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【連載版】神様に願ったのは衣食住  作者: あずきまんま
第1幕:異世界への第一歩と『衣食住』の確保

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第1話:青空と小さくなった手

せせらぎの音と、草の匂い。

顔に当たる風が柔らかく、肌を滑るように通り抜けていく。

水瀬葵は、ゆっくりと瞼を開いた。


(……私、どうなったの……?)


視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど澄み切った青空だった。

雲ひとつないその青さに目を細めながら、葵は体の底から湧き上がる違和感に息をのむ。

痛みがない。

毎日、立ち仕事の終わりにズキズキと痛んでいた腰も、慢性的な肩こりも、すべてが嘘みたいに消えていた。


「……琴音……っ!」


我に返り、飛び起きるように体を起こした。

すぐ隣の眩しい緑の草むらで、聞き慣れた愛おしい声が漏れる。


「……ん……おかあ、さん……?」


制服の胸元を少し崩した十四歳の娘、琴音だった。

どこにも傷はない。血も出ていない。

葵は荒い息を吐きながら膝をつき、娘の細い肩を力いっぱい抱きしめた。


「よかった……! よかった、無事だったのね……っ」


「痛いよお母さん、力強すぎるってば……。それに、ここどこ……?」


眉をひそめる琴音の声を聞きながら、葵は込み上げる胸の熱さを必死に押さえていた。

あの瞬間の記憶と、そして――あの真っ白な空間での出来事が、鮮明に脳裏へとなだれ込んでくる。




――平日の夕方、スーパーの買い物帰り。


特売の豚肉や野菜が詰まったずっしりと重いレジ袋を下げ、部活終わりの琴音と並んで歩いていた。

「今日の夕飯、何にする?」「えー、お肉がいい」なんて、いつものたわいない会話。

横断歩道を渡りかけたその時、激しい金属音と甲高いブレーキ音が響いた。

視界の端で暴走してくる車をとらえた瞬間、葵の体は思考より先に動いていた。

両手の荷物を投げ捨て、琴音の小さな身体を抱きすくめ、自分の背中で猛烈な衝撃を受け止めたのだ。

視界が激しく揺れ、全身を灼熱の痛みが襲い、そして――暗転。

あの猛烈な衝撃。車に叩きつけられた感触。

普通なら、生きていられるはずがない。

冷や汗が背中を伝うのを感じながら、葵の意識はあの白い空間での出来事をしっかりと手繰り寄せていた。





どこまでも続く真っ白な空間で葵が目を覚ました時、隣には気絶して静かに呼吸をする琴音が横たわっていた。

周囲に壁も天井もなく、病院でも事故現場でもない。

わけが分からず、困惑と不気味なほどの静けさに手足を震わせていると、どこからか暖かく澄んだ気配が満ちてきた。


目の前の光が収束し、現れたのは光の粒子でできた定かな形を持たない神秘的な存在。


『……恐れることはありません、迷い子よ。困惑するのも無理はないでしょう』


頭の中に直接響いてくる朗らかな声に、葵は掠れた声でどうにか言葉を絞り出した。


「あ、あなた……誰なんですか……? ここは……一体……?」


『私はこの世界の理を統べる者……あなたがたの言う「神」と呼ばれる存在です。そしてここは、現世と来世の狭間にある場所』


突飛すぎる言葉に頭が理解を拒絶しようとしたが、神様と呼ばれた光は静かに、だがはっきりと事実を告げた。


『どうか落ち着いて聞いてください。……あなたの肉体は、元の世界で命を落としました』


「……え……?」


死んだ。


その二文字が脳内でリフレインした瞬間、一気に血の気が引いていくのが分かった。

事故の瞬間の絶望的な衝撃。全身を貫いた激痛。

自分が死んだという事実は、恐ろしいほどすんなりと腑に落ちてしまった。


(私が……死んだ……?)


だが、自分自身の死を理解した次の瞬間、葵の心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。

自分は背中で衝撃を受け止めた。じゃあ――私が庇ったあの子は? 琴音はどうなったの!?

猛烈なパニックに襲われ、葵は目の前の神様に向かって必死に声を荒らげた。


「つ、追いついていなくてすみません……! でも、一つだけ教えてください! 私の娘は……! 琴音はどうなったんですか!?」


必死な葵に、神様は包み込むようなトーンで答えた。


『あなたの娘の魂もまた、あなたと共にここにあります。……あの子もまた、あの事故で命を落としました』


「っ…………!!」


世界が、真っ暗に塗りつぶされた。

私が庇ったのに。あの子を守るために背中を出したのに。助からなかった。守れなかった。

罪悪感と絶望で胸が押し潰されそうになり、葵はなりふり構わずその場に膝をつき、必死に頭を擦り付けた。


「お願いです……! お願いです、神様……っ! 私の命なんてどうなったって構いません! だから……だからあの子だけは! 琴音だけでも生き返らせることはできませんか……!?」


声が激しく震え、ボロボロと涙が床を濡らしていく。

自分はもう四十歳だ。未練なんてない。だけどあの子はまだ十四歳なのだ。これからいくらでも人生を楽しめるはずだったのに。

必死に命乞いをする葵の上に、神様の温かな声が降り注いだ。


『……面を上げなさい、母親よ。安心しなさい。最期の瞬間に我が身を投げ打ち、愛しき我が子を庇い抜いたあなたの強い想い……それがあまりに美しく、私はあなた方ふたりの魂をこの場所へ引き寄せたのです』


神様は穏やかに光を揺らした。


『元の世界へ生き返らせることは理に反するため叶いません。ですが、あなた方を広大な自然と生命に満ちた異世界へと送り出すことはできます。……異世界は、あなたがたが今まで生きてきた世界とは異なります。そのため、貴方達が生きるための一助となるように能力を授けようと思います。剣の才や魔法の才など、望むものを授けようと思いますが?』


元の世界に戻ることはできない。けれど、琴音と一緒に、二人で生きていける。

その事実を知り、葵は掠れた息を吐き出しながら涙を拭った。

探すように振り返った視線の先で、無事な姿で横たわる琴音の温もりを確認し、胸を撫で下ろす。

そして、神様からの親身な提案に対し、浮き立つこともなく、深々と一息をついて頭を振った。

四十歳まで女手一つで生きてきた。自分の服を買うことすら我慢し、毎月の家賃と琴音の将来のことばかり考えて働いてきた現実的な毎日。

剣の才能をもらっても、魔法を使えても、四十の体で怪物と戦うなんて無茶だし、危険な目や争い事に巻き込まれたら元も子もない。

だからこそ、葵が口にしたのは、どこまでも泥臭く切実な「お母さんとしての本音」だった。


『……そんな大層な才能はいりません。四十の体で戦うなんて無茶ですし、争い事なんてごめんです。……ただ、お願いです。この子が二度と寒さに凍えず、お腹をすかせず、安心して眠れる「衣・食・住」の保障だけをください』


葵の答えを聞き、神様の気配がかすかに和らいだ。


『ふふ……与えられたチャンスで願うのが、世界を救う力ではなく、我が子の当たり前の幸せか。よいでしょう。その切なる願い、確かに聞き届けました』


神様は優しく光を明滅させながら、葵の願いに応えるように言葉を重ねた。


『あなた方に「衣食住の保障」を授けましょう。……【衣】着るものはどのような環境でも快適な温度を保ち、破れず汚れることもありません。娘の成長にも寄り添い続けるでしょう。……【食】見知らぬ世界の食材の安全や最適な調理法をあなたの直感が教えてくれます。手にしていた調味料も尽きることがありません。……そして【住】。あなたが「ここを我が家とする」と望めば、小さなテントでもログハウスでも、思い描く姿で安全な家を召喚できます。外観がどうあれ、中に入れば広々とした一軒家の快適な空間が広がり、いかなる魔物も悪意を持つ者も寄せ付けぬ絶対の結界で守られます』


「そんなことまで……ありがとうございます……っ!」


葵が深々と頭を下げると、神様はどこか悪戯っぽく声を潜めた。


『それに……四十の体で戦うのは無茶、と言いましたね? 愛しい我が子を守り抜くためです、一番動きやすく健やかなお姿でお送りするとしましょう。……さあ、新しい世界でお幸せに』





――そうして目を覚ましたのが、この緑豊かな丘の上だった。


足元に視線を落とすと、事故直前に投げ捨てたはずのスーパーのビニール袋が、ぽつんと転がっていた。

中を覗き込めば、買い込んだばかりの醤油やみりん、豚肉や野菜が、綺麗な状態で収まっている。

あの神様との対話と、授けられた「衣食住の加護」は、間違いなくここにあるのだ。


「ねえ……お母さん。ここ、どこなの?」


回想から現実へと戻された葵の耳に、不安に満ちた琴音の声が届く。

琴音は体を起こし、あたりを見回しながらしきりに首を傾げていた。


「私達、スーパーの帰りだったよね……? 横断歩道で大きい音がして……お母さんに急に抱きつかれて……それから……」


記憶を手繰り寄せようと眉を寄せ、琴音は自分の手を、そして着ている制服をじっと見つめた。


「なんで痛くないの? あの車、絶対ぶつかったよね? 病院でもないし……それに、この景色……何? 周りに家も道路もないよ……?」


矢継ぎ早に投げかけられる当然の疑問。

事故の直前まで日本で普通に暮らしていた十四歳の少女にとって、目の前に広がる大自然も、怪我一つない自分の身体も、理解の範疇を超えていた。

混乱と恐怖が混ざり合った瞳で、琴音はすがりつくように葵の顔を覗き込んだ。

しかし、そこで琴音の言葉がピタリと止まる。

「ここどこ? なんでここにいるの?」という質問すら吹き飛ぶほどの、更なる異変に気づいてしまったからだ。


「……え?……待って……お母さん……?」


「え? 何が……?」


「何がって……声も、なんか高いし……ていうか、その顔……誰……!?」


言われて、葵は自分の手元に目をやった。

いつもなら長年の水仕事でカサつき、少し節が太くなっていた四十歳の自分の手。

だが、そこにあるのは、白くしなやかで、シワひとつない滑らかな掌だった。


「え……? ちょっと、待って……」


背中に冷や汗が伝わるのを感じながら、葵は慌てて丘の脇を流れる小さな川へ駆け寄った。

澄んだ水面を覗き込む。

そこに映っていたのは――


「……嘘、でしょう……?」


目尻の小ジワも、疲れて少し落ちくぼんでいた頬も消えていた。

そこにいたのは、肌にパンと張りがあり、かつてアルバムの写真でしか見たことがない、十八歳前後の自分自身の姿だった。


『一番動きやすく健やかなお姿でお送りするとしましょう』


神様の言葉が頭の中で鮮明に蘇る。

まさか神様、「動きやすい体」として、一番元気だった頃の肉体に戻してくれたというのだろうか。


「お母さん……なの……? 昔見せてもらった写真と、そっくりだけど……」


後ろから恐る恐る近づいてきた琴音が、引きつった声で呟く。

十四歳の琴音と、見た目年齢十八歳前後になった葵。

並んで立つと、母娘というよりはどう見ても歳の離れた姉妹にしか見えなかった。


「琴音、落ち着いて聞いてね……! 見た目はこうだけど、中身は間違いなくあなたのお母さんだから! 毎日のお弁当の卵焼きは甘い派だし、琴音が小三の時に書いた『肩たたき券』を大事にお財布に入れてる、あのお母さんだから!」


「わ、わかったから! 大声で恥ずかしいこと言わないでよ!」


琴音は真っ赤になって目を背けたが、その瞳には戸惑いと同時に、どこか寂しげな色が浮かんでいた。

事故の恐怖、見知らぬ場所、そして苦労ばかりかけていた母親が急に若返ってしまったことへの混乱と、自分が置いていかれてしまうような、かすかな不安。

葵は胸がキュッと締め付けられるのを感じ、琴音の素直じゃない手を優しく包み込んだ。


「見た目がどう変わろうと、私が琴音のお母さんであることは一生変わらないわ。……絶対に、あなたを守るからね」


「……うん」


琴音は小さく頷き、ギュッと握り返してきた。

その手の温もりと柔らかさだけは、間違いなくいつもの、愛おしい我が子のものだった。


「ねえ……それで、結局私達はどうなっちゃったの? 事故で……私達、どうかなっちゃったの……?」


改めて琴音が、震える声で問いかけてくる。

気絶していた琴音には、あの真っ白な空間も、神様とのやり取りの記憶もない。

葵は琴音の目を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと言葉を選びながら語りかけた。


「驚かないで聞いてね。……私達、あの事故で本当は命を落としたの」


「……え……?」


「でもね、不思議な神様が現れて……私達の命を助けて、二人で生きていくための新しい場所へ送ってくれたの。この服が暑くも寒くもなくて汚れないのも、温かい寝床が作れるのも、その神様がくれた『特別な力』のおかげなのよ」


「死んだ……? 私たちが……? じゃあ、ここって日本じゃないの……? この服が快適なのも、お母さんが若返ったのも、その神様ってやつの仕業なの……?」


突飛すぎる話に琴音は目を丸くしていたが、目の前の若返った母親の姿と、怪我一つない自分の身体という紛れもない現実を前に、息を呑んで必死に事実を飲み込もうとしていた。


「そう。だから大丈夫。どんな世界に行っても、お母さんが絶対琴音を食べさせて、守ってみせるから」

「……何それ。私だけ中学生のままで、お母さんだけ若返っちゃってさ……ずるいじゃん」


琴音は照れ隠しのように不器用につむじを向けたが、葵の手を握る力は緩めなかった。





一通りの混乱が落ち着くと、途端にあたりを覆う静寂が現実味を帯びて迫ってきた。

葵は琴音の手を握り直すと、大きく息を吸い込み、ぐるりと周囲を見渡した。

どこまでも広がる青々とした草原。

背後にそびえる、見たこともないほど巨大で雄大な山脈。

風に乗って運ばれてくるのは、土と青草の香りだけで、排気ガスの匂いも車の音も一切しない。


(本当に……日本じゃないんだ。こんな見知らぬ場所で、これからどうやって生きていけばいいんだろう……)


重くのしかかる現実に、葵の胸に一瞬だけ漠然とした不安が押し寄せる。

お金もない。言葉が通じるかも分からない。地図も知識もないのだ。


「ねえ……お母さん。これから……どうしようか……?」


葵の不安を察したのか、琴音の声が少し小さく震えていた。

その足元は、見慣れた中学校のローファーのままだ。

自分を頼りにして握りしめてくる細い手の温もりを感じた瞬間、葵の心の迷いは吹き飛んだ。

不安がっている場合じゃない。自分がしっかりしなければ、この子を守れない。

葵は気を引き締め直し、丘の頂からさらに遠くへと視線を走らせた。

広大な草原の先、水平線の手前あたり。

緑の絨毯の中に、ぽつんと灰色に固まった「何か」が見えた。

目を凝らしてよく見ると、それは見上げるほど巨大な石造りの防壁であり、その内側に整然と並ぶ無数の建物の屋根だった。


「琴音、見て。あそこに……何か大きな壁みたいなものが見えるわ」


「え……? あ、本当だ……すごく遠くだけど、建物みたいなのがある……」


「きっとあそこは人のいる街よ。まずはあそこを目指して歩いてみましょう。行けば何か分かるかもしれないし、住む場所や食べ物の手がかりもあるはずだから」


葵は足元に転がっていたレジ袋を、しっかりと持ち直した。

手に伝わる醤油ボトルの重みと感触。

見た目は若返ってしまっても、自分は四十歳の精神を持つ、一人のシングルマザーだ。

この過酷かもしれない異世界で、我が子に温かいご飯を食べさせ、安全な寝床を確保する。

その覚悟だけは、どんな姿になろうと少しも揺らいでいなかった。


「……うん。行こう、お母さん」


二人は風がそよぐ青々とした丘を降り、遠くに見える巨大な街の防壁を目指して、確かな一歩を踏み出した。






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