第35話:マルタへの報告と、寂しさと祝福
隊商への同行の目処が立ってから、数日が過ぎた。
夜、部屋の隅に置かれた革袋を眺めながら、葵はここ数日、頭から離れずにいたことを口にした。
「そろそろ、マルタさんに話しましょうか」
「うん……。もう、先延ばしにはできないよね」
琴音の声には、緊張と覚悟が入り混じっていた。
旅の日取りも、隊商の詳しい予定も、少しずつ形になってきている。
これ以上黙っているのは、かえってマルタに対して不誠実な気がした。
「どう切り出したらいいのか、実は昨日からずっと考えてるの」
「私も。何から話せばいいのか、全然まとまらなくて」
琴音は膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
「いきなり『街を出ます』なんて言ったら、驚かせすぎちゃうかな」
「そうね……。でも、変に遠回しに言っても、かえって伝わりにくいかもしれないわ」
二人でああでもないこうでもないと話し合ってみても、これといった答えは出なかった。
「結局、正直に、自分たちの言葉で話すしかないのかもね」
葵の言葉に、琴音も静かに頷いた。
木漏れ日亭に来たばかりの頃、見知らぬ土地で心細さを抱えていた自分たちを、あれこれ詮索せずに迎え入れてくれたマルタの顔が、葵の脳裏に浮かんだ。
あの温かさに、どれだけ救われてきたことだろう。
だからこそ、きちんと自分の言葉で、感謝の気持ちごと伝えたかった。
「明日の夜、店じまいの後にお願いしてみましょう」
「うん……。ちゃんと、自分の言葉で伝えたいな」
窓の外には、静かな夜空が広がっていた。
覚悟を決めたはずなのに、葵の胸の奥には、言葉にできない重さがずっしりと居座っていた。
◇
翌日の夜、最後の客が席を立ち、木漏れ日亭の喧騒がすっかり静まった頃。
片付けを終えたマルタが、エプロンを外しながら伸びをした。
「今日も無事に終わったねえ。さて、あたしも一杯やって休むとするか」
「マルタさん、少しお時間よろしいですか」
葵の声の硬さに、マルタは手を止めて振り返った。
「おや、改まってどうしたんだい」
「実は、お話ししたいことがあって」
葵と琴音は、いつも三人で使っている隅のテーブルへとマルタを促した。
椅子に腰掛けたマルタの表情に、わずかな戸惑いが浮かぶ。
「なんだい、その顔。まさか、何か厄介事でも……」
「いいえ、そういうことでは……」
葵は一度深く息を吸い込んだ。
隣に座る琴音も、両手をぎゅっと握りしめている。
「私たち、この街を離れて、遠くの町に行こうと思っています」
一瞬、店内の空気が止まったように感じられた。
マルタは目を大きく見開いたまま、しばらく言葉を発しなかった。
「……街を、離れる……?」
「はい。以前、行商人のおばさんから聞いた、湖と果樹園のある町を見てみたいと思って、行ってみることにしたんです」
「そんな、急に……」
マルタの声が、かすかに震えた。
「急なお話で、本当に申し訳ありません。ずっと、いつ切り出せばいいか悩んでいて」
「隊商のおばさんに頼んで、次の出発に同行させてもらうことになりました。ひと月後に、街を出る予定です」
琴音も、覚悟を決めたように付け加えた。
マルタはしばらく黙り込んだまま、テーブルの木目をじっと見つめていた。
その沈黙が、葵には何より重く感じられた。
厨房の奥で鍋がことりと音を立てたが、誰も動かなかった。
店内に響くのは、壁掛け時計の針の音だけだった。
葵は膝の上で両手を握りしめながら、マルタの言葉を待った。
「……いつから、考えていたんだい」
ようやく絞り出すように、マルタが口を開いた。
「行商人のおばさんから、その町の話を聞いたのが始まりでした。でも、本気で考えるようになったのは、もう少し前からです」
「そうかい……」
短く相槌を打つと、マルタはまた黙り込んだ。
その横顔には、驚きと、まだ整理しきれない感情が入り混じっているように見えた。
◇
「……そうかい」
長い沈黙の後、マルタがようやく口を開いた。
その声は、いつもより低く、静かだった。
「あんたたちがこの店に来たときのことを思い出すよ」
「はい。右も左も分からない私たちを、マルタさんが助けてくださって」
「あの時は、正直、こんな夜更けにどこから来たんだいって、驚いたもんだよ」
冗談めかした口調だったが、マルタの目には、みるみる涙が浮かび始めていた。
「それから、あっという間だったねえ。薬草採りを覚えて、冒険者になって、街のみんなに頼られるようになって」
「マルタさんのおかげです」
「よしとくれ、そんな殊勝なこと言われると、余計に泣けてくるじゃないか」
マルタは袖口でぐいと目元を拭った。
けれど、涙は次から次へと溢れてくるようで、拭っても拭っても止まらなかった。
「お店を持ちたいっていう夢、前に聞いた時から、きっといつかこの日が来るんだろうなって、心のどこかで分かってはいたんだよ」
「マルタさん……」
「分かってはいたけど……。いざこうして聞かされると、やっぱり寂しいもんだね」
震える声で吐き出されたその言葉に、葵の胸も締め付けられた。
「私たちも、本当に寂しいです。マルタさんと離れるなんて、考えるだけで……」
言葉に詰まる葵の隣で、琴音も俯いたまま、肩を小さく震わせていた。
「私、マルタさんのこと、本当の家族みたいに思ってました」
その一言に、マルタの涙が、ますます止まらなくなった。
「なんだい、そんな……。あたしを、余計に泣かせる気かい」
そう言いながらも、マルタの口元には、確かな笑みが浮かんでいた。
「思えば、初めのうちは、慣れない土地でずいぶん心細そうにしていたっけね」
マルタは涙を拭いながら、懐かしそうに目を細めた。
「あの頃は、まさかこんなにしっかりした冒険者になるなんて、思ってもみなかったよ」
「私も、まさかこんなに色んなことができるようになるなんて、想像もしていませんでした」
葵も、当時を思い出して小さく笑った。
「琴音ちゃんだって、最初はずいぶん大人しかったのに」
「そうだったかな……?」
琴音が照れくさそうに頬を掻いた。
「今じゃ、すっかりお姉さんの顔だ。あんたたちの成長を、こんな近くで見せてもらえて、あたしは本当に幸せ者だよ」
しみじみと語るマルタの言葉一つ一つが、葵の胸に深く染み渡っていった。
◇
しばらく涙を拭っていたマルタが、ふいに顔を上げた。
その表情には、寂しさの奥に、何かを決意したような強さが宿っていた。
「あんたたち、その町で、ちゃんとお店を開くつもりなんだね」
「まだ、はっきり決めているわけではないんです。実際に行ってみて、良さそうならと思っていて……。でも、二人でずっと温めてきた夢ではあるんです」
「なら、あたしがうじうじしてる場合じゃないね」
マルタはぱんと自分の両頬を叩き、姿勢を正した。
「二人の夢なら、あたしは大応援するよ」
力強く言い放ったその声には、先ほどまでの震えは、もうなかった。
「マルタさん……」
「あんたたちがこの店で頑張ってきたこと、あたしが一番よく知ってる。誰よりも早く来て、誰よりも一生懸命で……。そんな二人が、自分の足で新しい一歩を踏み出そうっていうんだ。応援しないわけがないだろう」
まっすぐに向けられた言葉に、葵の目にも自然と涙が滲んだ。
「ありがとうございます……。マルタさんにそう言ってもらえるだけで、どれだけ心強いか」
「なんの。あたしにできることなんて、こうして送り出すことくらいさ」
マルタは照れくさそうに笑うと、ふと真剣な顔になった。
「一つだけ、約束しとくれ」
「なんでしょうか」
「無理だけは、しないこと。それと……」
一度言葉を切り、マルタは二人の顔をゆっくりと見つめた。
「困ったことがあったら、いつでも頼っておくれ。手紙でも、何でもいいから」
「はい、約束します」
葵と琴音は、揃って深く頷いた。
マルタはふと立ち上がると、カウンターの奥にある小さな棚から、使い込まれた一冊のノートを取り出してきた。
「これは、あたしが長年書き溜めてきた、味付けの覚え書きさ」
差し出されたノートの表紙には、長年大切に使い込まれてきたような雰囲気が漂っていた。
「そんな、大切なものを……」
「いいんだよ。あんたたちなら、きっとこの先も、もっと美味しいものを作っていけるだろうけど。何かの参考になればと思ってね」
葵はそっとノートを受け取り、震える手でページをめくった。
そこには、これまで木漏れ日亭で食べてきた数々の料理の、隠し味や火加減が、丁寧な字でびっしりと綴られていた。
「マルタさん……。私、一生大切にします」
「大げさだねえ。ただの古いノートだよ」
口ではそう言いながらも、マルタの瞳は、涙でうっすらと潤んでいた。
◇
「そうと決まれば、ひと月後の出発までに、しっかり準備を手伝わせてもらうよ」
涙を拭い終えたマルタは、いつもの調子を取り戻したように、力強く言った。
「保存食も、旅の間の分をたっぷり用意しといてやろう。あんたたちの得意分野だろうけど、たまには誰かに作ってもらうのもいいだろう」
「そんな、悪いです」
「いいんだよ。あたしにできる餞別くらい、受け取っておくれ」
有無を言わさぬマルタの様子に、葵と琴音は顔を見合わせて笑った。
「それと、旅先で困った時のために、この辺りの知り合いの店も紹介しとくよ。あたしの名前を出せば、悪いようにはしないはずさ」
「そこまでしていただけるなんて……」
「水くさいこと言うんじゃないよ。可愛い娘たちの門出だ、これくらい当然さ」
マルタの言葉に、琴音の目に、また新しい涙が浮かんだ。
「マルタさん、本当に……。私たち、マルタさんに出会えて、本当に良かったです」
「あたしの方こそ、あんたたちが来てくれて、この店が何倍も賑やかになったよ。感謝してるのは、こっちの方さ」
そう言って、マルタは二人の頭を、いつものようにくしゃりと撫でた。
その温かい手のひらの感触を、葵はしっかりと胸に刻み込んだ。
◇
「ここはいつでも、二人の実家なんだからね」
不意に、マルタがそう呟いた。
その言葉に、葵と琴音は、揃って顔を上げた。
「困ったら、いつでも帰っておいで。いつだって、両手を広げて迎えてやるから」
嚙み締めるようなその言葉に、葵の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。
「マルタさん……。ありがとう、ございます」
声を震わせながら、葵は深く頭を下げた。
隣で琴音も、堪えきれずに涙をぽろぽろとこぼしていた。
「マルタさん、ありがとう……。私、絶対、立派なお店を持って、また会いに来るから」
「ああ、待ってるよ。その時は、あたしにも新しいメニューを食べさせておくれ」
からりと笑うマルタの目にも、また涙が滲んでいた。
三人は、しばらくの間、言葉もなく、ただ静かに涙を拭い合っていた。
やがて、マルタが立ち上がり、厨房の方へと歩き出した。
「さて、こんな湿っぽい夜には、甘いものでも食べなきゃやってられないね」
そう言うと、奥から取っておきの木の実のケーキを持ってきて、三人分に切り分けた。
「今夜は特別に、三人でお祝いといこうじゃないか」
「祝い、ですか?」
「当たり前だろう。あんたたちの新しい一歩の始まりだ。寂しいのと同じくらい、めでたいことなんだよ」
マルタの言葉に、葵と琴音は涙の残る顔で、思わず微笑んだ。
木の実の香ばしさとほのかな甘さが口いっぱいに広がり、張り詰めていた心が少しずつ緩んでいくのが分かった。
「美味しい……。マルタさんのケーキ、これで食べ納めかと思うと、なんだか勿体ない気がします」
「食べ納めだなんて、水くさいことを言うんじゃないよ。出発するその日まで、たっぷり作ってあげるからね」
「ふふ、じゃあ、しっかり食べておかないと」
涙の跡が残る顔で笑い合う三人の様子を、店の灯りが柔らかく照らしていた。
甘く優しい味のケーキを頬張りながら、三人は静かな夜のひとときを分かち合った。
フードの中でずっと大人しくしていたフィニも、その温かい空気を感じ取ったのか、そっと顔を覗かせた。
『まるたさんとも、なかよし……』
「フィニも、マルタさんのこと大好きなんだって」
琴音がそっと耳打ちすると、マルタは嬉しそうに頬を緩めた。
「精霊様にまで好かれるとは、光栄だねえ」
窓の外には、変わらず穏やかな夜が広がっていた。
ケーキを食べ終えた後も、三人はしばらくの間、テーブルを囲んだまま席を立たなかった。
これまでの思い出話は尽きることなく、時には笑い、時にはまた涙ぐみながら、夜は静かに更けていった。
「あと、ひと月かあ」
しみじみと呟くマルタの言葉に、葵は小さく頷いた。
「はい。短いようで、きっとあっという間ですね」
「その分、悔いのないように過ごさなきゃね」
「はい。マルタさんと過ごせる時間を、一日一日、大切にします」
葵の言葉に、マルタは目を細めて微笑んだ。
寂しさと祝福、その両方を胸に抱きながら、三人はいつまでも語り合っていた。
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