第4話:初めての異世界ご飯と「木漏れ日亭」
石畳の路地に灯る橙色の魔導ランプが、二人の影を優しく伸びやかに映し出していた。
ギルドの男性職員に教えてもらった地図を頼りに、賑やかなメインストリートから一本入った「南通り」を進んでいく。
大通りの喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりにどこかの家々から漂ってくる薪の燻煙や、甘辛い煮込み料理の芳しい匂いが鼻腔をくすぐり始めた。
「あ……お母さん、あそこじゃない……!?」
琴音が指差した先に、ぬくもりのある木製の看板が掲げられた二階建ての大きな建物が見えてきた。
看板には可愛らしい木漏れ日のイラストと、『木漏れ日亭』という文字が刻まれている。
窓からは温かな光が漏れ、中から楽しげな笑い声とカトラリーの触れ合う心地よい音が響いていた。
「ここね……『木漏れ日亭』。すごく雰囲気が良さそうな場所で良かったわ」
葵はそっと胸を撫で下ろすと、手に持ったギルドからの案内状を握り直し、重厚な木造の扉を押し開けた。
◇
カランコロン、と澄んだ鈴の音が響く。
扉をくぐり抜けた先は、清潔に磨き上げられた木製のテーブルと椅子が並ぶ食堂兼ホールだった。
数組の町人や旅人が和やかに食事を楽しんでおり、冒険者ギルドのような刺々しい空気は一切ない。
二人が入り口で立ち止まっていると、奥の厨房から威勢の良いハキハキとした声が飛んできた。
「いらっしゃい! いま空いてる席へ――って、あら?」
奥から姿を現したのは、豊満な胸元を固いエプロンで包み、腰に太いベルトを巻いた四十代半ばほどの女性だった。
引き締まった腕と、キリッとした力強い目元。
元冒険者だというギルド職員の言葉通り、どこか頼もしさを感じさせる風貌の女将さんだ。
女将さんは葵と琴音の姿を上から下までさっと見やると、少し目を見張った。
「見ない顔だねぇ。若いお姉ちゃんふたりかい? こんな夜遅くに、どこから来たんだい?」
「あ、あの……すみません。私達、今日この街に着いたばかりで。冒険者ギルドで紹介していただいて伺いました」
葵は慌ててポケットから折りたたまれた案内状を取り出し、手渡した。
女将さんは受け取った紙きれに目を落とし、すぐに納得したように大きく頷いた。
「あー、あの眼鏡のギルド職員からの紹介か! なんだ、それなら話が早いや。……ふん、身分証代わりの木札もしっかり持ってるね。よし、怪しい奴じゃないと分かれば大歓迎だよ!」
女将さんは豪快に笑うと、ポンと自分の胸を叩いた。
「あたしはこの宿の女将、マルタだ。見ての通り元冒険者でね。うちの宿は、変な客やナンパ男はあたしが拳ひとつで追い出すのが売りさ。若い女二人でも安心して泊まりな!」
「まあ……! それは本当に心強いです。私は葵、こちらは家族の琴音です」
「よろしくね、葵に琴音ちゃん。……で、部屋は二階の角部屋が空いてるよ。一泊夕食・朝食付きで二人で銀貨四枚。先払いだけど、大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です!」
葵はストレージから取り出してポケットに入れておいた革袋から、つや消しの美しい銀貨を四枚取り出し、カウンターへ置いた。
マルタは手際よく銀貨を数えると、木彫りの鍵をひとつ葵の手のひらに握らせてくれた。
「よし、確かに! 鍵は二階の一番奥、二〇四号室だ。……で、夕飯はどうする? 今ならちょうど、焼きたてのパンと熱々のポトフが上がったところだけど」
「た、食べます……! すごくお腹が空いていて……!」
それまで葵の後ろでじっと大人しくしていた琴音が、思わずといった様子で声を上げた。
マルタは琴音の素直な反応に破顔し、優しく目元を緩めた。
「はいよ! じゃあ奥の丸テーブルに座って待ってな。すぐに特製のご飯を出してやるからね!」
◇
指示された奥のテーブル席につくと、琴音が「ふぅー……」と深く身体の力を抜いた。
「お母さん……すごく親切な女将さんでよかったね。なんだかホッとしちゃった」
「ええ、本当ね。ギルドの男性職員さんが教えてくれた通り、ここにして大正解だったわ」
葵もソファに深く腰掛け、そっと肩の荷を下ろした。
事故に遭い、白い空間で神様と出会い、見知らぬ異世界の丘で目を覚まし、街へ歩き、ギルドで身分証を作り、着替えをして……。
怒涛のように過ぎ去った一日。
緊張の糸がほぐれると、急激な空腹感が押し寄せてくるのを感じた。
「お待たせ! 木漏れ日亭特製『ルーク鹿肉とゴロゴロ野菜の煮込みポトフ』と、焼き立ての黒パンだよ!」
ドスン、とテーブルに運ばれてきたのは、湯気をもうもうと立ち上らせる木製の深皿と、香ばしい焼き色のついたパンだった。
「うわぁ……っ!!」
琴音がパッと目を輝かせる。
木皿の中には、じっくり煮込まれて角が丸くなった大きなジャガイモや人参、そして見たこともない深みのある赤身の肉がゴロゴロと入っていた。
黄金色のスープからは、ハーブと肉の旨味が混ざり合った、たまらない香りが漂ってくる。
(『ルーク鹿肉』……? 見知らぬ世界の食材……)
葵がスープを見つめた瞬間、頭の中でパッと澄んだ直感が走った。
神様から授かった【食】の加護(解体・調理解析)が発動したのだ。
(……安全。毒性なし。ルーク鹿は癖が少なく、高タンパクでビタミンが豊富。じっくり煮込むことで肉質が柔らかくなり、スープに深いコクを与える……最適な調理が施されている……!)
直感を通して伝わってくる情報に、葵は心の中で思わず感嘆の声を漏らした。
知識として「安全だ」と完璧に理解できるこの安心感。
見知らぬ異世界で口にする最初の料理として、これほど心強い加護はない。
「琴音、大丈夫よ。すごく身体に良くて、とっても美味しいご飯みたい」
「本当!? いただきまーす!」
琴音は待ちきれない様子で木のスプーンを手に取ると、熱々のスープと大きくカットされたお肉をすくって、口へと運んだ。
ハフハフと息を吐きながら、ゴクリと飲み込む。
その瞬間――琴音の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「……っ美味しい……!! お母さん、これ、すっごく美味しいよ!!」
「本当? 私もいただくわね」
葵もスプーンを伸ばし、スープと一緒に具材を一口含んだ。
(あ……優しい……!)
口の中に広がったのは、野菜の自然な甘みと、肉の深い旨味が凝縮された、驚くほど温かく滋味深い味わいだった。
肉は口の中でほろりと解け、臭みは一切ない。
染み込んだハーブの香りが鼻を抜け、冷えていたお腹の底から、じんわりと温かな熱が広がっていく。
黒パンをちぎってスープに浸して食べると、パンの香ばしさと旨味スープが合わさり、とびきりのご馳走へと変化した。
「うふふ……本当、美味しいわね……」
「うん……! なんか、すごく落ち着く味……」
琴音は夢中でスプーンを動かし、フハフハと頬を膨らませながら食べ進めていく。
その姿を見つめながら、葵の目頭がじんと熱くなった。
(よかった……。琴音に、ちゃんと温かいご飯を食べさせてあげられた……)
特売の豚肉を買って帰るはずだった、あの夕方。
一時は命を落とし、どうなることかと絶望しかけたけれど、今、こうして目の前で娘が「美味しい」と笑顔でご飯を食べている。
神様がくれた【食】の加護と、この温かな料理。
親として我が子のお腹を満たすことができたという達成感と安堵が、葵の胸を深く満たしていった。
「お二人さん、お口に合ったかい?」
空になった皿を下げるためにやってきた女将のマルタが、満足そうに微笑む。
「はい! ものすごく美味しかったです! 心まで温まりました」
葵が心からの感謝を伝えると、マルタは誇らしげに胸を張った。
「そいつは良かった! さあ、お腹が膨れたら二階のお部屋でゆっくり休みな。お湯の入った樽も置いてあるから、顔くらいは洗えるさね」
「ありがとうございます、マルタさん!」
二人は深く頭を下げ、木彫りの鍵を手に、二階の客室へと続く階段を上っていった。
◇
二〇四号室の扉を開けると、そこはこぢんまりとしながらも、手入れの行き届いた清潔な部屋だった。
柔らかそうなベッドが二つ並び、窓からは橙色の街灯が灯る静かな南通りが見下ろせる。
葵と琴音は顔を洗い、さっぱりとした心地でそれぞれのベッドへと潜り込んだ。
ふかふかのシーツの感触と、部屋を満たす木の香りに、溜まっていた一日の疲労が一気に押し寄せてくる。
「……ねえ、お母さん」
隣のベッドから、琴音の少し眠たげな声が聞こえてきた。
「なあに、琴音?」
「……今日、すごく怖かったし、びっくりしたけど……。お母さんが一緒で、本当によかった」
小さな呟き。
けれどそこには、自分を庇って命を賭けてくれた母親への、絶対的な信頼と愛が溢れていた。
葵は胸がキュッと締め付けられるような愛おしさを感じ、ベッドの中で琴音の方へと身体を向けた。
「お母さんこそ、琴音が無事で本当によかったわ。……どんな世界に行っても、お母さんが絶対琴音を守るからね。おやすみ、琴音」
「……うん。おやすみ、お母さん……」
規則正しい静かな寝息が、すぐに隣のベッドから聞こえ始めた。
葵は琴音の穏やかな寝顔を優しく見つめ、そっと瞼を閉じた。
(明日からは、この街で生きるための『お仕事』探しね。無理をせず、二人で手を取り合って……頑張りましょう)
異世界で迎える、初めての穏やかな夜。
温かな満腹感と我が子の温もりに包まれながら、葵もまた、深い安らぎの眠りへと落ちていった。
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