第六十話:マスターキーの委任
二〇〇〇年、七月末日の午後十一時五十九分。
運命の時計の針が深夜零時へと切り替わるまでのわずか数秒、六本木のオフィスを支配していたのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。全面ガラス張りの窓の外には、一千万人の人間が蠢く東京の夜景が、冷たい光の海のように静かにきらめいている。
だが、その静寂の底では、日本の政財界、ひいては国家の命運そのものを二分する総力戦が、爆発の瞬間を今か今かと待ち構えていた。
メインデスクに陣取る源さんの指先が、キーボードの上で微かに震えている。それは恐怖ではなく、極限の武者震いだ。隣のデスクでは、華が真白いブラウスの袖を綺麗に捲り上げ、眼鏡の奥の瞳を、かつてないほど鋭く輝かせていた。彼女の前に表示されたノートパソコンの画面には、大沢コンツェルンからリアルタイムで送られてくる巨額の資産データと、海外市場の資金流動性データが、整然と並んでいる。
そして、時計の針が【24:00:00】を刻んだ、まさにその瞬間だった。
ビキリ、とオフィスの空気が物理的に震えたかのような錯覚を覚えるほどの、激しい警告音がメインモニターから一斉に放たれた。
『警告:海外IPより、国内基幹回線網への大規模な敵対的アクセスの流入を感知。現在のアクセス負荷、通常時の八倍を超過――』
『アラート:東京、大阪、名古屋の主要交換局における通信処理が飽和状態に移行。システムの稼働効率、急速に低下中』
「来やがったな、怪物め……! 予想以上の大容量だぜ! 奴ら、一ミリの手加減もなしに、外資の全リソースをこの一瞬に集中して叩き込んできやがった!」
源さんが獰猛な獣のように歯を剥き出し、凄まじい速度でキーボードを叩き始めた。十数枚のモニターに、滝のように流れる真っ赤なエラー表示の濁流。レイが放った海外の超巨大テック資本が、ついに日本を力尽くで乗っ取るための総攻撃を開始したのだ。
時を同じくして、卓上に置かれた大沢会長直属の暗号化スマートフォンが、壊れたように激しいバイブレーションを鳴らし、デスクの上を滑った。
俺が手を伸ばして通話ボタンをスライドさせると、スピーカーからは、怒号と悲鳴が飛び交う中央省庁の地下対策室にいるであろう、大沢会長の地鳴りのような声が響いてきた。
『佐藤くん! 聞こえるか、佐藤くん!! ベルンシュタインのファンドが、事前に籠絡していた売国奴の政治家どもを動かし、深夜の臨時閣議でインフラ法案の改悪を強行採決しおった! 今、国会から正式な可決通知が市場へ流れた!』
大沢会長の声には、かつてない焦燥と、そしすべての退路を断った絶対的な「権力者としての覚悟」が宿っていた。
『さらに、その法案成立と同調するように、奴らの巨大資本が我がコンツェルンの通信株を市場外で一斉に買い叩き始めている! 既存の仕組みでは、もう奴らの侵略を止められん……! 奴らは日本の通信網を、海の向こうの私有地に作り変える気だ!』
スピーカーの向こうから、日本の重鎮たちが絶望し、狼狽える声が微かに漏れ聞こえる。国家の心臓部が、外資の圧倒的な「金と政治」の力によって、根こそぎ奪われようとしていた。日本の頂点に君臨し続けてきた大沢コンツェルンですら、防戦一方の泥沼へと追い込まれているのだ。
「――大沢会長。落ち着いてください」
俺の声は、激動する世界の中でなお落ち着きを保っていた。
「奴らの動きは、俺と白雪さんの予測の範疇です。彼らが仕掛けてきたルール変更も、すべては俺たちのシステムを稼働させるための前提条件に過ぎません」
『何だと……!?』
「古い枠組みが崩壊したなら、今ここで、新しい仕組みへ切り替えればいいだけの話です。……大沢会長、決断を」
受話器の向こうで、大沢会長が一瞬だけ息を呑む音が聞こえた。そして、フッと不敵な、老獪な支配者としての笑みが戻る気配が伝わってきた。
『ククク……、そうだな、君の言う通りだ。前代未聞だからこそ、やるのだと言ったのは私だったな。……佐藤くん、白雪さん。今ここをもって、我が国の国家通信インフラの【最高管理者権限】のすべてを、君たちの会社へ完全委任する! 法も、資本も、この国の未来の主権も……すべて君たち二人に託す!! 害虫どもを、一匹残らず淘汰しなさい!!』
「謹んで、お引き受けします、大沢会長。必ずや期待にこたえてみせますよ」
ガチャン、と通信が切れると同時に、俺の手元のコンソールに、国家直轄の最上位アクセス権限が凄まじい速度で次々と同期されていった。
画面を埋め尽くしていた真っ赤な警告の文字列が、一瞬の暗転の後、俺をこの国の最高位の管理責任者として承認する、眩い金色のステータスへと次々に書き換わっていく。
「佐藤くん! 国家の最高権限、確かにこちらの財務システムへ格納したよ!」
華がコンソールに向かい、一分の隙もない完璧なタイピングで大沢コンツェルンの全資産と国家のバックアップを、俺たちの盾として集約していく。
「政治工作で書き換えた法律なんて、ただの表面上の文字列に過ぎないよ。この国のすべての光回線網の物理的な流動性は、今例外なく私と佐藤くんの支配下に入った。……レイさん、あなたの数千億の借入金、ここから一歩も引き返せない底なし沼へ招待してあげる!」
華の凛とした、迅速かつ完璧な財務責任者としての宣言。その美しくも圧倒的な佇まいに、俺は見ほれてしまったた。
「よくやった、白雪さん。……源さん、大沢会長から委任された管理権限を、俺たちの新システムへ一斉に流し込んでください。レイが仕掛けてきている旧世代のロジックごと、日本全土のネットワークから完全に隔離します」
「おうよ! 待ってました、総司令官殿! 国家の最高権限と俺たちのシステムの融合だ! 法律の上でどれだけ天下を取ったと勘違いしていようが、物理的な光の通り道を握っているのは俺たちだってことを、海の向こうのガキに骨の髄まで教えてやろうじゃねえか!!」
源さんが獰猛に笑い、エンターキーを壊れんばかりの力で激しく叩きつけると華が描いたアニメーションが動き始めた。
その瞬間、六本木のオフィスのメインサーバーから、目に見えない光の速度の命令が、日本全土の基幹回線網へと一斉に放射された。
東京、大阪、名古屋、そして日本全国の地平線の果てまで張り巡らされた光ファイバーの網が、レイの気づかないうちに、俺たちの構築した「新世紀の仕様」の通りに一瞬で塗り替えられていく。
レイの画面には今頃、「支配率一〇〇%」「買収完了」という、彼らの勝利を告げる偽りのデータが表示されているはずだ。だが、その動きを見せた瞬間こそが、彼らの全資産を檻の中に閉じ込めるための、完璧な終わりの始まりだった。
「終わったな、レイ。お前たちが大金を使って買い占めているその既存の通信株も、改悪した法律も、俺たちのシステムの前ではただの無価値な砂の城に過ぎない。……さあ、徹底的な排除を始めよう」
俺は華の手を優しく、けれど絶対に離さないという強い力で握り締めながら、画面の向こうにいるであろう宿敵へと、冷徹極まる支配者の微笑みを浮かべるのだった。




