第2話:大きな門と、2つのギルド
見下ろしていた丘を降り、二人は遥か遠くに見えていた巨大な石造りの防壁を目指して歩き出していた。
踏みしめる草原の柔らかさ、風が運んでくる土と緑の匂い。
見上げる空はどこまでも高く青く、時に見慣れない翼を持った大きな鳥のような影が、悠々と雲の間を横切っていく。
「……ねえ、お母さん。全然疲れないんだけど……」
横を歩く琴音が、不思議そうに自分の足元を見つめながら呟いた。
中学校の指定ローファーに紺のソックス。
本来なら未舗装の土や草の上を小一時間も歩けば、靴底は泥で汚れ、足首やふくらはぎにはズシリと重い疲労が溜まっているはずだった。
けれど、琴音の足取りは軽やかで、靴にも制服の裾にも土埃ひとつついていない。
「やっぱり……神様の言っていた通りね」
葵は自分の着ているエプロン姿の服と、運動靴を見下ろした。
日差しはそれなりに強いはずなのに、汗ばむような不快感もなければ、肌を刺すような寒さもない。
身体の周囲だけ、まるで透明なバリアで守られているかのように快適な温度が保たれている。
(【衣】の加護……成長適応と環境調整の服、かぁ)
服が破れず、汚れず、常に適温を保ち、成長に合わせてフィットする。
地味に思えたけれど、着替えも洗濯機もない見知らぬ異世界において、これがどれほどありがたいことか。
長年、家計のやりくりに頭を悩ませてきた葵には、痛いほど理解できた。
さらに葵は、神様から告げられた【住】の加護のことも思い出していた。
(『ここを我が家とする』と望めば、テントでもログハウスでも自由な姿で安全な家を呼べる……。外見がどうであれ、中は広々とした一軒家で、悪意のある者も魔物も入ってこられない結界が張られるって言っていたわね)
手元にはお金もないし、あそこの街で宿が借りられるかも分からない。
けれど、最悪の場合でも「琴音を野ざらしで眠らせずに済む」という絶対的な安全網がある。
その事実だけで、葵の心には大きな余裕が生まれていた。
「便利だけどさ……なんか変な感じ。お母さんさぁ……」
琴音はちらりと葵の横顔を伺うと、少し気まずそうに視線を泳がせた。
「……歩くの、早すぎ。私より背が高くなってない?」
「あ、ええと……そうかしら?」
言われて、葵は苦笑いを浮かべた。
四十歳の頃は、長年の立ち仕事で慢性の腰痛を抱え、歩くスピードもどこか重たげだった。
だが今の身体は、十八歳前後の元気そのもの。
身体が軽く、脚がすっと前に出る。長年悩まされていた腰の違和感も跡形もない。
川の水面に映っていた自分の顔――目尻のシワが消え、肌にパンとハリがあった若い頃の自分を思い出して、葵は少し胸を痛めた。
(神様は『動きやすい体』にしてくれたんだろうけどさ……琴音からしたら、複雑よね……)
十四歳の娘と、見た目年齢十八歳前後になった母親。
並んで歩けば、どう見ても歳の離れた姉妹か、同世代の友達にしか見えない。
親としての威厳も何もない姿になってしまったことに、葵自身も未だに大きな戸惑いを抱えていた。
「……お母さんが若くなったのはさ、その……嫌じゃないけどさ。……なんか、お母さんじゃないみたいで、ちょっと寂しい」
ぽつりと漏らされた琴音の本音。
葵は足を取り止め、琴音の小さな肩をぎゅっと抱きしめた。
「琴音。見た目がどれだけ変わっても、私の頭の中も、心の中も、あなたを一番に想う『お母さん』のままでいるからね。それは絶対に、何があっても変わらないわ」
「わ、分かってるよ、流石に大げさなんだから」
琴音は顔を真っ赤にして身を引いたが、葵の手を握り返す力はどこか嬉しそうだった。
◇
二人が歩みを進めるにつれ、遠くに見えていた灰色のかたまりが、圧倒的な圧迫感を持って目の前に迫ってきた。
城壁――いや、防壁だ。
高さは十メートル以上あるだろうか。頑丈そうな巨石が隙間なく積み上げられ、その中央には巨大な木製の二重門が鎮座している。
門の前には、大きな荷車を引く行商人や、見たこともない魔獣に跨がった人々が列を作っていた。
「すご……ファンタジーの城門みたい……」
琴音がぽかんと口を開けて見上げる。
葵もまた、その重厚な雰囲気にゴクリと唾をのんだ。
ここが、この異世界での人間たちの生活拠点。
自分たちがこれから生きていくための、最初の場所。
列の後ろに並び、ドキドキと高鳴る鼓動を押さえながら待つこと十数分。
ついに二人の番が回ってきた。
門の脇に設けられた番所には、金属の胸当てを着け、腰に長剣を差した屈強な男――門番の兵士が立っていた。
鋭い眼光で葵と琴音を上から下まで値踏みするように見据え、低く通る声で問いかけてくる。
「見ない顔だな。身分証明書か、通行証を見せてくれ」
(み、身分証明書……!?)
葵の背中に冷や汗が流れた。
日本の健康保険証やマイナンバーカードを見せたところで、この世界で通用するはずもない。
そもそも、手ぶらで転移してきた二人が、そんなものを持っているわけがなかった。
「あの……すみません。私達、わけあって……身分証明書を持っていないんです」
葵は咄嗟に琴音を自分の背中に庇うように一歩前へ出た。
我が子に危険が及ばないよう、無意識に体が動いていた。
門番の男は眉をひそめ、警戒の色を強める。
「身分証なしか。……おいおい、あんたら、一体どこから来たんだ? 服装は随分と上等そうだが、武器も持たずにそんな若い娘ふたりで旅なんて、正気じゃないぞ。どこかの貴族の家出か、それとも賊にでも追われて逃げてきたのか?」
門番の視線が、葵と琴音の綺麗な服と、怪しいほど無傷な様子に注がれる。
無理もない。物騒な魔物が徘徊する外の世界を、身分証も武器もなく、小綺麗な格好をした若い女ふたりが歩いてきたのだから。
(怪しまれてる……! 身分証がないと、街に入れてもらえない……!?)
最悪、街に入れなくても【住】の加護で野宿自体は安全にできる。
だが、街に入れなければ、この世界の情報も手に入らないし、仕事を探してお金を稼ぐこともできない。
琴音を健全に育てていくためにも、街に入る許可はどうしても必要だった。
葵は意を決し、門番の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「怪しい者ではありません! 本当なんです! 事情があって着の身着のままで遠くから逃げてきて……頼れるあてもなくて。でも、この子だけは絶対に守らなきゃいけないんです! お願いです、怪しい企みなんて絶対にありませんから……!」
葵の声には、なりふり構わず我が子を守ろうとする必死な「母親の覚悟」が宿っていた。
見た目は十八歳の若い娘に見える葵が、背中の少女を庇うその強い眼差し。
門番の男は一瞬毒気を抜かれたように目を見開き、それから「ふぅ」と深く溜息をついた。
「……分かった分かった、落ち着け。お嬢ちゃんが必死なのは伝わったよ」
門番は頭をガリガリと掻きながら、警戒を少し解いたように肩の力を抜いた。
「身分証なしか……。まぁ、その手すべすべの綺麗な指じゃ、荒事はやってねぇ顔だな。なに、妹か?」
「えっ……あ、いいえ! この子は私の――」
『娘です』と言いかけて、葵はハッとして口をつぐんだ。
見た目が18歳と14歳。ここで「私が母親です」なんて言えば、頭がおかしいか、何か裏がある詐欺師だと疑われてしまう。
「……私の、とても大切な家族です」
苦肉の策でそう答えると、門番はどこか納得したように頷いた。
「そうか。よし、特例で『仮通行票』を出してやる。だが、街に入ったらすぐに何らかの『ギルド』へ行って身分登録をしろ。ギルド証が身分証明書代わりになるからな。それがないとまともな宿にも泊まれんし、街を出るときも苦労するぞ」
「ギルド……ですか? どんなギルドがあるんでしょうか……?」
葵が尋ねると、門番は指を立てて教えてくれた。
「まあ、身分証を作るだけなら代表的なのは『商業ギルド』か『冒険者ギルド』のどちらかだな。商業ギルドは商人や職人が入る場所で、商売の許可や税金の管理をやってくれる。冒険者ギルドは魔物退治や素材採取、街の雑用なんかを引き受ける荒くれどもの集まりだ」
「商業ギルドと、冒険者ギルド……」
門番から仮通行票を受け取り、二人はお礼を言って門をくぐり抜けた。
◇
門を抜けた先には、活気あふれる異世界の街並みが広がっていた。
人々の話し声、馬車の車輪の音、どこからか漂ってくる香辛料と香ばしい焼き肉の匂い。
二人は石畳の端に立ち、これからどこへ向かうべきか考えを巡らせた。
「ねえ、お母さん。どっちのギルドに行けばいいのかな? 商業ギルドって、お店とかやる人が行くところだよね?」
琴音が葵の袖を引きながら尋ねる。
葵はあごに手を当て、真剣な思考の海へと没入していった。
(商業ギルドと、冒険者ギルド……それぞれのメリットとデメリットを冷静に考えなきゃ……)
まず【商業ギルド】。
響きは安全そうだ。商人や職人の集まりなら、物騒な暴力沙汰に巻き込まれるリスクは低いかもしれない。
だが、葵は思い返す。前世での社会人経験や知識。
商売を始めるには、売り物にする「商品」か、あるいは「開店資金」「店舗や屋台」が必要になるはずだ。
今の自分たちは、身一つ(とレジ袋ひとつ)で放り出された無一文。
売り物も資本もない状態で商業ギルドに行っても、登録料すら払えず、何もできずに追い返される可能性が高いのではないか。
一方で【冒険者ギルド】。
門番の言葉通り「荒くれ者の集まり」というイメージは正直怖い。
戦う力もない自分たちが、魔物と戦うような危険な仕事なんてできるわけがない。
……だが、さっき門番さんは『街の雑用なんかも引き受ける』って言っていたわね。
危険な討伐以外にも、街の中のお掃除や薬草積みみたいな初心者向けの安全な仕事もあるかもしれない。
手に職もない自分たちが手っ取り早く身分証を手に入れ、日銭を稼げるかもしれない。
(何も持っていない今の私たちが、今日明日の生活を成り立たせるために働くなら……出資が必要な商売より、身体一つで雑用や採取ができる『冒険者ギルド』の方が絶対に現実的だわ……!)
自分の手元を見つめる。
四十歳の主婦として培ってきた生き抜くための現実的な感覚が、弾き出した答えだった。
「琴音、決めたわ。『冒険者ギルド』へ行きましょう」
「えっ、冒険者!? 大丈夫なのかな……私、お化けとか魔物とか怖いよ……?」
不安そうに眉をひそめる琴音に、葵は優しく微笑んでその手をとった。
「大丈夫。魔物と戦うなんて無茶は絶対にしないから。さっき門番さんも『雑用もある』って言っていたでしょう? 冒険者ギルドなら、街のお掃除とか薬草摘みみたいな安全な仕事もあるはずよ。それに、最悪宿が借りられなくても、神様がくれた【住】の力で安全なお家が出せるんだから、焦らなくて大丈夫」
「あ……そっか! 門番さんもそう言ってたし、神様のお家もあるもんね!」
母親の迷いのない瞳と力強い言葉、そして「安全な家」という切り札を思い出して、琴音もほっと表情を緩ませた。
「門番さん、冒険者ギルドはメインストリートを真っ直ぐ進んだところにある『大きな剣と盾の看板』が目印だって言ってたわね。探しながら行きましょう」
「うん!」
二人は手をつなぎ、初めての異世界の街の喧騒の中へと、しっかりと足を踏み入れた。
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