第五十八話:絶対の逆鱗への接触
大沢会長の迎賓館での一件を経て、日本の政財界からの全権委任を取り付けた俺たちは、すぐさま六本木のオフィスへと戻り、レイの外資ファンドをハメるための罠の準備を急いでいた。
だが、期末試験の最終日となった七月の終わり、俺の張り巡らせた監視網が、学内の事件を捉えた。
「――佐藤くん、ごめんね。教授に呼ばれて、少しだけ資料室に寄ってからオフィスに向かうから、先に行ってて」
お昼過ぎ、経済学部の最終科目の試験を終えた後、華はいつものように俺のスーツの袖をきゅっと掴み、申し訳なさそうにそう告げて中央講義棟の三階へと向かった。
俺は一階のロビーで、源さんから送られてくる外資の資金移動データを解析しながら彼女を待っていた。だが、華が上の階へ向かってからわずか十分後。俺のスマートフォンに仕込まれた、華の現在地を示すGPSの反応が、予定ルートから完全に外れ、講義棟の裏手にある薄暗い非常階段の踊り場へと止まった。
同時に、俺が華の同意の元に端末へ仕込んでおいた音声機能から、微かな声が俺の耳へと届く。
『――白雪華さん。やはり、近くで見ると君は僕のコレクションのどれよりも素晴らしい美しさだ』
冷酷ですべてを見下すような、あの金髪の男の声。
その瞬間、俺の頭に激しい血が上った。瞳から完全に光が消え殺気が全身を満たしていく。
俺の、絶対に侵されたくない聖域に、奴が物理的に手を出してきたのだ。
俺は手に持っていたノートパソコンを勢いよく閉じると、音もなく非常階段へと直行した。
――講義棟の裏、ひんやりとしたコンクリートの踊り場。
そこには、数人の国際経済サークルの取り巻きたちを壁際に控えさせ、華の行く手を完全に塞ぐようにして佇むレイの姿があった。
華は背中の壁に資料を抱え込むようにして、レイのプレッシャーに対峙していた。だが、その瞳に怯えの色は一切ない。彼女はリクルートスーツのポケットの中で、俺と連動している端末を強く握りしめながら、レイの氷の瞳を真っ正面から見据え返していた。
「……何のご用ですか、レイ先輩。私はこれから佐藤くんのオフィスに向かわなければならないのですが」
「つれないね。僕の資本が君たちの古臭い防壁を今まさに噛み砕こうとしているというのに、まだそのガキに縋り付くつもりかい?」
レイはポケットに両手を突っ込んだまま、退屈そうに首を傾げた。
「大沢の老いぼれから君たちが全権を委託されたという情報は掴んでいるよ。だが、君たちの会社がどれほど強固だろうと、僕たちが仕掛けた通信法案が通れば、君たちの会社は法的に稼働停止に追い込まれる。白雪さん、ネットの世界で『絵の女神』として一部から盲信的に崇拝されている君のような才能が、沈みゆく泥舟と一緒に市場から消されるのは非効率だ。どうだい、今すぐ僕の側へ乗り換えないか? 君の欲しい富も名声も、その美しいデジタルアートの未来も、僕の資本力なら一瞬で無限に買い与えてあげられるよ」
レイはそう言うと、傲慢な笑みを浮かべて華の顎へと不躾に細い指先を伸ばそうとした。
その歪んだ、品性のない接触。
だが、華はレイの指先が触れるよりも早く、自ら鋭く一歩後ろへと下がり、その不躾な手を回避した。
「お断りします、レイ先輩」
華の声は、薄暗い踊り場の中に、一点の迷いもなく凛として響き渡った。
「経済を学び始めたばかりの私ですが、これだけははっきりと分かります。あなたの仰る『無限の富』や『グローバルな統治』という計画には、本物の価値がどこにも含まれていません。私の描く絵をあなたがどう評価しようと関係ありません。あなたは他人の尊厳を破壊し、手先として部品にすることでしか組織を維持できない。でも、佐藤くんの構築する未来は違います。佐藤くんは、私を、そしてこの国のインフラを本当に守るために、命をかけて計画を組んでいる。私は佐藤くんと共に歩むと、自分の意志で決めています。あなたの汚い資本力で、私の未来を書き換えることなんて、絶対に不可能です!」
「……ほう」
華の完璧な論理による痛烈な拒絶を受け、レイの氷の瞳に、初めて微かな苛立ちが走った。
「所詮は愛玩物の分際で、僕に逆らうとはね。ならば、力尽くで君の未来を書き換えるまで――」
「――そこまでにしろ、海の向こうの虫ケラが」
重厚な鉄の扉が弾かれたように開き、極低温の、世界のすべてを凍りつかせるような俺の声が踊り場へと叩きつけられた。
ピキリ、とレイの取り巻きの学生たちの動きが止まる。
俺は一瞬で華の前に割って入ると、彼女の小さな身体を自らの背後へと庇い、レイを鋭い視線で射抜いた。
「佐藤、くん……!」
背後で華が、ホッとしたように俺のスーツの袖をきゅっと強く掴む。その指先の温もりを感じた瞬間、俺の冷徹な理性は怒りで満たされ、レイという怪物をこの世界から永久に消し去るための容赦ない報復措置する事を胸に誓った。
「……佐藤蓮。ずいぶんと素早い割り込みだね。盗聴でもしてたのかい?」
レイは不敵に微笑もうとしたが、その顔は俺の放つ圧倒的な殺気の前に、微かに引きつっていた。
「レイ。お前が日本の市場をどう買い叩こうが、政治家を何人買収しようが、俺にとってはただの想定内の出来事に過ぎなかった。……だが、お前は今、やってはならない最大の過ちを犯した」
俺は一歩、レイへと歩みを進めた。踊り場のコンクリートが、俺の怒りで震えているかのような錯覚すら覚える。
「彼女は俺の絶対的な聖域だ。その彼女に汚い手を伸ばそうとしたお前という存在そのものが、俺の人生における最大の排除対象に決定した」
俺は懐から、大沢会長から委託された国家直轄の漆黒のIDカードをスッと取り出し、レイの目の前に突きつけた。
「お前たちが大金を使って進めている法案も、敵対的買収の資金ルートも、すべて俺と白雪さんの手によって、地獄に落ちるだろう。お前が信じているその巨大資本ごと、日本全土のネットワークから完全に遮断してやる。その時を震えて待っているといい、レイ。例外なく、お前のすべてを完璧に淘汰してやるから」
俺の底冷えする宣戦布告の前に、レイは初めて一切の言葉を失い、その美しい顔を戦慄で歪ませた。
日本の通信主権、そして俺の最も大切な人の未来を賭けた、世界規模の日米インフラ戦争――その最終決戦の火蓋が、今ここに切られたのだ。




