第9話:笑顔を呼ぶ、異世界の特製煮込みと照り焼き
市場から戻った翌朝、水瀬葵はベッドの中でぼんやりと天井を見上げていた。
昨日買い込んだ野菜や肉が、ストレージの中でひんやりと出番を待っている。
(せっかく良い食材が揃ったんだもの。マルタさんに、ちゃんとしたお礼がしたいわ)
隣のベッドで伸びをしていた琴音が、その気配に気づいて顔を覗き込んできた。
「お母さん、何か考え事?」
「ふふ、今日はマルタさんに手料理を振る舞おうと思って」
「賛成! 私も手伝う!」
琴音が飛び起きると、丸まって眠っていたフィニも目をこすりながら起き上がる。
『なになに、なにするのー?』
「フィニも一緒に、マルタさんに料理を作ってあげるんだって」
琴音が伝えると、フィニは羽をぱたぱたと震わせて嬉しそうな声を上げた。
身支度を整えた三人は、朝食もそこそこに一階へと降りていった。
鍋の中身を思い浮かべながら、葵は木漏れ日亭の階段を降りていく。
「マルタさん、少しお願いがあるんですけど」
朝の片付けをしていたマルタが、たすき掛けの手を止めて振り返る。
「なんだい、改まって」
「今日、厨房を少し貸していただけませんか? いつもお世話になっているお礼に、何か作りたくて」
マルタは目を丸くしたあと、豪快に笑い声を上げた。
「あんたたちがそんな気を遣わなくたっていいのに。……でもまあ、楽しみにしとくよ。好きに使いな」
「ありがとうございます! 期待していてくださいね」
「ほう、そこまで言うなら余計に楽しみだよ」
からかうように片目をつむるマルタに、葵は苦笑を返した。
隣で琴音も嬉しそうに頷き、フードの中のフィニもぱたぱたと羽を震わせた。
◇
昼を過ぎ、客足が落ち着いた頃合いを見計らって、葵と琴音は厨房に立った。
初めて足を踏み入れる木漏れ日亭の厨房は、使い込まれた鍋や道具が壁いっぱいに並び、煤で黒ずんだ天井からは香辛料の匂いがほのかに漂っていた。
前世のシステムキッチンとはまるで違う、素朴で無骨な造りに、葵は不思議な懐かしさを覚える。
木製の調理台には、市場で選び抜いた紫の野菜や根菜、艶の良い肉が並んでいる。
「よし、今日は野菜たっぷりの和風煮込みと、お肉は照り焼きにしましょうか」
「わあ、照り焼き! お母さんの照り焼き、大好き」
「じゃあ張り切って作らなくちゃね」
「煮込みは、私たちの晩ごはんの分も一緒に作っちゃいましょう」
「うん! そしたらマルタさんにも、たっぷり味見してもらえるね」
マルタはいつも肉料理を勧めると豪快に喜ぶから、甘辛いたれで仕上げる照り焼きなら、きっと気に入ってくれるはずだと葵は踏んでいた。
煮込みの方は、野菜の甘みをじっくり引き出して、体の芯から温まる一品に仕上げたい。
前世で、休日の夕方によく作った照り焼きの、あの香ばしいたれの匂いが懐かしく胸をよぎる。
包丁を握ると、【食】の加護がすっと素材の状態を教えてくれた。
(この根菜は皮ごと煮込むと甘みが増す。お肉はこの厚みなら、煮込まずに香ばしく焼き上げた方が美味しくなりそう……)
前世の経験と加護の知識、両方を頼りに、葵は手際よく野菜と肉を切り分けていく。
トントンと軽快な包丁の音が厨房に響く。
丸い紫の根菜は、皮をむくとほんのり甘い香りを放ち、切り口がしっとりと艶めいている。
(この感じ、前世の里芋に似てるけど、もっと甘みが強いのね……)
見たことのない食材と向き合いながらも、包丁を握る手に迷いはなかった。
十四年間、毎日台所に立ってきた感覚が、この異世界の食材にもちゃんと馴染んでいく。
「私も手伝う!」
琴音が張り切って野菜を鍋に運び入れると、フードの中からフィニもひょっこり顔を出した。
『あたちも、おてつだいするー!』
「フィニも手伝ってくれるって」
琴音が伝えると、葵は微笑みながら小さな木のスプーンをフィニに手渡した。
「琴音は、こっちの根菜をお願いできる?」
「うん、任せて」
小さめの包丁を受け取った琴音は、まだ少しぎこちない手つきで根菜の皮をむき始めた。
危なっかしい場面もあったが、葵がそっと手を添えて教えると、すぐにコツをつかんで一口大に切り揃えていく。
(覚えが早いのね……)
その様子を横目に見ながら、葵はふっと目を細めた。
「じゃあお願い、味見係よ。塩加減、教えてくれる?」
『まかせてー!』
大きめの鍋に水を張り、切り分けた野菜を入れて火にかける。
ぐつぐつと煮立ち始めたところで、葵はストレージからいつもの調味料瓶を取り出した。
「ここからが本番ね」
神様からもらったこの調味料は、どれだけ使ってもストレージの中で尽きることがない。
前世では、調味料の減り具合を気にしながら量を加減していたけれど、ここではその心配が要らなかった。
そのことに気づくたび、葵はまだ少し不思議な気持ちになる。
まず和風だしをたっぷりと注ぎ入れ、次に無限醤油をまわし入れる。
野菜がしっかり煮えるまでじっくり火を入れるぶん、味がぼやけないように砂糖とみりんも加え、根菜にもしっかり染み込む濃さに仕立てていく。
いくつもの調味料が煮汁の中で溶け合い、とろみを増した琥珀色の液体が鍋いっぱいに広がっていくと、厨房中に出汁と醤油の香ばしい匂いが立ち込めた。
「わあ……いい匂い……」
琴音が鼻をひくつかせながら、うっとりと目を細める。
フードの中で大人しくしていたフィニも、たまらない様子で頭をひょっこりと出した。
『なにこれ、なにこれ、すっごくいいにおいがする……!』
鍋の縁からもうもうと立ちのぼる湯気に誘われて、フィニがふらふらと鍋の方へ近づいていった。
『ちょっとだけ……味見……』
小さな体を鍋の縁に乗り出したフィニが、そのまま滑って湯気の中にすとんと落ちそうになる。
「フィニ、危ない!」
琴音がとっさに手を伸ばして抱きとめると、フィニは湯気で少し湿った髪をぺたりと額に貼りつかせたまま、きょとんとした顔をしていた。
『あぶなかったぁ……』
「もう、味見はお皿に取ってからにしましょうね」
葵が苦笑しながら小皿に煮込みを少しよそうと、フィニは今度こそ大人しくスプーンで口に運んだ。
『……おいしい! すっごくおいしい!』
湯気で湿った髪をそのままに、頬いっぱいに幸せそうな笑みを浮かべるフィニに、琴音がくすくすと笑いをこぼす。
「フィニったら、味見のはずが本気で食べてる」
『だっておいしいんだもん……!』
「フィニのお墨付きが出たわ」
琴音がそう伝えると、葵は安堵したように息をついた。
弱火にかけ、鍋を煮込んでいる間に、葵は隣のフライパンで照り焼きに取りかかった。
下味をつけた肉を皮目からじっくりと焼き付け、表面に美しい焼き色がついたところで、無限醤油とみりん、砂糖を合わせたたれを回しかける。
じゅわっと香ばしい音とともに、甘辛い匂いが立ちのぼった。
「わあ、こっちもいい匂い……!」
琴音が声を弾ませながら鍋の様子も見てくれる間に、葵は手早く肉を焼き上げていく。
「フィニ、味見してくれる?」
『まかせてー!』
小皿に取り分けた照り焼きをフィニに味見してもらうと、たちまち目を輝かせた。
『これもおいしい……! さっきのとちがうけど、おいしい……!』
「フィニも大満足みたい」
琴音が伝えると、葵はほっと頬を緩めた。
焼き上がった肉を一口大に切り分けて皿に並べる頃には、鍋の根菜もほろりと崩れる柔らかさになり、出汁をたっぷり吸い込んで飴色に染まっていた。
「そろそろいいかしら」
味見をした葵は、深く頷いた。
出汁の旨みと醤油のコクが野菜の甘みと溶け合い、前世の記憶にある味とはまた違う、この世界の食材ならではの豊かな味わいに仕上がっている。
たれの照りが橙色の光を弾く照り焼きと、湯気の立つ煮込み。
どちらも出来立てのまま、二品同時に仕上がった。
「よし、温かいうちに持っていきましょう」
◇
客足がまだ落ち着いている午後のうちに、葵は湯気の立つ大鍋と、艶やかな照り焼き肉の皿を両手に抱えて食堂へ運んだ。
「マルタさん、できました」
「おお、待ってたよ!」
マルタはまず煮込みを器によそってひと口食べると、目を大きく見開いた。
「……これは、うまい! なんだいこの深み、初めての味なのに、なんだかほっとするねぇ」
続けて照り焼き肉に箸を伸ばし、ひと切れ頬張った瞬間、今度は唸り声を上げた。
「んん~っ! このタレ、甘辛くて箸が止まらないよ!」
「野菜たっぷりの和風煮込みと、特製の照り焼き肉です。お口に合ってよかった」
「合うも何も、どっちも癖になる味だよ、これは!」
マルタは器を覗き込みながら、不思議そうに首をかしげた。
「それにしても葵ちゃん、こんな料理どこで覚えたんだい? 田舎町の出身にしちゃ、腕が良すぎるよ」
「え、えっと……昔、家でよく作っていたので」
とっさに答えながら、葵は前世で家族の食卓を任されていた日々を思い出す。
まさか十四年分の主婦経験とは言えず、曖昧に微笑んでごまかすしかなかった。
「へえぇ、謙遜しなくたっていいのに。とにかく、また作っておくれよ」
マルタが豪快に笑い飛ばしてくれたおかげで、それ以上詮索されずに済んだ。
その様子を見ていた常連客の一人が、興味津々で近づいてくる。
「女将さん、そりゃなんだい? ずいぶんうまそうな匂いだな」
「あら、ちょっとだけなら味見するかい?」
マルタが気前よく煮込みを小皿に取り分けてやると、その常連客は一口食べて目を丸くした。
「うおっ、なんだこりゃ……! 野菜がこんなに甘くなるもんなのか……」
「こっちの肉も、いい匂いっすね」
常連客が皿を覗き込むと、葵はくすりと笑った。
「お肉の方はすぐ焼けるので、良かったら少し作りましょうか?」
「お、いいのかい!」
フライパンで手早く焼き上げた照り焼きを差し出すと、彼はひと口食べて唸り声を上げた。
「こいつは……! 甘辛いタレが染みてて箸が止まらん……!」
近くにいたもう一人の女性客も、味見のおすそ分けにあずかって、うっとりと目を細めていた。
「体の中からぽかぽかしてくる味だねぇ。作り方、今度教えてほしいくらいだよ」
「良かったら、今度一緒に作りましょうか」
葵が微笑みながら答えると、女性客は驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに頷いた。
マルタと常連客たちの笑顔を見つめながら、葵は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「お母さん、みんな喜んでくれてるね」
隣に立つ琴音が、嬉しそうに袖を引く。
「ええ、本当に」
フードの中からも、満足げな「えへへ」という声が漏れ聞こえてきた。
前世では、仕事から帰った家族が黙々と箸を進めるのを、台所の隅で見ていることが多かった。
美味しいとひと言もらえるだけで嬉しかったのに、その余裕すらない日もざらにあった。
けれど今は、湯気の向こうに広がる笑顔を、こんなにもまっすぐ受け取ることができる。
(誰かを笑顔にできるって、こんなに満たされることだったのね……)
空になっていく鍋を眺めながら、葵はそっと目を細めた。
ひと通り配り終えた頃、マルタが小さな器を三つ、そっと差し出してくれた。
「作った本人たちが食べてないんじゃ話にならないだろう。ほら、座って食べな」
「ありがとうございます」
三人はカウンターの隅に並んで腰掛け、まだほんのり温かい煮込みと照り焼き肉に箸をつけた。
「んー、やっぱり美味しい!」
琴音がふにゃりと頬を緩ませ、フードの中のフィニも小さなスプーンを両手で握りしめて夢中で口に運んでいる。
『あたちがたべたやつと、おんなじあじ……!』
「フィニも、味見のときと変わらないって」
琴音が伝えると、葵はくすりと笑った。
「当然よ、同じお鍋から取り分けたんだもの」
小さな家族三人分の器が、温かい湯気を立てながら少しずつ空になっていく。
「ねえお母さん、また今度も何か作ってあげようよ」
「そうね。今度は何を作ろうかしら」
「フィニ、次は甘いのがいいなぁ……」
『あたちも、あまいのすきー!』
琴音が伝えるまでもなく、フィニの声色だけでその気持ちは十分に伝わってきて、葵は思わず笑い声をこぼした。
窓の外はまだ夕暮れ前の明るさが残り、通りには行き交う人々の声が聞こえている。
それでも食堂の中は、鍋から立ちのぼる湯気のように、温かい空気に満ちていた。
そのあともしばらくの間、食堂には温かい湯気とにぎやかな笑い声が絶えなかった。
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