第17話:思春期のモヤモヤと、温かい抱擁
市場からの帰り道、雑貨屋の店先で、若い店員に声をかけられた。
「お姉さん、いつも綺麗だね。よかったら今度、お茶でもどうです?」
「あら、ふふ、ありがとう。でも今日は、妹と一緒だから」
葵は困ったように笑いながら、やんわりとかわした。
「へえ、仲良し姉妹なんですね。妹さんも可愛いし」
「妹」という言葉を、葵は否定も肯定もせず、曖昧な笑みだけを返した。
母親だと名乗れば、驚かれた上に、あれこれ説明を求められて話が長くなる。
面倒事を避けたい時は、こうしてやり過ごすのが一番楽だった。
そう分かってはいても、繰り返されるたびに、その受け流し方が板についていく自分に、葵自身も小さな違和感を覚えていた。
軽く会釈をして、葵は歩き出す。
けれど琴音は、その場に立ち尽くしたまま、何も言えずにいた。
「琴音、行きましょう」
「……うん」
促されるまま歩き出したものの、心のどこかにもやもやとしたものが残っていた。
この世界に来てから、何度となく繰り返されてきたやり取りだった。
ギルドの依頼主に、市場の店主に、道行く人に。
そのたびに葵は「妹なんです」「大切な家族です」と、母親だとは名乗らずにやり過ごしてきた。
最初の頃は、それも仕方のないことだと分かっていた。
けれど今は、繰り返されるたびに、じわりと胸の奥が重くなっていく気がした。
自分だけが、あの日から何も変わっていないような気がしてしまうのだ。
◇
その夜、琴音はいつものように、こっそりベッドを抜け出してフィニと練習をしようとした。
「えっと……風の匂いとか、肌に触れる感じ……」
目を閉じ、手のひらを上に向ける。
けれど、いくら待っても、あの夜に感じたような手応えはやってこなかった。
「……全然、集中できない」
『どうしたの、琴音? 元気ない……?』
心配そうに顔を覗き込んでくるフィニに、琴音はぎこちなく笑ってみせた。
「ううん、なんでもない。ちょっと今日は、調子悪いだけ」
そう言いながらも、頭の中では、昼間の店員の言葉が何度も繰り返されていた。
(姉妹にしか見えない、か……)
分かっていたはずのことなのに、改めて言葉にされると、なぜかひどく心が痛んだ。
その夜、結局一度も風を感じることができないまま、琴音は練習を切り上げた。
◇
それから数日、琴音の元気のなさに、葵は気づかないふりができなかった。
食事中もどこかぼんやりしていたり、話しかけても上の空だったりすることが増えていた。
「琴音、最近少し元気がないみたいだけど……何かあった?」
夕方、部屋で二人きりになったところで、葵はそっと切り出した。
「……別に、何もないよ」
「そう。でも、無理に話さなくてもいいけれど……お母さんは、いつでも聞く準備できてるから」
優しく背中を撫でられた瞬間、琴音の中で堪えていた何かが、静かに崩れた。
「……お母さんは、平気なの?」
「え?」
「みんなに、お姉さんだって言われて。私だけ、置いていかれてるみたいで……」
言葉にした途端、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「本当は、ずっと怖かったの。お母さんが若返って、なんだか私のお母さんじゃなくなっちゃったみたいで……」
震える声で、琴音は溜め込んでいた思いを吐き出した。
葵は何も言わず、ただ黙って琴音の言葉に耳を傾けていた。
「お母さんの役に立ちたいって思って、こっそり魔法の練習もしてたけど……全然上手くいかなくて。私、本当に情けなくて……」
嗚咽混じりの声が、部屋の中に静かに響いた。
「何か一つでも、私にしかできないことを見つけられたら、お母さんの隣にいる自分に、ちゃんと胸を張れる気がしたの。それなのに……」
言葉は最後まで続かず、代わりに大きく肩が震えた。
胸の奥に押し込めていた不安が、堰を切ったように溢れ出していく。
◇
葵は琴音の体を、そっと、けれどしっかりと抱き寄せた。
「琴音、聞いて」
涙で濡れた琴音の頭を、優しく撫でながら、葵は静かに、はっきりと告げた。
「見た目がどんなに変わっても、私はずっと、琴音のたったひとりのお母さんよ。それだけは、絶対に変わらない」
「……本当に?」
「本当よ。あなたを産んでから今まで、ずっとそう。これから先も、ずっとそう」
抱きしめる腕に、少しだけ力がこもる。
「それに、魔法の練習だって、たった数回でできるようになる方が特別なの。焦らなくていいのよ」
「……うん」
「琴音がこっそり頑張ってくれてたこと、本当は前から気づいてたのよ。無理して隠さなくてもよかったのに」
「だって、まだ何もできてないのに、心配かけたくなかったんだもん」
拗ねたような声に、葵は思わず頬を緩めた。
「そういうところ、本当にお母さん譲りね」
くすりと笑う葵の胸に顔を埋めたまま、琴音はしばらくそのまま身を委ねていた。
温もりに包まれているうちに、胸の奥にわだかまっていた不安が、少しずつ溶けていくのを感じる。
「ありがとう、お母さん」
「こちらこそ、話してくれてありがとう」
しばらくの沈黙のあと、琴音がぽつりと呟いた。
「私、また今夜、練習してみようかな」
「ふふ、無理はしないでね」
「うん。でも、今度は焦らずに、ゆっくりやってみる」
窓の外に浮かぶ月明かりが、寄り添う二人をやわらかく照らしていた。
その夜、琴音の手のひらの上には、以前よりもほんの少しだけ長く、優しい風が留まっていた。
翌朝、いつものように身支度を整えながら、琴音は鏡越しに葵と目が合うと、自然と笑みがこぼれた。
「今日もよろしくね、お母さん」
「ええ、よろしくね」
昨夜のことが嘘のように、その声にはもう曇りがなかった。
たとえ見た目が変わっても、二人を繋ぐ絆は、何一つ揺らいでいないのだと、琴音は改めて実感していた。
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