第15話:市場の女将さんと、主婦の知恵
朝の澄んだ空気の中、葵と琴音はいつものように市場へと向かった。
石畳の通りに軒を連ねる屋台からは、焼きたてのパンの匂いや、干し肉の燻した香りが漂ってくる。
「今日は何を買おうかしら」
「お野菜が安いといいね」
顔なじみになった青果店の主人に挨拶をしながら、新鮮なトマトによく似た赤い野菜をいくつか見繕う。
「お、お嬢さんたち。今日のはとびきり甘いよ」
「本当ですか? それじゃあ、少し多めにいただこうかしら」
そんな他愛もないやり取りを挟みながら、市場をのんびりと巡っていく。
すっかり慣れた通りを歩いていると、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「ああもう、こんなに残っちゃって……どうしたもんかねぇ」
声のする方を覗くと、隊商で各地を巡りながらこの市場にも定期的に出店している行商人のおばさんが、山のように積まれた野菜を前に、困り顔でため息をついていた。
以前から何度か買い物をさせてもらっている、気さくで頼りになる顔なじみだった。
「どうしたんですか?」
「ああ、葵ちゃんに琴音ちゃん。実はね、隊商の予定が急に早まっちゃって、仕入れた野菜がこんなに余っちまったんだよ。悪くなる前に何とかしなきゃと思ってるんだけどねぇ」
見れば、大根や人参、キャベツによく似た葉野菜が、籠からあふれるほど積み上がっている。
このままでは、数日のうちに傷んでしまいそうな量だった。
「隊商の旅先で仕入れが上手くいきすぎちまってねぇ。まさかこんなに早く街に戻ることになるとは思わなかったんだよ」
おばさんは困り顔のまま、籠の野菜を眺めてため息をついた。
「捨てるのは忍びないし、かといって一人じゃとても食べきれないしねぇ」
その様子を見て、葵の中で前世の記憶がふと蘇った。
特売の日にうっかり買いすぎて、冷蔵庫がパンパンになったことが何度もあった。
そのたびに知恵を絞って、傷ませないよう工夫してきたものだった。
◇
「それなら、日持ちする方法があります」
葵が声をかけると、おばさんは意外そうに目を丸くした。
「日持ちする方法?」
「はい。酢漬けにすれば数日から一週間くらい、天日で干せば一か月近く保存できるようになるんです」
前世で、特売の野菜を買いすぎた時によく使っていた知恵だった。
「へえ……! そんな方法があるのかい」
「よかったら、少しやり方をお見せしましょうか」
「ぜひ頼むよ! こんなにあると、正直途方に暮れてたんだ」
おばさんの申し出を受け、葵たちは余った野菜の一部を手に、木漏れ日亭の厨房を借りることにした。
◇
「まずは酢漬けから。水と酢を同じくらいの割合で合わせて、砂糖と塩を溶かしながら軽く煮立てるんです」
鍋に水と酢を注ぎ、砂糖と塩を加えて火にかける。
ふつふつと沸き立ったところで火を止め、熱いままの漬け液を用意した。
「野菜は食べやすい大きさに切って、瓶に詰めておきます」
人参は拍子木切りに、キャベツはざく切りにして、それぞれ清潔な瓶に詰めていく。
「私も切るの手伝うね」
琴音も包丁を手に、人参を丁寧に切り分けていった。
その手つきは、初めて包丁を握った頃とは比べ物にならないほど様になっている。
「瓶はしっかり熱湯で消毒しておくのも、長持ちさせるコツなんです」
「そこまで気を遣うものなのかい」
「はい。ここで手を抜くと、傷むのが早くなってしまうので」
「あとは、熱いうちにこの漬け液を注ぐだけ」
とろりとした音を立てて液が瓶を満たしていくと、酸味を含んだ爽やかな香りがふわりと立ちのぼった。
「これで、二、三日もすれば美味しく食べられるようになりますよ」
「へええ、こんなに簡単なのかい」
おばさんが感心したように瓶を覗き込む。
「もう一つは、干し野菜です」
葵は大根と人参を薄切りにし、竹製の網の上に重ならないように並べていく。
「こうして日当たりのいい場所に置いて、日中はしっかり干して、夕方には取り込む。それを一日か二日繰り返すと、しっかり乾いて長持ちするようになります」
「なるほどねぇ。天気のいい日を選んでやればいいのか」
「はい。汁物や煮物に戻して使えば、旨みもぎゅっと詰まって美味しいんです」
「私も手伝う!」
琴音も張り切って野菜を薄切りにし、網の上に並べていった。
「薄すぎても濃すぎても、乾き方にムラが出ちゃうから、なるべく同じ厚さに揃えるのがコツよ」
「うーん、難しい……」
慣れない手つきながらも、琴音は真剣な表情で包丁を動かし続けた。
出来上がった網を、日当たりのいい厨房の裏手にそっと並べる。
「これを夕方までこのままにして、日が落ちる前に取り込むんです」
「毎日の手間はかかるけど、それだけの価値はありそうだねぇ」
作業を見守っていたおばさんは、感心しきりといった様子で何度も頷いていた。
「葵ちゃんは本当に、色んなことを知ってるんだねぇ」
「前世……昔、家計をやりくりしていた頃の知恵なんです」
はにかむように答える葵に、おばさんは温かい笑みを返した。
「ありがたいよ。これなら無駄にせずに済む」
前世では、家計をやりくりする知恵など、誰かに褒められることなどほとんどなかった。
けれどこの世界では、当たり前だと思っていたその知恵が、誰かの困りごとを解決する力になる。
そのことが、葵にはくすぐったくも、じんわりと嬉しいことだった。
◇
数日後、いつものように市場を訪れると、おばさんが満面の笑みで駆け寄ってきた。
「葵ちゃん、琴音ちゃん! 見ておくれよ、あれから全部上手くいったんだよ!」
差し出された瓶の中には、色鮮やかな酢漬け野菜が漬かっている。
「味見してみるかい?」
勧められるまま一切れつまむと、シャキシャキとした歯触りと、爽やかな酸味と甘みが口いっぱいに広がった。
「美味しい……! ちょうどいい味加減ですね」
「干し野菜の方も、いい感じに乾いてくれてねぇ。お陰でどっちも無駄にならずに済んだよ」
おばさんは嬉しそうに笑いながら、籠から新鮮な果物と、上等そうな肉の塊を取り出した。
「これはお礼だよ。遠慮なく受け取っておくれ」
「そんな、こんなにたくさん……!」
恐縮する葵に、おばさんは首を横に振った。
「いいんだよ。困ってた時に助けてもらったんだ、これくらい当然さ」
押し切られる形で受け取った葵は、思わず頬を緩めた。
「ありがとうございます。大切にいただきますね」
「このお肉、今夜の夕食に使わせてもらおうかしら」
「わあ、楽しみ! 何を作ってくれるの?」
「そうねぇ、また考えておくわ」
「またいつでも顔を出しておくれよ。困ったことがあれば、私にも何か手伝えることがあるかもしれないからね」
温かい言葉を交わしながら、三人は市場を後にした。
「街の人たちと、こうして少しずつ繋がっていけるのって、嬉しいことね」
「うん。お母さんの知恵が、こんな風に誰かの役に立つの、なんだか誇らしいな」
琴音の言葉に、葵は照れくさそうに笑った。
帰り道、フードの中でおばさんの果物を分けてもらったフィニが、満足げに小さな声を漏らしていた。
『あたちも、おすそわけ、うれしい……!』
「フィニも、おすそ分けが嬉しいって」
琴音が伝えると、葵はくすりと笑った。
「よかったわね、フィニも」
顔を見合わせて笑い合いながら、三人は木漏れ日亭への帰路をゆっくりと歩いていった。
お読みいただきありがとうございました!
面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。




