第37話:グランベルよ、ありがとう
ひと月という日々は、思っていたよりずっと早く過ぎ去っていった。
「明日には、もう出発なんだね」
窓辺で荷物を最終確認していた琴音が、ぽつりと呟いた。
「ええ。あっという間だったわね」
葵はそう答えながら、この一か月の慌ただしさを振り返った。
ギルドへの届け出、荷造り、そして顔なじみへの挨拶回り。
やるべきことを一つひとつこなしているうちに、気づけば出発前夜を迎えていた。
夕暮れ時になっても、まだどこか実感の湧かない、不思議な心地がしていた。
窓の外から聞こえる街の喧騒も、いつもと変わらないはずなのに、耳に届く音の一つひとつが、いつもより特別なもののように感じられる。
「今夜は、マルタさんが何か企んでいるみたいな顔をしてたね」
「ふふ、私も気づいていたわ。何かしら」
朝から、マルタは厨房にこもりきりで、何やら忙しそうに動き回っていた。
「今日は特別な仕込みがあるんだよ」とだけ言って、詳しいことは教えてくれなかった。
「もしかして、私たちのために何か用意してくれてるのかな」
「そうかもしれないわね。でも、詮索するのも野暮というものよ」
くすくすと笑い合いながら、二人は最後の荷物確認を進めていった。
明日の朝には、隊商が街の外れに集まる予定になっている。
準備はほとんど整っていたが、いざとなると忘れ物がないか、何度も確認したくなってしまう。
「大丈夫、きっと万全よ」
葵の言葉に、琴音は大きく頷いた。
顔を見合わせて笑い合う二人の元に、階下から賑やかな声が響いてきた。
◇
「二人とも、早く降りておいで!」
マルタの呼び声に誘われるまま、葵と琴音は階段を降りていった。
食堂に足を踏み入れた瞬間、二人は思わず息を呑んだ。
いつもの木漏れ日亭の食堂が、色とりどりの花と、手作りの飾りで彩られていた。
テーブルには、見たこともないほど豪華な料理の数々が並んでいる。
「マルタさん、これは……」
「今夜は、あんたたちのための送別会さ! 盛大にやらせてもらうよ」
マルタは腕まくりをしながら、誇らしげに胸を張った。
食堂には、見慣れた常連客たちの顔がずらりと並んでいた。
「葵さん、琴音ちゃん、こっちこっち!」
顔なじみの冒険者が、席を手招きしてくれる。
「本当に、皆さん……」
込み上げる感情に、葵は言葉を詰まらせた。
「水くさいこと言うんじゃないよ。あんたたちのためなら、これくらい当然さ」
マルタはそう言うと、湯気の立つ大皿を次々とテーブルに並べていった。
こんがりと焼き上がった肉料理、瑞々しい温野菜の盛り合わせ、そして焼きたての大きなパン。
「今日は、これまで葵ちゃんたちが助けてくれたお礼に、腕によりをかけて作ったんだ」
「こんなに豪華で、いいんですか……?」
「いいんだよ。今夜くらい、思いっきり贅沢させておくれ」
からりと笑うマルタの様子に、葵の胸がじんわりと温かくなった。
◇
「乾杯といこうか! 二人の新しい門出に!」
マルタの音頭に合わせて、店内のあちこちからグラスが掲げられた。
「乾杯……!」
賑やかな声が響き渡り、宴が始まった。
「葵さん、これまで本当にお世話になりました」
「こちらこそ、いつも助けていただいて」
常連客たちと言葉を交わすたびに、これまでの日々が鮮やかに蘇ってくる。
薬草採りで一緒になった冒険者、市場でよく声をかけてくれた店主、寒波の時に助け合った近隣の人々。
一人ひとりとの思い出が、宝物のように葵の胸に積み重なっていた。
「琴音ちゃん、新しい町でも元気にな」
「はい……! ありがとうございます」
琴音も、涙をこらえながら精一杯の笑顔で応えていた。
「そういえば、葵さんが初めて依頼板の前でおろおろしてた時のこと、今でも覚えてるよ」
顔なじみの冒険者の一人が、懐かしそうに笑いながら言った。
「あの時は、右も左も分かりませんでしたから」
「今じゃ、すっかり頼れる先輩だ。俺たち、随分助けられたよ」
からかい半分、本心半分といった様子の言葉に、葵は照れくさそうに笑った。
別のテーブルでは、琴音を囲んで数人の常連客が話に花を咲かせていた。
「琴音ちゃんの作るお菓子、もう食べられなくなるのは寂しいなあ」
「今度、レシピを書いて渡しますね」
「本当かい! そりゃ嬉しいな」
賑やかな笑い声が、食堂のあちこちから絶えず聞こえてきた。
フードの中で大人しくしていたフィニも、和やかな雰囲気に誘われるように、そっと顔を覗かせた。
『みんな、たのしそう……』
「フィニも、少しだけ顔を出してみる?」
琴音がそっと囁くと、フィニは嬉しそうにこくりと頷いた。
普段は人目を避けがちなフィニも、この店に集う顔なじみたちの前でなら、少しくらい気を緩めても大丈夫なはずだった。
「あら、精霊様もお揃いだったのね」
近くの席にいた常連客が、目を細めてフィニに微笑みかけた。
『これまで、ありがとう……!』
「フィニも、皆さんにお礼を言いたいんだって」
琴音が小声で伝えると、常連客たちからも温かい笑い声が上がった。
◇
しばらくすると、扉が開いて新たな客が姿を見せた。
「あら、皆さん、お揃いで」
「おばさん……!」
行商人のおばさんが、両手いっぱいに果物を抱えて入ってきた。
「これ、お祝いだよ。あんたたちに、あの町のこと教えたのは私だったんだから、感慨深いもんだよ」
からりと笑うおばさんの言葉に、葵は思わず頬を緩めた。
「いつも良くしていただいて、本当に感謝しています。旅の準備でも、色々教えていただいて」
「なんの、お互い様さ」
おばさんはそう言うと、葵と琴音の手をぎゅっと握った。
「明日は、朝早くから待ってるからね。遅れないでおくれよ」
「はい、必ず! よろしくお願いします」
「こちらこそだよ。旅の間、退屈させないくらいには、賑やかにしてあげるさ」
からからと笑うおばさんの様子に、葵と琴音も思わず頬を緩めた。
「そういえば、護衛の人たちにも、明日紹介するね」
「楽しみです。頼もしい方々だと伺っているので」
「ああ、腕は確かだよ。安心して任せておくれ」
おばさんは自信たっぷりに頷くと、抱えてきた果物をテーブルの上にどさりと置いた。
「これは、皆で食べておくれ。今夜くらい、遠慮はいらないよ」
瑞々しい果実の香りが、ふわりと食堂に広がった。
◇
「失礼します、お邪魔しても?」
続けて姿を見せたのは、ギルドの眼鏡の職員だった。
「わざわざ来てくださったんですか」
「ええ、お二人の門出をお祝いしたくて。ギルド長からも、よろしく伝えてくれと言付かっています」
職員は柔らかく微笑むと、小さな包みを差し出した。
「これは?」
「道中で使える簡易的な結界札です。もしもの時のお守り代わりに」
「こんなものまで……。ありがとうございます」
深々と頭を下げる葵に、職員は照れくさそうに笑った。
「お二人の頑張りは、ずっと近くで見させていただきました。グランベルの誇りです」
その言葉に、葵の目頭がじんと熱くなった。
「長期不在届けの書類、無事に受理されましたので、ご安心ください」
「本当に、色々とお手数をおかけしました」
「いいえ、こちらこそ。お二人の担当ができて、光栄でした」
職員は丁寧にお辞儀をすると、名残惜しそうに食堂を見回した。
「新しい町でのご活躍、心よりお祈りしています」
深々と頭を下げるその姿に、葵と琴音も同じように頭を下げ返した。
◇
宴もたけなわとなった頃、マルタが皆を代表するように立ち上がった。
「今夜は、葵ちゃんと琴音ちゃんのために、皆で集まってくれてありがとう」
店内が、しんと静まり返る。
「この子たちがこの店に来たのは、ほんの少し前のことのようで、もうずいぶん昔のことのようでもある。それくらい、濃密な日々を過ごしてきたんだよ」
しみじみと語るマルタの言葉に、あちこちから頷く声が上がった。
「新しい町でも、きっと立派にやっていくはずさ。だから今夜は、寂しさよりも、たくさんの『おめでとう』を伝えたい」
マルタの言葉に合わせて、店内が温かい拍手に包まれた。
「それと、これは私からのささやかな贈り物さ」
そう言って、マルタは丁寧に包まれた小さな箱を二人に差し出した。
「開けてみてもいいですか?」
「もちろんさ」
葵がそっと蓋を開けると、中には木漏れ日亭の焼き印が入った、可愛らしい木製のスプーンが二本、丁寧に納められていた。
「これ、マルタさんの手作りですか?」
「ああ。暇を見つけては、こつこつ彫っていたんだよ。新しいお店を開いた時にでも、使っておくれ」
その心遣いに、葵の目からとうとう涙がこぼれ落ちた。
「マルタさん……。一生大切にします」
「大げさだねえ。まあ、それくらい、あんたたちには感謝してるってことさ」
照れくさそうに笑うマルタの目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。
「葵ちゃん、琴音ちゃん、行っといで! いつでも、ここがあんたたちの帰る場所だからね」
「はい……! ありがとうございます、本当に……」
込み上げる涙を堪えきれず、葵と琴音は深く頭を下げた。
◇
宴が終わり、常連客たちが名残惜しそうに帰っていった後、二人は静かに二〇四号室へと戻った。
かつて、右も左も分からないまま眠りについた、あの小さな部屋。
数え切れないほどの夜を過ごしてきたこの場所も、今夜が最後になる。
「なんだか、実感が湧かないね」
ベッドに腰掛けた琴音が、ぽつりと呟いた。
「そうね。明日、本当にここを発つのね」
窓の外には、いつもと変わらない静かな夜が広がっていた。
部屋の隅には、明日の出発に備えてまとめられた荷物が、静かに佇んでいる。
見慣れた家具も、使い込んだカーテンも、明日にはもう見納めになる。
そう思うと、何気ない部屋の景色一つひとつが、いつもより鮮やかに目に映った。
「今日、本当にたくさんの人が来てくれたね」
「ええ。改めて、この街でどれだけの人に支えられてきたか、実感したわ」
窓辺に並んで座り、二人はこの一年足らずの日々を、ゆっくりと振り返った。
初めて食べた温かいポトフ、ヒールグラスの見分け方を教わった森、寒波の中で奔走した日々。
一つひとつの記憶が、かけがえのない宝物のように輝いていた。
「本当に、お世話になったね」
「うん……。グランベル、ありがとう」
琴音の呟きに、葵は静かに頷いた。
『グランベル、たのしかったね……』
フードの中から静かに顔を出したフィニが、しみじみとした声で呟いた。
「フィニも、色んな思い出があるものね」
「うん……! みんな、やさしかった」
小さく鼻をすんとさせるフィニの頭を、琴音はそっと撫でた。
「これからも、たくさん思い出を作っていきましょうね」
「ええ、本当に」
三人はしばらくの間、これまでの日々を語り合いながら、穏やかな時間を過ごした。
「明日から、寝る前にフィニと話す時間も変わっていくのかな」
「ふふ、旅の間も、こうして三人で話す時間は大切にしましょうね」
葵の言葉に、フィニは嬉しそうに身を弾ませた。
『うん……! たびのあいだも、いっぱいおはなしする……!』
窓辺から差し込む月明かりが、三人の穏やかな表情を柔らかく照らしていた。
窓の外に瞬く星々を見上げながら、葵と琴音はしばらくの間、言葉もなく寄り添っていた。
明日からは、新しい景色と、新しい出会いが待っている。
けれど、この街で過ごした日々が消えることは、決してない。
「さあ、明日に備えて、そろそろ休みましょうか」
「うん……。おやすみなさい、お母さん」
「おやすみ、琴音」
ランプの灯りを落とすと、部屋は静かな闇に包まれた。
フードの中で丸くなっていたフィニが、小さく寝息を立て始める。
グランベルで過ごした最後の夜は、静かに、そして温かく更けていった。
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