内の監視AIが即座に検知してくれたらしくて。本当にうちの会社って、見えないところで社員を徹底的に守ってくれる素晴らしい会社なんですよ。私、やっぱりものすごく運が良いんだと思います」
曇りのない、満開の笑顔。
その顔を見つめながら、志乃は心の中で(……まあ、社内の監視AIなんて生ぬるいものじゃないでしょうけれどね)と、苦笑混じりの溜息を飲み込んだ。
志乃は知っているのだ。
このマンションの四階に住む無垢な少女の周囲で、一体どれほど規格外の狂気と、どれほど桁外れの資本力を持った男たちが、水面下で暗躍しているのかを。
「……そう。何事もなくて本当によかったわ。でもね、紬ちゃん。世の中にはいろんな人がいるから、夜道だけは気をつけるのよ? いくら治安の良い港区でも、油断は禁物なんだから」
「はい! ありがとうございます、志乃さん。あ、そろそろ部屋に戻って、洗濯物を取り込まなきゃ。ごちそうさまでした!」
紬は伝票を手に立ち上がり、店内のレジで会計を済ませた。
「志乃さん、また来週も来ますね!」
「ええ、いつでも待ってるわ。良い週末をね」
紬は手を振り、マンションのエントランスへと向かって軽やかに歩き去っていった。オートロックの重厚なガラス扉が開き、紬の華奢な背中が吸い込まれ、完全に施錠される。
その瞬間まで、志乃はテラス席のデッキに立ち、じっと彼女の背中を見届けていた。
そして――
エントランスの照明が一段階落ち、周囲に完全な静寂が戻ったのを見計らったように、志乃はくるりと踵を返した。
視線を向けたのは、テラス席のすぐ脇――道路を挟んだ向かいにある、電柱とビルの隙間の細い路地裏。夕暮れの濃い影が落ちるその暗がりへ向けて、志乃は呆れたような、しかしどこか慣れきった声で語りかけた。
「……いつまでそこに突っ立ってる気? 出てきなさいな、梶原さん」
◇
ざわり、と路地裏の落ち葉が鳴った。
影の中から、音もなく姿を現したのは、黒いキャップを目深に被った巨漢――要人警護会社社長にして元警視庁SP、梶原敦志だった。
鍛え抜かれた肉体は、仕立てのいい黒のミリタリージャケットに包まれている。一切の無駄な足音を立てず、まるで闇そのものが凝固して歩き出したかのような足取りで、梶原はテラス席の植え込みの前まで進み出てきた。
志乃は手元のトレイから、あらかじめ用意してあったテイクアウト用の紙コップを差し出した。中には、氷がカランと音を立てる、深煎りのブラックアイスコーヒーが入っている。
「はい、アイスコーヒー。……あんた、今日もテラス席の植え込み越しに、ずっと紬ちゃんを見てたでしょ。電柱の陰から微動だにしないで、一時間十五分。近所の人に見られたら、即座に不審者で通報されるわよ」
「…………」
梶原は無言のまま、深く一礼した。
そして、手袋を外した大きな手で、恭しく両手で紙コップを受け取った。
「……通報はされない。周囲百メートル以内の通行人の動線、視線の交差角、街頭防犯カメラの死角はすべて計算済みだ。俺の位置は、光学的・心理的に『認識されない死角』として完全に偽装されている」
「はいはい、元SPの専門用語は結構よ」
志乃は小さく肩をすくめ、エプロンのポケットに手を突っ込んだ。
「さっきも言ったけど、あの子が珈琲を飲んでる間、あんたのその鋭い目つき、完全に獲物を狙う大型の猛獣だったわよ。もしあの子がふと振り返ってあんたの顔を見たら、驚いて腰を抜かしてたわ」
「……あの人が振り返る予兆は、首の筋肉の微小な弛緩から二秒前に察知できる。その刹那に、電柱の裏へ完全遮蔽していた。視界に入った確率はゼロパーセントだ」
「そういう問題じゃないのよ……」
志乃は額を押さえ、深々と溜息を吐き出した。
だが、梶原は眉ひとつ動かさず、アイスコーヒーのストローをくわえることもなく、低いバリトンボイスで淡々と続けた。
「……それと、排除の報告だ」
「排除?」
「十五分前、テラス席の紬を、酒気を帯びた男二名が遠巻きに品定めするように凝視していた。スマートフォンのカメラを向ける予兆を検知したため、路地の角へ回り込み、音もなく首筋の神経を圧迫して無力化した。……所轄の生活安全課のパトロールカーを遠隔誘導し、職務質問を受けさせて街から退去させた。害虫の視線が、あの人の肌に届くことは防いだ」
「……あなたいつも、そんな物騒なことをサラッとやってのけるのね」
志乃は呆れ果てながらも、内心で舌を巻いていた。
志乃が経営するこのブックカフェ『月白』は、マンションの一階という立地上、紬の生活動線の文字通りの「玄関口」に位置している。そして、隣室に住む梶原が、夜な夜なマンションの配管室や屋上、外階段を点検し、紬の生活圏の安全を異常なまでの執念でパトロールしている姿を、志乃は数ヶ月前から目撃していた。
最初は、新手の凶悪なストーカーかと思い、警察へ通報しようとしたものだ。
しかし――接触を試みて会話を重ねるうちに、志乃はこの大男の「真実」を理解してしまった。
この男は、紬に危害を加える気など微塵もない。
触れたい、自分のものにしたいという常軌を逸した執着を抱えながらも、「彼女に嫌われたり怯えられたりしたら死ぬ」という恐怖のあまり、指一本触れることすら自らに禁じ、影から害虫を狩り続けるだけの、哀れなほど不器用な「番犬」なのだと。
「……まあいいわ。あの子が嫌な思いをせずに済んだのなら、店主としても礼を言うべきかしらね」
志乃はカウンターの奥から、あらかじめ包んでおいた小さな風呂敷包みを取り出し、テラスの柵越しに梶原へと手渡した。
「ほら、これ。頼まれていたものよ」
「……これは」
梶原の手が、ピクリと止まる。
「今週の初めに、あんた相談に来たでしょう? 『紬に渡すお惣菜のレパートリーを増やしたいが、どのような煮物が適切か』って。……あの子、実家が地方だから、根菜の素朴な味が好きなのよ。だから、蓮根とごぼうのきんぴら、それからひじきの煮物の下味をつけた特製の出汁パックを作っておいたわ。塩分は、あんたが以前口酸っぱく言っていた『〇・七パーセント』にきっちり合わせてあるわよ」
「…………っ」
梶原の瞳が、かすかに揺れた。
あの屈強な元SPの男が、まるでご褒美の骨をもらった大型犬のように、耳元をわずかに赤らめ、風呂敷包みを両手で抱きしめるように受け取ったのだ。
「……感謝する。及川殿の知見には、常に助けられている」
「及川殿ってやめなさいな、時代劇じゃないんだから。志乃さんでいいわよ」
志乃が笑うと、梶原は居住まいを正し、深々と頭を下げた。
「……出汁の配合比率、ならびに加熱時間のプロトコルは、メモに記されている通りに寸分違わず再現する。あの人の血圧と消化器系に、微塵の負担もかけないことを約束する」
「はいはい。あの子に渡す時は、『実家から野菜が届いて作りすぎた』って嘘、ちゃんと上手に言いなさいよ? あんた顔が怖いんだから、変に緊張して睨みつけたらダメよ」
「……善処する。前回の肉じゃがの際も、表情筋の弛緩トレーニングを十五分間行ってからインターホンを押した。問題はない」
「十五分もエレベーターホールで顔の体操してたの……? 余計に怪しいわよ……」
志乃は天を仰ぎ、こめかみを押さえた。
しかし、目の前で風呂敷包みを宝物のように抱える梶原の姿を見ていると、どうしても完全には突き放せない。
世間一般から見れば、間違いなく常軌を逸したヤンデレであり、重度のストーカー予備軍だろう。だが、その根底にあるのは、己の欲望を満たすことではなく、対象の幸福と平穏を世界の何よりも優先するという、歪で、純粋すぎる献身だった。
「……梶原さん」
「何だ」
「あの子の周り……あんただけじゃないんでしょう?」
志乃の静かな問いかけに、梶原の身体が微かに強張った。
「この前、あの子が嬉しそうに話していたわよ。会社の副社長から幻のカヌレをもらったとか、年下の可愛いエンジニアがルーターを直してくれたとか、幼馴染のクリニックの先生がよく効く漢方を出してくれたとか……」
志乃は目を細め、夜の帳が下り始めた赤坂の街を見つめた。
「全員、あんたと同じなんでしょう? あの子に常軌を逸した執着を抱いて、裏で結託して、あの子の周りを『無菌室』にしてる……そうね?」
「…………」
梶原は沈黙を守った。だが、その沈黙こそが肯定の証拠だった。
「……不可侵条約だ」
重く、擦れた声が梶原の口から漏れた。
「誰か一人が欲望に負けて暴走すれば、あの人の世界は崩壊する。あの人の笑顔を奪う者は、たとえ同盟者であっても全員で抹殺する。……それが、俺たちが結んだ唯一の均衡だ」
「……やっぱりね」
志乃はふっと息を漏らし、寂しげに微笑んだ。
「あの子の周りの男たちは、どいつもこいつも重症ね。大企業の副社長に、天才ハッカーに、名医に、元SP……社会的地位も頭脳も腕力もトップクラスの男たちが揃いも揃って、たった一人の平凡で真面目な女の子の笑顔のために、裏で必死にナイフを突きつけ合って理性を保ってるなんて。マンガの読みすぎかと思うわよ」
「……滑稽に見えるか」
「いいえ」
志乃は首を横に振った。
「滑稽だけど……少しだけ、羨ましいわね。それほどまでに誰かを純粋に、狂おしいほどに大切にできるなんて、大人の男にはなかなかできないことよ」
志乃はテラス席の柵に寄りかかり、梶原の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「だからね、梶原さん。私も少しだけ、目をつぶってあげるわ。あんたたちのその異常な連携プレー……あの子が心から笑っていられる日常が続く限りは、警察に通報したり、あの子に余計な告げ口をしたりはしない」
「……及川殿」
「ただし!」
志乃は人差し指をピシッと立て、梶原の鼻先へ突きつけた。
「もしあんたたちの誰か一人が箍を外して、あの子を泣かせたり、怖がらせたり、自由を奪おうとしたら……その時は容赦しないわよ。私、こう見えても昔はちょっとした情報屋の真似事をしてたの。あんたたちのその完璧な包囲網、内側から全部バラして、あの子を連れて誰も知らない街へ逃げてあげるからね」
大人の女性としての、凛とした覚悟の籠もった警告。
梶原は息を呑み、やがて――口元をわずかに引き結び、深く頭を垂れた。
「……承知した。その警告、条約の最重要監視事項として心に刻む。あの人を泣かせる者がいれば、それが俺自身であっても、即座に自らを処刑する」
「はいはい、重いわよ返答が。ほら、もう暗くなってきたから早く部屋に戻りなさい。あの子がベランダに出る時間でしょう」
「……っ! 失礼する!」
梶原は風呂敷包みと紙コップを抱え、まるで命令を受けた軍隊のように踵を返すと、エントランスの通用口へと足早に消えていった。
その背中は屈強そのものだったが、どこか小走りで慌てている様子が、やはり飼い主の元へ駆け戻る大型犬を思わせて、志乃の口元から小さなくすくす笑いが零れた。
◇
路地裏に再び静寂が戻る。
志乃は冷え始めたテラス席のテーブルを丁寧に拭き上げ、空になったマグカップをトレイに乗せて店内へと戻った。
カウンターの奥で、自分用のブレンド珈琲をハンドドリップで淹れ直す。ポタポタと落ちる黒い雫が、ガラスサーバーの中に満ちていく。
「……ふう」
カウンターの椅子に腰掛け、カップから立ち上る湯気を眺めながら、志乃はひとりごちた。
「無菌室、ねえ……」
志乃は天井を見上げた。
このビルの四階の部屋では今頃、紬が鼻歌交じりに洗濯物を取り込み、のんびりと週末の夕食の準備をしているはずだ。
自分が世界で一番安全な鳥かごの中に守られていることなど、夢にも思わずに。
そして、その真横の部屋では、先ほどの屈強な大男が、出汁の分量をミリグラム単位で計量しながら、必死に不器用な手料理を仕込んでいるのだろう。
「まったく……あの子が無自覚な女神なら、あいつらは間違いなく狂信者の信徒ね。でも……」
志乃は珈琲を一口すすり、優しく目を細めた。
「あの子が笑っているなら、それもひとつの世界の形かしらね」
夜の港区の空に、ぽつりと一番星が瞬き始めていた。
張り巡らされた見えない結界の内側で、今日もまた、誰一人として傷つくことのない奇妙で平和な夜が、穏やかに始まろうとしていた。




