第六十一話:罠の起動
午前零時三分。
日本全土の基幹回線網の管理権限が俺たちのシステムへ完全に統合されたその瞬間、メインモニターに並ぶ無数のグラフが、激しい赤色から静かな金色の波形へと一斉に書き換わった。
それは、レイの率いるベルンシュタインファンドが注ぎ込んできた数千億円規模の敵対的買収資金が、俺と華の仕掛けたダミー領域の檻の中に、一文字の例外もなく完全に閉じ込められたことを意味していた。
「……嘘だろ。おい、蓮、お嬢さん! 画面のデータを見てみろ! 奴らの買収完了カウンターが、九九・九%に到達した瞬間に、完全に『ゼロ』へ強制初期化されやがった!」
コンソールに張り付いていた源さんが、自身の目を疑うようにモニターを凝視し、それから壊れた人形のようにガタガタと椅子の背もたれを揺らした。
「当然の結果です、源さん。白雪さん、金融庁および特別査察チームとの連動状況の最終報告をお願いします」
「うん、佐藤くん。予定通り、市場オープンを待たずに完璧に執行されたよ」
華が自らのノートパソコンから顔を上げ、眼鏡の奥の瞳を冷徹かつ美しく輝かせながら断言した。
「レイさんがペーパーカンパニーを経由して動かしていた短期借入金の資金ルート、金融庁と大沢コンツェルンの法務チームが裏側で完全に差し押さえたわ。彼らが合法的だと過信していた資金移動は、今この瞬間をもって『不適切外貨による市場操作』として全面凍結。彼らの口座は完全に機能停止に追い込まれたよ」
「素晴らしい段取りだ、ありがとう」
俺が本心からの賞賛を告げると、華はサクラ色の頬を少しだけ上気させ、愛おしそうに、そして誇らしげに俺のスーツの袖をきゅっと強く握りしめてきた。どれほど強大な国家規模の敵を相手にしても、彼女が俺の前で見せるこの無防備な可愛らしさは、何ひとつ変わっていなかった。
「ふふ、やったぁ……! 私、佐藤くんの会社を、私たちの未来を、守れたんだよね……っ」
「ああ、守れたとも。君は世界一のパートナーだよ、白雪さん」
俺は彼女の小さく温かい手を包み込み、絶対に離さないという強い力で握りしめた。
――だが、俺たちの仕込みは、これで終わりではない。
「源さん、最終フェーズを強制執行してください」
「おうよ! 待ってましたァ! 海の向こうでドヤ顔してる金髪のガキに、俺たちの本当の『大粛清』を叩き込んでやるぜ!!」
源さんが獰猛な咆哮とともに、メインコンソールの特大の実行キーを叩きつけた。
その一瞬、六本木のサーバーから放たれた光の速度の逆流パッチが、隔離されたレイの多次元パケットの経路を逆に辿り、海の向こうのアメリカ本土にあるベルンシュタイン財閥の本国マザーサーバーへと侵入を果たした。
奴らが日本のインフラをハッキングするために開け放っていた「裏口」が、そのまま俺たちの侵入ルートへと書き換えられたのだ。
俺が昨日までに仕込んでおいたデバッグプログラムが、レイのメインフレームの最奥に格納されていた「すべての不正政治工作のログ」や「日本の売国奴政治家たちへの数億規模の贈賄データ」を、一文字の遅延もなく根こそぎ複製。そして、事前に同期させておいた国際司法機関、国連特別監査局、さらには全世界の主要メディアへ向けて、一斉にマルチキャスト(同時爆撃告発)を完了させた。
――午前九時十分。
オフィスのテレビモニターが、一斉に国内外の臨時ニュースへと切り替わった。
画面には、国会周辺や高級官僚の天下り先のビルに、東京地検特捜部と警察庁の合同捜査班を乗せた黒塗りの大型車両が、サイレンを響かせて一斉に突入(強制デリート)していく生中継の映像が映し出されていた。
『臨時ニュースをお伝えします。本日午前九時、海外ファンドによる国内通信網の敵対的買収に関連し、巨額の不透明な資金を受け取っていたとされる若手政治家および総務省の幹部ら十数名が、国家反逆罪および贈収賄の容疑で電撃逮捕されました。大沢コンツェルンが提供した絶対的な証拠パケットにより、政府は臨時閣議を開き、本日未明に可決されたインフラ法案の即時廃止を決定――』
日本の既得権益のバカ息子どもや、外資に魂を売った売国奴の政治家たちが、市場のルール変更を仕掛けたその手で、自ら奈落の底へと一網打尽に大粛清されていく。
そして、画面は大学の「国際経済サークル」の本部がある、サークル棟の映像へと切り替わった。
そこには、世界中から自分のマザーサーバーへ流れ込んでくる「破滅の確定ログ(資産凍結と組織崩壊の通知)」を前に、呆然と立ち尽くすレイ・フォン・ベルンシュタインの姿があった。
まばゆい金髪は激しい冷や汗で額に張り付き、すべてを見下していたはずの氷の瞳は、「二人」によって跡形もなく粉砕されたという現実の前に、信じられないほどの恐怖と戦慄で血走っていた。
「そんな……馬鹿な……っ! ベルンシュタインの多次元量子ロジックが……僕の組み立てた完璧な世界統治が……なんで、日本の名もない学生のシステムごときに、根こそぎ初期化されるんだよォ!!」
レイはサークル室の高級なデスクを叩きつけ、ノートパソコンの液晶を叩き割って発狂寸前の悲鳴を上げていた。
そこへ、国際治安機関の要請を受けた公安警察の捜査官たちが一斉に踏み込み、レイの細い腕に冷たい手錠(物理ロック)をはめ込んでいく。奴の持つ強大な外資ファンドの信用は完全に失墜し、ベルンシュタインの帝国ごと、世界の市場カから永久に削除されたのだ。レイは国外退去処分となり、二度とこの国の土を踏むことは許されない。
「終わったね、佐藤くん……」
華が静かにテレビ画面を見つめ、それから俺の胸の元へとそっとその身を預けてきた。
「ああ、白雪さん。すべての害虫の駆除は完了した。この国の通信主権も、俺たちの【RS-HS】も、そして何よりも君の笑顔も、完璧に守り抜いた」
俺は彼女の細い肩を優しく抱き寄せ、そのサクラ色の髪に愛おしさを込めて顔を埋めた。
前世の最悪な記憶も、佐藤家を待ち受けていたはずの悲惨な破滅ルートも、今この一瞬をもって、完璧な平穏と大団円の未来へと完全に上書きされたのだ。
窓の外には、真夏の鮮烈な青空がどこまでも高く広がっている。
宿敵レイを完全敗北へと追い込み、国家規模の大粛清を成し遂げた俺と華の前に、幸せの鐘が鳴らされたように感じた。




