第七話:世界を変える線の価値
「……おい、蓮。本当にお前、さっきの何だったんだよ」
昼休み。
机をくっつけて弁当を広げた途端、隣の席の男子――クラスのムードメーカー的な立ち位置の池田が、身を乗り出してきた。
「何がだ?」
「何がだ? じゃないって! あの高橋相手にさ、『こんぷらいあんす』だか何だか、わけわかんない大人の言葉使ってビビらせてただろ。お前、いつからあんなキャラになったんだよ」
「ただの事実を言っただけさ。大袈裟に騒ぐようなことじゃない」
俺は母親が作ってくれた卵焼きを口に運びながら、淡々と答えた。
中身が四十二歳のシステムエンジニアである俺にとって、中学生の女子を論破することなど、仕様書のタイポを修正するくらい簡単な作業だ。
池田は「ふーん」と納得いかない顔をしながらも、声を潜めて教室の後方を盗み見た。
「でもさ、白雪を助けるなんて意外だったわ。あいつ、いっつも暗い顔して絵ばっかり描いてるし、クラスでも浮いてるじゃん。関わると高橋のグループに目つけられて、これから面倒なことになるぞ?」
「面倒? 何がだ」
「だから、ハブられたりさ、変な噂流されたりするだろ、普通」
俺は箸を止め、池田を真っ直ぐに見つめた。
「池田。周りを気にしてばっかじゃ本当に大事なものを見失うぞ」
「……そんなもんかね」
池田が完全に困惑した顔で頭を掻く。
「まぁ、ただの独り言だ」
俺はそれ以上説明することをやめ、視線だけを白雪華の席へと向けた。
彼女は、先ほど俺が返したスケッチブックを机の上に大切そうに広げ、また小さな手で鉛筆を握っていた。
先ほどのような怯えた様子はない。ただ、まだ少し丸い背中を丸め、自分の世界に深く没頭している。
(確信を、証明に変えなければならない)
俺がさっき一瞥した彼女の絵。
それは単に「中学生にしては上手い」というレベルを遥かに凌駕していた。
一九九五年現在、世間の主流はいわゆる「セル画」調の、パキッとしたアニメ塗りのデザインだ。
しかし、華が描いていたのは、線の一本一本に繊細な強弱があり、色彩のレイヤーが頭の中で完璧にシミュレートされているかのような、二〇二〇年代以降のデジタルアートの黎明を予感させるデザインだった。
美咲や周りの連中は、それを「変な絵」「根暗な趣味」と一蹴した。
時代が追いついていないだけなのだ。人間は、自分の理解を超えた新しい価値に出会った時、それを恐怖するか、あるいは嘲笑して排除しようとする。
(これから世界は、爆発的にインターネットの時代へとシフトする)
数年後には、個人がウェブサイトを持ち、イラストやコンテンツを世界中に発信する時代がやってくる。
そして二〇〇〇年代、二〇一〇年代、二〇二〇年代と進むにつれ、キャラクターデザインの価値は数千億、数兆円規模の巨大市場へと膨れ上がっていく。
前世のあの土砂降りの夜。
すべてを失った俺の携帯に、泣きそうな声で『全部あげるから、死なないで』と言ってくれた、白雪華。
あの時の彼女の言葉が、単なる同情ではなく、彼女自身の持つ本当の優しさからきたのだと俺は信じている。
「……よし」
昼食を終え、食器を片付けた俺は、迷わず席を立った。
向かう先は、一番後ろの席だ。
俺が近づいていく足音に気づいたのか、華がビクッと肩を揺らし、恐る恐る顔を上げた。
長い前髪の隙間から、大きな瞳が俺を捉える。
「さ、佐藤くん……?」
「隣、いいか?」
「えっ? あ、うん……どうぞ……」
華は慌てて机の上の消しゴムのカスを払い、自分の身体をさらに縮めて、俺のためにスペースを作ろうとした。まだ自分を「他人に迷惑をかける存在」だと思い込んでいる、その初々しい仕草が少し歯痒い。
俺は空いている隣の椅子を引き、腰掛けた。
すぐ近くから、シャンプーのような微かに甘い匂いがする。
「さっきの絵、もう一度見せてもらってもいいかな」
「え……っ、あ、あの……本当に、下手くそだし、みんなが言うみたいに、変な絵だよ……?」
華はスケッチブックを両手で隠すようにして、顔を赤くした。
「みんなの意見なんてどうでもいい。俺が、君の絵を見たいんだ」
真っ直ぐに彼女の目を見て言うと、華はゴクリと息を呑み、やがて諦めたように、おずおずと手を離した。
スケッチブックには、ファンタジー風の衣装をまとった一人の少女のキャラクターが描かれていた。
髪の毛の滑らかな流れ、衣装の細かなフリルのシワ、そして何より、キャラクターの「生きた表情」。
「素晴らしいな」
思わず、本音が声になって漏れた。
エンジニアとして数々のゲーム開発やコンテンツビジネスのデスマーチに関わってきた俺の目が、この絵の持つ『商業的ポテンシャル』を一瞬で弾き出していた。
「このキャラクターの配色って、頭の中で決まってる?」
「え……? う、うん。えっとね、髪の毛は、夜の空みたいな少し深い青で……リボンは、夕焼けみたいな赤、かな……」
華は、自分の世界を語る時だけは、少しだけ声に熱がこもった。
自信なげだった瞳が、自分の創造したキャラクターの話をするときだけ、キラキラと輝き始める。
「デジタルで塗ったら、世界中で何百万人もの人間が、このキャラのグッズを買うために並ぶレベルだよ」
「でじたる……?」
華が不思議そうに首を傾げる。
一九九五年、まだ「ペンタブレット」も「イラスト投稿サイト」も、一般には存在しない。彼女はただ、頭の中にある衝動を鉛筆で紙に写しているだけなのだ。
「白雪さん。この放課後、もし時間があるなら、俺の『秘密基地』に来ないか?」
「えっ……ひ、秘密基地……!?」
華の顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
中一の女子――とりわけ男子と関わりが薄かっただろう彼女にとって、「放課後に男子の秘密基地に誘われる」というシチュエーションが、どんな刺激があるか。大人の俺はそこまで深く考えていなかったが、彼女の激しい動揺を見て、少し言葉が足りなかったと苦笑した。
「あ、変な意味じゃないんだ。母方の親戚の家なんだけどね。そこには、今の日本に数台しかないような、最先端のコンピューターと、インターネットの回線があるんだ」
「こんぴゅーたー……ネット……?」
「そう。君のその素晴らしい『絵』を、世界に見せつけるための、最強のハードウェアが揃ってる」
俺は立ち上がり、彼女のスケッチブックを優しく指差した。
「君の才能を、ただの教室の片隅で腐らせるには惜しすぎる。俺に、君の未来をプロデュースさせてほしい」
華は、呆然とした様子で俺を見上げていた。
意味の分からない言葉ばかりだったはずだ。だけど、四十二歳の俺が放つ、嘘偽りのない「本気の熱量」だけは、彼女の心に真っ直ぐに届いたらしい。
華は、ぎゅっと胸の前で手を組み、まだ少し震える声で、だけど今度ははっきりと頷いた。
「……うん。佐藤くんがそこまで言うなら……わたし、行ってみたい、な」
「決まりだ。じゃあ、放課後、校門の前で」
俺は自分の席に戻りながら、脳内のロードマップを次のフェーズへと進めた。
世界最高の絵師(白雪華)と、未来の知識を持つ俺。
この二つのリソースが、源さんの秘密基地で合流した時、一九九五年の世界に、誰も見たことのない巨大な地殻変動が巻き起こるはずだ。
次の話しは22:20予定です




