第7話:小さな居候と、新しい名前
木目調のフローリングに差し込む柔らかな光の中、空になった木皿からはまだ仄かに醤油だれの香りが漂っていた。
「んふぅ……お腹いっぱいで、なんだか眠たくなってきちゃった……」
小さな精霊は丸いお腹をぽんぽんと叩きながら、ソファの上でとろんと目を細めている。
葵はくすりと笑いながら、キッチンの流しでさっと皿を洗い、水気を切って布巾で拭き上げると、ストレージへとしまい込んだ。
(食べたらすぐ片付ける、が体に染み付いてるのよね……こういうところは、異世界に来ても変わらないなぁ)
前世で染み付いた主婦の習性に、我ながら苦笑がこぼれる。
「琴音、そろそろ帰りましょうか。ヒールグラスも無事に採れたし、日が沈む前にギルドへ届けなくちゃ」
「え~、もうちょっとこのふかふかのソファに座ってたいのに……」
名残惜しそうに口を尖らせながらも、琴音は素直に腰を上げた。
椅子の背もたれに掛けていた鞄からヒールグラスの束を確かめるように取り出し、しっかりと紐を結び直す。
「うんっ、五束ともバッチリ。傷んでないよね?」
「大丈夫よ、丁寧に摘んだもの。……さ、精霊さんも一緒に帰りましょう」
葵が声をかけると、小さな精霊はぱちりと目を開け、名残惜しそうに部屋の中をきょろきょろと見回した。
『えっ……このおうち、消えちゃうの……?』
フィニが心細そうな声を漏らすと、それにいち早く気づいた琴音が振り返った。
「大丈夫だよ。またすぐ出してもらえるからね」
「あら、そんなに寂しそうな声を出していたの?」
琴音の言葉を聞いて、葵も精霊へと視線を向け、微笑んだ。
「心配しないで。今日はもう街に戻る時間なだけだから、ちゃんとまた会えるわよ」
葵はテントの入り口へ向かい、外の様子を確かめてからチャックを開けた。
一歩踏み出した瞬間、むわりとした森の湿った緑の匂いと、傾き始めた西日の眩しさが二人を包み込む。
振り返ると、ぽんっという柔らかな音とともに、テントはあっという間に空気に溶けるように姿を消した。
草の上には、何事もなかったかのような静かな草むらが広がっているだけだ。
「何度見ても不思議……」
琴音がぽつりと呟き、葵もまた頷いた。
三人(と一匹)は連れ立って、木漏れ日の落ちる森の小道を歩き出した。
歩くたびに、踏みしめた下草からふわりと青い匂いが立ちのぼる。
小さな精霊は、葵の肩の上にちょこんと乗り、名残惜しそうに森の奥へと視線を向けていた。
『あたちのお家……ずっとここにあったのに、変な感じ……』
その呟きを拾った琴音が、そっと顔を覗き込む。
「寂しい?」
『ちょっとだけ。……でも、ふたりと一緒にいる方が、もっと楽しい気がするの!』
「ふふ、フィニったら」
琴音が嬉しそうに笑うと、葵も肩の上の精霊へそっと指先を伸ばし、優しく撫でた。
「私にはよく聞き取れないけれど……琴音と仲良くお喋りしてるのね」
(何を話しているのかまでは分からないけれど、この子がここにいてくれることが、なんだか嬉しいわ)
◇
南門をくぐる頃には、空はすっかり橙色に染まり始めていた。
門番に軽く会釈をして通り過ぎ、賑やかな大通りを進んでいく。
夕餉の支度を始めた家々から漂う薪の煙と、串焼き屋台の香ばしい匂いが混ざり合い、異世界の夕暮れらしい活気に満ちていた。
小さな精霊は、はしゃぐようにフードの隙間からひょこりと顔を覗かせている。
「わあぁ……人がいっぱい……! みんな大きいね……!」
「こら、あんまり顔を出したら目立っちゃうわ。フードの中でじっとしててね」
葵が小声でたしなめると、精霊は「はーい」としょんぼりしながらも素直に引っ込んだ。
その様子があまりに素直で可愛らしく、琴音がぷっと吹き出す。
「お母さん、まるで小さい子を叱るお母さんみたい」
「あら、今の私は正真正銘、二人分のお母さんかもしれないわね」
軽口を叩き合いながら歩くうちに、木漏れ日亭の温かな灯りが見えてきた。
窓から漏れる橙色の光と、賑やかな話し声が二人を出迎える。
「ただいま帰りました」
顔を出したマルタに軽く会釈をして、目立たぬよう足早に階段を上がった。
(フィニのこと……まだ誰にも話していないものね。今はまず、二人でゆっくり話をしてあげたいわ)
◇
二〇四号室の扉を閉めると、葵はふぅと息を吐いた。
窓の外はすっかり茜色に染まり、部屋の中にも柔らかな夕暮れの光が差し込んでいる。
フードから抜け出した小さな精霊は、ベッドの上でぽふんと着地すると、大きく伸びをした。
「やっと、ゆっくりできるぅ……」
「ふふ、お疲れ様。……ねえ、精霊さん」
琴音がベッドに腰掛け、小さな体をそっと見つめる。
「そういえば、精霊さんって、名前はあるの……?」
『名前……?』
小さな精霊は不思議そうに首をかしげた。
『ないよ。あたちたちは、みんな「風の精霊」とか「木の精霊」とかって呼ばれるだけだもん』
「じゃあさ、私が名前つけてもいい……? ずっと『精霊さん』って呼ぶのも、なんか他人行儀な感じがして」
『え……! ほんとに……!? あたちに、名前……!』
精霊は目をまんまるにして、ぱたぱたと羽を震わせた。
嬉しさを隠しきれない様子に、琴音も葵も思わず顔をほころばせる。
「うーん、じゃあ何がいいかな……」
琴音は顎に手を当て、うんうんと唸り始めた。
「緑色の髪だから……『グリーンちゃん』とか?」
『グリーンちゃん……? なんか、色そのまんまだね……』
精霊が微妙な顔をすると、琴音も「だよね」と苦笑いした。
「じゃあ、風みたいにふわふわしてるから『ふわりん』は?」
『ふわりん……。なんか、綿菓子みたいな響き……』
精霊が首をふるふると横に振ると、琴音は「うっ」と胸を押さえて撃沈した。
「な、なら『妖精のミント』とか……! すーっとする感じで爽やかだし」
『それ、お菓子の味みたいで美味しそうだけど、名前っぽくない……』
「そんな……!」
三連続で却下され、琴音はベッドに突っ伏して唸り声を上げた。
隣で見守っていた葵も、思わず肩を震わせて笑いを堪える。
(琴音ったら……真剣に悩んでるところ、悪いけど……可愛いわね)
「もう、お母さんまで笑わないでよ……! じゃあ、じゃあ……」
しばらく黙り込んだ琴音は、ふと窓の外――夕風にそよぐ木々の葉を見つめた。
「新緑の髪と、風の精霊……。風、フィン……葉っぱ、リーフ……」
小さく呟きながら、言葉をいくつか転がすうちに、ふっと閃いたように顔を上げる。
「――『フィニ』は、どう?」
『……フィニ……?』
「うん! なんか、風が吹き抜ける音と、新緑の葉っぱのイメージを混ぜてみたの。似合ってると思わない?」
精霊はしばらくきょとんとした後、口の中で「フィニ、フィニ……」と何度も呟いた。
『フィニ……! フィニ、好き……! すごく好き……! ありがとう!』
感極まったように目を潤ませ、精霊――もといフィニは、琴音の頬に飛びつくようにぎゅうっと抱きついた。
「わっ、フィニ、くすぐったいってば……!」
琴音が声を上げて笑うと、フィニも嬉しそうにくるくると宙を舞う。
『フィニ、フィニだよ! これからフィニって呼んでね!』
無邪気に胸を張るフィニの姿に、葵の胸もじんわりと温かくなった。
(この子もまた、私たちの新しい家族になっていくのね……)
「フィニ、これからよろしくね。私は葵、こっちは娘の琴音よ」
「よろしくね、フィニ!」
『うん! よろしくね、お母さんと、琴音お姉ちゃん!』
小さな声で交わされる約束に、部屋の中は温かな笑い声で満たされていった。
◇
一通り喜びに浸ったところで、葵は窓の外の空を見上げ、はっと我に返った。
茜色だった空は、いつの間にか濃い藍色へと変わり始めている。
「いけない……! フィニ、ごめんね、はしゃぎすぎちゃった。……琴音、ヒールグラスの納品、急がないと」
「あ……! そうだった!」
琴音も慌てて立ち上がり、机の上に置いていたヒールグラスの束を抱え直す。
『納品……? あたちも行く! お手伝いする!』
フィニが元気よく手を挙げると、琴音がくすっと笑ってその頭を撫でた。
「ありがとう、フィニ。でも今日は大人しくフードの中にいてくれる?」
「フィニ、何だって?」
「納品のお手伝いしたいって。……フィニ、気持ちだけで十分だよ。ギルドはまだ人がいっぱいいる場所だから」
葵もくすりと笑い、フィニの小さな頭をそっと指先でつついた。
「フィニ、ありがとうね。今日のところは大人しく隠れていてちょうだい」
『はーい!』
フィニは素直に頷くと、ぴょんと跳ねて琴音のフードの中へと潜り込んだ。
三人は足早に部屋を出て、夜の帳が下り始めた通りを冒険者ギルドへと急いだ。
◇
夕方のギルドは、依頼から戻ってきた冒険者たちの怒号や笑い声で、朝とはまた違う熱気に包まれていた。
(この時間はさすがに混んでいるわね……あの受付の人が空いていたら、ちょっと気まずいけれど)
初日に大声でステータスを読み上げられたことを思い出し、葵は思わず身構えた。
そろりと窓口の様子を窺うと、案の定、あの声の大きな女性受付嬢が別の冒険者の対応をしている姿が目に入る。
(よし……気づかれないうちに、こっそり……!)
葵は琴音の手を引き、なるべく目立たぬよう壁際を歩いた。
「お母さん、なんか泥棒さんみたいな動きになってるよ……」
「し、仕方ないでしょう。また大声でステータスを読み上げられたら、フィニのことまでバレちゃうかもしれないもの」
こそこそと移動する二人に、フードの中のフィニも興味津々といった様子で小さく首を伸ばす。
『にんじゃさんごっこ……? 楽しそう!』
「そういうのじゃないんだけど……」
琴音が半笑いで呟いた、その時だった。
「あら! この間のお二人さんじゃない!」
――よりによって、あの声の大きな受付嬢と、ばっちり目が合ってしまう。
(う、嘘でしょう……!?)
葵の背中に、じわりと冷や汗が滲む。
だが幸いにも、彼女は別の冒険者に何かを説明中で、片手を軽く振っただけでまた自分の仕事に戻っていった。
「……セ、セーフだったわね」
「お母さん、顔真っ青だよ」
胸を撫で下ろしながら、葵は改めていつも親切に対応してくれるあの眼鏡の男性職員の窓口へと向かった。ちょうど手が空いていたのは、不幸中の幸いだった。
「あの、失礼します。薬草採集の依頼、納品に伺いました」
「はい、お待ちしておりました」
葵が差し出したヒールグラスの束を、男性職員は一本一本、丁寧に検分していく。
「……素晴らしいですね。茎も根も傷んでおらず、良い状態です。これなら調薬師も喜ぶでしょう」
眼鏡の奥の目を細め、男性職員は満足げに頷いた。
「五束、確かに確認いたしました。それでは規定通り、報酬をお渡しいたしますね」
カウンターの上に、小さな革袋がことりと置かれる。
「銅貨八枚になります。本日はお疲れ様でした」
葵は震える手でその袋を受け取った。
(これが……私達が、自分の手で稼いだ、初めてのお金……)
決して大きな金額ではない。けれど、その重みは、前世で受け取ったどんな給料袋よりもずっしりと胸に響いた。
「ありがとうございます……! すごく、嬉しいです」
「琴音も、お疲れ様。二人で力を合わせたのね」
「うん……! なんか、じんわりする……」
隣で琴音も、銅貨の重みを確かめるように手を握りしめている。
そのとき、フードの隙間から、小さな顔がひょこりと覗いた。
『あたちも、お手伝いしたよ! ヒールグラスの場所、教えたの!』
「わっ……!?」
男性職員が眼鏡の奥で目を丸くする。
「これは……風の小精霊、ですか……! お二人、精霊に気に入られるとは、大したものですね」
「ふふ、実は森で助けてあげて、仲良くなったんです。フィニっていう名前をつけたばかりで」
葵が微笑ましそうに説明すると、男性職員も柔らかく目を細めた。
「精霊は心根の綺麗な者にしか懐かないと言いますからね。……これからも、お二人らしく頑張ってください」
「はい、ありがとうございます!」
深く頭を下げ、二人と一匹はギルドを後にした。
◇
外に出ると、すっかり夜の帳に包まれた街に、橙色の魔導灯りがぽつぽつと灯り始めていた。
冷たさの混じり始めた夜風が、火照った頬に心地よい。
「お母さん……今日、なんだかすごい一日だったね」
「そうね。精霊さんと出会って、フィニって名前もつけて……初めてのお給料までもらっちゃった」
「えへへ……。私、なんだかちょっとだけ、大人になれた気がする」
はにかむように笑う琴音の頭を、葵はそっと撫でた。
『フィニも、フィニも! 今日、いっぱい嬉しいことあった!』
フードの中からぴょこんと顔を出したフィニが、満面の笑みで両手を広げる。
「フィニも今日、いっぱい嬉しいことがあったんだって」
琴音が笑いながら伝えると、葵もフィニへと目を細めた。
「ふふ、フィニも今日からずっと、私達の家族よ」
三人は顔を見合わせ、くすくすと笑い合いながら、木漏れ日亭への帰り道を歩いていった。
温かい夕食と、柔らかいベッドが、きっと今夜も二人と一匹を迎えてくれる。
(明日はこの銅貨で、市場に何か買いに行けたらいいわね……フィニも一緒に)
過酷な異世界だけれど、こうしてまたひとつ、大切なものが増えていく。
その事実だけで、葵の胸は温かな幸福感でいっぱいだった。
お読みいただきありがとうございました!
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