第36話:旅立ちの準備と、荷造りの一日
マルタへの報告を終えた翌日から、葵と琴音の日々は一気に慌ただしくなった。
「今日は、ギルドに行かなくちゃね」
朝食を終えると、葵は身支度を整えながら琴音に声をかけた。
「長期でお休みするための手続き、だっけ」
「ええ。黙って姿を消すわけにはいかないもの。きちんと筋を通しておかないと」
冒険者としてこれまで築いてきた信頼を、最後まで大切にしたかった。
「マルタさんへの報告が終わって、なんだか肩の荷が一つ下りた気がするね」
「そうね。でも、まだやるべきことは山積みよ」
指折り数えるように、葵は今日一日でやるべきことを頭の中で並べていった。
ギルドへの届け出、荷造り、そして残された日々をどう過ごすか。
考えることは多いはずなのに、不思議と気持ちは軽やかだった。
身なりを整えた二人は、いつも通りの道を通って冒険者ギルドへと向かった。
見慣れたはずの街並みが、いつもより少しだけ違って見える。
石畳の道も、行き交う人々の笑い声も、これから数えるほどしか目にできないのだと思うと、一つひとつが愛おしく感じられた。
◇
「長期不在の届け、ですか」
受付の眼鏡の職員は、書類を捲る手を止めて顔を上げた。
「はい。実は、遠くの町へしばらく発つことになりまして」
葵が事情を説明すると、職員は少し驚いた様子を見せたものの、すぐに落ち着いた表情に戻った。
「そうでしたか……。寂しくなりますが、承知いたしました。手続きの方法を、ご説明しますね」
職員は手際よく数枚の書類を取り出し、記入の仕方を丁寧に教えてくれた。
「こちらが、長期不在届けです。向かった先のギルドで登録の引き継ぎ手続きをしていただければ、これまでのランクや実績はそのまま反映されます」
「良かった……。一から出直しになるのかと、少し心配していました」
「ご安心ください。お二人ほどの実績があれば、どこの支部でも大歓迎されるはずですよ」
職員はそう言うと、机の引き出しから一枚の地図を取り出し、二人の前に広げてみせた。
「行き先は、湖と果樹園のある町でしたね。地図で見ると、ここからだと、街道沿いにこの辺りになります」
指し示された場所を、葵と琴音は身を乗り出して覗き込んだ。
「思っていたより、しっかりした町なんですね」
「ええ。規模はそう大きくありませんが、ギルドの支部もきちんとありますよ。困ったことがあれば、遠慮なく頼ってください」
丁寧な説明に、葵の不安が少しずつ和らいでいくのを感じた。
にこやかに言われ、葵は胸を撫で下ろした。
差し出されたペンを受け取り、葵は書類の空欄に一つずつ丁寧に文字を書き込んでいく。
氏名、ランク、これまでの主な功績。
欄を埋めるたびに、これまでの依頼の数々が、走馬灯のように脳裏をよぎった。
初めての薬草採取で手を震わせていた頃、寒波の中で街の人々のために奔走した日々。
たった数か月の出来事とは思えないほど、濃密な時間を過ごしてきたのだと、改めて実感する。
「随分と、書くことが多いんですね」
隣で書類を覗き込んでいた琴音が、感心したように呟いた。
「本当ね。改めて振り返ると、色々なことがあったなって」
しみじみと呟く葵の様子に、職員も優しく目を細めた。
「ギルド長には、もうお話しされましたか」
「まだです……。今日、これから伺おうと思っています」
「そうですか。……きっと、驚かれると思いますが」
職員は少し困ったように微笑んだ。
◇
応接室に通されると、ギルド長のバーロンはいつものように恰幅の良い体を椅子に預け、書類に目を通していた。
「おお、二人か。今日はどうした」
「実は、折り入ってお話が」
葵の硬い声色に、ギルド長は書類を置いて姿勢を正した。
「突然のお話で恐縮ですが、遠くの町へしばらく旅立つことになりました」
一瞬、部屋の空気が張り詰めた。
ギルド長は太い眉をぴくりと動かし、しばらく無言のまま葵たちを見つめていた。
「……そうか」
短く呟くと、ギルド長は大きく息を吐き出した。
「正直、驚いたよ。だが、お前たちがそう決めたのなら、口を出すことじゃないな」
ギルド長は椅子に深くもたれかかると、天井を見上げるように目を細めた。
「この間の感謝状は、伊達で渡したわけじゃない。ランクも上がって、街のためにも動いてくれた。文句のつけようがないさ」
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「迷惑なもんか」
ギルド長は豪快に笑うと、机をどんと叩いた。
「冒険者ってのは、そもそも自由な生き物だ。行きたい場所に行き、やりたいことをやる。それが一番さ」
力強い言葉に、葵の目頭が熱くなった。
「向こうの町でも、しっかり冒険者として活躍しろよ。グランベルの名を、恥じさせるんじゃないぞ」
「はい……! 必ず」
葵と琴音は、深く頭を下げた。
「それと、これを持っていけ」
ギルド長は棚の奥から一枚の紹介状を取り出し、葵に手渡した。
「向こうのギルドに顔を出す時、これを見せるといい。多少は、話が早くなるはずだ」
「ありがとうございます、バーロン様」
「よせよせ、様なんて柄じゃない。……達者でな」
ぶっきらぼうに言うと、ギルド長は照れくさそうに顔を背けた。
「あの、バーロンさん」
琴音がおずおずと口を開いた。
「なんだ、琴音ちゃん」
「グランベルのこと、ずっと忘れません。皆さんに助けてもらったこと、絶対に」
ギルド長は一瞬目を見開くと、ふっと相好を崩した。
「そうか。……お前さんも、立派になったもんだな」
ギルド長の声には、どこか目を細めるような優しい響きがあった。
「新しい町でも、その調子で頑張るんだぞ」
「はい……!」
琴音は元気よく頷いた。
応接室を出る間際、ギルド長が最後にもう一言付け加えた。
「困ったことがあったら、いつでも手紙をよこせ。冒険者仲間のよしみだ、力になってやる」
その言葉に、葵と琴音は顔を見合わせ、揃って深く頭を下げた。
◇
ギルドを後にした二人は、木漏れ日亭への帰り道を、ゆっくりと歩いた。
「良かった……。バーロン様、応援してくださって」
「うん。ちょっと怖い人かと思ってたけど、優しいね」
安堵の息を吐く琴音の頭を、葵はそっと撫でた。
「そういえば、依頼でよく一緒になった人たちにも、挨拶しておきたいね」
「そうね。特に、薬草採りで顔なじみになった人たちには」
道の途中、顔見知りの冒険者たちとすれ違うたびに、二人は足を止めて声をかけた。
「お、葵さんに琴音ちゃん。今日はどうしたんだい」
「実は、近々この街を離れることになりまして」
告げるたびに、驚きと寂しさの入り混じった反応が返ってくる。
「そうか……。寂しくなるが、達者でな」
「新しい町でも、頑張るんだぞ」
見送る人々の温かい言葉一つひとつが、葵の胸に静かに積み重なっていった。
「こんなに、たくさんの人と繋がりができていたんだね」
「ええ。この街での日々が、私たちにとってどれだけかけがえのないものだったか、改めて実感するわ」
しみじみと呟きながら、二人は木漏れ日亭への道を歩き続けた。
木漏れ日亭に戻ると、簡単な昼食を済ませ、午後は荷造りの時間に充てることにした。
自室のベッドの上に、旅で使う道具を一つひとつ並べていく。
窓から差し込む柔らかな陽射しが、雑然と広がった荷物を優しく照らしていた。
「まずは、必要なものを整理しましょうか」
「うん! 何から始める?」
「そうね……。まずは、フィニに確認しておきたいことがあるの」
葵はそっとフードの中を覗き込んだ。
「フィニ、聞きたいことがあるんだけど」
『なあに……?』
丸くなっていたフィニが、眠たげな目を開けて顔を出す。
「私たち、この街を出て、遠くの町に行くことになったの。フィニも、一緒に来てくれる?」
問いかけた瞬間、フィニの目がぱっと大きく見開かれた。
『もちろん……! フィニ、ずっといっしょだよ……!』
即座に返ってきた元気な返事に、葵と琴音は思わず顔を見合わせて笑った。
「ふふ、良かった。改めて聞くのも変だったかもしれないけど」
『ちがうよ……! きいてくれて、うれしい……!』
フィニは嬉しそうに身を弾ませると、葵の頬にすりすりと擦り寄った。
「フィニも一緒だと思うと、なんだか心強いね」
「ええ、本当に。これからもよろしくね、フィニ」
『うん……! よろしくね……!』
◇
改めて気持ちを確認し合った後、三人は荷造りの作業に戻った。
葵はストレージの中身を、頭の中で一つずつ思い浮かべていった。
これまで採集した薬草や、日持ちのする保存食、旅先で役立ちそうな道具の数々。
長年かけて少しずつ蓄えてきたものたちが、こうして並べてみると、思いのほか多いことに気づく。
「保存食は、いつもの半分くらいで十分かもしれないわ」
「あ、【住】の加護があるから、野営でも料理できるんだっけ」
「ええ。テントの中で、いつも通りの調理ができるものね。荷物を減らせるのは助かるわ」
『おうちのなかで、ごはんつくれるの、べんりだね……!』
フィニも嬉しそうに会話に加わってくる。
「本当ね。夜営の時も、ゆっくり眠れる場所があると思うと、心強いもの」
これまで緊急時の切り札としてしか使ってこなかった【住】の加護が、旅の間はきっと日常の心強い味方になってくれる。
そう思うと、【住】の加護のことを思うたび、旅への不安が少しずつ軽くなっていく気がした。
寝具も、日用品も、必要な分だけを厳選していく。
「あとは、新しい町で使うお店の道具かな」
琴音の言葉に、葵は少し悩ましげな表情を浮かべた。
「そうね……。でも、実際にお店を開くと決まったわけではないから、今はまだ最低限のものだけにしておきましょう」
「そっか。まずは、行ってみてから、だもんね」
二人で頷き合いながら、必要なものを一つずつ吟味していく作業は、思いのほか楽しかった。
「これは、絶対に持っていかなきゃ」
琴音がそう言って取り出したのは、貯金箱代わりに使っていた小さな瓶だった。
「ふふ、そうね。これがなくちゃ始まらないもの」
瓶の中で硬貨がからんと軽やかな音を立てる。
「あとは、思い出の品も少しだけ持っていきたいな」
琴音はそう言うと、棚の奥から小さな押し花のしおりを取り出した。
「それ、いつの間に作ったの?」
「前に、フィニと一緒に採った花で作ったんだ」
大切そうにしおりを見つめる琴音の横顔に、葵は思わず頬を緩めた。
「この鍋、旅先でも活躍しそうだね」
「そうね。あとは、琴音の勉強道具も忘れずに」
「あ、そうだった……!」
慌てて本棚から数冊の本を取り出す琴音の姿に、葵はくすりと笑った。
「他にも、忘れているものはないかしら」
葵は改めて部屋の中を見回した。
薬草図鑑、裁縫道具、そして木漏れ日亭で過ごした証のような、小さな飾り物の数々。
一つひとつを手に取るたびに、それにまつわる思い出が鮮やかに蘇ってくる。
「これも、持っていこうかな」
琴音が指差したのは、常連客からもらった小さな木彫りの人形だった。
「ふふ、大事にしてたものね」
「うん。お守り代わりに、旅の間も持っていたいの」
大切そうにそれを鞄へしまい込む琴音の姿を、葵は微笑ましく見守った。
日が傾き始めた頃、ベッドの上には、旅に必要な荷物が綺麗にまとまっていた。
「なんだか、こうして並べてみると、本当に旅立つんだなって実感が湧いてくるね」
「ええ、本当に」
窓の外に広がる夕焼け空を眺めながら、葵は静かに胸の高鳴りを感じていた。
『たびのじゅんび、ばっちりだね……!』
フィニが荷物の上にちょこんと乗り、満足げに胸を張る。
「ふふ、フィニも手伝ってくれてありがとう」
「これで、また一歩近づいたね」
琴音の言葉に、葵は大きく頷いた。
きちんと積み上げられた荷物を眺めながら、葵は静かに息を吐いた。
一つ支度を終えるごとに、曖昧だった旅立ちの輪郭が、少しずつはっきりとした形を帯びていく。
「あとは、出発の日を待つだけね」
「うん……! なんだか、待ち遠しいような、緊張するような」
複雑な表情を浮かべる琴音の肩を、葵はそっと抱き寄せた。
「大丈夫よ。何があっても、私たちなら乗り越えられるわ」
「うん、そうだね」
新しい町での暮らしへの期待と、慣れ親しんだ街を離れる寂しさ。
その両方を胸に抱きながら、三人は静かに旅立ちの日を待ち望んでいた。
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