第8話:精霊の恩返しと、初めての買い出し
鳥のさえずりと、窓から差し込む柔らかな朝日。
水瀬葵は、ゆっくりと瞼を開けた。
隣のベッドでは、琴音がまだ規則正しい寝息を立てている。
その足元、丸めた上着の上でくるんと丸まって眠っているのは、昨夜すっかり懐いてしまった小さな精霊――フィニだった。
(ふふ、二人ともよく眠ってる……)
葵は口元をほころばせながら、そっと体を起こした。
昨日は精霊との出会いから始まって、名付けに、初めての納品と報酬まで、盛りだくさんの一日だった。
窓の外を見やると、グランベルの街並みが朝日にきらきらと照らされている。
「んん……お母さん……?」
物音に気づいたのか、琴音がもぞもぞと体を起こした。
「おはよう、琴音。よく眠れた?」
「うん……なんか、すごく良い夢見た気がする」
伸びをしながら答える琴音の声は、まだ半分眠りの中にあるようで、その呑気な響きに葵は思わず頬を緩めた。
寝ぼけ眼をこすりながら答える琴音の隣で、フィニもぱちりと目を覚ました。
『おはよぉ……。あたち、ここで寝てたの……?』
小さな体を伸ばし、羽をぱたぱたと震わせて眠気を払っている。
「ふふ、おはようフィニ。ちゃんと眠れた?」
琴音が指先でそっとフィニの頭を撫でると、フィニは気持ちよさそうに目を細めた。
◇
身支度を整え、三人で一階の食堂へ降りていく。
「おはよう、二人とも! よく眠れたかい?」
いつも通り元気なマルタの声が飛んでくる。
「おはようございます、マルタさん」
葵が挨拶を返した、その時だった。
琴音のフードの中から、フィニがひょこりと顔を出してしまう。
『わあ、いいにおい……!』
「んん……?」
マルタが目を丸くして、まじまじとフィニを見つめた。
「な、なんだいそりゃあ……! 精霊じゃないか……!」
「あ、あの、実は――」
葵は少し慌てながら、昨日森でトゲに絡まっていた精霊を助けたこと、そのまま懐いてついてきたこと、「フィニ」と名付けたことを順を追って説明した。
マルタはしばらく口を開けたまま固まっていたが、やがて破顔した。
「へえぇ……! 精霊に好かれるとは、大したもんだねぇ。精霊ってのは、根が良い人間にしか懐かないもんさ。あんたたちが良い人だって、この子が証明してくれてるようなもんだよ」
豪快に笑いながら、マルタはフィニに向かって太い指をひょいと差し出した。
『……つんつん、していい?』
フィニが不思議そうに首をかしげ、マルタの指先をおそるおそる小さな手でつつく。
マルタが「くすぐったいねぇ」と相好を崩すと、フィニも安心したように羽をぱたぱたとはためかせた。
「よし、精霊様に免じて朝ごはんは特別サービスだ! ほら、これも食べな」
そう言って、マルタが食卓にドン、と置いたのは、フィニの体よりも大きな一切れの果物だった。
『……おおきい……!』
目を丸くするフィニに、葵と琴音は思わず顔を見合わせて笑ってしまう。
「ふふ、少しずつ食べようね、フィニ」
琴音がナイフで果物を小さく切り分けてやると、フィニは大喜びで両手いっぱいに抱えて頬張った。
「はぁ……それにしても、精霊様と一緒に暮らすなんてねぇ」
マルタは感心したように腕を組み、興味津々といった様子でフィニを覗き込んだ。
「精霊ってのは、普段何を食べてるんだい? やっぱり花の蜜とか、そういう上品なもんかね」
「あ……えっと、どうなんでしょう」
葵が答えに困っていると、頬いっぱいに果物を頬張っていたフィニが、次の瞬間、目をきらきらと輝かせた。
『これ、すきー! もっとちょうだい!』
その様子を見た琴音が、思わず吹き出す。
「マルタさん、フィニは花の蜜より、甘い果物の方が好きみたいですよ」
「なんだい、案外庶民的な精霊様だねぇ!」
マルタが豪快に笑い声を上げると、つられてフィニもぱたぱたと羽を震わせて上機嫌に笑った。
賑やかな朝食の時間は、いつもよりずっと温かい笑い声に包まれていた。
◇
朝食を終え、葵は昨日受け取った報酬の革袋を手のひらの上でそっと転がした。
(銅貨八枚と、神様がくれた最初の路銀……。無駄遣いはできないけど、生活に必要なものは少しずつ揃えていかなくちゃ)
「琴音、今日は市場に買い出しに行きましょうか。お鍋とか、日用品とか、必要なものがまだ色々あるし」
「わあ、買い出し! 楽しみ!」
琴音がぱっと目を輝かせる。
『あたちも行くー!』
フードから飛び出そうとするフィニを、葵は慌てて押しとどめた。
「フィニ、街の中はまだ人目があるから、フードの中に隠れていてくれる? ちゃんと一緒に連れて行くから」
『はーい……』
しょんぼりしながらも、フィニは素直にフードの奥へと潜り込んだ。
その従順さがなんとも可愛らしく、葵と琴音はまた顔を見合わせて笑った。
◇
市場は今日も活気に満ちていた。
色とりどりの野菜が積まれた露店、威勢の良い呼び込みの声、香辛料の混ざったスパイシーな匂い。
行き交う人々の合間を、荷車を引く商人や、買い物かごを抱えた主婦たちが忙しなく通り過ぎていく。
前世のスーパーとはまるで違う、剥き出しの活気と生命力に満ちた光景に、葵は思わず目を細めた。
「わあ……見たことない野菜がいっぱい……!」
琴音が目を輝かせながら、露店の前を歩いていく。
紫色の丸い野菜や、見慣れない形の果物が所狭しと並んでいた。
葵が一つ手に取ると、頭の中に【食】の加護がすっと直感を送り込んでくる。
(安全。癖のない甘みがあって、煮込み料理に向いている……)
「これは良さそうね」
葵が籠に入れようとしたところで、フードの中からフィニがもぞもぞと動いた。
『ねえねえ、こっちのやつ、もっと美味しいよ!』
小さな声で囁くフィニに気づいたのは、隣にいた琴音だった。
「お母さん、フィニが、こっちの方が美味しいって」
琴音が指差した先には、少し離れた露店に並ぶ、同じ種類だけれど心なしか艶やかな野菜があった。
「あら、本当? 見比べてみましょうか」
葵が手に取って確かめると、確かにこちらの方がずっしりと重みがあり、鮮度も良さそうだ。
「フィニ、すごいじゃない。ありがとう」
『えへへ……』
フードの中で照れたような気配が伝わってくる。
「フィニって、匂いだけで美味しいものが分かるの?」
琴音が尋ねると、フードの中からくすぐったそうな声が返ってきた。
『んー……なんとなく、風に乗ってくるにおいで分かるの! 元気なにおいと、そうじゃないにおいって、ぜんぜん違うんだよ』
「元気なにおい……」
琴音がその言葉をそのまま葵に伝えると、葵は感心したように頷いた。
「なるほどね……。フィニの感覚は、私の【食】の加護ともまた違う視点なのね。二人で協力すれば、もう食材選びで失敗することはなさそうだわ」
そんな会話をしながら、三人は次々と露店を巡っていく。
(琴音を通してだけれど……フィニのおかげで、また一つ良い買い物ができたわ)
葵は心の中でそっと感謝しながら、籠に野菜を詰めていった。
その時、隣の露店から漂ってきた甘い香りに、フードの中のフィニがぴくりと反応した。
『あっ、あれ、すっごくいい匂い……!』
興奮のあまり、フィニの小さな手がフードの縁からひょこっと飛び出してしまう。
「フィニ、危ないってば……!」
琴音が慌ててフードを押さえ、周囲をきょろきょろと見回した。
幸い、近くの人々は忙しなく行き交うばかりで、誰も気づいた様子はない。
「ふぅ……セーフ」
胸を撫で下ろす琴音の横で、葵も冷や汗を拭う仕草をしてみせる。
「フィニ、気持ちは分かるけど、もう少し我慢よ?」
『うぅ……ごめんなさい……』
しょんぼりと肩を落とす気配に、二人は思わず顔を見合わせて小さく笑った。
◇
次に立ち寄ったのは、肉屋の露店だった。
大きな塊肉がずらりと吊るされ、香ばしい香りが漂っている。
「お客さん、今日のはいい肉が入ってるよ!」
威勢のいい店主の声に、葵は真剣な表情で肉を見比べた。
【食】の加護が、それぞれの部位の脂の乗り具合や、向いている調理法を次々と教えてくれる。
(この赤身は煮込みに、こっちの脂の多い部分は焼き物にぴったりね……)
主婦としての目利きと、加護からの直感。
二つが合わさると、鬼に金棒だった。
そこへまた、フードの中がもぞりと動く。
『あっちの、もっとつやつやしてるよ!』
「フィニがまた何か言ってる」
琴音がくすくす笑いながら耳を澄ませ、葵に伝える。
「あっちの肉の方が艶があるみたい」
「あら、本当だわ。フィニ、良い目利きね」
店主に案内してもらうと、確かに一段と質の良さそうな肉が並んでいた。
こうして、主婦の知恵と精霊の直感、そして加護の力を総動員した結果、籠の中はあっという間に良質な食材でいっぱいになっていった。
「今日はずいぶん良い買い物ができたね、お母さん」
「ええ、本当に。フィニのおかげよ」
琴音が声をかけると、フードの中から満足げな「えへへ」という声が漏れ聞こえてくる。
◇
最後に立ち寄ったのは、雑貨を扱う小さな露店だった。
木製の食器や、煮炊きに使えそうな鍋、麻布で編まれた買い物袋などが所狭しと並んでいる。
「これくらいの大きさの鍋があると便利そうね」
葵は手頃な大きさの片手鍋を手に取り、裏返して底の厚みを確かめた。
長年の主婦経験がにじみ出るその手つきに、店主のおじさんが感心したように目を細める。
「お客さん、良い目してるね。それ、火の通りが均一でいい品だよ」
「ありがとうございます。……これと、木のスプーンを三本いただけますか?」
葵はフードの中のフィニをちらりと見やりながら、そう告げた。
「はいよ、まいどあり!」
店主は特に気にする様子もなく、手早く鍋とスプーンを包んでくれた。
支払いを終え、ずっしりと重みの増した荷物を抱え直しながら、葵は小さく息をついた。
前世では、百円ショップの安売りコーナーを何往復もして、少しでも安い道具を探し回ったものだった。
今はこうして、必要なものを必要なだけ、迷わず選べる。
その小さな余裕が、今の葵にはたまらなく嬉しかった。
(今日だけで、随分と道具が揃ったわね……。これでやっと、ちゃんとしたお料理ができそう)
最後に、煮炊きに使えそうな鍋一式を買い足し、三人(と一匹)は満足げな足取りで市場を後にした。
◇
木漏れ日亭への帰り道、夕方に近づいた空はやわらかな橙色に染まり始めていた。
石畳を踏みしめる足音と、荷物の中でカタカタと揺れる鍋の音が、なんとも心地よいリズムを刻んでいる。
道端の屋台からは夕餉の支度を始める煙が立ちのぼり、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
両手いっぱいの荷物を抱えながら、葵はふと隣を歩く琴音に目を向けた。
「今日はフィニのおかげで、すごく助かったわね」
「うん! フィニ、市場でも大活躍だったね」
フードの中から、フィニがひょっこりと顔を覗かせる。
『えへへ、あたち、お役に立てた……?』
その問いかけを、琴音がすぐさま拾い上げた。
「フィニ、役に立ったかって聞いてるよ」
「もちろんよ。フィニがいてくれて、本当に良かった」
葵が優しく微笑みかけると、フィニは嬉しそうに小さな体を震わせた。
(言葉はまだ全部は分からないけれど……この子の気持ちは、ちゃんと伝わってくる気がするわ)
重い荷物も、今日ばかりは不思議と軽く感じられた。
木漏れ日亭の看板が見えてくると、琴音が思い出したように口を開いた。
「ねえお母さん、こんなに良い食材が集まったんだし、今度マルタさんにも何か作ってあげたいね」
「あら、良い考えね。マルタさんにはお世話になりっぱなしだもの」
「うんうん!」
『あたちも、おてつだいする……!』
フードの中から意気込むような声が聞こえ、琴音がくすりと笑う。
「フィニも手伝ってくれるって」
「ふふ、頼もしいこと。楽しみにしていてね」
葵がそう答えると、フードの中で満足げな気配が揺れた。
これから始まる、新しい調味料と食材を使った料理のことを考えると、葵の胸は自然と弾んでいく。
前世では、家計簿とにらめっこしながらの節約料理ばかりだった。
けれどここには、無限の調味料と、見たこともない新鮮な食材、そして何より、それを美味しいと言って喜んでくれる人たちがいる。
(誰かのために料理を作れるって、こんなに幸せなことだったのね……)
過酷なはずの異世界での暮らしが、また一つ、温かな色に染まっていくのを感じながら、三人は賑やかな夕暮れの道を歩いていった。
お読みいただきありがとうございました!
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