第九話:世界に向けたシグナル
「……ほら、白雪さん。ここに、この四角いガラスの板があるだろ? ここにスケッチブックのページを下向きに置いて、蓋を閉めるんだ」
「は、はい……っ。こ、こう、ですか……? あ、あの、あまり強く押したら、ガラス、割れちゃったりしませんか……?」
「ははは、大丈夫だよ。そんなに弱く作られてないから。もっと奥にぴったり合わせてみて」
「う、うん……えいっ。……これで、大丈夫、かな……?」
俺の指示に従い、華は壊れ物を扱うかのように、おずおずと自分のスケッチブックをフラットベッドスキャナーのガラス面に載せた。
一九九五年現在、紙のイラストをデジタルデータに変換する作業は、それだけで専門的な機材と知識を必要とする。源さんが海外の怪しいルートから仕入れたこのスキャナーも、当時としては中学生の小遣いでは逆立ちしても買えない高級品だ。美咲が自慢する最新型のパソコンセットですら、こんな周辺機器は標準装備されていない。
「よし、蓋を閉めたら、こっちの画面のボタンをクリックするよ。心の準備はいい?」
「う、うん……! あの、ボタンを押したら、どうなるの……?」
そう尋ねると、源さんがにやりと笑った。
「機械が君の絵を隅々まで観察して、この画面の中にそっくりそのまま写し取るんだよ」
源さんがマウスをカチリと操作すると、スキャナーの内部からジ、ジジジ……と、独特の駆動音と共に、緑色の鋭いスキャン光が走り出した。
「ひゃうっ!?」
華はまた小さく短い悲鳴を上げて、俺の学ランの袖を両手でぎゅっと掴んだ。
「大丈夫だよ、白雪さん。ただ光を当てて、絵の形を読み取っているだけだから。何も怖いことは起きないよ」
「う、うん……ごめんなさい……っ。なんだか、近未来のSF映画の光線みたいで、びっくりしちゃって……。……あ、まだ袖、掴んだままで、ごめんなさい……っ」
「いや、気にしなくていいよ。それより、画面を見てごらん」
恥ずかしそうに顔を伏せる華の肩を優しく促す。
数秒の後、ブラウン管の画面に、彼女が描いたファンタジー風の少女の線画が、歪み一つなく鮮明に映し出された。
「……わぁ……!」
華は俺の袖を離し、画面に吸い寄せられるように身を乗り出した。
長い前髪の隙間から覗く大きな瞳が、驚愕と、それ以上の深い感動でキラキラと輝いている。
「私の……わたしの描いた鉛筆の線が……テレビの中に入ってる……。すご、い……っ。佐藤くん、これ、本当に私の絵なの……? 信じられない……」
「そうだよ。これがデジタル化っていう作業さ。これで、君の絵は色あせることも、破れることもないデジタルデータになったんだ。次は、これに色を載せていく作業をしよう」
「色を載せる……? でも、パレットも絵の具もないよ……? どうやって塗るの……?」
「この魔法の筆を使うんだよ。白雪さん、ちょっと椅子を寄せるね」
「あ、うん……っ」
俺は椅子を少し寄せ、彼女の真隣に座った。
一九九五年のグラフィックソフトは、現代のそれと比べれば非常に原始的で、レイヤーの概念すら曖昧な代物だ。しかし、四十二年分のスキルを持つ俺の手にかかれば、この不便なツールでも、未来の配色思想を完全に再現することができる。
「白雪さん、さっき言ってた『夜の空みたいな深い青』と『夕焼けの赤』、ここに塗っていくから見ていて。まずは、髪の毛からいくよ」
「うん……っ。……あ、クリックしただけで、一瞬で色がついた……!」
「そう。線がちゃんと繋がっていれば、こうしてワンクリックで隙間なく塗れるんだ。でも、ただの青じゃなくて、ここに少しだけ紫を混ぜてグラデーションをつくる。そうすると、絵に深みが出るんだ」
「むらさき……。あ、本当だ……っ。ただの青よりも、すごく綺麗……。夜空が、本当に絵の中に広がっていくみたい……!」
俺がマウスを操作し、パレットから色を選んで線画の内側を塗り潰していく。
当時のデジタルイラストにありがちだった原色そのままのキツい色彩ではなく、中間色や補色を巧みに組み合わせた、二〇二〇年代のWebで最も映える「透明感のある色彩」が画面を埋めていく。
「次は、リボンに夕焼けの赤を入れよう。少しオレンジに近い、温かい赤だ」
「……っ……!」
華は言葉を失い、ただ両手で口元を押さえて画面を見つめていた。
彼女の頭の中にだけ存在していた理想のキャラクターが、完璧な色彩を纏って、今、暗い画面の中で命を吹き込まれたかのように息づいている。
「きれい……。わたしの絵が、こんなに、綺麗になるなんて……。夢、みたい……っ。佐藤くん、魔法使い、みたいだね……」
「魔法じゃないよ。これが君の才能の、本当の姿だ。君が描いた線が素晴らしいから、色がこんなに映えるんだよ」
「わたしの、才能……。そんな風に言ってもらえたの、生まれて初めて、かも……っ」
華の瞳に、ほんのりと熱い涙が浮かぶ。俺は静かにキーボードを引き寄せ、画面の横に、あらかじめ構築しておいた自作プログラムのコードを展開した。
このマスコットキャラクターを、先日海外のテックコミュニティで大バズりさせた軽量化通信ソフトの「起動画面」および「エラー通知画面」の視覚情報として、シームレスに組み込んでいく。
カタカタカタ、と、部屋の中に打鍵音が小気味よく響く。
横で見ていた源さんが、再びゴクリと息を呑んで身を乗り出してきた。
「おい、ちょっと待て蓮……。お前、そのコード、まさかグラフィックのレンダリング処理まで独自に最適化してるのか……? この時代の貧弱なメモリで、こんな高解像度のイラストをラグなしで一瞬で表示させるなんて、一体どんなアルゴリズムを使えばそんなことができるんだよ!?」
「ただの効率化だよ、源さん。文字だけの無機質なシステムより、白雪さんのこの絵が最初に出てきた方が、使っている人も絶対に楽しいはずだろ?」
「楽しい、なんてレベルじゃないぞ……。これは、ソフトウェアの概念そのものを変えちまう……! 機能性だけじゃなく、デザインでユーザーを殴りにいくなんて、お前、本当に中一か!?」
源さんは頭を抱えて唸り声を上げた。
そして、俺が最後のキーを叩き、プログラムのコンパイルが完了した。
「よし、これで完成だ。白雪さんのキャラクターが、俺のシステムの『顔』になったよ」
「わたしの、キャラクターが……佐藤くんの、システムに……?」
華は、まだ状況の大きさを理解しきれていない様子で、おどおどと俺の顔を見た。
「そう。これからこのソフトを、もう一度、アメリカの最先端の開発者コミュニティへ接続して、世界中に配信するんだ。世界中のエンジニアたちが、君の絵を目にすることになる」
「せ、世界中……!? そ、そんなのダメだよ、佐藤くん……っ! わたしの、こんな暗い趣味の絵を、世界の人に見せるなんて……む、無理、だよ……っ。もし、みんなに変だって笑われたら……私、今度こそ立ち直れない……っ」
華はまた、美咲たちに教室で嘲笑われた記憶が鮮明に蘇ったのか、肉厚な小さな手をぎゅっと握りしめて身体を激しく震わせた。
俺は、彼女のその小さな手を、包み込むように優しく両手で握った。
「白雪さん。俺を信じて」
「あ……さ、佐藤くん……っ」
華の顔が、一瞬で耳の裏まで真っ赤に染まった。
驚きで潤んだ瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。手のひらから、彼女の速くなった鼓動が伝わってくるようだった。
「君の絵を『変だ』と笑ったのは、時代の価値観が追いついていない、あの狭い教室の連中だけだ。世界の最先端で戦っている本物のプロたちは、絶対に君の線を笑わない。それどころか、驚愕して、君の才能を奪い合おうとするはずだ。だから、何も怖がる必要はないんだよ」
長年ブラック企業で勤めて来たメンタルを持つ俺の言葉には、一片の迷いも、嘘もない。
手のひらから伝わる俺の真剣な温度に、華の身体の震えが、ゆっくりと、確実に収まっていくのが分かった。
「本当に……笑われない、かな……? みんな、綺麗だって、言ってくれる……?」
「ああ、保証するよ。もし笑う奴がいたら、俺がそのシステムの利用権を全員分剥奪してやる」
「ふふっ……なにそれ、佐藤くん、おもしろいね……」
華の口元に、ようやく小さな、いつもの穏やかな灯火のような笑みが戻った。
「佐藤くんが……そこまで言うなら……」
華は、まだ消え入りそうな声ではあったけれど、今度は逃げずに、俺の手を小さく、きゅっと握り返してくれた。
「うん。わたし……がんばる。恥ずかしいけれど、世界に、届けて、ください……っ」
「ああ、任せてくれ。君の未来は、俺が最高の形にプロデュースしてみせる」
俺は手を離し、マウスのクリック一つで、華のイラストを内包した新型システムを、太平洋を越える常時接続のネットワークの波へと放流した。
一九九五年、春の暮れ。
日本の一角にある、誰も知らない古びた平屋の秘密基地から。
世界のIT黎明期のロードマップを根底から狂わせる、決定的なファースト・シグナルが、静かに、しかし確実に送信された。
続きは12:20頃に投稿予定です




