第八話:秘密基地の異空間
放課後の校門前。
三月の名残がある冷たい風が吹き抜ける中、華は約束通り、そこに佇んでいた。
「お待たせ、白雪さん。寒かったろ?」
「あ……さ、佐藤くん……っ。ううん、いま、来たところ、だから……全然、大丈夫、だよ……?」
華は大きなスクールバッグを両手で引きちぎらんばかりにぎゅっと抱え、小さく肩をすぼめて微笑んだ。昼間の教室で見せたような、泣き出しそうな拒絶の気配はない。けれど、男子と二人で放課後に歩くというシチュエーションに、どうしていいか分からないようにおどおどと視線を泳がせている。
「ここから歩いて十分くらいなんだ。ちょっと道が狭いけど、行こうか」
「う、うん……よろしく、お願いします……。あの、佐藤くん……」
「ん? 何だ?」
「さっき、教室で言ってた……『秘密基地』って、本当に、パソコンが、あるの……? その……私の家にはなくて、テレビのニュースとかでしか、見たことないから……なんだか、想像が、つかなくて……」
「ああ、本当にあるよ。それも、普通のお店じゃ絶対に買えないような、特別なやつがね。親戚の源さんっていう人が、自分で部品をたくさん集めて、組み立てたんだ」
「自作、パソコン……? パソコンって、自分で、作れちゃうものなの……? すごいんだね……。あ、でも、あの……高橋さんが言ってたような、お仕事で使う、四角くてグレーの、あの機械、かな……?」
「形は四角いけど、もっとずっと大きくて、中身も強力だよ。美咲さんが自慢しているような市販のパソコンとは、比べものにならない性能なんだ」
「そう、なんだ……。なんだか、ちょっと、ドキドキしてきた、かも……。私、機械とか全然詳しくないから……変なところ触って、壊しちゃったら、どうしようって……」
「ははは、大丈夫だよ。俺が隣にいるし、そう簡単には壊れないから安心していい」
華の知識は、この時代の標準的な中学生のものだった。無理もない。一九九五年当時、パソコンは一部の熱狂的なマニアか、大企業のオフィスにある「よく分からない高価な機械」でしかなかった。美咲が「うちにパソコンがある」と自慢するだけでカーストの頂点に立てるほど、デジタルという概念はまだ遠い世界の話だったのだ。
二人は並んで住宅街の路地へと歩き出した。家々の隙間から見える夕日が、華のふくよかな横顔をオレンジ色に染めていく。華は歩幅を俺に合わせようとして、何度も足元を気にしながら、消え入りそうな声で話を続けた。
「佐藤くんって……む、昔から、そういう機械が好きだったの……?」
「そうだね。昔からっていうか……気づいたら、これが自分の生きる道だと思ってた。源さんの家に通い詰めて、ずっと教えてもらってたんだ」
「だから、あんなに難しい言葉を……いっぱい知ってるんだね」
「そんな事ないよ。ただ人よりちょっとパソコンに詳しいだけだよ」
「……ううん。私、本当に、嬉しかったんだ、よ……。あのまま、みんなに笑われて……私の絵が汚されて、終わっちゃうんだって、目の前が真っ暗になってたから……。佐藤くんが来てくれたとき、本当にかっこいいなって、思ったの……っ」
華はそこまで一気に言うと、恥ずかしさに耐えかねたように前髪を引っ張って顔を隠した。
思わずそれを見て俺も目を逸らしてしまう。
「いや、俺はただ、君の絵が本当に素晴らしいと思ったから、それを守りたかっただけさ。君の絵には、それだけの価値がある」
「私の絵に、価値……。まだ、自分では全然、わからないけれど……佐藤くんにそう言ってもらえると……なんだか、その、少しだけ……勇気、出る気がするな……」
華は一瞬、はにかむように小さく微笑み、それから歩くペースを少しだけ上げた。
やがて、目的の平屋が見えてくる。庭に転がる電子基板や、古いブラウン管モニターの残骸を見て、華は怯えたようにその場に立ちすくんだ。
「えっと……ここ、だよね……? なんだか、ちょっと、お化け屋敷みたい……?」
「うん、ここだよ。ちょっと外観は怪しいし、中も散らかってるけど、驚かないでね」
「う、うん……ちょっとびっくりしたけど……佐藤くんの、お家、だもんね……っ。が、頑張る……!」
俺がドアを開けて「源さん、入るよ」と声をかけると、奥からドタドタと騒がしい足音が響いてきた。
「おい蓮! 遅かったじゃないか! 例の海外からのメール、また新しいのが来て――って、お前、誰だその女の子は!? ついに俺に隠れて悪さを始めたか!?」
ボサボサ頭にヨレヨレのTシャツを着た源さんが、目を丸くして突っ込んできた。
華は源さんの独特な迫力に「ひゃうっ!?」と短い悲鳴を上げて俺の後ろに隠れた。そして、俺の学ランの背中を小さな手でぎゅっと掴みながら、蚊の鳴くような声でお辞儀をした。
「は、初めまして……っ。同じクラスの、白雪華と言います……。佐藤くんに、お部屋を見せてあげるって言われて……あのお邪魔します……っ」
「白雪さんか……。蓮、お前、こんな綺麗な子を引っ張ってくるなんて、一体何を企んでるんだ? ここは健全な技術者の作業場だぞ?」
「企んでなんかないよ、源さん。彼女は天才なんだ。俺たちが今動かしているプロジェクトに、絶対に欠かせない才能だよ」
俺の言葉に、華は顔を真っ赤にして、俺の背中の後ろで慌てて両手を細かく振った。
「て、天才だなんて、そんなことありません……っ! 私はただ、学校のノートに……しゅ、趣味で絵を描いているだけで……!」
「いや、白雪さん。お前のその絵を蓮が認めたんだろ? だったら本物だ。このガキの眼光は、そこらの大人よりよっぽど恐ろしいからな。まぁいい、立ち話もなんだし入りなよ。狭いところだけどね」
「あ、ありがとうございます……失礼します……っ」
源さんに促され、華が恐る恐る一歩足を踏み入れたその部屋は、まさに異空間だった。
壁を埋め尽くす電子パーツの棚、規則的に点滅するインジケーターの小さな光、臨戦態勢の思考の向こうで怪しい熱気を放つタワー型の巨大な自作パソコン。
「わぁ……すご、い……。これ、全部、パソコンの部品、なんですか……?」
華の瞳が、驚きと好奇心でキラキラと輝きだした。彼女の視線は、ブラウン管の画面に映し出された黒い背景と、そこに並ぶ複雑な英数字の羅列に釘付けになっている。おどおどした態度が、目の前の未知の光景によって少しだけ和らいでいくのが分かった。
「そうだよ。市販のやつじゃ満足できなくてね。海外から取り寄せたパーツを組み合わせて作った、俺の相棒さ」
源さんが誇らしげに胸を張る。
「白雪さん、ここに座って」
俺はキーボードの前の、少し使い古された椅子を引いた。華は「え、えっと……」と躊躇いながらもおずおずと腰掛け、真新しい機械の感触を確かめるように、そっとデスクの端に指先を触れた。
「佐藤くん……この画面にあるのが、佐藤くんの作ったもの、なの……? 私には、英語がいっぱい並んでて……何が書いてあるのか、全然読めないけれど……」
「そうだよ。世界中の人たちが使ってくれている、コンピューターの仕組みの一部だ。でもね、これには決定的なものが足りないんだ。世界中の人の心を動かすための、最高の『顔』がね」
俺はカバンから、彼女のスケッチブックを取り出し、キーボードの隣にそっと広げた。
「あ……私の、スケッチブック……」
「白雪さん、君の絵を、このコンピューターの中に魔法みたいに取り込んで、世界中に届けてみたい。これからは、言葉や文字だけじゃなくて、デザインやキャラクターが世界を動かす時代が来る。俺に、その手伝いをさせてくれないか?」
華は、広げられた自分の絵と、緑色に光る画面を交互に見つめた。まだ、これから何が起こるのか、彼女には完全には理解できていないだろう。しかし、俺の目を見つめる彼女の瞳には、昼間よりもずっと確かな、未来への期待の光が灯っていた。
「……ねえ、佐藤くん。本当に……私の絵が、そんな、すごいことのために、役に立つの……?」
「役に立つどころじゃない。君の絵がなければ、このシステムは完成しないんだ。俺のプログラムと、君の絵が合わさることで、初めて世界中の人が驚くようなものができる」
「私の絵がなければ……完成しない……」
華はその言葉を、信じられないというように小さく呟いた。そして、自分のスケッチブックのページを、愛おしそうに指先でそっとなぞる。
「……うん。わたし、佐藤くんを、信じる、よ……っ。佐藤くんがそこまで言ってくれるなら……わたしの絵で、何ができるのか、一緒に見てみたい……な」
「ありがとう、白雪さん。絶対に後悔はさせないよ」
「おいおい、なんだか置いてけぼりにされた気分だが、熱い展開じゃないか。よし、それじゃあ白雪ちゃん、まずはその絵をコンピューターに読み込むための機械の使い方から説明しよう」
「は、はい……っ! よろしくお願いします、源さん……っ!」
華の震えながらも懸命な言葉と、源さんの威勢の良い声が、静かな部屋に心地よく響いた。
続きは明日7:50投稿予定です。




